5-7
仁和寺は、平安時代の前期に創建された。建立が発案された時点では〈西山御願寺〉という名であったが、開山時に、その年の元号にちなんで仁和寺と名づけられた。造営に心血を注いだ宇多天皇が出家後にこの寺に住まいし、その起居した建物が〈御室〉と呼ばれたことから、仁和寺とその一帯は、御室と通称されるようにもなった。
平安時代に建てられた堂宇はひとつとして現存していない。だが、創建時の金堂本尊である阿弥陀如来像と、その両脇侍像、さらに、本尊の周囲に配されていた四天王像のうちの二体が、いまに伝わっている。
寺の正面口である二王門をくぐると、幅広の参道が北へのびている。桜子たちは、その参道の突きあたりにある金堂へ、まっさきに足をむけた。
そして桜子は、参道を歩きながら念じた。
――朱雀院さま、〈西山なる御寺〉の金堂に、お越しください。
金堂まえに着き、桜子は、あたりを見まわした。しかし、朱雀院の姿がない。仁和寺は〈西山なる御寺〉ではないのだろうか。
桜子がとまどいの表情を浮かべていると、悠斗が、
「どうしたの、桜ちゃん?」
と問いかけてきた。
「〈西山なる御寺〉にお越しくださいと、朱雀院さまにもお願いしたのですが、お姿が見えなくて……」
朱雀院という名が桜子の口から出たとたんに、光源氏が顔をしかめた。
だが光源氏は、それを気取られないように、作り笑顔を桜子にむけた。
『兄の朱雀院さまは、おっとりしたお方ですから、身づくろいに時間がかかっておられるのでしょう。心配することはないです。あるいは、仁和寺が〈西山なる御寺〉でなかったので、物語から出るに出られないのかもしれませんよ、アハハ』
光源氏は朱雀院に冷たい。朱雀院の皇女である女三の宮を正室に迎え、その夫婦仲がこじれて以来、ますます冷たくなっているのだった。
夕霧も、朱雀院の名を聞いて顔をひきつらせた。そして、生真面目な性格ゆえに光源氏とちがい作り笑いができず、顔をこわばらせつづけるのだった。というのも、夕霧は光源氏とおなじように朱雀院の皇女である落葉の宮を妻のひとりに迎えており、この夫婦もまた、複雑な仲なのだ。
落葉の宮は、前夫の柏木を亡くしたあと、だれとも再婚せずひっそり暮らしたいと願っていた。そんな落葉の宮に、夕霧は、柏木の無二の友だったという立場を利用して近づいた。そして、身勝手に既成事実を積み重ね、蜘蛛の糸で捕らえるようにして妻にしたのだった。その時の夕霧は、恋に目がくらんでいた。
落葉の宮に懸想したことで、長年連れ添ってきた雲居雁との仲がこじれ、神経をすり減らしてしまった夕霧は、人を恋するという行為そのものに興ざめする。落葉の宮への偏執的な恋情から覚めるほどの、深い幻滅だった。夕霧は、恋路に迷い冷静さをうしなっていた自身が気恥ずかしく、朱雀院が落葉の宮の再婚に感心していなかったこともあり、出家後の朱雀院に会うことは一度としてなかったのである。
『まずは拝礼いたしましょう!』
と光源氏にうながされ、桜子は、参拝後に朱雀院を探そうと考えなおした。
桜子たち四人は、金堂正面にならんだ。堂内は立ち入り禁止になっていたので、桜子と光源氏、夕霧の三人は、堂前で頭を深くたれた。桜子の横で悠斗も、賽銭箱に十円玉を二枚そっと投げ入れ、合掌しながら祈った。
――桜ちゃんの願いがかないますように……。
すぎゆく夏の昼下がりだった。金堂の周囲は桜子ら四人以外に濃い人影はなく、そこだけが、時が止まったかのように粛然としていた。単調な蝉の声と、経文をそらんずる艶やかな光源氏の声だけが、汗ばむ空気をかすかに振るわせていた。
いっときの誦経を終えると、光源氏は優雅な物腰で桜子に問いかけた。
『御本尊さまから、なにかお告げがありましたか?』
桜子は、ちからなく首を横に振った。
光源氏は眉をひそめ、今度は悠斗にむかって口を開いた。
『銅銭などではなく、もっと立派なものを寄進なさる方がよろしいのではないですか? ここの御本尊さまは新帖を預かっておられないようですが、かりそめにも仏さまですぞ。それに、今後のこともありますので、もうしあげておきます。千年もの長いあいだ、源氏の物語を護っていただいていた神仏への寄進は、それ相応のものでなければなりません』
