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桜人 ―― 源氏異聞  作者: 塔真 光
第4章 出会い
29/160

4-5

「ただいまー」

 悠斗は、もうカーテンが閉められている大きなガラス戸を引き開き、住宅兼店舗の建物に入った。〈鞍馬堂〉と書かれた木の看板が軒の上に置かれ、その字がかなり剥げていることが、老舗であることを物語っている。だが、小さな餅屋である。相席専用の、年季の入った木製の大机がひとつだけある、持ち帰り中心の店だ。


「おかえり、悠くん。おばあちゃんらも、さっき帰ったんよ。悠くんも、お友だちと送り火を見てたん?」

 悠斗の祖母である大宮春恵が、居間から店に出てきた。そして、悠斗のうしろにいる桜子を見て目をまるくした。

 悠斗は、友だちを泊める、とだけ、出町柳駅からメールで春恵に連絡していた。友人を家に連れてくるのは、これが初めてだった。珍しいこともあるものだと思っていた春恵は、ましてや、その友だちが女の子であるとは考えもしていなかった。


 悠斗は、春恵の戸惑いに気づかないまま、

「こちらは、藤原さん」

と、桜子を紹介した。

「はじめまして、藤原桜子ともうします。夜遅く参りまして、もうしわけございません」

 桜子は、ふかぶかと辞儀をした。

「藤原さんね、お家の人たちと連絡がとれなくて困ってるから、何日か泊めてあげようと思うんだ」

「ご迷惑をおかけしないよう心がけますので、よろしくお願いもうしあげます」

 頭をたれつづける桜子に、春恵は、ほがらかに声をかけた。

「よう来てくれはったね。おじいさんと悠斗の男ふたりしかおらんへんから、寂しかったんよ。うれしいわ、女どうしで沢山おしゃべりしまひょ」

 春恵は、礼儀正しくあいさつする桜子に、すぐに好感をもった。


「なんや、わいのこと呼んだか?」

 祖父の一治(かずはる)も店に出てきた。

「なんも呼んでまへんえ、おじいさん。こちら、悠斗のお友だちの藤原さん。家にしばらく泊まってくれはりますさかいね」

「はじめまして、藤原桜子ともうします。よろしくお願いもうしあげます」

 あらためて辞儀をする桜子に、一治も愛想よく声をかけた。

「若紫ちゃんのような恰好したはるな。よう似おうてはるわ。お腹すいたらへんか? お餅、よかったら食べはるか?」

「若紫餅ですか!? 頂戴したいです。悠斗さんから、とてもおいしいと聞きました」

 春恵は、いつも無口な悠斗が家業のことを桜子にしゃべっていることに驚いた。いつもの無愛想な顔で今日の昼すぎに家を出た悠斗が、いまは口もとをゆるめていることにも、目を疑う気持だった。

「ほんなら、おじいさんは、お餅を出しといておくれやす。うちは、寝てもらうところを準備してきますさかい」


 桜子は悠斗といっしょに、居間で若紫餅を食べた。桜餡を求肥で包み、そのうえに塩漬けの桜花を飾ったものだった。鞍馬堂の通年商品で、ほかには季節の上生菓子を少量つくっていることを、悠斗は桜子に教えた。悠斗は、自分は手伝いたいのだけれど、手先がどうも不器用だし、祖母から、手伝いなどせずにしっかり勉強しろと言われていることも、桜子にしゃべった。

 一治は、いつもとはちがい口数の多い悠斗に、キツネにつままれた思いだった。若紫餅を食べたいと悠斗が自分から言ってきたのも、実家に住むようになってからはじめてのことだった。悠斗の変わりように、一治は目を細めた。


