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桜人 ―― 源氏異聞  作者: 塔真 光
第4章 出会い
26/160

4-2

 石山寺の本堂で煙にまかれて倒れた桜子は、耳のおくでさまざまな声が行きかうのを感じていた。

『ぼくに任せて!……時間のなかなら……源氏の物語の行く末を……』

 ――やさしそうな声。だれの声だろう? 

「おれと惟清がここにいます!」

 ――宮ちゃんの声だ! でも、なぜここにいるの? 東宮御所で勉強してなきゃいけないのに。

「一の君さまを見つけました!」

 ――これは惟清さんの声? 声も恰好いいんだよね、うふっ。

「桜ちゃんもおれが連れ出す。……桜ちゃんのこと、お願いします」

 ――また宮ちゃんの声だ! お願いします、って、どういうこと? あぁぁ、もう眠たいよぉぉ。


『孫姫くん、起きなさい』

 桜子は、ふたたび耳のおくに、やさしげで凛とした声を聞いた。意識はまえよりも、いくらかはっきりしていた。うつぶせになっていることに気づき、顔を上げてまわりを見ると、まばゆい光ばかりだった。まぶしくて、目を開けたままでいられない。体が光に包まれ、宙に浮いているように感じた。

『もうすぐ、千年後の世界に着くよ』

 ――千年後って? 千年たったなら、わたし、おばあちゃんになっているのじゃない? そんなの、ひどい! 浮舟ちゃんのような恋ができないまま、おばあちゃんになるなんて、死んでも死にきれないよぉぉ……。あっ!? 千年後なら、わたし、死んでいるのじゃない?

『若くして命を落とさないようにと、千年後の世界へむかっているのだよ。あのまま石山寺にいれば、天寿をまっとうできなかったからね』

 ――あっ、思いだした! お坊さまたちはどこ?

『ほかの金銅像を抱えて本堂を脱出できたようだよ。参拝に来られた人びとも、みな無事だと思う』

 ――この声は、観音さま? 観音さまが、わたしの命を助けてくださったのだ。ありがとうございます!

『ぼくたちを助けようとしてくれた、その心に報いようと思ったのだ。でもぼくは、千年後の石山寺に君といっしょに行けないから、別れるまえに言っておくことがある』

 ――はい……。

『式部殿は、源氏の新帖を書かれたよ。でも、世に出せば子々孫々にまで害をなすと、物の怪に脅されたらしい。それで式部殿は、遠い未来、物の怪の力がおよばない時期が来るまで、都の神仏たちの力にすがって新帖を秘匿されたのだ。なぜ物の怪が新しい物語を嫌うのか、それは、ぼくにも式部殿にもわからない。新帖には、式部殿が絵空事を通じて説きたかった、世の真実が書かれているようだ。それが世に出れば、不妄語戒を破るものだという誤解もなくなるだろう。君が式部殿の思いを受けつぎ、千年後の世界で新帖を見つけだし、それを世に問うといいよ』

 ――はい……。でも、わたしひとりの力で、新帖を見つけることができるでしょうか? なにも手がかりはないし……。観音さま、お教えください。祖母が書いた新帖は、いくつあるのでしょうか? そして、どこの神仏さまたちが、新帖を隠すのにお力添えされたのでしょうか?

『都の神仏としか、式部殿は仰らなかった。帖の数も、ぼくは聞いていない。式部殿は、物の怪が君たち子孫を害することをとても気遣われ、用心されたのだろう。神仏のほかには、陰陽師にも相談されたようだ。――おそらく式部殿は、源氏の物語に縁ある神仏に頼られたのだろう。君がその神仏たちを探しだしなさい。式部殿が君に受けつがせた力が、助けになるよ。光る君たちと知恵を合わせるといい』

 桜子の胸に、希望の光がポッと灯った。

 ――そのような力を授けていただき、ありがとうございました。

『新帖を探すことが、身よりも友もいない世界で生きていくうえでの、心のよりどころになるはずだ』

 ――はい。観音さま、もうひとつお教えください。わたしはいつか、母たちのいる世界にもどれるのでしょうか?

