4-10
「ただいまぁぁ」
「ただいまもどりました」
悠斗と桜子が鞍馬寺の参拝を終え、店にもどってきたのは、おやつ時をすこしすぎた時分だった。店内に客はおらず、春恵が手持ちぶさたそうに店番をしていた。
「お帰り。早かったね。でもちょうどええわ、おじいさんと、お茶にしようかと思てたとこなんえ」
「あいかわらず、お客さん少ないね」
悠斗は、木製の陳列ケースのなかで売れ残っている若紫餅を横目で見ながら、気遣わしげにつぶやいた。
「悠くんは心配せえへんで、ええんよ。おじいさんとふたりで食べていけたらええだけやしね。それに、たくさん売れたりしたら、おじいさんが作るのたいへんやわ。――それよりも、鞍馬さんは、どうやった?」
一治もくわわり、桜子たち四人は夕食準備までのいっとき、居間の座卓を囲んだ。そして悠斗が、鞍馬寺でのできごとを上機嫌で話した。
悠斗と桜子は、金堂の参拝をすませたあと、予定通り魔王殿まで足をのばした。途中に、源義経ゆかりの旧跡がたくさんあり、悠斗はていねいに桜子に説明したという。
「でも桜ちゃんは、牛若丸のこと、知らなかったんだよ。おれ、古典の知識では、年下の桜ちゃんに完全に負けてると思ってたから、なんかホッとした」
桜子は恥ずかしかったが、春恵は、いつもとちがって自分の心のなかを語る悠斗の変わりように目を細めた。
「悠くん、おばあちゃんが渡しといたお賽銭、ちゃんとあげてくれた?」
「あぁ、バッチリ。おれも、銅銭を十円あげておいた」
「なんやの、その銅銭って? おもちゃのお金やないやろね。罰があたるえ」
「あはは、だいじょうぶだよ、祖母ちゃん。ちゃんとした十円玉やから」
悠斗は上目づかいで桜子を見たあと、ふたたび春恵に顔をむけた。
「それから、金堂まえの広場に、光源氏みたいな、平安時代の恰好をしてる変なヤツがいた。すごいイケメンで、女の人もまっ青になるぐらいキレイなんだけど、そうとうに変。小さな妹に、ベタベタなんだよ。絶対におかしい」
「でも、おばあちゃん、そんなきれいな男の人やったら、見たかったわ」
「横にいるがな」
「おじいさん、だれのことゆうてはりますの?」
「わし、わしやがな」
「ぼけるのはまだ早おすえ。冗談やあらしまへん。ねぇ、さっちゃんも、そう思わはるやろ」
桜子は、ほほえむしかなかった。
「祖母ちゃんは面食いなんだ! 携帯で写真撮っておけばよかったね」
「〈しゃしん〉ではないと思いますが、絵でよろしければ、お見せできます。筆を貸していただければ……」
桜子は、店にもどってからというもの、ほかの三人の会話に相づちを打つだけだったが、ようやく口を開いた。
「まぁ、うれしいわ。どんな綺麗な男の人やったんやろね」
春恵は、カラーの筆ペンセットと半紙を桜子に渡した。
桜子は、光源氏の似姿を半紙に描いた。直衣と指貫を青色の筆で、肌の輝きを薄黄色の筆で、それぞれ巧みに表現した。そして、〈北山の聖〉が光源氏に奉った和歌を書き添えた――奥山の 松のとぼそを まれに開けて まだ見ぬ花の 顔を見るかな――
その素晴らしい出来映えに、悠斗ら三人は目を見張った。
桜子は、若紫も別の半紙に描いた。桜色や山吹色の筆などで描いたその絵は、光源氏の似絵をうわまわる、みごとなものだった。童女の幼い仕草が、生き生きと紙に写されていた。桜子は、光源氏が若紫を垣間見たときの感動を詠んだ和歌も、流れるような筆さばきで書き添えた――初草の 若葉の上を 見つるより 旅寝の袖も 露ぞかはかぬ――
しかし悠斗は、桜子が書いた字が読めなかった。くずし字だったのだ。
――桜ちゃんは、すごいよなー。おれ、三年生になったら、古文書演習をとろう。
悠斗が心のなかでそう決めたとき、春恵が口を開いた。
「はつくさの わかばのうえを みつるより。――これ、ええ歌やね、さっちゃん」
――えっ! 祖母ちゃん、読めるんだ!
