5-11
悠斗は驚いた。新帖につながる品を、意外なほど簡単に渡してもらえたのだ。
夕霧は、まずまず無事におわったとホッとし、光源氏は、さも当然といった顔つきだ。
悠斗は筒を手に取り、桜子に差しだした。ふたりは、細長い筒の片端をそれぞれ握りしめ、笑みをかわした。そんなふたりをまえに、朱雀院が、また口を開いた。
『悠斗の君の返答を聞くまでもなく、その品を渡そうと思っていました。式部殿の孫姫がじきじきにお越しになったうえに、わたしを、源氏の物語どおりの姿にもどしてもくださったのですからね。源氏の新たな帖を世に出すにふさわしい人は、おふたりをおいて他におられないでしょう。ただ、わたしは〈西山なる御寺〉で仏道に励みながらも、娘たちの行く末がずっと気がかりで、婿たちのことも脳裏から離れませんでした。それで、あのような質問をしたまでです』
夕霧は、また身がすくんだ。
――でも、あとすこしの我慢だ。朱雀院さまは、そろそろ人界から消えられるはずだ。
物語のなかに早くもどって欲しいという夕霧の願いをよそに、朱雀院は話しつづけた。
『質問へのお答えにも、たいへん感心いたしました。わたしが帝の位にあったからでしょうか、面とむかってわたしを悪しざまに言う人は、これまでおりませんでした。悠斗の君から、いちばん悪いのはおまえだ、と言われて驚きましたが、源氏の物語のひとつの読み方として、たいへん考えさせられました。読む人それぞれが、さまざまに味わい、自分の人生の後先を考える機縁となる。式部殿が書かれた物語は、そのような縁を与えてくれるものなのでしょう。式部殿も、源氏の物語がそうあって欲しいと、おりにつけて、わたしに語っておられました』
桜子は、気恥ずかしくなった。源氏物語を、そんなふうに読んだことがなかったのだ。悠斗だって、自分の生き方と重ね合わせて読んでいる。それなのに桜子は、宇治の姫君三人姉妹を羨ましく思ったり、〈絵合〉帖に登場するような美しい絵を描いてみたいなどと、たわいないことを夢見てきただけなのだ。それに、光源氏たちを呼びだせる力を持ちながら、源氏物語についていっしょに語りあったこともない。人形遊びのように思って、もっぱら若紫とおしゃべりしてきただけだった。
――ごめんね、おばあちゃま。これからは、こころして源氏の物語を読みます!
自分自身に言いきかせるようにうなずいている桜子に、朱雀院は、筒のふたをはずすよう、うながした。
『式部殿がわたしに託された品は、家宝としてたいせつにしておられたものだそうです。孫姫は、その品に見覚えがありますか?』
筒から現れたのは、横笛だった。
桜子は、かぶりを振りながら、
「いいえ……」と、
けげんそうな声で答えた。
見たことのない品だったからだけではない。この横笛が源氏の新帖と、どのようなつながりがあるのか、まったく見当がつかなかったのだ。
「祖母は、この笛と新帖とのかかわりについて、朱雀院さまに、なにか明かしてはいなかったでしょうか?」
『いいえ。――式部殿は、その品を渡せ、としか仰いませんでした』
と、今度は朱雀院が、おおきくかぶりを振った。
すると、御殿に足を踏み入れてからずっと沈黙していた光源氏が、
『夕霧、その笛を吹いてみなさい』
と、口をはさんだ。
夕霧は笛が得意だ。盤渉調を半分ほど吹き鳴らした。そして、蒔絵の筒に笛を収めなおし、桜子に手渡した。
『どうだ夕霧、その笛に憶えがあるだろう?』
そうたずねる光源氏に、夕霧は、
『はい、たしかに……』
と答えた。だがそのあとは、しかめ面でうつむき、口をつぐんだ。
そんな夕霧を尻目に、光源氏は、笛にまつわる話しを語りだした。
『式部殿は、〈横笛〉帖を書かれるおり、わたしと夕霧をお呼びだしになり、夕霧に、その笛を吹くようにと仰いました。そうであったな、夕霧?』
『はい、その通りかとぞんじます』
夕霧は、あいかわらず顔をしかめ、素っ気なく返答した。