『もとの世界へもどる力を、いまここで君に授けることは、ぼくだけでは無理なのだ。ぼくが父上や母上たちとひとつになれば、そんな力を君に与えることができる。でも、いまここには、ぼくしかいないでしょ。君がもどるには、千年後の神仏たちにすがするしかない』

 ――わかりました。お母さまの口癖を、わたしも見習います。しかたない、ですよね……。

『でも、君が今日祈願したことは、ぼくがかなえよう。まず、君の髪のことだよね。それから、人形あそびが好きな男君に出会えるように。速仁くんの学業成就もあったね。でもこれは、厄介かもしれない、ハハハ』

 ――ふふふ、わたしもそう思います。

 桜子は、心のなかで笑ったとたん、意識が鮮明になった。さきほどまでは、まぶた越しにさえ、強い光を感じていた。だが、その光は消え、宙に浮いている感覚もなくなった。観音の声も聞こえない。ヒグラシの甲高い鳴き声だけが耳に響いている。


 桜子は、ゆっくりとまぶたを開けた。簀子縁の板敷きが目のまえに広がっている。立ちあがって服装を確かめると、もとのままだ。そして、髪に手をやると、

 ――伸びていないよ! 観音さまにお願いしたのに……。

 釈然としないまま簀子縁の外に目をむけると、大岩が偉容を現していた。

 ――あの岩、見覚えがある。千年後の世界だと観音さまは仰ったけれど、わたしの髪と同じで、ぜんぜん変わっていないよね。ほんとに千年後なの?

 簀子縁に立って境内を見晴らしている桜子には、大岩のむこうに見える風景は別段めあたらしいものでなかった。木造の御堂が点在しているのだ。

 だが、

 ――うわぁぁ! やっぱり千年後かもしれない!


 参拝者の服装や髪型は、まったく驚くべきものだった。女性が素脚をさらしている。髪は、尼削ぎどころか、二歳ぐらいの幼女ほどの長さしかない。男性は細身すぎる袴を履き、女性は下着しか身につけていない、と桜子は思った。男女とも体型が露わな服装に、桜子は、おもわず顔を赤らめた。

 そして、大岩のまえにいる男ふたりの顔を見て、今度は青ざめた。

 ――物の怪だ! 

 ひとりは四つ目だった。二つの目は普通の人間と同じ位置にあり、大きさも同じだ。だが、もう二つの目は、顔から飛び出ており、普通の目より数倍大きかった。

 桜子には、メガネがそんな風に見えたのだ。

 もうひとりはサングラスをしていた。アルマーニの、そのダークグリーンのサングラスは、異様に巨大な黒目にしか見えなかった。

 ――白目がない!


 桜子は、物の怪二人組に感づかれないようにと、体をゆっくりと半回転させ、堂内に顔をむけた。

「!………」

 声も出ないぐらいの驚きだった。目のまえに、十二単(じゆうにひとえ)を着た女性が端然と座っており、その横の立て札に〈紫式部〉と書かれている。それが等身大の人形だとわかるのに、しばらく時間がかかった。

 桜子は、人形と、それが座っている部屋を凝視しつづけた。そして、部屋のなかに置かれた説明書きから、この参籠部屋が〈源氏の間〉としてたいせつにされていることを知り、うれしくなった。千年後の世界でも源氏の物語は多くの人に読まれているのだ。涙があふれそうになった。

 ――おばあちゃま、よかったね。おばあちゃまの書いた物語は、千年ものあいだ、たくさんの人に愛されるんだね。わたし、新しい帖を見つける! そうすればきっと、もっと多くの人に、これから先もずっと読んでもらえるよ。わたし、もういちど観音さまに、お礼を言ってくる。


 桜子は〈源氏の間〉をはなれ、本堂へむかった。

 本尊は秘仏とされ、厨子に納められていた。人びとは、厨子のまえに置かれた〈前立ち〉を熱心に拝んでいる。桜子もそれにならった。

 だが礼拝(らいはい)したあと、桜子は立ちつくした。これからどうすればよいのか。どこへ行けばよいのか。

 桜子は、頭のなかがまっ白のまま、〈源氏の間〉のまえにもどった。式部人形の顔を見て、寂しさと不安が、ますますこみあげてきた。

 ――でも、観音さまからいただいた力がある。


 桜子は、右の手のひらに光源氏を呼びだした。

『おひさしぶりですね、孫姫! もっと頻繁に呼びだしてくださらないと、退屈で退屈で……。今日は、わたしひとりですか? どなたか女君も呼んでいただいたら、もっとよかたのに。あっ、でも末摘花はよしてくださいよ。あの方も、いい人なのですが、なにせ古風すぎて。六条御息所も、遠慮いたします、アハハ。それにしても、どうしてこんな小さな姿でお呼びになったのですか!? これでは、犬君に……』

