4-11
桜子と悠斗たちが鞍馬の里で談笑していたころ、千年へだたつ京の都では、速仁一行が東宮御所の門をくぐっていた。
といっても、速仁は牛車のなかで、金銅像が納められた厨子を抱えながら、まだ眠りこけていた。
「若宮、御所に到着いたしました」
惟清が、車の御簾越しに声をかけたので、ようやく速仁は目覚めた。速仁は、大あくびをしながら背筋と両腕を伸ばし、それと同時に、厨子の隙間から漏れ出ていた光が消えた。
速仁は、厨子を胸元に抱いたまま、父である東宮のもとに参上し、このたびの無断外出を詫びた。そして自分の曹司にもどると、厨子を文机の上に置き、両扉を開けて金銅像をみつめつづけた。運びこまれた夕食にも箸をつけず、ずっとみつめていた。
「若宮、どうかお召し上がりください。お体に障ります」
曹司にひとり仕える惟清が、背中越しに声をかけた。
「今日は食べたくない。――心配はいらないよ。おれ、明日になったら、元気になるから。またいっしょに蹴鞠をしよう。――でも今夜は、ずっと観音さまのお顔を見ていたい。惟清にも、ここにいて欲しい。今夜はひとりになりたくない」
「はい」
惟清は、もうそれ以上なにも言えなかった。
賢子は、速仁を御所まで送ったあと、〈中川のあたり〉の自邸にもどった。家人たちには、桜子が石山寺の火事にまきこまれ行方不明になった、とだけ伝えた。
そして、紫式部が桜子に贈った美麗な源氏物語冊子のなかから、〈薄雲〉帖を取りだし、それを繰りかえし読んだ。おりにふれて式部が語っていた言葉を思いだしたからだ――「源氏の物語を読みかえすごとに、生きていくうえでのなにか励ましになるものを見つけてもらえれば、うれしいです」
〈薄雲〉帖のなかで明石の方は、光源氏とのあいだにもうけた娘の養育を、皇族の血をひく紫の上に託した。三歳の娘との別れは、断腸の思いだった。だが、身分の低い明石の方のもとで娘が育てば、その子が東宮妃や后になることはかなわないのだ。明石の方は、その後の八年間、娘を一目たりとも見ずに暮らした。明石の方が娘と再会できたのは、娘が東宮へ入内する時だった。娘は、紫の上による養育のおかげで、才気と教養を兼ね備える女性に育っていた。
末遠き 二葉の松に 引き別れ いつか木高き かげを見るべき――明石の方が、幼い娘を手放す際に詠んだ歌である。賢子はこれを、目に涙をためながら、なんども心のなかで読んだ。
桜子の宿世は、きっとよい宿世なのだ。千年後の世界で、善良な人たちに囲まれて暮らし、すてきな男君とも出会えるにちがいない。そして、桜子に再会できる日が、いつか訪れるにちがいない。賢子は、自分にそう言い聞かせながら、〈薄雲〉帖を繰りかえし読みつづけた。
兼隆は、速仁の監督不行届きを平身平頭して東宮に詫びたあと、三条大路の自邸にもどり、賢子とおなじように、桜子が行方不明になったことだけを家人に伝えた。そして、かぎられた者たちにしか出入りが許されていない塗籠に、長いあいだひとりで籠もった。塗籠には、家宝や家系図など、一家の貴重な品が置かれている。兼隆が総帥を務めている秘密結社の、誓詞などの重要文書類も、ここに秘匿されていた。
兼隆は塗籠のなかで、眉間にふかく皺を刻みながら書状をしたため、それを、銀杏の葉の文様がほどこされている蒔絵の手箱に納めた。さらにその手箱を、一回り大きな桐の小櫃に密封した。櫃のふたには、螺鈿で銀杏の文様を表した漆金具がはめこまれている。
兼隆は、ふたに「千年後の七月朔日に開けよ 弘寛九年八月十七日」と墨書したあと、小櫃を、隠し戸棚のなかにしまった。
兼隆は、これまでも塗籠のなかで寝起きすることが多かった。平安貴族にとって塗籠とは、神聖不可侵な特別の部屋だからだ。兼隆は、今夜から、これまで以上にここで寝起きし、家人の出入りもいっそう制限するつもりだった。そして小櫃を、子々孫々に伝えていかねばならない、と考えていた。
兼隆が塗籠のなかで眠りについたとき、東宮御所の曹司では、速仁が金銅像をまだみつめていた。背後に侍る惟清は、今夜も寝ずの番をするつもりだ。
だが、さすがに二晩つづけて起きていることはできない。速仁の背中をじっと見ていた惟清のまぶたは重くなり、やがってすっかり眠ってしまった。寝息に気づいた速仁は、惟清をそっと横たえ、その体に自分用の衾をかけた。
すると、とつじょ金銅像が光りだした。
「わぁぁぁ、観音さまだ!」
速仁は歓声をあげながら、文机のまえに座りなおした。
『もぉぉ、駄目だよ一の宮くん、そんなに大きな声を出したら! 惟清さんが起きてしまうだろ』
「はーい、わかりましたぁぁ」
速仁は、はしゃぎ声を抑えることが、どうしてもできない。
「いまから観音さまが仰ることは、おれと観音さまとのあいだの秘密なんですよね。桜ちゃんのことなんでしょ? 絶対にだれにも漏らしません! 誓いまーす」
速仁は、うれしげに体を小刻みに動かしながら、観音のつぎの言葉を待ちかまえた。だが、その口から出てきた言葉は、速仁にとって心外なものだった。
『そういうことじゃない! 惟清さんには秘密にしておく必要なんてないよ。ボクが式部殿の孫姫くんを千年後の世に送ったこは、惟清さんも知っているじゃないか。一の宮くんは、ほんと、頭が悪いね。孫姫くんが言っていたとおりだ』
速仁はおもしろくなかった。観音の口ぶりは、勉強のことで自分をからかうときの桜子のそれと同じなのだ。速仁は、ふくれ面をして黙りこんだ。
『ボクはね、惟清さんは疲れているから、今夜は寝かせてあげようと思ったんだ。それで、惟清さんが眠るまで待っていたんだよ。一の宮くんは、牛車のなかで居眠りしていたから元気だけどね。さっ、元気なんだから、すぐに勉強をはじめなさい。徹夜でだよ! わかった?』
「えぇぇぇ、勉強!? なんでだよ!」
速仁は、ふてくされて大声をあげた。
『もぉぉぉ、そんな大きな声を出したら駄目だと、さっき言ったばかりじゃない!』
「観音さまの声の方がでかいです」
『えっ、そうだった? ゴメン』




