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桜人 ―― 源氏異聞  作者: 塔真 光
第6章 地蔵
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6-6

 翌日、桜子は朝から、また店番を務めた。あいかわらず客足が少なく、売れ行きを心配している悠斗のことが気になった。

 だが、店で時間をすごすのは楽しかった。陳列ケースのなかの、きれいにならべられている小さな若紫餅に目をやるたびに、愛くるしい童女たちを描く源氏物語の文章が、つぎつぎに桜子の頭をよぎった。

〈されたる遣戸口(やりどぐち)に、黄なる生絹(すずし)単袴(ひとへばかま)、長く着なしたる(わらは)のをかしげなる、出で来てうち招く〉

〈きよげなる童などあまた出で来て、閼伽(あか)たてまつり、花折りなどするも、あらはに見ゆ〉

〈小さきは童げてよろこび走るに、扇なども落して、うちとけ顔、をかしげなり〉

 そして、悠斗の亡くなった母が作ったという光源氏人形も、見あきることがなかった。

 源氏の物語は、千年の時間を経ても、この人形や餅のなかで生きつづけている。それを知ることができた桜子は、時間を越えてしまったことが、けっして不幸なことではないと思いはじめていた。そのうえ、悠斗に出会うこともできたのだから……。


 店の古時計がボーン、ボーンと、さび付いたような音で二時を告げたあたりから、猛暑がぶり返し、客足がバッタリ途絶えた。桜子は、売り場に座ったまま、光源氏人形をスケッチ帳に写しとりはじめた。熱心に何枚も描いた。

 小一時間がすぎたころ、

「さっちゃん!」

と呼びかけられ、顔を上げると、春恵が人形をひとつ、たいせつそうに抱えて立っていた。

「机がないと、描くの難しいんとちゃう? この机を使うたらええんよ」

と言いながら、春恵は、持ってきた人形を、店の大机の上に置いた。

「はい、ありがとうございます。――そのお人形も、悠斗さんのお母さまが作られたのですか?」

 春恵は、

「そうなんよ。ほんまは三月に出すもんなんやけど、さっちゃんに早よう見て欲しうてね」

と、人形の顔をみつめながら答えた。

「若紫ちゃんですよね。かわいぃぃ」

「この店の、昔の看板娘やったんよ」

「昔の?」

 春恵は、桜子にむきなおり、

「いまは、さっちゃんが看板娘え。ほんま、さっちゃんは若紫みたいやわ」

と、ほほえんだ。

「そんなぁぁ」

 桜子がはにかんでいると、悠斗が階段を下りて店に現れた。悠斗は、朝からなんども店に顔を出していた。これが五度目だった。


「あっ、祖母ちゃんも、いたのか……」

「悠くん、おばあちゃんかて、この店の看板娘やから、ここにいても、ちっともおかしゅうないえ。ずーと昔のことやけどね」

 春恵と桜子は、顔を見あわせて笑った。

「えっ!? なに? なにがそんなにおかしいの? ずーと昔って?」

 けげんそうな悠斗になにも答えず、春恵と桜子は目くばせしながら笑いつづけている。

 そんな春恵に、悠斗が口をちいさくとがらせた。

「祖母ちゃん、もしかして、おれの小さいときの話を、桜ちゃんにしてたんじゃないだろうね!」

 春恵は、あいかわらず笑い顔で、

「悠くん、なに心配してるの? いま、麦茶を持ってくるさかい、ここで一服しよし」

と声をかけた。

「うん、そうするけど……」と、

なんとなく得心がいかないまま、悠斗は大机のまえに座った。そして、目のまえの若紫人形に気づき、笑顔を桜子にむけて口を開きかけたときだった。春恵が、台所へむかいながら、ふたたび悠斗に声をかけた。