 あいかわらず光源氏は饒舌だった。

「光る君さま、うしろをご覧ください」

 桜子は、ほおっておけばいつまでもつづきそうな光源氏のおしゃべりを途中でさえぎり、〈源氏の間〉の人形を見るよう、光源氏をうながした。

『こ、これ!? 〈紫式部〉と立て札に書かれていますが、式部殿なのですか?』

 光源氏は、仰天顔で桜子を見あげた。

 ――こんなに美人でした?


「光る君さまが驚かれるのも無理はありません。わたしたちは千年後の世界にいるのです」

『はぁぁ?』

「石山寺の本堂が落雷で焼け、それに巻きこまれたわたしを、観音さまが救ってくださり、時を超えてここに送ってくださったのです」

『!………』

 予想外の事態に驚く光源氏にむかって、桜子はすがるような眼差しをむけた。

「でも、これからどうすればよいのか、わからなくて……」


『心配はご無用です。わたくしに、よい考えがあります』

 光源氏は、輝くような笑みを桜子にそそいだ。

『夕霧を呼びだしてください。愚息を試してみましょう。わたしと同じ名案を考えつければよいのですが……、アハハ』

 光源氏は、内心、とほうにくれていた。よい考えなど、まったくなかった。

 ――千年後の世界なんて、恐ろしすぎます。孫姫のことは夕霧にまかせ、はやく物語世界にもどりたい……。

 だが、女性のまえではかっこうをつけるのが光源氏だ。

『息子を教育するのも、父親の仕事ですからね、アハハ』


 桜子は光源氏にうなずきをかえした。そしてたちまち、桜子の左の手のひらに、二十歳ごろの夕霧が現れた。

『孫姫さま、どうなさいました。お顔がすぐれないようですが……。それに、煤がほほについておりますよ』

 律儀な夕霧は、桜子にすばやく声をかけ、そして光源氏にも、いんぎんに黙礼した。

「いま、わたしたちは千年後の世界におりまして……」


 桜子が夕霧に相談をしはじめたとき、とつぜん、ハーフパンツ姿の若い男が背中越しに、

「あのぉぉ、すみません。レポートのデータ集めで、源氏の間を写真に撮りたいんです。ちょっとだけ場所を空けてもらえますか?」と、

桜子に話しかけてきた。武藤悠斗だ。

 桜子には、悠斗が口にした言葉の意味が、ほとんどわからなかった。だが、源氏の間に興味がある青年であることは、かろうじて理解できた。

「もうしわけありません」

 桜子は、か細い声でそう言うと、悠斗の背中のうしろへ退いた。


「こっちこそ、ごめんね」

 そう言って写真を撮りはじめた悠斗に、夕霧は眉をひそめた。

『孫姫さま、こやつは怪しいです。かかわらない方が、よろしいかと思います。袴が(すね)までしかないなんて、どう見ても山賊です。それに〈れぽうと〉とか〈でえた〉とか〈しゃしん〉とか、かなり訛りがきつい。なにを言っているのか、さっぱりわかりません。山賊でないにしても、そうとうな田舎者でしょう』

『夕霧よ、そのように頭から人を疑うのは、いかがなものかな? 〈そこはかとなくさへづるも、心の行く方は同じこと、なにか異なる〉と、式部殿は書いておられるだろ』

『父上は、女とみれば、見境なく声をかけるなり、手紙を出されますからね。この男が、父上のように、せ・い・じ・つ、な男であればよいのですが』

『おまえは、ほんと、かわいげがなくなったな。昔のおまえはどこにいったのだ。わたしが葵の上の実家を訪れると、五歳のおまえは、だれかれとなく無邪気に懐いていったではないか。父は悲しいぞ』