『式部殿が、わたしと夕霧にくわえて、柏木をお呼びだしになられたこともありました。秋風が初めて吹いた、ちょうどこのような時候の夕暮れでした、柏木がその笛を、夕霧よりもみごとに吹いたことを覚えています。――式部殿は、夕霧が吹いたときも柏木が吹いたときも、目を閉じて聴き入っておられました。夕霧が笛を吹く〈横笛〉帖と、柏木が初めて笛を吹くもうひとつの帖の構想を練っておられたのでしょう。はて、なんという帖だったか……。夕霧、そなたは憶えているか?』
『〈篝火〉でございます』
と、夕霧は即座に答えた。だが、うつむいたままで、依然として言葉数が少ない。
夕霧にとって、柏木にまつわる笛は、避けたい話題なのだ。というのも、夕霧は、柏木未亡人の落葉の宮に懸想し、その屋敷を足しげく訪ねていたころ、柏木遺愛の笛を、訪問の礼として譲られた。その笛は、柏木と女三の宮とのあいだに産まれた薫に受けつがれていく。源氏物語において、柏木の笛は、柏木と薫との親子関係を印象づける重要な道具なのだ。だが夕霧にとってその笛は、落葉の宮との結婚騒動を思いおこさせる品だった。雲居雁と住む本邸に笛を持ち帰った夜、夕霧の浮気心に怒っている雲居雁とのあいだで、最初の夫婦げんかが激しく繰りひろげられたのだった。
夕霧は、
――また父上が、わたしの家庭騒動を、からかいの種になさりそうだ、
と、心のなかで溜息をつきながら、横目で光源氏をうかがった。
光源氏は目を閉じていた。
桜子と悠斗は、光源氏が、笛と新帖とのつながりについて考えているのだろう、と思った。心あたりがあるのかもしれない。ふたりは、光源氏の口がふたたび開くのを、しずかに待った。
だが、光源氏は、いっこうに目も口も開けない。桜子と悠斗は、ヤキモキしはじめた。
すると、かすかな寝息が聞こえだした。朱雀院も、うつらうつらしている。兄弟ふたりが、もたれあって居眠りしているのだ。
桜子と悠斗は、おもわず顔を見あわせた。拍子抜けしたが、怒る気にはならなかった。光源氏も朱雀院も、きっと疲れたのだろう。広い境内を歩きまわり、朱雀院にいたっては、先ほどまで大空を羽ばたいていたのだ。
笛を手がかりに新帖を見つける仕事は、自分たちがやりとげよう! 桜子と悠斗は、おたがいの瞳のなかに同じ決意を読みとり、相づちをうった。
夕霧は、光源氏と朱雀院が、自分の家庭争議を話題にすることなく眠りこんだので、胸をなでおろした。ふたりが目覚めたら、まだ寝ぼけているうちに、朱雀院には別れのあいさつをし、光源氏とは、いっしょに物語世界にもどればよい。夕霧は、そう計算したものの、手放しでうれしくはなかった。
――父上も、年をとられたな……。おしゃべりしながら居眠りしてしまった大叔母の桃園の宮さまのことを、これでは笑えないですよ、父上。
夕霧は、光源氏の目尻に小さな皺も見つけ、やるせなくなった。
『父上、父上。そろそろ六条院にもどりましょう。お供いたします』
夕霧の声で、光源氏は目を開け、朱雀院も目覚めた。
『風が吹きとおるこの簀子縁は、なんとも居心地がよいことよ……』
光源氏が独り言のようにそうつぶやくと、朱雀院が、
『式部殿から預かった笛を渡し終え、肩の荷がおりたのでしょうか、夕霧の君のみごとな笛の音もあって、ウトウトしてしまいました』
と応じた。
『その笛なのですが、新帖とのつながりを、ずっと考えておりました。ですが、夕霧と柏木が式部殿のまえでそれを吹いた、ということしか思いうかびません』
そう語る光源氏に、夕霧は内心、にが笑いした。
――居眠りしておられたというのに……。父上は、あいかわらず見栄っぱりだ、ハハハ。
だが今の夕霧は、光源氏の言葉に、もういらだつことがなかった。
夕霧がいとまごいのあいさつを口に出そうとしたとき、朱雀院が光源氏に、
『わたしも、式部殿からお預かりしただけですので……』
と、もうしわけなさそうにつぶやいた。そして、悠斗にむきなおり言葉をついだ。
『ですが、悠斗の君のお答えに感心したものですから、笛を渡すほかに、なにか力になれないかと考えまして、それで、思いだしたことがあります』
みなが一斉に朱雀院の顔を見た。