「はっ、はい、すみません」
しおれる悠斗を尻目に、光源氏はキリリとした顔を本堂正面にむけ、おもむろに言葉をついだ。
『まっ、よろしいでしょう。今後の寄進は、わたしがいたします』
そして光源氏は、桜子にあらためてむきなおり、笑顔で頼みごとをした。
『源氏の物語の〈蜻蛉〉帖から、黄金の入った白銀の壷を、わたしの手のひらの上にお出しください』
「はい……」
と桜子は答えたが、その目は、うなだれる悠斗を心配そうにみつめている。
――光る君さま、ひどいわ! 悠斗さんに、あんな言い方をするなんて! 悠斗さんは悠斗さんなりに、精一杯ご寄進されたはずなのに……。
桜子は、目を閉じ念じた。その横では光源氏が、右手をまえに差しだしながら、端然とたたずんでいる。
『うひゃぁぁぁ!』
光源氏が、悲鳴をあげて右手を振りはらった。
『む、む、虫だぁぁ! 松虫だぁぁ!』
「あっ、光る君さま、ごめんなさい。念じまちがえたようです。今度はまちがいなく……」
桜子がふたたび目を閉じると、銀の壷が賽銭箱の上に現れた。
『む、虫は、聴くのは好きですが、触れるのはどうも……』
と、光源氏は、傾いた烏帽子を手で直しながら言いわけした。
悠斗は、しゃがみこみ、光源氏が振り落とした虫を手に取って、しげしげとみつめた。
「これ、本物の、生きてる虫だよ!――あっ、光る君、これは松虫でなく鈴虫ですよ」
悠斗は、手のひらに虫をのせ、光源氏の目のまえに近づけた。
『ひやぁぁぁ! 鈴虫でも松虫でも、どちらでもよろしいではないですか! そこの草むらに、早く放してください』
あわてふためく光源氏だった。だが、桜子と悠斗が目を合わせて懸命に笑いをこらえていることに気づき、思慮深げに聞こえそうな言葉を選んで口に出した。
『虫が死なないように、気をつけるのですよ。ここは寺ですから、殺生はもってのほかです。さて、もうすこし境内を散策することにいたしましょう』
悠斗は、光源氏と桜子のうしろを、夕霧と肩をならべて歩いた。悠斗は、桜子の念力で虫や銀壷が現れたことに感心していた。
「夕霧さん、桜ちゃんはすごいですよね。源氏物語から、人物だけでなく道具や生き物も呼びだせるなんて」
『ええ……』
夕霧は、生気のない声で返事した。
だが悠斗はむとんちゃくだ。
「こんど、六条御息所のなにか持ち物を、桜ちゃんに見せてもらおうかなぁぁ」
『あの女のですか?……』
〈あの女〉という冷たい言い方に、悠斗は妙な感じがした。だがすぐに、
「あっ!」
と、おもわず声をたてた。夕霧の母である葵の上と、六条御息所とのあいだの深い確執を思いだしたのだ。
「すみません。おれ、バカなことを言いました。許してください!」
悠斗は、立ち止まって夕霧にむきなおり、手を両脇にそろえて頭を下げた。
『別にいいのですよ。わたしは母の顔さえ知らないですし……。それに、六条御息所の生霊に憑き殺された母は、きっと極楽に行けたはずですから』
夕霧はそう言うと、おおきな溜め息をつき、地面に目を落として言葉をつづけた
『父上もそこに行くそうです。なのにわたしは……』
「光る君が極楽へ行くなんて、桜ちゃんのお祖母さんは、絶対にそんなこと書いてないと思いますよ」
『そっ、そうですよね!』
夕霧の顔は、とたんに明るくなった。
「光る君って、物語のなかでモテまくるじゃないですか。そのうえ極楽なんて、調子よすぎですよ。――あっ、すみません。夕霧さんのお父さんのことなのに……」
『アハハ、ぜんぜん構わないです! わたしだって、そう思っていますから。――父上は、大勢の女君に好かれるうえに、学問にしろ詩歌管弦にしろ、なんにでも秀でておられて……、息子としては、父親に勝てるものがないから、つらいです』
「その気持ち、おれも、よくわかります。おれのオヤジも、世間的には超優秀な人だから……。でも裏では、あくどいことをしていて……」
『わたしの父上は、あくどいことはなさらないのですが、ほれ、さきほどのように、なにかにつけて恰好をつける人でして……』