『たしか父上は、亡き母上の家で、幼いわたしを膝の上であやしたあと、女房と一夜をすごされたのでしたね。本当に、せ・い・じ・つ、であらせられます』

『おまえほどではないがな。おまえは、雲居雁(くもいのかり)と落葉の宮のそれぞれの屋敷で、毎月十五日ずつすごしておるとか。ほんに、律儀で誠実な男だわな。みながおまえのマメさを嘲笑しておるが、わたしは、けっして笑ったりしないぞ、ハハハ。それにしても、一月が二九日しかない〈小の月〉はどうしておるのだ? ハハハ。それに、藤典侍(とうのないしのすけ)のところには、どのように通っておるのだ? 閏月(うるうづき)に、まとめて通っておるのか? ハハハ』

『父上だけには、女君のことで、とやかく注意を受けたくありません!』

 桜子は、両の手のひらのうえで口げんかを交わしている源氏親子に、おもわず肩をすくめた。

 ――このふたり、顔はよく似ているのに……。


 桜子は源氏親子を、左右の耳の後ろあたりの髪飾りに、隠すようにからめ、

「これからどうすればよいか、お教えください」

と、ふたりに小声で頼んだ。

 だが、光源氏は夕霧に目くばせするだけで、夕霧も肩をすくめるばかりだ。

 すると、また悠斗が話しかけてきた。

「あの、おれ、観光文化学の調査をしてる学生です。データを取りたいので、協力してもらえますか? 簡単な質問に答えてくれたらいいだけなんで……」

 夕霧は唇に指を押しあて、返答するなと桜子にささやいた。

 だが桜子には、悠斗が悪人にはみえなかった。

 ――この男のひと、四つ目でも黒目でもないし……。惟清さんに、ちょっと似ている。短い袴と、上半身も下着一枚なのが、みっともないけれど……。千年後って、末法の世にとっくに入っているから、布が十分にない、貧しいところなのかなぁぁ? 

 黙ってうつむいている桜子に、悠斗がさらにたずねてきた。

「その服、すてきですね。自分で作ったんですか?」

 ――気の毒に、やっぱり布があまりないんだ。


 男のようすが気になりだした桜子に、当の悠斗が心配そうな声で問いつづけた。

「えーと、なにか困ってるんですか?」

 悠斗のこの言葉に夕霧が顔をしかめた。夕霧は、よこを通りすぎる中年女性たちに気をとられている悠斗を横目で見ながら、

『ほらきた。困っているところにつけこもうとしている』

と、小さな声でひとりごちた。そして、光源氏に顔をむけながら、言葉をついだ。

『よくある手です。父上も得意でしたよね。どういう下心がおありだったのか、……情けない』

『よいか、夕霧。人の無垢な好意を、そのように歪めて考えるものではないぞ』

『無垢!? 父上ほど、無垢から遠い方はおられないではないですか! 無垢とは、観音経の〈無垢清浄光〉のこと。煩悩から離れた清浄な状態を言うのです。父上は、女君とくれば、煩悩の塊ではないですか』

『夕霧は大学で勉強したおかげで、随分と物知りになったな。だが、史記などの歴史書を勉強しすぎて、人の真情がわからなくなったのではないか?』

 ――あぁぁ、また親子げんかだ。それに、声が大きいです!


 桜子が源氏の親子ふたりにあきれていると、悠斗が大声をあげた。

「服のことも、レポートに必要なデータなんです!」

 ――このひと、また服のことを言ったわ。よほど困っているんだ。布さえあれば、わたしが縫ってあげてもいいのだけれど……。

 桜子が悠斗に同情していると、光源氏が桜子の耳にささやいた。

『孫姫、いいですか。男は、声をかけたのに(だんま)りをきめこまれると、がっかりするものです。ここは、小さな声で、それからすこし涙を流して返事をすればよいのです』

『父上! 成人まえの孫姫さまに、男を籠絡する手管を教えるとは、なにごとですか!』

『ははーん、夕霧、おまえはそれで落葉の宮に、のめりこんじゃったわけだ――深き夜の あはればかりは 聞きわけど ことよりほかに えやは言ひける――アハハ』

『!………』

『図星か! ハハハ。――孫姫、この男は田舎者だとしても、悪人ではなさそうです。わたしたちには、この世界で身よりがいないのですから、ここのところは、この男に頼ってみましょう。もしこの男が悪さをするようでしたら、夕霧に懲らしめさせますから、ご安心を』

