4-3
藤原賢子だと名乗ってしまった桜子は、武藤悠斗のあとについて大門をくぐり、石山寺の外へ出た。
緑深い境内は千年まえのたたずまいを留めていたが、外の世界は、桜子にとって、まったくの異界だった。賢子が休息をとっているはずの門前宿は、もちろんなくなっていた。代わって、桜子の目には奇怪に映る建物が軒をならべている。幟や看板に書かれた〈名物 しじみご飯〉という文字と、瀬田川両岸の山容だけが、千年のへだたりをつなぐものだった。
「駐車場に、知ってる人がいる?」
悠斗にたずねられた桜子は、周囲を見渡し、首を力なく横に振った。
牛車がないのだ。なにか乗り物のようなものが、十数台ならんでいた。
――牛はどこにいるのだろう? あの車のようなものは、人が引っぱるのかしら。わけがわからない。……わたし、こんな世界で、生きていけるのだろうか……。
涙を懸命にこらえている桜子の顔を見て、悠斗も悲しくなった。
――かわいそうに。なんでこんな子を置いて、いなくなっちゃうんだ!? この子のお父さんだって、どうかしてる! おやじと、いっしょだ!
悠斗は、明るい声をつくって話しかけた。
「気を落とすことないよ。家は下鴨神社の近くなんだろう。家まで送って行ってあげるよ」
「ありがとうございます」
桜子は胸がふさがり、小さな声しか出なかった。
と、そのとき、源氏親子が桜子の耳もとでまた言い争いをはじめた
『そうそうその調子ですよ、孫姫。涙目と、ほのかな声。とても上手ですよ』
『父上! いい加減にしてください。孫姫さまは、身よりのない世で、心細がっておられるのですよ!』
『だから、早く身よりをつくればよいのだ。時間をかけても、男と女のあいだでよい関係が築けるわけではないだろう。おまえが、その見本ではないか』
『父上はたいてい速攻ですものね』
『おまえは攻めが遅すぎるのだ』
『はいはい。どうせそうですね』
夕霧は、男女関係のことで、父親の光源氏に意見をもうするまいと思った。はなから考えが合わないのだ。
――どうして式部殿は、性格がこうも好対照なわたしたちふたりを創られたのだろう。こういうのが、創作のコツっていうんでしょうかね。でもわたしの方が、どう考えても、損な性格だ。
夕霧が式部によって割りふられた役まわりを嘆いていると、悠斗がとつぜん、空にむかってしゃべりだした。
「悠斗です。今夜は外で食べてから帰る。……うん、遅くならないようにする。それじゃ」
悠斗は携帯電話で祖母に連絡しただけだったが、夕霧が、
『孫姫さま、この男、発狂したのではないですか?』
と、桜子にささやいた。
桜子はますます心細くなり、帯にはさんでいた紅水晶の数珠を握りしめた。
――この男君さまが、よい人でありますように!
目をつむって観音に祈願している桜子に、悠斗が、
「京都にもどるまえに、ここで夕ごはん食べない?」
と、声をかけた。
桜子は、おそるおそる悠斗にうなずいた。
悠斗は、すぐには京都にもどりたくなかった。いまからもどれば、〈五山の送り火〉に、かち合いそうだったからだ。それに、桜子にサヨナラを言う時間を、引き延ばしもしたかった。
「なにがいい? ラーメンとか、丼とか、それに、しじみご飯っていうのもあるみたいだよ」
「悠斗さんの、お好きなものにしてください」
「それじゃ……、しじみご飯にしようか」
「はい」
桜子は内心とてもうれしかった。母が好物にしていた食べ物を選んだ人だ。きっと、いい人だ。桜子は、そう思いたかった。
悠斗もうれしかった。
――「お好きなものにしてください」か。そういう風に言われると、まいるよなぁぁ。
しじみご飯はおいしかった。だがそれよりも、会話がはずんでふたりは楽しかった。
桜子は悠斗の話しから、源氏の物語がこの時代でも広く親しまれていることを、あらためて知った。〈まん画〉は、どうも絵画のようなものなのだ、と桜子は気づいた。源氏物語の〈えい画〉のことも聞いた。どういうものか見当がつかなかったが、これも絵画の一種らしい。
悠斗が若紫餅のことを話したとき、おもわず目が丸くなりもした。若紫を連想させる桜の、花と葉を使った餅だと聞いて、安心した。桜子は、人の形をした餅かと思ったのだ。幼い若紫をかたどった菓子なら、かわいすぎて口に入れられそうになかった。
紫式部の手書き原稿はうしなわれており、約二百年後に藤原定家という人物が書写したものが原本にもっとも近いものだと考えられている、という悠斗の話も興味深かった。いまの時代の人間は、そうした写本に書かれている言葉がほとんど理解できない。悠斗自身も、マンガと、現代の言葉に書きなおされたものとで、源氏物語を読んだという。源氏物語の原文をよく知っているね、と悠斗に感心された桜子は、てれくさかった。
