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翌日、桜子は朝から、また店番を務めた。あいかわらず客足が少なく、売れ行きを心配している悠斗のことが気になった。
だが、店で時間をすごすのは楽しかった。陳列ケースのなかの、きれいにならべられている小さな若紫餅に目をやるたびに、愛くるしい童女たちを描く源氏物語の文章が、つぎつぎに桜子の頭をよぎった。
〈されたる遣戸口に、黄なる生絹の単袴、長く着なしたる童のをかしげなる、出で来てうち招く〉
〈きよげなる童などあまた出で来て、閼伽たてまつり、花折りなどするも、あらはに見ゆ〉
〈小さきは童げてよろこび走るに、扇なども落して、うちとけ顔、をかしげなり〉
そして、悠斗の亡くなった母が作ったという光源氏人形も、見あきることがなかった。
源氏の物語は、千年の時間を経ても、この人形や餅のなかで生きつづけている。それを知ることができた桜子は、時間を越えてしまったことが、けっして不幸なことではないと思いはじめていた。そのうえ、悠斗に出会うこともできたのだから……。
店の古時計がボーン、ボーンと、さび付いたような音で二時を告げたあたりから、猛暑がぶり返し、客足がバッタリ途絶えた。桜子は、売り場に座ったまま、光源氏人形をスケッチ帳に写しとりはじめた。熱心に何枚も描いた。
小一時間がすぎたころ、
「さっちゃん!」
と呼びかけられ、顔を上げると、春恵が人形をひとつ、たいせつそうに抱えて立っていた。
「机がないと、描くの難しいんとちゃう? この机を使うたらええんよ」
と言いながら、春恵は、持ってきた人形を、店の大机の上に置いた。
「はい、ありがとうございます。――そのお人形も、悠斗さんのお母さまが作られたのですか?」
春恵は、
「そうなんよ。ほんまは三月に出すもんなんやけど、さっちゃんに早よう見て欲しうてね」
と、人形の顔をみつめながら答えた。
「若紫ちゃんですよね。かわいぃぃ」
「この店の、昔の看板娘やったんよ」
「昔の?」
春恵は、桜子にむきなおり、
「いまは、さっちゃんが看板娘え。ほんま、さっちゃんは若紫みたいやわ」
と、ほほえんだ。
「そんなぁぁ」
桜子がはにかんでいると、悠斗が階段を下りて店に現れた。悠斗は、朝からなんども店に顔を出していた。これが五度目だった。
「あっ、祖母ちゃんも、いたのか……」
「悠くん、おばあちゃんかて、この店の看板娘やから、ここにいても、ちっともおかしゅうないえ。ずーと昔のことやけどね」
春恵と桜子は、顔を見あわせて笑った。
「えっ!? なに? なにがそんなにおかしいの? ずーと昔って?」
けげんそうな悠斗になにも答えず、春恵と桜子は目くばせしながら笑いつづけている。
そんな春恵に、悠斗が口をちいさくとがらせた。
「祖母ちゃん、もしかして、おれの小さいときの話を、桜ちゃんにしてたんじゃないだろうね!」
春恵は、あいかわらず笑い顔で、
「悠くん、なに心配してるの? いま、麦茶を持ってくるさかい、ここで一服しよし」
と声をかけた。
「うん、そうするけど……」と、
なんとなく得心がいかないまま、悠斗は大机のまえに座った。そして、目のまえの若紫人形に気づき、笑顔を桜子にむけて口を開きかけたときだった。春恵が、台所へむかいながら、ふたたび悠斗に声をかけた。
「地蔵盆の福引きでもらった怪獣の人形を、得意そうに振りまわしながら家に帰ってきた、という話しやったらええよね」
「祖母ちゃん!」
と、あわてて悠斗がふり返ったとき、春恵は店の奥の暖簾をくぐっていた。
春恵は、氷が浮いた麦茶のグラスを悠斗と桜子に運んでくると、すぐにたち去った。
悠斗は黙りこみ、恨めしそうな目で、出入りする春恵を見ていた。
桜子は悠斗の横に座り、薄く汗をかいたようなグラスを右の頬に押しあて、