 桜子は小さくうなずいた。


 桜子は、〈源氏の間〉の真んまえの簀子縁に座った。そして頭をたれながら、ほのかな声で悠斗に返答した。

「これは、今回の石山詣のためにと、父上と母上から頂戴したものです」

 小さな声で答えたのは、光源氏に教えられたからではなかった。男を籠絡する手管など、桜子には理解できなかった。着ている衣裳をあらためて見たとたん、父や母の顔が脳裏にうかび、悲しくなったのだ。そして、身よりのない行く末を思い、空泣きではなく、本当に涙が出てきた。

「どちらさまのお屋敷のかたかぞんじあげませんが、ご質問にはお答えいたしますので、わたしをどうかお助けください」

「は、はい!」

 悠斗も、低頭したまま涙する桜子につられ、土足のまま簀子縁に正座した。

『たいへん上手にできましたね、孫姫。これでこの男は、きっと力になってくれるでしょう』

『さすがというか、なんというか。父上は、男女の問題となると、達人でおられますね。わたしは父上の真似など、したくはありませんが……』

 夕霧は、桜子の髪のなかにすっかり身を隠し、ちいさく肩をすくめた。


 桜子は顔をあげ、悠斗の顔をうかがった。悠斗は、ぼんやりとしたまま口を開かないでいる。

 ――このひと、どうしたのかしら? 光る君さまは、この人がわたしのことを気にかけてくれると仰っているけれど、わたし、あいかわらず髪が短いし……。わたしの髪と服ばっかり見ている。わたしの服をほどいて、なにか縫ってさしあげようかしら。

 桜子は、たまらず声をかけた。

「あのー、ご質問はなんでしょうか?」

「あっ、す、すみません。え、えーと、なぜ石山寺に来たんですか?」

 ――なぜって……。お母さまは半分以上、物見遊山のようだったけれど、わたしはちがうし……。どうしてそんなことを聞くのだろう?

「観音さまにお願いごとがあって参りました。学業成就とかを……」

 ――一番だいじなお願いは源氏の物語のことだけれど、それは秘密なので言えないの。ごめんなさい。それに、髪のことは、恥ずかしいから……。

「えーと、源氏物語の内容を、どれぐらい知ってますか? やはりマンガでですか?」

 ――まんが、ってなに? このひと、なまりがあるから、漢画のことかしら? 源氏物語が、この世界では絵になっているのかしら? もしそうなら、すてきだなぁぁ。


「そのような御本はぞんじあげませんが、源氏の物語は、幼いころから祖母に読み聞かされておりました」

 ――おばあちゃまの部屋、楽しかったなぁぁ。

「それじゃ、源氏物語の、どの帖がいちばん好きですか?」

 ――えっ、まだ質問があるんだ。それに、これ、難しい質問だよ。うーん。

『わたしは〈花宴(はなのえん)〉です!』

 光源氏が、桜子の耳もとで、はしゃぎ声をあげた。

『それに〈夕顔〉もいいですね。わたしが鴨川の土手で落馬するような情景を式部殿がお書きにならなければ、〈夕顔〉がいちばん好きかな……』

『だれも父上に聞いていませんよ。それに、もっとも好きな帖をひとつだけ教えろと、この男は言っているのです。そもそも父上は、なぜこうした帖がお好きなのでしょう。それを考えると、情けないかぎりです』

 ――また親子げんかだ。困ったひとたち。

 桜子は、後ろ髪のなかの源氏親子を両手で抑えながら、目を閉じて考えた。頭のなかにまっさきに浮かんだのは、もっとも多くの時間をこれまでいっしょにすごしてきた母の賢子だった。

「その日その日の物思いにより、心ひかれる帖が変わります。今日は、〈いかなる罪深き身にて、かかる世にさすらふらむ。わが親、世に亡くなりたまへりとも、われをあはれと思さば、おはすらむ所に誘ひたまへ。もし、世におはせば、御顔見せたまへ〉と、玉鬘の女君が仏さまに祈られた帖が、いまのわたしの心を映しております」