悠斗も、桜子と話していて心が浮きたった。源氏物語のマンガは少女向けなので、それを高校時代に読んだと、だれにも打ち明けたことがなかった。若紫餅のこともそうだ。母の実家が餅屋だということさえ、大学の友人にしゃべったことがない。だが、なぜか自然に口に出していた。悠斗は、そんな自分が不思議だった。
食事のおわりごろに、源氏物語の、どの人物が現代で人気があるのか、という話題になった。桜子の後ろ髪のなかに隠れている源氏親子が、そわそわしだした。悠斗の口からだれの名が出てくるのかと、固唾をのんで聞き耳を立てている。そんなふたりのようすが、桜子はおかしくてならなかった。
悠斗は、六条御息所の名を挙げた。生霊になってしまうほど一途に光源氏を愛した生き方が、女性たちのあいだで支持されているという。光源氏は顔をしかめ、夕霧は笑い声を抑えるのに苦労した。
女性のあいだで人気のある男君についても、悠斗が挙げた名は、光源氏に衝撃的だった。第一位が、光源氏の義兄にして遊び仲間の頭中将。二位が夕霧で、三位が匂宮ではないか、というのだ。悠斗は、それ以外に名を挙げなかった。桜子は、光源氏が可哀想になった。
「光る君さまをくわえて、この四人の男君が好かれているのではないでしょうか」
「いや、どうかな。しいて四人目を挙げるとしたら、冷泉帝か薫じゃないかな。光源氏って、女性から見れば浮気性だし、男性から見れば羨ましすぎるだろ」
光源氏は、もう物語世界に帰りたくなった。一方の夕霧は、感激のあまり呆然としていた。
――父上に勝った!
食事を終えて悠斗が代金を払っているのを見て、桜子は戸惑った。自身で支払いなどしたことがなく、悠斗と店員とのやりとりの意味が理解できなかったのだ。
まだ落ちこんでいる光源氏は桜子の当惑に気づかなかったが、気分爽快の夕霧が桜子に教えてくれた。
『あの男は、きっと代金を支払っているのでしょう。孫姫さまはごぞんじないでしょうが、わたしたちの世では、こういう事はすべて家司がしてくれるのです。ここのところは、銅銭をなくしたことにし、あの男に礼を言っておけばよいでしょう』
『そうだな、涙をためて、ほのかな声で言えばよいだろう』
『父上、お元気になられたようですね。ですが、父上の、手練手管を弄しようとするそのような性格が、この世界の人びとに、うとまれているのかもしれませんよ、ハハハ』
『!………』
桜子は、源氏の親子げんかには、もうかかわらないことにしていた。だが、夕霧の助言は、ありがたかった。
「悠斗さん、ありがとうございます。わたし、銅銭をなくしてしまいました」
「どうせん?」
――あっ、そうか、平安時代のつもりで話してるんだ。おもしろい子だよな。
「いいよ、どうせんおれが誘ったんだし、銅銭だしとく」
――ハハハ、おれ、オヤジギャグ言ってしまった。
桜子は、悠斗のなにげない笑みに、心がやすまった。夕食をともにしたことで、悠斗への信頼が深まりもした。
――この人なら、きっとわたしに、この世界で生きていくすべを教えてくれる。この人から、いろいろなことを学ぼう。
桜子はそう思いながら、悠斗のあとについて店を出た。
外は黄昏につつまれはじめていた。
石山寺駅へむかおうとしている悠斗のよこを歩きながら、桜子は、まわりの異界の物事を、目を皿にしてみつめた。
不思議なことがいっぱいあった。
なかでも気になったのが、……星はまばたいているのに、東の空に月がのぼっていないことだった。
――千年後の今日なら、十六夜月のはずなのに……。
「あのぉぉ、今日は何日だったでしょうか?」
桜子がたずねると、悠斗は無頓着に答えた。
「十六日だよ。大文字の送り火の日。藤原さんちも、出町デルタか賀茂大橋で、送り火を見てきたくちだろ。でも、悪いけれど、おれはパス」
「えっ!? は、はい……」
桜子は、悠斗の言っていることが、まったく理解できなかった。
出町デルタとは、鴨川デルタともよばれ、鴨川と高野川の合流点にあたる河川敷を指す言葉である。合流点のすぐ下流に架かる賀茂大橋の、それぞれ東方に位置する京都大学と、西方に位置する同志社大学の学生たちを中心に、二十一世紀になって広まった呼称だ。大文字の送り火も、桜子の知らない行事だった。
だが、月日の区切りが太陰暦から太陽暦に変わったことを知らない桜子にとって、もっとも不思議なのは、やはり、月が顔を出していないことだった。
――千年後の世界では、月がなくなっているんだわ! すごい!
