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いくらおいしくても、いくら魔除けになるにしても、人の分まで食べるのは絶対にやめよう。心にそう誓いながら、桜子はカフェを出た。
五山の送り火のうち、最初に点火される右大文字が、そろそろ火の消える時刻だった。
桜子と悠斗は、カフェに近い河原町通りからバスに乗り、京都府立医大病院前の停留所で降りた。悠斗は桜子の話しから、京都御苑の東に隣接する梨木神社あたりに、桜子の家があるのだろうと見当をつけたのだ。停留所から歩いてすぐのところに、その神社がある。
神社の鳥居前で、桜子はあたりを見わたした。
梨木神社は明治時代に創建されたものなので、桜子にはまったく見覚えがなかった。それとは反対に、見慣れていた中川がなくなっていた。大正時代の初期に暗渠化されてからは地下を流れているのだが、桜子がそれに気づきようはなかった。〈中川のあたり〉は、千年まえと、すっかりようすが変わっていた。
だが桜子は、寺町通りをはさんで梨木神社のむかい側にある廬山寺の門を見て、ここが、千年まえに住んでいた場所だと確信した。門の横に、〈紫式部 邸宅址〉と書かれた案内板があったのだ。
いまは廬山寺が建っているこの場所を、母の賢子といっしょに出立したのは今朝のことだった。そして今夜、ここにもどってきた。だけれど、千年も隔たった場所なのだ。桜子は、カフェを出たときから、だれか知っている人にここで会えはしないだろうと、覚悟していた。不思議に涙は出なかった。むしろ、〈址〉という字を見て、この時代でしっかり生きていこうという気持ちが固まった。
――しかたない。
賢子のこの口癖を、桜子は心のなかで二度三度と繰りかえした。
「お家がどこか、わからない?」
心配そうにたずねる悠斗の目をまっすぐ見ながら、桜子は顔を横に振った。
「すみません、このあたりに住んでいたようなのですが、よく思いだせなくて」
「それじゃ……、交番に行こうか。名前を言えば、おまわりさんが、家を見つけてくれると思う」
「あの、わたし……、藤原賢子だと言いましたが、本当は……」
だが、桜子は言いよどんだ。自分が母の名をかたったことを、やはり恥ずかしくて打ち明けられなかった。
「名前がまちがっているかもしれません。ごめんなさい」
「名前も、よく憶えてないの? 藤原賢子って、紫式部の娘の名前だろ。おれも変だと思ったんだ。君は源氏物語のファンだから、記憶が混乱しているせいで自分を賢子だと思いこんだんだよ。――そうか、それじゃ、交番に行ってもダメだな」
悠斗は、桜子が小さくうなずくのを見て、心の半分でうれしかった。交番に行こうかと言ったときから、じつは交番に行きたくない気持ちも、かなりあったのだ。家が見つかればよいが、見つからなければ困ったことになる。この子は未成年のようだから、児童養護施設に保護されて、もう会えなくなるかもしれない。
「もしよかったら、今晩、おれの家に泊まる? おれ、お祖父ちゃん、お祖母ちゃんといっしょに住んでるから、安心して」
桜子は、なぜ悠斗が「安心して」などと言うのか、不思議だった。家に泊めてあげるよと、とても親切なことを言っているのに、なぜ頭のうしろを手でかいたりすのかも、分らなかった。
「ご親切に、ありがとうございます」と、
桜子はふかぶかと頭をたれた。
悠斗は、おもわず笑みをうかべた。そして、頬をゆるめたことが気まずく、うつむきながら桜子にたずねた。
「君のこと、これからどう呼べばいいかな?」
桜子は、もう光源氏と夕霧に相談する気にならなかった。それに、そのふたりも、なにも言ってこなかった。
「わたし、桜の花が大好きなんです。だから、桜子と呼んでください」
悠斗は顔をあげ、うなずいた。
「それじゃ、藤原桜子さん、ってことにしよう」
悠斗と、太る心配から解放された桜子のふたりは、鞍馬行きの電車に乗るために、鴨川と高野川の合流点にある出町柳駅へむかった。廬山寺から駅まで、歩いて十五分ほどの距離だ。
〈五山の送り火〉はもうおわっていたが、人通りはまだ多かった。浴衣姿の若いカップルが何組も、楽しげに歩いている。通りすぎる人の多くは、平安装束の桜子にあいかわらず目を見張り、男性たちばかりのグループは、うらやましげな視線を悠斗に浴びせた。こういう眼差しが、悠斗は嫌なのだ。
――おまえらが考えてることは、おお外れだからな。困ってるこの子を、おれは助けてるだけだからな!
