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桜人 ―― 源氏異聞  作者: 塔真 光
第5章 手がかり
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5-12

 桜子は、悠斗たちと御殿を出たあと、霊宝館がある方へ足をむけた。

 途中の参道で、いまから増長天に礼を言いに行きたいと桜子が洩らすと、夕霧が顔をしかめた。夕霧は、

『父上がお疲れのようですから、ここでわたしたちを六条院へおもどしくださいませんか?』

と、桜子に声をかけた。

 光源氏は目をむき、

『なにを言うか夕霧! 年寄りあつかいするではない!』と、

大声をはりあげた。

『父上は、宸殿の簀子縁で居眠っておられたではないですか』

『居眠りなど、しておらん! 深く考えておったのだ』

『いえいえ、たしかに大イビキをかいておられました』

『嘘をつくでない! うつらうつらしているだけでイビキをかく者など、おらん!』

『ほれ、やはり居眠っておられたではないですか』

 夕霧の鋭いつっこみに、光源氏は返答に窮した。

 だが、すぐに立ち直るのが光源氏だ。

『おまえこそ、なぜ、そんなに六条院にもどりたいのだ!? ははーん、目当ては玉鬘だな』

『まさか、父上ではあるまいし! わたしは、ただ、父上のお供をいたそうと、孝行心でもうしあげているのです』

『孝行だと! おまえは孝行心で、六条院の女君たちをのぞき見するのか』

『ちがうと、もうしあげているではないですか! それに父上は、親孝行について説教できるお立場ですか!?』


 この親子げんか、ほうっておくと、いつまでもつづきそうだった。

 桜子は肩をすくめ、あきれ顔でふたりに言いわたした。

「増長天さまへは、悠斗さんと行ってきます。おふたりは朱雀院さまに感謝し、光る君さまは女三の宮さまのところへ、夕霧さまは落葉の宮さまのところへ、今日はおもどりください」

 源氏親子は、ふたりの女宮の名前をキョトンとした顔で聞いていた。そして、その姿がふたつながらゆっくり消えはじめると、桜子は、だいじなことを言い忘れていることに気がついた。

「夕霧さま、ありがとうございます。笛が得られたのは、夕霧さまが、霊宝館のまえで無心に祈りはじめてくださったおかげです。これからも手助けしてくださいね。頼りにしています」

 夕霧は、きまり悪そうな顔をした。そして小さく唇を動かし、ふかぶかと辞儀をした。

 桜子も悠斗も、夕霧がなにを言ったのか聞き取れなかった。桜子は、夕霧が消えていった虚空をみつめながら、

「夕霧さんって、ご自分の手柄を自慢しない、遠慮深い人ですよね」

と、横にいる悠斗につぶやいた。

「ほんとだ。親子なのに、光る君とおおちがい」

 桜子と悠斗は、顔を見あわせて笑った。


 霊宝館まえでいっしょに合掌したあと、悠斗は桜子を誘い、もういちど金堂へむかった。陽は西におおきく傾きはじめていた。

 悠斗は、金堂正面に着いてすぐ、賽銭箱の上に目をやった。そして、銀の壷がないことにあらためて感心しながら、百円玉を財布から一個取り出し、賽銭箱に入れた。

 悠斗は合掌を終えると、ならんで立っている桜子のようすをうかがった。まだ両手を合わせているが、両まぶたがゆっくりと開いていく。悠斗は、金堂に目を移しその(いらか)を見あげながら、はつらつとした声で桜子に呼びかけた。

「家にもどろうか!」

「うん!」

 桜子は、そう答えてすぐ、あわてて右手で口もとをふさいだ。「はい」と言わなかったことが気恥ずかしく、目を伏せた。

 悠斗は、桜子との距離が一気に縮まったように感じた。桜子のうろたえぶりも、かわいく思えた。悠斗は金堂に背をむけ歩きだしながら、さっきよりも大きな声を桜子にかけた。

「それじゃもどろう!」

 桜子は、顔を伏せたまま、

「はい」

と小声で答え、悠斗とならんで歩きはじめた。


 金堂と二王門のちょうど中間点にある中門の近くまでもどったとき、桜子は悠斗の顔をうかがった。そして、遅い午後の陽射しに照り映えるその横顔を見た瞬間、〈夕顔〉帖の和歌が頭をよぎった――心あてに それかとぞ見る 白露の 光そえたる 夕顔の花

 桜子は、ふたたび顔を伏せ、下の句を、心のなかで二度三度、繰り返しつぶやいた。そして口に出して詠もうと思ったとき、この和歌が、夕顔と光源氏の激しい恋物語の始まりを告げる贈歌であることを思いだした。桜子は、顔が赤くなった。

 ――わたしってバカ! こんな歌を口にしたら、悠斗さんに変に思われてしまう……。


 と、そのときだ。

『カッハハ、カッハハ』

 桜子は、奇妙な笑い声が耳のおくに響いたような気がした。男の声だ。おそるおそる悠斗をうかがうと、きまじめそうに口を結んでいる顔があった。

 ――だれの声なの?