 桜子たちが食べおわったころ、春恵が衣服を抱えて二階から下りてきた。

「うっとこね、若い女性用の新品の服があらへんのよ、ごめんなさい。これはね、娘が着ていたもんなんよ。こんなんでよかったら、あとでこれに着替えはるとよろしいえ」

「ありがとうございます。大切な服を使わせていただきます」

 居ずまいをただし、両指を畳につきながら辞儀をする桜子に、春恵はあらためて感心した。

「そのTシャツ、おれ、なんとなく憶えてる。夏に出町柳の鴨川で水遊びしてたとき、お母さんが着てた」

 悠斗のその言葉に、春恵は、息をのむほど驚いた。悠斗の口から「お母さん」という言葉を聞くのは、ひさしぶりだったのだ。

 ――あの娘が死んだとき以来とちゃうやろか。悠くんの、「お母さん」という声がまた聞けたんは……。

 春恵は、ますますほほをゆるめながら、桜子に言葉をかけた。

「数日といわずに、何日でも好きなだけ、いておくれやす。古い家やけれど、二階には空き部屋がありますよってね」

「祖母ちゃん、ありがとう」

 桜子が礼を言おうと居ずまいをただしているあいだに、すばやく悠斗が笑顔で春恵に返事した。

 ――んまっ、悠くんったら。


 若紫餅は、ほどよい塩味が、くせのない甘味を引き立っている。求肥の柔らかさと、桜餡が白い求肥に透けて見える淡い桜色、それに卵のような形が、ふくよかで元気な幼女の頬を想わせる。そんな感想を、桜子は悠斗たち三人に伝えた。

「こんなにほめてもろうて、おじいさん、よろしおしたな」

「ほんまや。おおきに」

「藤原さんはね、最初、若紫の形をしたお餅だと思ったらしいよ。もしそうだったら、かわいそうだから口に入れられないかもしれないって」

 悠斗は楽しげに、桜子の思いちがいを明かした。桜子は恥ずかしかったが、春恵と一治は、くったくなく大笑いした。

「そりゃそうやわ。おばあちゃんかて、口にでけへんわ。悠くんはどう?」

「うーん、おれなら食べちゃうかも。好きなキャラの形したお菓子とか、おれ、小さいとき、お母さんにせがんで買ってもらってたもの。幼稚園のお弁当も、お母さんが、ユルトラオムのおにぎりにしてくれてたら、おれ、うれしかったし」

 春恵は、出そうになった涙を悠斗に見られないように、台所へたった。


 春恵のあとを追い、悠斗も台所へむかった。

「あのね、祖母ちゃん。藤原さんね、ちょっとした記憶喪失らしいんだ。それで、ときどき、トンチンカンなことを言うけれど、ビックリしないでよ」

 春恵は、すこし驚いた表情を浮かべたが、すぐに穏やかな声で返した。

「記憶がもどるまで、家にいてもらったらええよ」

「もし、なかなか記憶がもどらないようだったら、オヤジに相談するから、安心して」

 悠斗のこの言葉に、春恵は表情をわずかに硬くした。だがすぐに、それを隠すようにして笑顔を悠斗にむけた。

「そやね、それがええね。それまでは、悠くんが力になってあげよし」

「うん、ありがとう」


 新しい冷茶を持って、悠斗といっしょに居間にもどってきた春恵は、桜子に、明日、鞍馬寺に行ってみたらどうかと勧めた。

「鞍馬さんは、若紫と光源氏が出会わはったところやし、ええとこよ。悠くんが案内してあげよし」

「オッケー! 藤原さんは、まだ行ったことがないでしょ」

「はい。母が、九十九折り坂を上がるのはたいへんだからともうして、連れていってもらっておりません」

「つづらおり坂って、どこ? 祖母ちゃん、知ってる?」

「古い方の参道のことえ。鞍馬に住んでいる悠くんより、藤原さんの方が、よう知ってはるわ。感心やね」

「ケーブルカーでない方の道のこと?」

 悠斗が春恵にそうたずねると、一治がわってはいった。

「なんやったら、じいちゃんがいっしょに行ってやろか?」

「おじいさん、なにゆうてはりますの。お店がありますやろ」

「わてかて、行きたいがな」

 そう言いはる一治に、春恵が、悠斗と桜子には聞こえないような小声でささやいた。

「おじいさんは、じゃませんの」


 春恵は、鞍馬寺のみどころを桜子に教えた。桜子は、源氏物語にかかわる場所や建物の話しが聞けて、胸がおどった。明日は、源氏物語の新帖を探しだす、最初の日になりそうだった。