だが悠斗は、言いわけがましいことを思っている自分の気持ちが、おかしくもあった。
――おれ、今日、どうしちゃったのかな。ちょっとハイだよな。さっきなんか、おれも浴衣にすればよかった、なんてバカなこと考えてしまったし。
桜子は賀茂大橋を渡っているとき、ここが、京都のなかで自分の一番のお気にいりの場所だったことに気づいた。河川敷のようすは、千年まえとずいぶん異なる。だが鴨川と高野川の二つの流れは、あまり変わっていない。またここで水鳥が描けそうなことに、桜子はうれしかった。そして橋を渡ると、出町柳駅は目のまえにあった。
終点でもある駅構内に入り電車の到着を待っているあいだ、桜子は、光源氏と夕霧の声がしなくなってずいぶん時間が経っていることに気づいた。そういえば、悠斗から、どういう名前でこれから呼べばいいかとたずねられたときも、源氏の親子ふたりは無反応だった。桜子自身も、ピーチパフェを食べているあたりから、ふたりのことをまったく気にかけなくなっていた。
そういえば、後ろ髪に生き人形の気配がない。桜子は髪に手を当てて確かめたが、やはり源氏親子は消えていた。桜子は急に不安になった。
あらためて源氏親子に物語から来てもらおうかと思案しているうちに、電車が到着した。桜子は、悠斗にうながされ席に座ると、心細さから、紫式部の遺品である紅水晶の数珠を帯のなかから取り出し、つよく握りしめた。すると、式部がなんどか口にした言葉が思いだされた――「もう必要でなくなったと観音さまがお考えになると、物語のなかに消えてしまわれます」
――なんだ、そうなんだ。ふふふ。悠斗さんは、やっぱり悪い人じゃないんだよね。石山の観音さまの、折り紙つきのお兄さまだ。
すっかり安心した桜子は、電車が動きだすとそうそうに、となりに座っている悠斗の肩にもたれかかりながら、ウトウトしはじめた。
悠斗は、ほかの乗客の目がまったく気にならなくなっていた。
乗ったのは特別仕様の展望列車で、窓にむけて設けられたカップル用のふたり掛け席に、悠斗は桜子と座った。昨日までなら、こんな席にだれか女性と座るなんて、絶対に嫌なはずだった。彼女がいるのを自慢したい軽薄な男だと、思われたくなかった。
だが、夜の車窓に映る、自分と、その肩にもたれて無邪気に眠っている桜子の、二つで一つのような影をじっと見ている悠斗は、桜子のことだけを考えていた。
記憶がもどるまで、祖父母の家にいればいいよ。悠斗は車窓の桜子に、心のなかでそう話しかけた。
電車はやがて、暗闇のなかでそこだけがこうこうと明るい鞍馬駅のプラットホームにすべり込んだ。
とっぷりと夜がふけたこの時間帯では、終点の鞍馬駅まで乗る客は少ない。その少ない乗客のなかに、メガネの男とサングラスの男がいた。石山寺の境内で、桜子から物の怪と思われたふたりだ。
駅の改札を出て鞍馬寺の山門の方向へしばらく歩くと、悠斗の住む餅屋がある。ふたりの男は、桜子と悠斗のあとを歩いていたが、その餅屋の手まえで立ち止まった。そして、悠斗が桜子を連れて家に入るのを、じっと見ていた。
「予想どおりですね、三田先輩」
メガネ男が、もうひとりの男に話しかけた。
「あー」
三田と呼ばれた男は、素っ気なく返答した。
「先輩、もう夜だし、それに顔を隠す必要もなくなりましたよ。サングラスを外したらいいのに」
だが、アルマーニのサングラス男は返答もしない。
「それじゃ先輩、予約してある旅館へ行きましょうか。温泉があるそうですよ。おれ、今回の出張は、これが楽しみだったんです」
「出張ですまないかもしれないぞ、高田」
「えっ、どういうことです?」
「そのうちわかるさ」と、
三田はあいかわらず素っ気なく、メガネ男の高田に言葉を返した。
そんな三田に高田は、
「先輩は頭が良くて、先がすぐに読めますもんね。おれ、尊敬しちゃいます」
と、真面目な顔で言葉をついだ。
「おまえが抜けているだけだ」
「そうですよね、すみません」
高田はそう言ってペコンと頭をたれた。そして、サバサバした声で、
「温泉に入れば、おれの頭もすこしは回転するのではないかと思うんですよね。だから、早く行きましょう!」
と、旅館の方向を指さした。
三田は、聞こえるか聞こえないほどの溜め息をもらしたあと、サングラスをとり、つめたい視線を高田のスーツにむけた。
「おまえは温泉が好きだよな。それに安っぽい服も」
「えぇぇ!? おれ、先輩にあわせようと、今回の出張のために新調したんですよ。いまの流行のスーツがこれなんでしょ」
「どうせ、ファストファッションだろ」
サングラスだけでなく、上着から靴までブランド品を身につけている三田は肩をすくめた。
「でも、先輩のスーツとあまり変わりませんよ」
「そう思っていられたら、幸せだよな。サングラスを、目の保護か変装のためぐらいにしか考えないおまえらしいよ――あぁぁ、もういい、おまえと話していると疲れる」
「それじゃ、やっぱり早く温泉に行きましょう!」
高田は足取り軽く、一方、ふたたびサングラスをかけた三田は無表情で、温泉旅館へむかった。