『カッハハ、カッハハ』

 また聞こえた。

 ――えっ、地面から?

 桜子は、足もとをみつめながら歩いた。笑い声はもう聞こえないが、気になってしかたなかった。


「疲れたんじゃない? 顔が、ほてってるよ」

悠斗が、中門の真下で立ち止まり、桜子に話しかけた。

「えっ、そうですか? きっと、西日のせいですよ。――悠斗さんこそ、朱雀院さまから試験を受けられて、疲れておられるのではないですか?」

「おれは平気。試験もパスしたしね。でも、せっかく仁和寺に来たんだから、閉門まで、ここに座ってようか? ここなら、風が通り抜けて涼しいし……。鳥辺野と野宮に行く相談もしよう」


 悠斗と桜子は、中門の石段にならんで座った。目のまえに、二王門までつづく緩やかな下りの参道が広がっている。宸殿の簀子縁に座っていたときよりも、風が強く吹き抜け、汗ばんでいる肌に心地よかった。

 だが、桜子は、さきほどの奇妙な笑い声が、まだ気になっていた。

 そのうえ、心にかかっていることが、もうひとつあった。

「これ、どうしましょう? 境内で食べなさいと、仰っていましたよね……」

と言いながら、桜子は、焼き餅が入ったビニール袋をバッグから取り出した。

 悠斗は眉をしかめた。

「それは桜ちゃんが食べて。おれはいらない。お腹、へってないから」

 桜子は、心細げにうなずきながら、袋の口を開いた。白馬を描いた包み紙が見えた。

 ――かわいくて奇麗な絵! 上手だなぁぁ。

 包み紙を開き、桜子は焼き餅をほおばった。「わぁぁ、おいしいぃぃ」と言いそうになり、あわてて口をつぐんだ。おもわず顔に現れそうになった笑みも、懸命にこらえた。


 悠斗は、桜子が餅を食べるようすを、横目で探りつづけていた。桜子の感想が知りたくてしかたない。

「どう、うまい?」

「ええ……。でも、若紫餅の方が好きです」

と言いながら、桜子は、もう一個に手を伸ばした。

 ――けっこう、うまいんだ……、

と、悠斗はしょんぼりうつむいた。


 すると、突風が桜子の長い髪を揺らし、それと同時に速仁が桜子の目のまえに現れた。

 速仁は、

「おぉぉぉ、とっと……」

と言いながら両腕をばたつかせている。現れ出た場所が石段の角だったので、うしろむけに倒れそうなのだ。

 悠斗が、とっさに速仁の体を抱きかかえた。

「あ、ありがとう……」

 礼を言わなければならなかった速仁は、口惜しかった。桜子の新帖探しを手伝おうと、気負って時空を超えてきたのだ。それなのに、桜子にぶざまなかっこうを見られてしまった。おまけに、ライバルに助けられる始末だ。