「さっき?」
『ええ。不殺生戒がそうでしょ。それに、寄進もです。孫姫さまに命じて寄進されたあの白銀の壷は、すぐに消えてなくなるのですよ。わたしたちが物語世界へもどるとき、いっしょに現実世界から消えてしまいます。だから、仁和寺の仏さまたちへの寄進には、まったくならないのです。なのに気取って、寄進がたいせつだと、大学の君に訓戒なさるのですからね、あきれてしまいます』
「そういうことだったんですか。――でも、壷が消えてなくなると聞いて、おれ、安心しました。だって、あんな高価なものがさい銭箱から見つかると、きっと、大騒ぎになっちゃいますよ」
悠斗と夕霧が、それぞれの父親への愚痴をこぼしあっていると、まえを歩いている光源氏が、若い女性グループに取り囲まれた。直衣姿が珍しく、いっしょに写真を撮って欲しいと頼まれている。夕霧にも声がかかった。
女性の方から話しかけられ、そんな経験のない夕霧は、仰天のあまり声も出なかった。だが、そんなことには慣れっこの光源氏は、愛想よく応じた。
桜子が悠斗に、
「〈しゃしん〉って、どういうものなのか、光る君さまは、ごぞんじないのに……」と、
あきれ顔で話しかけた。
悠斗は、
「光る君は楽しそうだね。おれは、写真とられるの、苦手だけど」
と言ったあと、ぎこちなく立ちつくしている夕霧に、笑いながら声をかけた。
「夕霧さーん! ピースサインしなきゃ! それで、ピースって言うんです」
『?………』
首をかしげるに夕霧に、悠斗は、からかい気分でサインをしてみせた。
「これは、なにか喜んだり、平和を願ってするんですよ」
悠斗から教えられても、夕霧は、かえって右手を強く握りしめるだけだった。
だがとつぜん、
『ぴいす!』
と言う声がした。光源氏だった。
まわりの女性が、はしゃいで笑い声をあげた。光源氏は、ますます愛想を振りまき、
『ぴいす!』
と声をあげながら、白くて細長の中指と人差し指を、V字にまっすぐ、なんども突き出した。
女性グループと別れたあと、夕霧は、また気分が滅入ってきた。みさかいなく女性に媚びをふりまく父親。その父親が極楽往生するというのに、自分は……。
夕霧がまた溜め息をつきそうになったとき、横を歩いていた悠斗が、すぐまえを行く桜子に声をかけた。
「桜ちゃん! お腹すいてない? おれ、さっき車に乗ってるときから、腹ぺこ。昼メシ食ってから、また探そうよ。あの店はどうかな?」
立派な構えの食堂が悠斗の目にとまったのだ。
桜子は「はい!」と返答したあと、桜子は源氏親子にも声をかけた。
「光る君さまも夕霧さまも、いっしょに行きましょうね。この世界の食べ物は、とてもおいしいですよ。それから、やはり朱雀院さまのことが心配ですから、食事のあとで、またお探ししましょうね」
食事を誘われた源氏親子は、おもわず顔を見あわせた。親子二人にとって、この世界の食べ物を口にするのは初めてだった。二人は、連れだって店に入る桜子と悠斗のあとを、おそるおそるついていった。
「桜ちゃんは、どれにする?」
悠斗と桜子は、むかいあってテーブルに座り、メニュー表をのぞきこんだ。
「えーと、やはり今回も悠斗さんにお任せします」
「それじゃ、これにしよう。名前がすてきだし」
悠斗がほほをゆるめながらメニュー表のなかで指さしたのは、〈桜〉と名づけられた湯葉丼だった。
悠斗から注文を聞き取った店員が立ち去ると、夕霧が、となりに腰掛けている悠斗に小声でたずねた。
『なぜ孫姫さまと同じ名が料理に付けられているのですか?』
『それは、桜の枝が添えられているからだろう』
桜子の横に座っている光源氏が、自信たっぷりに、悠斗に代わって答えた。
『父上、なぜそのようなものを料理に添えるのでしょうか?』
『枝や草花を添えたり贈ったりするのは、それに託して自分の気持を伝えるためではないか! 北山の僧都は、芽吹きはじめた桜と藤の枝を添えて、薬壷をわたしに贈ってくださった。秋に葉を落とし、眠っているように冬を越し、そして春に勢いよく花を咲かせる桜や藤の木に、わたしがわらわ病みから回復する祈願を込められたのだ。だから、湯葉丼なるものを食して心身ともに健やかになってください、という意味で、桜の枝が添えられているのだろう』