 目を輝かして聞いていた桜子に、春恵は服と靴のことを相談した。

 若紫のようですてきな服だけれど、鞍馬寺の参道は険しいので、どうしよう。悠斗が、奥の院の魔王殿まで行ってくる、と言いだしたので、その服と靴では、ますます不都合かもしれない。

「その服は、クリーニングに出しておくわね。娘の服がほかにもあるさかい、それを着ていきよし。靴は、明日、近所の靴屋さんに行くとよろしいえ」

 桜子は、言葉の意味がよくわからないながらも春恵に礼を述べた。そして、悠斗にどんな服を縫ってあげようかと考えた。


 ひとしきり居間で談笑がつづいたが、一治が欠伸(あくび)をしはじめ、一足先に風呂に入りにいった。

 桜子は、つぎに風呂に入るようにと春恵から勧められ、当惑した。ひとりで風呂に入ったことがないのだ。いつも、女房たちに介添えしてもらっていた。

 桜子が昨日まで生きていた時代では、貴族女性は、長い髪の、床に触れる部分だけを毎日洗っていた。髪全体を洗うのは、年に数回しかない。背丈よりも長い頭髪なので、洗うのも乾かすのも大仕事だ。桜子の髪は腰のあたりまでしかなかったけれど、それでも、入浴には女房にいつも手伝ってもらっていた。

 困ったなと、髪の毛を手でいじりはじめた桜子に、春恵は気さくに話しつづけた。

「長くて、きれいな髪したはるね。髪飾りも、よう似おうてはるわ。でも、小さなホコリが付いているみたいやし、いっしょにお風呂に入らへん? うっとこね、古ぼけた家やけれど、お風呂は大きいんよ。昔は住みこみの職人さんもおったからやね。ふわふわに泡たてて、洗うの手伝ってあげたいわ」

「はい、うれしいです。よろしくお願いいたします」


 そう答えた桜子は、安心すると同時に、不思議だった。

 ――わたしの髪は、長いのかな? たしかに、この世界の女の人たちは、みんな、わたしよりもうんと短い髪だよね。なにか流行り病で、髪の毛が伸びないのかしら? あっ、でもこんなに夜おそく髪を洗ったら、乾かないよね。

「あの、ごいっしょにお風呂を頂戴したいのですが、髪を洗うのは、天気のよい日の朝にいたしたいと思います。乾かすのがたいへんですので」

「それじゃ、おれのドライヤー使ったらいいよ」

「まっ、悠くん、今日はよう気がつくね。おばあちゃん、うれしいわ」

 桜子は、また不思議な物が出てくるのかと、うれしさ半分、怖さ半分だった。


 ほどなくして風呂から上がった桜子は、すがすがしい気分だった。

 ――髪を洗ってよかった。気持が引き締まるよね。紫の上さまも、明石の方さまにはじめて対面されるという、女の闘いをまえにして、髪を洗われたものね。わたしは、明日から、源氏の物語の新しい帖を探さなきゃ。

 ただ、体にぴったりした上下の服が、桜子には気恥ずかしかった。それに、〈どらいやぁ〉がどんな物か、まだ不安でもあった。


 轟音をたてて熱風と冷風を送り出すそれは、桜子にはやはり怖ろしい代物だった。だが、春恵がそれを持って髪を乾かしてくれたので耐えられた。それに、春恵が塗ってくれた整髪料のおかげで、桜子の髪はますます艶やかになった。

 風呂から上がってきた悠斗は、そんな桜子をまぶしそうに見やった。


 桜子ら四人は、二階の三部屋でそれぞれ布団(ふとん)にくるまった。桜子は、すぐに眠りについた。(ふすま)のむこう側の部屋では、春恵たち老夫婦が、これも静かに眠っている。

 だが、悠斗はちがった。ほかの部屋とは廊下でへだてられた自室で、なかなか寝つけず、なんども寝がえりをうっていた。

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