 速仁は、照れ隠しで咳払いしながら、桜子を挟んで悠斗の反対側に腰を下ろした。


「怪我しなくてよかったな」

と、悠斗が速仁に声をかけた。

「ああ。でもな、おれ、ふだんから体は鍛えているから、助けてもらわなくてもだいじょうぶだったんだぞ!」

「そうか。一宮くんは敏捷そうだもな」

 悠斗は、負けず嫌いな速仁がおかしくてならなかった。

 だが桜子は、こっぴどく速仁を叱った。

「宮ちゃん! そういう言い方はないでしょ! 体だけでなく、心と頭も鍛えなさいよね!」

「ごめん……」

 速仁は、体を小さくしてあやまった。


 突っ張っていたかと思うと、しおれたり。そんな速仁が、悠斗はますますおかしかった。速仁にいろんなことを、兄貴気分で教えられたら楽しいだろうな、と思った。

「今日はどれぐらい、ここにいられそうなんだ?」

「うーん、よくわからないのだけれど、今朝、早起きして、さっきまでずっと机のまえに座ってはいた」

 そう答える速仁に、桜子は、ようやく笑い顔をむけた。

「宮ちゃんのよいところは、嘘がつけないことだよね。机のまえに座って居眠りしていたのでしょ」

「そうでもないぞ。古今集の和歌を、いくつか覚えたぞ――恋しさは おなじ心に あらずとも 今宵の月を 君見ざらめや――これ、いいよな」

 そう言いながら、速仁は上目づかいで桜子を見た。

 だが桜子は、

「宮ちゃん、それは古今集でなくて、拾遺和歌集に撰ばれた源信明(さねあきら)さまの歌だよ」

と、素っ気ない。

「あっ、そうだった?」

「でも、覚えたのは感心ね。古今集と後撰集、それと拾遺集に撰ばれた和歌は、全部で三八七六首だから、毎日十首ぐらいずつ覚えていけば、一年で全部覚えられるよ。それから、信明さまのその歌を、おばあちゃまが〈末摘花〉帖のなかで引歌(ひきうた)にしておられるわ――晴れぬ夜の 月待つ里を 思ひやれ 同じ心に ながめせずとも――源氏の物語で詠まれた歌は七九五首あるから、これもみんな覚えようね」

「!………」

 速仁は口をあんぐりさせ、悠斗も、

 ――平安貴族ってたいへんなんだ!

と、目をまるくした。

 ――桜ちゃんは、けっこう勉強の鬼だったりして……。紫式部は、学者の家系だったもんな。桜ちゃんも、学者になるような男が好きなのかなぁぁ?

 悠斗は、自分に和歌の暗記を特訓する桜子を想像し、苦笑いした。そして苦笑いは、すぐに照れ笑いに変わった。

 ――まっ、そういうのも、いいか……。


「一宮くん、おれも源氏物語の和歌をこれから覚えようと思ってるんだ。おれの部屋でいっしょに勉強しようか?」

 そう話しかける悠斗に、速仁は、自信なさそうに答えた。

「そりゃ、いいけれど……。おれのこと、覚えが悪いからといって、馬鹿にするなよな」

「アハハ、おれこそ、頭よくないから。さっきも、夕霧さんの〈露にやつるる藤袴〉って歌、おれ、知らなくて、光る君に叱られたばかりだ」

「えっ、光るじいさんがいたの!?」

 速仁は驚き、つぎは残念そうな顔で桜子にたずねた。

「ひょっとして、もう源氏の新帖を見つけたの?」

「うーん、それがね……」

と、桜子は仁和寺でのできごとを速仁に語りはじめた。


「ふーん、新帖じゃなくて笛だったのか……。つぎの品は、いつ探しに行くんだ? 今度はおれも行きたい! 観音さまに頼んで、そのときに合わせて、この世界に送ってもらう!」

 速仁は意気込んでいた。最初の品は、悠斗が試験に合格したおかげで手に入った。負けるわけにはいかないのだ。

 速仁はスクッと立ちあがり、右手拳を、震えるぐらい固く握りしめた。

「六条御息所でもなんでも、かかってこい! つべこべぬかしたら、力ずくで取ってやる!」


 はやる速仁のようすが、悠斗はおかしくてならなかった。

 ――平安時代にも、体育会系って、いるんだ!

「一宮くん、ケンカしに行くわけじゃないんだからな。まっ、座れって」

と、悠斗は笑いながら声をかけた。

「そうよ、宮ちゃん。悠斗さんを困らせないようにしてよ」

「うん、わかってる……」

と言いながら、速仁は、また桜子の横に腰掛けた。


「鳥辺野に行くか、野宮に行くか、まず決めなきゃな。どうする?」

と、悠斗は桜子にたずねた。

 ――うふっ、悠斗さんは六条御息所さまがお好きじゃなさそうだし……。

「つぎは鳥辺野に行きましょうか。死者を送る怖い場所ですけれど、源氏の物語では、桐壺の更衣(こうい)さまや夕顔さま、それから葵の上さまの葬儀がおこなわれた、重要な舞台ですものね。それに、悠斗さんや宮ちゃんといっしょだったら、心強いです」

 そう答えた桜子に、速仁と悠斗も相づちをうった。


「それじゃおれ、〈桐壺〉帖と〈夕顔〉と〈葵〉を、よく読んでおく。千年まえと現在の、それぞれの鳥辺野についても調べるよ。しっかり準備してから、三人で出かけよう。いまから五日後の、きっかり正午でいいかな?」