朱雀院は、金堂まえで紫式部と別れたときのようすを語りはじめた。
それによると、……
式部はあいさつもそこそこに、供の者たちが待つ門前へむかおうとした。一月の淡い陽が、もっとも高い位置に昇ってきた時分だった。
『お急ぎなのですね。これからどちらへ?』
朱雀院がそう声をかけると、式部は、やや疲れた顔で、
「今日中に、あと二か所、源氏の物語に縁ある寺社に参詣しようと思っております。近いところばかりではなく、鳥辺野にも行かなければなりません」
と告げた。そして別れぎわ、式部は朱雀院に、
「つぎは野宮あたりまで参り、六条御息所さまを、お呼びだししようと考えています」
と洩らしたのだった。――
『わたしがお渡しした笛と同じように、式部殿はそれぞれの寺社で、なにかたいせつな品を、物語のなかの人物に託されたのでしょう。品がすべてそろえば、新帖へつながる扉が開かれるのではないでしょうか』
そう言って、朱雀院は話しを結んだ。
朱雀院の推測は正しいのだろう。みながそう思った。
だが、桜子は不思議だった。
――おばあちゃまは、光る君さまと夕霧さまに、なぜ託さなかったのだろう。光る君さまに頼まない理由は、なんとなくわかるけれど……。
納得がいかない桜子は、夕霧に、
「祖母から、なにかお預かりにならなかったのですか?」
とたずねた。
夕霧は、ちからなくかぶりを振った。夕霧も、桜子と同じ思いだったのだ。
『式部殿はわたしを信頼しておられなかった、ということでしょうか……』
しょげる夕霧に代わって、悠斗が桜子に答えた。
「寺社と人物と品物の、その三つの組み合わせに意味があるんじゃないだろうか。夕霧さんと光る君は、組み合わせに当てはまらなかっただけだと思う」
だが悠斗自身も、手探りの状態だった
「それにしても、仁和寺と朱雀院さまと笛って、どういう意味なんだろう……。源氏物語をしっかり読みこめば、わかるのかもしれない。それに、ひと組だけでなく、すくなくとも他にふた組あるようだから、それらを総合して考えればいいんだと思う。野宮で六条御息所に会えば、意味がすこし見えてくるような気がする」
野宮で六条御息所に会おう、という悠斗の提案に、光源氏は顔をしかめた。
『野宮へは、夕霧、おまえが孫姫と悠斗殿の供をしなさい。よいな!』
そう言ったきり、光源氏は、もう口を開こうとしない。
すまし顔にもどった光源氏に、夕霧は黙礼した。
――はいはい、よろしいですよ父上、アハハ。
悠斗は、野宮の名前を朱雀院がさきほど口に出したとき、やはりな……、と思ったのだった。〈源氏物語の宮〉だと宣伝されている嵯峨野の野宮神社のことが、頭に思いうかんだのだ。桜子に言いわけせずに六条御息所に会えそうなことが、すこし楽しみでもあった。
――でも、野宮神社でまちがいないのだろうか? もし、おなじ嵯峨野の清涼寺か法輪寺だったら、どうしよう……。
悠斗は、亡き母とのつらい思い出しかない嵯峨野ではなく、鳥辺野の方へさきに行きたかった。
桜子は、夕霧に代わって悠斗がしてくれた説明が、よく理解できた。悠斗への信頼が、ますます強まった。つぎの手がかりも見つかった。今度は野宮だ!
そして、悠斗が手放しでは喜んでいないことにも気づいた。
――どうされたのだろう? ひょっとして、六条御息所さまがお好きじゃないのだろうか、うふっ。
桜子は、上目づかいで悠斗をみつめたあと、朱雀院に顔をむけ、あらためて笛の礼を述べた。
すると、朱雀院の体が、ゆっくりと透きとおりはじめた。
『わたしは、そろそろ物語のなかにもどらなければならないようです。新帖が見つかるよう、祈っておりますよ。――それにしても、最後に人界に現れてから数年ほどしか経っていないと思うのですが、仁和寺は、ずいぶんと変わりましたね。装束も……』
最後の言葉が桜子たちに聞き取れないまま、朱雀院は空中に消えていった。
桜子は口に右手を押しあて、小さく叫んだ。
「あっ、朱雀院さまに、いまは千年後の世なのだと、お伝えするのを忘れていました!」