光源氏の言葉を、悠斗は感心して聞いていた。
だが夕霧は、光源氏のこの講釈が、ありがたいままでおわりそうにないことを感じた。またからかわれるのではないかと、夕霧は身構えた。
すると光源氏は、笑みをたたえて夕霧の目を見やりながら、一首を詠じた。
『同じ野の 露にやつるる藤袴 あはれはかけよ かごとばかりも――アハハ』
夕霧は、やはり来たか、と顔をひきつらせた。
光源氏が口にした和歌は、夕霧が十六歳のとき、従姉で七歳年上の玉鬘に懸想し、藤袴の花を御簾越しに差し出しながら詠んだものである。だが夕霧は、すげなく玉鬘にはねつけられた。しかもこのとき、夕霧と玉鬘は、ともに濃い灰色の装束をまとい、五か月まえに亡くなった祖母の喪に服していたのだった。
言い返せず、ほぞを噛む夕霧に、桜子は、
「どんなときであっても、花を女君に贈るのはすてきなことだと、わたしは思いますよ」
と、なぐさめの声をかけた。
だが悠斗は、しおれる夕霧が不思議だった。和歌の意味がわからないのだ。
「露にやつれるフジバカマ、って夕霧さんの和歌なんですね。知らなかったです。どの場面で詠まれたのですか?」
そうたずねてくる悠斗に、夕霧は困った顔をむけるしかなかった。
口を閉ざしつづける夕霧に代わって、光源氏が答えた。
『悠斗殿、たやすく人に問うことは、真の勉強とは言えません。自学自習こそ、知識や知恵が身につく、本当の学問ではないのですか? 悠斗殿はこれから孫姫を助け、源氏の新帖を見つけ出さなければならないのですから、源氏の物語を、ご自身でしっかりお勉強ください。それから、露にやつれるではなく、露にやつるる、です』
悠斗は、「はい……」と言って、うなだれるしかなかった。
悠斗と光源氏のやりとりに、桜子の目が三角になった。
――もぉー、光る君さまったら、ひどいわ。夕霧さまをからかうだけでなく、悠斗さんにまで小言を言うなんて!
不満そうな桜子にむかって、光源氏は、笑みをうかべて言葉をつづけた。
『もう虫はこりごりですからね』
桜子は、
「ごめんなさい」と、
恥ずかしそうに唇を小さく動かした。
運ばれてきた湯葉丼は、源氏親子の口にあったようだった。だが夕霧は、丼の名前に、まだこだわっていた。
『父上、桜の枝は添えられていませんでしたね』
『なにをゆうか! よく見なさい。小枝が置いてあるではないか』
光源氏は、桜皮細工の箸置きを目で示した。
これはちがうと、夕霧は言いたかった。だが、どうせ言い返されるだけだろうと、口をつぐんだ。
そのとき、年配の女性店員が、お代わりのお茶を運んできた。
「おふたりさん、その直衣姿、よう似合っておられますね。〈御殿〉には、もう行かはりました? そこにある御所の建物や庭に、直衣がピッタシ合ってはるわ」
『ここには御所もあるのですか!? 知りませんでした。それに、急に呼びだされたものですから、普段着で来てしまいました。あなたのようなお方にお会いできると知っていれば、念入りに身支度をしてくるのでした』
光源氏が艶やかな声で店員に話しかけるようすを横目で見ながら、夕霧は、
――父上の悪い癖が、また始まった。年齢問わず、手当たり次第なんだから……、
と、内心、ため息をついた。
『〈さくら〉という名前のこの湯葉料理も、たいへんおいしゅうございました』と、
光源氏は、とまどい顔になった店員に、にこやかに言葉をつづけた。
「お、おおきに。仁和寺は、御室桜で有名ですやろ。それにちなんだ丼なんです。春の仁和寺は、桜でいちだんとキレイですから、直衣姿でまた来ておくれやす」
そう言いのこして店員がそそくさとたちさると、夕霧は、両眉をよせて光源氏の顔をにらんだ。桜子と悠斗も、光源氏の顔を、ジッとうかがった。
光源氏は、三人の顔を順番に見たあと、なに食わぬ顔で立ちあがった。
『さて、のこりの御堂へ参りましょうか。ついでに朱雀院さまも、いちおう、お探しいたしましょう』
夕霧は、この父親にはなにを言っても無駄だと思った。