そして石山寺門前の駐車場出入り口に着いたとき、もっと不思議で恐ろしいことが桜子を襲った。
――わぁぁ、まぶしい!
桜子の正面に停まっていた自動車が、発進しようとライトを点けたのだった。
「キャー、も、も、も……!」
桜子は、日輪のような両目を持つ恐ろしい物の怪が現れたのだと思った。おまけに、駐車場から出ようとするその車が、桜子と悠斗の方にむかってきた。桜子は、足がすくんでしまった。桜子の耳のうしろにいる源氏の親子ふたりも肝をつぶし、こちらは声も出なかった。
「藤原さん、だいじょうぶ? モモがどうかしたの?」
悠斗は、桜子の叫び声に驚いた。
「桃? ――あっ、桃を、いまお持ちなのですか!? わたしにも一個、分けていただけますか?」
――桃があれば魔除けになるわ!
そう思う桜子から目を熱くみつめられ、悠斗は、おもはゆいと同時に、不思議でもあった。
「ゴメン、持ってない。ふだん持ち歩くものじゃないから……」
悠斗が耳の後ろを指でかいているうちに、物の怪自動車が、悪さをすることなく、桜子のまえを通りすぎていった。
――悠斗さんは平気な顔をしている。物の怪じゃなかったんだ。やはり車だったようだけれど、牛も人も、だれも引いていなかった……。うぅぅん、不思議。千年後の世界って、変な物が一杯あるのだから、いちいち驚かないようにしなきゃね。
「桃は、もうけっこうです。驚かせてすみません」
桜子の声が一転して穏やかになり、悠斗はまた面くらった。
悠斗は、
「う、うん……」
と返答しながら、おもしろいぐらいに変な子だと思った。
『孫姫さま、だいじょうぶですか? さきほどの車らしきもの、おそろしかったですね』
おそるおそる話しかけてきた夕霧に、桜子は、平然とした声をつくって答えた。
「夕霧さま、わたしはこの世界でなにを見ようと聞こうと、もう驚かないことにしました。だから夕霧さまも光る君さまも、そうなさってください」
だが、そう言った直後、桜子の口から、
「キャー!」
と、叫び声がはなたれた。
「今度はどうしたの、藤原さん?」
「月が……、月が三つも出ています!」
桜子が指さす方向を見た悠斗は、おもわず口もとをゆるめた。
「あれは街灯だよ。おれも小さいとき、街灯を満月だと言って、母さんに笑われた」
それから十分後、桜子と悠斗は、石山寺駅から電車に乗り、京都へむかった。
桜子は、電車の速さにも轟音にも、気が動転した。だが、笑顔を作って平静を装った。
悠斗が横に座ってくれていることも、桜子には心強かった。そのうえ、浜大津駅で乗り換えたころから、牛車よりも揺れが少ない快適さがうれしくなってもきた。桜子は悠斗といっしょにいることで、この恐ろしい世界が、すこしずつ異界でなくなっていくように感じはじめていた。
乗客たちは、平安装束の女性を珍しげに見ていた。いや正確に言うと、悠斗も含めてふたりを見ていた。だが悠斗は、周囲の目が、だんだんと気にならなくなっていた。慣れもあるだろう。しかしそれよりも、この女の子が他人の目を意識していないことに、悠斗は感心していた。他人と異なる服装を顕示しようという態度ではなく、いたって自然体なのだ。それは、母を亡くし、父とも距離を置くようになった中学生の時に、悠斗がうしなった、かつての自分自身の姿でもあった。
前方の踏切で無理な横断があり、電車に急ブレーキがかかった。その反動で桜子の体が、悠斗にもたれかかった。悠斗が桜子の横髪に目をやると、右耳のあたりの髪飾りのよこに、狩衣姿の小さな人形がはっきりと見えた。夕霧だ。
「藤原さんは珍しいフィギュアを持ってるね。それ、なんのキャラ?」
桜子は、悠斗の言葉がほとんど理解できなかった。だが、悠斗の視線の先からして、夕霧のことがたずねられているらしい。そのことはよく分かった。
「あ、あのぉぉ、夕霧の君さまです」
桜子は、夕霧を両手で包み膝の上に抱えた。夕霧は、動くまいと、まばたきもしないよう懸命に努めている。