「そ、そうですか。それじゃ、え、えーと、ひとりで来たんですか?」

 悠斗のこの質問にどう答えたものか、また桜子はとまどった。

「そ、それが……」

 ――ひとりで石山寺に来たのではないけれど、千年後のここに来たのはひとりでだし……。

 光源氏と夕霧は、まったくあてにならなかった。それに、生き人形の存在を、目のまえのこの男に知られてはいけないと桜子は思った。光源氏たちを物語から呼びだす力があることは、秘密にしておかなければならない。祖母の式部から言いつかっている、たいせつなことだ。


「もしかして、みんなと、はぐれたの?」

 心から案じてくれている声だと、桜子は思った。「みんな」という言葉で、いまの自分に身よりがないことも、あらためて感じた。また涙が出てきた。

 ――この人、光る君さまが仰るように、悪い人ではなさそうだ。

「はい、そうだと思います。気がつくと、この〈源氏の間〉のまえにいて、あたりは知らない人ばかりでした」

 桜子は、手で涙をぬぐいながら顔をあげ、男をまっすぐみつめた。涙のせいで顔はよく見えなかったが、心配そうに自分を見てくれていることは分った。

 ――もしわたしに兄君がいらしたら、こんなやさしい人がいいなぁぁ。

 

 悠斗が、気遣わしげな声で、またたずねてきた。

「携帯持ってないの? バッテリーが切れてるなら、おれのを使う?」

 ――けいたい? ばってりい? なんのことだろう。田舎の人でなまりがあるのだから……、そうだ! 布に困っている人だし!

「裙帯ですか? それなら今年中にする予定です」

「今年中にするって、のんびり屋さんだね」

 ――あっ、ちがうんだ! ……わたし、ひとりぼっちで生きていけるだろうか……。でも、しかたない、だよね!

 気を取りなおして笑顔をつくった桜子に、悠斗はあわてて声で言葉をついだ。

「あっ、ごめん。――おれ、君にどうしてあげればいいのかな?」

「わたし、いまのこの状況がよくわからないのです。今朝早く家を出たのですが、よく覚えていなくて……。家の近くに下鴨神社があって……。下鴨神社をごぞんじですか?」

「ああ、そのあたりなら知ってるよ。おれの行ってる大学の近くだから。――お家の人とはぐれたんなら、駐車場までいっしょに行ってあげようか? お母さんかだれかが、心配して待ってるんじゃないか?」


 悠斗の言葉に、光源氏が顔をかがやかせた。

『なんと、この男は大学の学生なんだ! 夕霧、おまえの後輩だぞ』

『田舎者だとばかり思っていたら、都に住んでいる男なのですね。なまりのように聞こえたのは、この世界の、わたしたちの知らないなにかだったわけです。それに、下鴨神社は、変わらず都に鎮座されているようで、これは安心の種です。このさき、心配なことばかりではないようですよ』

 夕霧の言葉に、桜子は口もとをゆるめ、小さくうなずいた。希望の光りが、すこし見えてきたような気がした。

「暗くならないうちに駐車場に行こう」

 桜子は、

「はい!」と、

元気な声を悠斗に返した。


 簀子縁の階段から地面に下りるとき、桜子は、ふところから草履を取り出した。

「草履を持ってたんだ! どうして脱いでたの? 本堂内も土足でよかったのに」

 悠斗が口にした質問の意味が、桜子にはよく分らなかった。

 ――この人もそうだけれど、みんな、沓を履いたままお堂のなかに入っているよね。どうしてだろう。千年後の人たちは、お家のなかでも沓を脱がないのかしら? そうか! 布が貴重品だから、下沓が早く擦りきれないように、いつも沓を履いているんだよ、きっと。この人なんか、裸足で、変な形の革沓を履いている。