「たびねのそでも つゆぞかわかぬ、か。ほんま、ええ歌や」
――わっ! 祖父ちゃんも読めるんだ!
「悠くん、こっちの、光源氏みたいな恰好してはった男の人の歌は、どう思う?」
これまでは、知らないことがあれば無関心を装うことが多かった悠斗だった。だが、いまはちがった。自分の気持や考えを、隠そうという気がおこらなかった。
「ごめん、祖母ちゃん。おれには読めないよ。大学で勉強するから、そのうち読めるようになると思うけど……。桜ちゃん、このふたつ、源氏物語のなかの和歌なの?」
「はい。二首とも、光る君さまと若紫ちゃんが、鞍馬寺で出会われた場面のものです」
「まぁ、そやったん!? それは知らんかったわ。お餅を売るだけでのうて、源氏物語もちゃんと読まなあかんな。わて、さっちゃんに恥ずかしいわ」
春恵は、物知りな桜子に感心しながら、若紫餅を口に運んだ。
「こういう、ええ歌を読んだり、かわいい女の子の絵を見たりしながら食べたからやろか、今日は、いつもよりおいしいわ」
「そうか、おおきに」
「おじいさん、なにゆうてはりますの。わては、さっちゃんをほめたんえ」
「そうか、おおきに」
「もぉぉ、ぼけんといておくれやす」
「そやかて、さっちゃんは孫みたいなもんや。孫をほめられたら、うれしいがな」
「祖父ちゃんは、ぼけてるようで、ぼけてないね」
鞍馬堂は、客の影こそなかったが、四人の笑い声で一杯になった。
桜子は、鞍馬堂にもどってくるまで、かなり落ちこんでいた。源氏物語の新帖を、鞍馬寺で見つけることができなかったのだ。そのありかに導いてくれるような糸口も、まったく見いだせなかった。鞍馬寺の本尊は、桜子になにも答えてくれなかった。期待が大きかっただけに、失望も大きかった。
気落ちして金堂を出ると、光源氏と若紫の姿は消えていた。ふたりが境内のどこかを、よりそいながら散歩していたらよいのになと、そのとき桜子は思った。物語世界からひさしぶりに飛びでたふたりなのだ。人界で散策を楽しむ時間を石山の観音は与えてくれているだろう。桜子は、祖母に似てやさしげだった観音の顔を思いうかべながら、そう願った。
――光る君さまのことだ、下り坂だから、きっと〈涙の滝〉まで行っておられのだわ。
桜子は、頬をゆるめながらそう考え、すこしは気が晴れたのだった。
桜子も、悠斗との鞍馬寺散策が楽しかった。貴族の女性として生まれた桜子は、これまで自由に外出することも、ましてや外を気ままに歩くこともできなかったのだから、なおさらに楽しかった。奥の院までの道すがらに悠斗が教えてくれた牛若丸の話にも、心がおどった。しかし、それでもやはり、肝心の新帖が見つからなかったことは残念だった。
気落ちしていた桜子だったが、鞍馬堂に帰り、大好きな絵が描けたうえに、春恵たちに喜んでもらえて、心の張りがよみがえった。源氏物語の行く末をこの目でみつめ、新帖も見つけよう。光源氏や夕霧らと語りあい、新帖のありかの糸口を探ろう。
――それに、悠斗さんからも智恵を借りよう。
桜子は、鞍馬堂の居間で悠斗らと心地よい時間をすごしながら、新帖の発見をあらためて心に誓った。