 そうたずねる悠斗に、速仁は、

「おう、それでいいぞ」

と、わざとおとなびた口をきいた。

 悠斗は笑いをこらえ、

「よし、一宮、頼りにしてるからな」と、

桜子の胸越しに、右手を速仁に差しのべた。

 だが速仁は、いぶかしげな表情をうかべた。悠斗の仕草の意味がわからないのだ。

「握手だよ。この世界では、友情を固めるために、手を握りあうんだ。おれたち、仲間だろ?」

「おう、わかった。おれたち仲間だ!」

と言いながら、速仁は悠斗の手を握った。仲間だけれど負けないぞ、とばかりに強く握った。そして悠斗が力を込めて握りかえすと、速仁は必死の顔になった。

 ――わぁぁ、おれより力がある。でも、負けないぞ!

 すると桜子が、握りあうふたりの手に、自分の手を重ねた。

「わたしも仲間ね」


 三人は、いつまでも手を握りあっていたかった。だが、もうすぐ閉門だ。

 桜子は、焼き餅を一個、速仁に差し出した。

「お腹すいていない? わたしひとりでは食べきれないの。それに、鞍馬のお家には持って帰りたくないから、できれば食べて」

「おう、いいぞ!」

 速仁は一口で食べた。

「これ、おいしいね。もう一個いい?」

と言いながら、速仁は桜子の返答も待たずに餅を手に取り、これも一口で食べた。

「どうして悠斗は、こんなおいしいものを食べないんだ? あっ、そうか、これ、悠斗の家の餅で、食べ飽きているんだね。――でも、どうしてこれが若紫のお餅なの? 表面がシワシワで、童女らしくないよ。――もう一個いい? おいしいね、エヘへッ」

 速仁は、おとなびた口をきくのも忘れるぐらい、食べるのに夢中になった。そして最後の一個にも手を伸ばした。

 桜子は、

「宮ちゃん、おいしいおいしいと、そんなになんども言わないで」

と、言葉も表情も消えてしまった悠斗を気づかった。

「そのお餅は、べつの店のものなの……」

 だが速仁はくったくがない。

「ふーん、それで悠斗は食べないわけか……。でも、せっかくのおいしいお餅、食べないと損じゃない。それに、これを食べないと、若紫餅の方がおいしいのかどうか、わからないよ」

「じいちゃんが作ってる餅の方がうまいにきまってる!」

と、悠斗が声を荒げた。桜子と速仁を驚かせるほどの大声だった。

 速仁は、焼き餅を口にくわえたまま固まってしまった。

 そんな速仁にむかって、悠斗が、

「それ、よこせ。おれも食べる!」

と、声をはりあげた。

 速仁は首を前にカクカクさせた。そして、口のなかにまだ放りこんでいなかった餅半分を手でちぎり取り、おそるおそる悠斗にたずねた。

「ぼ、ぼ、ぼく、かじっちゃったけれど、いい?……」

「ああ、かまわん!」


 悠斗は、速仁の手から奪うようにして、焼き餅半分を口に放りこんだ。

 食べ終わっても、悠斗の顔は険しかった。

 桜子と速仁は首をすぼめ、目を見かわしながら悠斗の言葉を待った。

「さっき、大きな声だして、ゴメン」

 しょんぼりと謝る悠斗に、桜子と速仁は、なにも言わず首をよこに振った。

「たしかに、うまいよな。若紫餅も、これに負けないぐらいうまいと思うけど、包装紙では完全に負けてるし……。そっちの方が、どう見ても、いいよ」

 悠斗の目線のさきにある包み紙を、速仁も見た。

「あっ、この馬、上賀茂神社の神馬じゃない? 去年、桜ちゃんと牛車のなかから賀茂祭を見たときの、あの馬にそっくりだ」

 桜子もうなずき、紙に描かれている白馬の頭を指でなでた。

「悠斗さん、賀茂祭は、いまでもつづいているのですか?」

「ああ、つづいてるよ。来年、見にいこうか」

「はい。祭りを見たあと、鴨川で、焼き餅じゃなく若紫餅を食べましょう!」

「おれも行きたぁぁい! おれは両方食べたぁぁい!」

 むじゃきに叫ぶ速仁を、桜子はにらみつけた。

 だが悠斗は、

「ああ、そうしよう」

と、穏やかな顔で静かにうなずいた。そして、焼き餅の包装紙を桜子から受け取り、ていねいに折りたたみはじめた。

「若紫餅の売れ行きが、昔と比べて、あまりよくないんだ。なのにオヤジが無神経で、おれ、ちょっと頭にきてたから……。焼き餅、食べてよかった。ふたりのおかげだよ、ありがとう」