「千年まえは、氷の欠片をこんなふうにして、涼んでいたのですよ」と、
笑い顔を悠斗にむけた。
そのとたん、悠斗は心配が吹き飛んだ。桜子が怪獣を話題にしなかったことで、ホッとしたのだ。
「ああ、知ってる。源氏物語に、そういう場面があったよな」
「はい、〈蜻蛉〉の帖で、女一の宮さまの女房たちが、氷を割って遊んでいました――〈頭にうち置き、胸にさし当てなど、さま悪しうする人もあるべし〉――お行儀が悪いけれど、でも気持ちいぃぃ」
桜子は、グラスを左頬に当てなおし、悠斗に笑みをおくった。
まばゆいほほえみだった。だが、笑顔の裏に隠されているかもしれない真情を、悠斗は確かめたかった。
悠斗は、自分のグラスを右手で握りしめ、それをみつめながら、
「桜ちゃんは、もとの世界にもどりたい?」
と、ボソリとたずねた。
桜子は、麦茶を一口ゆっくりと飲み、グラスを静かに机の上に置いた。
「もどりたくない、と言えば嘘になるけれど、いまのわたしは、悲しくはないです。石山寺でひとりぼっちになったとき、しかたない、と思って生きていこうと考えました。でもいまは、しかたないではなく、千年後の世界に来られてよかった、と思っています。悠斗さんたちといっしょに暮らせて、とても楽しいです」
「おれもだよ」
と言いながら、悠斗は桜子に顔をむけた。自然に頬が緩んでいくのが、自分でもわかった。
そして、口もともおおきく緩みだしたとき、
「悠斗さんのような、お兄さまと思える人ができて、ほんとう、うれしいです」と、
桜子が、またほほえんだ。
悠斗は、笑顔を返した。だが、引きつったような、作り笑いの顔になっていた。
悠斗のそんな顔をみつめながら、桜子が言葉をついだ。
「わたしも、ひとつおたずねしていいですか?」
「ああ、なに?」
と、あいかわらず作り笑いを崩さず、悠斗は返事した。
「かいじゅう、ってどんなものなのです?」
そうたずねられ、悠斗の作り笑顔が、ますますぎこちなくなった。
「あっあっ、そ、それは……、とてつもなく大きな物の怪みたいなもので……」
「その、物の怪の人形を、いまでも持っておられるのですか?」
「えーと、えーと……、探せば出てくるかもしれないけど……。おれ、フィギュアは、とっくに卒業したから……」
悠斗の声はだんだんと小さくなり、桜子の耳に、おわりの方の言葉は届かなかった。
桜子は、悠斗の顔をたのもしげにみつめながら、話しつづけた。
「悠斗さんって、幼いときから逞しかったのですね。物の怪の人形を振りまわせるなんて、すごく勇気がいることです」
「う、うん、まぁ、そうかな……」
「物の怪が現れ、源氏の新帖を探しだすのを邪魔だてするかもしれないって、ずっと気がかりだったのです。悠斗さんがいてくだされば、とても心強いです」
「う、うん、まかせといて」
と答えたものの、悠斗は一気に不安になった。
――そうだよ、物の怪がいたんだよ。……夕霧さんと相談しなきゃな。
と、そのとき、白いドレススーツを着た、年の頃三十半ばの女性が店に入ってきた。
「いらっしゃいませ」と、
桜子が立ちあがった。
客は、探るように店内をゆっくりと見わたしたあと、桜子にむきなおって口を開いた。
『そこの若紫とかいう餅を十二個、包んでいただけますか? それから、こちらで一皿いただいていきますわ』
悠斗は、麦茶のグラスを手早く片付け、
「どうぞ、こちらにお座りください」
と言ったあと、若紫の人形を光源氏人形の横にならべた。そして、桜子に、
「それじゃ、おれ、明後日の鳥辺野行きに備えて、また勉強してくる」と、
小さな声で告げた。
「勉強でわかったことを、今夜、悠斗さんの部屋で教えてくださいね」
と、桜子も小さな声でかえした。
悠斗はうなずいたあと、あらためて客に辞儀をし、二階の自室へむかった。
――すごい! 金色のコンタクトだ……。