「よくできてるね。肌の感じが生き生きしてるし、髪の毛も本物みたいに見える。どこの製品?」
「せいひん?」
悠斗の口から出る単語ひとつひとつの意味が、どうしても桜子には分かりづらかった。
「それがぁ、亡くなった祖母から譲られた人形ですので、よく分らなくて。すみません」
「そんな、あやまらなくてもいいよ」
「悠斗さんは、お人形が好きなのですか?」
そうだったらいいのにと思いながら、桜子はたずねた。
だが悠斗は、桜子の問いに表情を一瞬にしてこわばらせた。
「べ、べつに、す、好きではないよ。ただ、き、気になっただけで……」
と、しどろもどろになりながら返答した悠斗は、それでも、興味深げな目をあらためて人形にむけた。
「それ、本当によくできてるよね。六条御息所のフィギュアもあるの?」
「あったような気がしますが、まだ出したことがないので……」
「たいせつにしまってあるんだ。源氏のフィギュアを、たくさん持ってるんだね」
「悠斗さんも〈ふぃぎゅあ〉を、たくさんお持ちなのですか?」
「お、おれ!? そ、そんなに多くは……、いや、ぜんぜん持ってないよ!――あっ、もうすぐ三条に着くから、そこで降りて、お茶しよう!」
三条まではまだ数駅あったが、悠斗はあたふたしながら、急に話題を変えた。
――この世界では、人形のことを〈ふぃぎゅあ〉って言うんだ。覚えておこう。……それにしても、やはり男君って、だれも、ふぃぎゅあ遊びが好きじゃないんだ。
桜子は、微動だにしなかった夕霧に、唇だけで〈ありがとう〉と伝えた。そして、残念そうな顔で、ふたたび髪飾りに夕霧を留めた。
悠斗は、三条駅近くの、高瀬川沿いにあるオープンカフェに桜子を連れて入った。
桜子は、写真入りのカラフルなメニューに目をまるくし、悠斗は、そんな桜子の素振りがうれしかった。
「わぁぁ、きれい! それに、どれもおいしそう」
「そうだろう。この店、人気があるんだ。藤原さんは、なににする?」
「食べたことのないものばかりだから……。悠斗さんが決めてください」
「それじゃ、これにしようよ」
悠斗が、メニュー表のなかで迷わず指さしたのは、ピーチパフェだった。
「これは桃ですよね。ありがとうございます」
桜子は、魔除けになる桃を選んでくれたことで、ますます悠斗を、頼りがいのある兄のように感じた。
そして悠斗は、頼ってくる桜子のなかに妹を見て、居心地がよかった。
桜子は、運ばれたパフェを、しげしげとながめた。そして、長いスプーンをぎこちなく使い、おそるおそる一口頬張った。たちまち、こぼれるような笑顔が満面に広がっていく。
悠斗は、パフェを食べるよりも、ひとさじごとにほほえむ桜子を見ている方が楽しかった。
そして、半分ほど食べおえた桜子が、スプーンを手に取ろうとさえしない悠斗に気づいた。
「悠斗さんは召し上がらないのですか?」
「そんなことないけど、まだ手をつけてないから、よかったらおれの分も食べる?」
「うれしい! でも、これだけで十分です。お腹が一杯になりそう。あっ、やはり桃だけでも、いただいていいですか?」
「うん、そうだよね。ははは」
悠斗は、空笑いでなく、腹の底から笑った。
そして、ようやくスプーンを手に取り、自分のパフェを桜子とわけあった。楽しくてしかたなかった。
パフェひとり分と、悠斗の分の桃も食べた桜子は、この時代の食べ物が、どれもおいしいことに驚いた。しじみご飯もそうだった。なんでもかんでも、どんどんと口に入れてしまいそうだ、と桜子が思ったとき、悠斗が、あいかわらず笑顔で口を開いた。
「このパフェ、やっぱり量があったよね。賢子ちゃん、おれのパフェを全部食べなくて正解だったよ。二つも食べたら、きっと、すぐに太っちゃうよ。しじみご飯も全部食べたしね。ははは」
上機嫌の悠斗はまったく気づかなかったが、言霊を信じる桜子は、悠斗のこの言葉に動転した。
――わたし、お母さまの名をかたったから、お母さまのように、きっと太ってしまうんだ。わぁぁ、どうしよう。やだぁぁ。