「地蔵盆の福引きでもらった怪獣の人形を、得意そうに振りまわしながら家に帰ってきた、という話しやったらええよね」

「祖母ちゃん!」

と、あわてて悠斗がふり返ったとき、春恵は店の奥の暖簾(のれん)をくぐっていた。


 春恵は、氷が浮いた麦茶のグラスを悠斗と桜子に運んでくると、すぐにたち去った。

 悠斗は黙りこみ、恨めしそうな目で、出入りする春恵を見ていた。

 桜子は悠斗の横に座り、薄く汗をかいたようなグラスを右の頬に押しあて、

「千年まえは、氷の欠片(かけら)をこんなふうにして、涼んでいたのですよ」と、

笑い顔を悠斗にむけた。

 そのとたん、悠斗は心配が吹き飛んだ。桜子が怪獣を話題にしなかったことで、ホッとしたのだ。

「ああ、知ってる。源氏物語に、そういう場面があったよな」

「はい、〈蜻蛉(かげろう)〉の帖で、女一の宮さまの女房たちが、氷を割って遊んでいました――〈頭にうち置き、胸にさし当てなど、さま悪しうする人もあるべし〉――お行儀が悪いけれど、でも気持ちいぃぃ」

 桜子は、グラスを左頬に当てなおし、悠斗に笑みをおくった。


 まばゆいほほえみだった。だが、笑顔の裏に隠されているかもしれない真情を、悠斗は確かめたかった。

 悠斗は、自分のグラスを右手で握りしめ、それをみつめながら、

「桜ちゃんは、もとの世界にもどりたい?」

と、ボソリとたずねた。

 桜子は、麦茶を一口ゆっくりと飲み、グラスを静かに机の上に置いた。

「もどりたくない、と言えば嘘になるけれど、いまのわたしは、悲しくはないです。石山寺でひとりぼっちになったとき、しかたない、と思って生きていこうと考えました。でもいまは、しかたないではなく、千年後の世界に来られてよかった、と思っています。悠斗さんたちといっしょに暮らせて、とても楽しいです」


「おれもだよ」

と言いながら、悠斗は桜子に顔をむけた。自然に頬が緩んでいくのが、自分でもわかった。

 そして、口もともおおきく緩みだしたとき、

「悠斗さんのような、お兄さまと思える人ができて、ほんとう、うれしいです」と、

桜子が、またほほえんだ。

 悠斗は、笑顔を返した。だが、引きつったような、作り笑いの顔になっていた。


 悠斗のそんな顔をみつめながら、桜子が言葉をついだ。

「わたしも、ひとつおたずねしていいですか?」

「ああ、なに?」

と、あいかわらず作り笑いを崩さず、悠斗は返事した。

「かいじゅう、ってどんなものなのです?」

 そうたずねられ、悠斗の作り笑顔が、ますますぎこちなくなった。

「あっあっ、そ、それは……、とてつもなく大きな物の怪みたいなもので……」

「その、物の怪の人形を、いまでも持っておられるのですか?」

「えーと、えーと……、探せば出てくるかもしれないけど……。おれ、フィギュアは、とっくに卒業したから……」

 悠斗の声はだんだんと小さくなり、桜子の耳に、おわりの方の言葉は届かなかった。

 桜子は、悠斗の顔をたのもしげにみつめながら、話しつづけた。

「悠斗さんって、幼いときから逞しかったのですね。物の怪の人形を振りまわせるなんて、すごく勇気がいることです」

「う、うん、まぁ、そうかな……」

「物の怪が現れ、源氏の新帖を探しだすのを邪魔だてするかもしれないって、ずっと気がかりだったのです。悠斗さんがいてくだされば、とても心強いです」

「う、うん、まかせといて」

と答えたものの、悠斗は一気に不安になった。

 ――そうだよ、物の怪がいたんだよ。……夕霧さんと相談しなきゃな。


 と、そのとき、白いドレススーツを着た、年の頃三十半ばの女性が店に入ってきた。

「いらっしゃいませ」と、

桜子が立ちあがった。

 客は、探るように店内をゆっくりと見わたしたあと、桜子にむきなおって口を開いた。

『そこの若紫とかいう餅を十二個、包んでいただけますか? それから、こちらで一皿いただいていきますわ』


 悠斗は、麦茶のグラスを手早く片付け、

「どうぞ、こちらにお座りください」

と言ったあと、若紫の人形を光源氏人形の横にならべた。そして、桜子に、

「それじゃ、おれ、明後日の鳥辺野行きに備えて、また勉強してくる」と、

小さな声で告げた。

「勉強でわかったことを、今夜、悠斗さんの部屋で教えてくださいね」

と、桜子も小さな声でかえした。

 悠斗はうなずいたあと、あらためて客に辞儀をし、二階の自室へむかった。

 ――すごい! 金色のコンタクトだ……。

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