 悠斗はそう言って、包装紙をハーフパンツのポケットにしまった。

「こういう包装紙も参考にして、若紫餅が注目されるよう、おれ、考えてみるよ。鞍馬寺か源氏物語に関係する絵ぐらい印刷されてたらいいのに、うちの包装紙は、味気ないから……。桜ちゃんが描いてくれた若紫や光る君の絵なんか、すてきだよな。でも、新しく包装紙を印刷するのは、金が要るだろうし、今のものを捨てたらむだづかいだし……」

 悠斗はおおきく溜め息をついた。

「まっ、ゆっくり考えるよ。――よし、家にもどろう!」

 そう言って立ちあがった悠斗は、

「一宮も、もし時間が残ってるなら、家にこいよ」

と、速仁を誘った。

「おう、ありがとう。――でも、仁和寺から鞍馬までは遠いのだろう? おれ、それだけ長いあいだ勉強したか、自信がないや。途中で消えそうだ、エヘへッ」

「もう、宮ちゃんたら!」

と、桜子は速仁を小突いたが、その顔は笑っていた。


 桜子たち三人は、二王門をくぐり抜けた所で足を止めた。目のまえに、〈きぬかけの路〉と呼ばれる道路が東西に横たわり、そのむこうには双ヶ丘(ならびがおか)の木立が、仁和寺の境内全域を見下ろすように枝をおおきく広げている。

 その緑の木立の葉陰に、小さな白いモノが見え隠れしていた。


 速仁は、道路を行きすぎる車を初めて目にし、千年のへだたりに身がすくんだ。

 ――桜ちゃんは、おっかない世界に住んでいるのだな……。

 桜子と悠斗に見られないように、速仁は袖でこっそりと涙を拭った。

 ――もとの世に桜ちゃんがもどれないなら、おれがずっとここに居られるよう、観音さまに頼もう!

 速仁がそう考えたとき、その体が透きとおりはじめた。

 それに気づいた悠斗が、速仁に声をかけた。

「五日後の正午だぞ! まちがえるなよ!」

「おう! だいじょうぶだ」

「宮ちゃん、今度はもっと長く居られるよう、しっかり勉強してね! それから、お母さまとお父さまのようすも、見てきてね」

 消えていく速仁をまえにして、桜子は急に心細くなった。目にうっすら涙がうかび、速仁の姿がますます霞んできた。

「お願いね……」

「うん、わかった……」

 桜子と速仁は、潤んだ瞳をみつめあった。速仁は、おもわず桜子の両手をつかんで引き寄せた。だが、まえ屈みになった桜子を残し、速仁は虚空に消えていった。


「きっと、またすぐに会えるよ」

 悠斗は右手で、小刻みに震えている桜子の肩を抱いた。そして、その震えを手に感じながら、悠斗は、自分にとって桜子がもう妹ではなくなったと、はっきりと自覚した。

「家にもどろ」

「うん」


 双ヶ丘の緑深い葉陰のなかで見え隠れしていた白い点が、とつぜん、フワーッと空へ浮きあがった。桜子たちのいる二王門まえに、ゆっくりとだが、まっすぐ近づいてくる。

 悠斗がそれに気づいた。西日を受けて白く輝いているが、しだいにおおきく見えるにつれ、ところどころ灰色が混じっているのが見てとれた。ゆったりと羽ばたくシラサギだった。

 それは速度を増して〈きぬかけの路〉の手まえまで飛んできた。赤混じりの金色の目さえ、悠斗に見てとれるようになった。

 ――えっ!? まだこっちに来るのか!? あぶない!

 悠斗は自分の体で包みこむようにして、桜子をかばった。

 シラサギはおおきく目を開き、悠斗を凝視していた。まるで、どう動くかによって悠斗の心根を見極めようとでもする鋭い眼差しだ。シラサギは、悠斗の背中すれすれまで飛んでくると、今度は一気に空高く羽ばたいた。


 ――悠斗とかいうこの男、なかなか見どころがある。さっ、晴明さまにお伝えしよう。

 シラサギは、呆然と見あげている桜子と悠斗の頭上を二度三度旋回したあと、真東へ飛びさった。


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