「本堂では履物を脱がなければいけないと思ったものですから。観音さまだって、履物を脱いでおられますし」

「そ、そりゃそうだよね、あはは!」

 ――あっ、このひと、はじめて笑った。うふっ。……観音さま、ありがとうございます。わたし、この新しい世で、なんとか生きていけそうです。

 桜子は本堂にむけて手を合わせた。


 桜子と悠斗は、大門にむかって歩いた。そして、参道脇の手水舎まで来ると、悠斗がポケットからハンカチを取り出し、水で濡らして桜子に渡した。

「顔になにか黒いものがたくさん付いてるから、これでキレイにするといいよ」

「たいせつな物を使わせていただき、ありがとうございます」

 ――やっぱり、いいひとだ。貴重品の布なのにね。〈むとう ゆうと〉って、名前らしきものまで書いてある。布は、よほど高価なのだわ。

 桜子は顔をぬぐおうと、ハンカチを広げた。

 ――この布、変わった柄だ。えっ、仏さま? あの観音さまに顔が似ている。この人、信心の浅い人かと思っていたけれど、そうじゃないんだ。


 冷たいハンカチで顔をぬぐった気持ちよさに、桜子の頬がゆるんだ。

 と、そのときだ、悠斗が名前を明かした。

「おれ、武藤悠斗。名前、聞いてもいいかな?」

 ――わぁー、どうしよう。

 桜子は、おもわず手で口もとをおおった。

 と同時に、桜子の耳もとで源氏親子が言い争いをはじめた

『孫姫さま、名前を教えてはなりません! 兄弟でもないのに、ましてや夫でもないのに、名前を聞いてくるとは。この男、やはり怪しいです』

『夕霧、そう警戒することもないだろう。自分から名乗ったうえでたずねてきたのだから、孫姫の世話をしようと思っているのだろう』

『父上、世話とはなんですか世話とは! 孫姫さまは、まだ成人しておられないのですよ。父上は、ご自分を物差しにして物事の当否を考えておられるのです。幼い若紫ちゃんを、拉致同然に、ご自邸に連れて帰られましたものね!』

『そういうおまえだって、幼いときから、雲居雁ちゃんと同じ屋敷内で暮らしていたではないか』

『あれは、お祖母さまのお屋敷です。それに、十歳からは別々の部屋ですごしておりました!』

『ほれみろ、十歳までは同じ部屋で朝暮れすごしておるではないか。それに、それぞれ部屋を持つようになってからも、おまえはなにかにつけて、成人まえの雲居雁ちゃんの部屋に押しかけていったのだろう。花見や紅葉、それに雛人形遊びを口実にしてな。下心ありありではないか』

『!………』


 桜子は、髪飾りにぶらさがり後ろ髪のなかに隠れている源氏の親子ふたりが、なぜ熱くなって言いあっているのか、よく分らなかった。ただ、信頼できる相手でないかぎり自分の名前を伝えてはいけないと、母と父から、つねに教えられてきた。名前には言霊ことだまが宿っており、名前を知られれば、命まで支配されることがあるというのだ。善良で親しい人になら知られてもかまわないが、邪心のある人物に知られてしまえば一大事だ。

 桜子は悠斗に背をむけ、汚したハンカチを手水舎ですすぎながら思案をつづけた。

「どうしたらいいでしょう? 観音さまを写した布を持ち歩くような人だから、けっして悪い人だとは思えないのですが……」

 桜子は小さな声で、源氏の親子ふたりに相談した。

『頭を打ったので記憶がない、とか、別人の名前でも言っておけばよろしいでしょう』

『父上、嘘はよくないでしょう、嘘は! 嘘偽りは、父上の得意技でしょうけれどもね。軒端荻(のきばのおぎ)の女君を嘘で上手く言いくるめられたのも、父上でしたよね。式部殿は、そんな父上を、〈悪ろき御心浅さなめりかし〉と、あきれ果てておられました』

『だれかを傷つけたり、あとで許してもらえないような嘘はよくないがな。軒端荻にしても、「人ちがいでした。本命は貴女の母上です」などと本当のことを言えば、たいそう傷ついたにちがいない。――この男の場合は、「記憶がない」ではいかにも白々しいから、だれか別人の名がよいのではないか。その名の本人に許してもらえるような、そして、この男が言い寄ろうなどと露にも思わない、そんな女君がよいだろう。となると……』

 いがみ合っていた源氏の親子だったが、この点では完全に一致した。ふたり同時に、同じ名を桜子にささやいた。

 ――えぇぇぇ、そんな! でもおふたりが仰るのだから……。

 桜子は悠斗にハンカチを返しながら、

「藤原賢子ともうします」

と告げた。

 桜子が母の名を騙ることを躊躇ったのは、言霊の働きで自分が賢子のような激ポチャになることを恐れたからだった。

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