4-1
大学二年生の武藤悠斗は、猫とおなじぐらいに暇だった。
夏休みで授業がないうえに、宿題もほとんどない。女性の友人はいるが、彼女はいない。裕福な父親からの仕送りが多いので、アルバイトもしていない。そして家事も、いっさいする必要がない。病死した母親の実家に、まだまだ元気な祖父母と同居しているのだ。
悠斗は、高校の部活でしていたサッカーを、大学に入ってからはフットサルに替え、サークルで体を動かしていた。だがそれも、夏休み中はメンバーの大半が帰省するので休止だ。サークル仲間と予定している、来月九月の台湾旅行ぐらいしか、当面のスケジュールは埋まっていない。その旅行も、べつに行きたいわけではない。仲間から、つきあいが悪いと思われたくないだけだった。
だが、暇をもてあましているそもそもの原因は、勉強が手につかないからだ。どの道に進めばよいのか迷っている。悠斗が学んでいる京都大学文学部では、悠斗たち二年生は夏休み明けの十月に、三年生になって所属する研究室を選ばなければならない。悠斗は、国文学を専攻しようか、それとも日本史学を専攻しようか、ふんぎりがつかずにいる。
専攻だけではない。卒業後の進路についても悩んでいる。むしろ、こちらの方が深刻だった。東京生まれ東京育ちの悠斗は、古代からの日本文化に関心があったので、京都の大学を選んだ。でも、卒業後はどうしよう。
――就職活動って、きびしそうで、おれには無理だろうなぁぁ。面接で絶対に落ちる……。でも、オヤジの仕事を継ぐのは、絶対にイヤだし。祖父ちゃんの仕事ならおもしろそうだけど、いつ潰れてもおかしくない、ちっちゃな餅屋だし……。でも、大学院へ進学し、文学か歴史学の研究者をめざすのもなぁぁ。おれ、そんな学力なさそうだし……。
瀬田川上流沿いの国道をひとり歩いている悠斗は、「だし」と「でも」を心のなかでなんども繰りかえしていた。八月十六日、京都市内が〈五山の送り火〉でにぎわうこの日、それに背をむけるようにして、悠斗は石山寺へむかっていた。
悠斗は〈五山の送り火〉を見たくなかった。去年は祖父母といっしょに、母の遺骨が分骨されている東山山麓の大谷祖廟にお参りしたあと、鴨川と高野川の合流点あたりで、大文字の送り火を見ながら母の霊に手を合わせた。祖父母は今年もこの日を、去年と同じようにすごすのだろう。だが悠斗は、亡くなった人を集団で追悼する、こうした恒例行事が苦手だ。神妙な顔や泣き顔はもちろん、笑い顔でさえ、人に見られるのが嫌なのだ。そうした顔を見た他人によって、自分の心のなかを勝手に想像されたくなどなかった。悠斗は、中学生のときに母を亡くして以来、喜怒哀楽を顔に出したがらない人間になっていた。
去年、送り火を見ているとき、おもわず目尻を指で拭ったところを祖母に見られた。祖母は、そんな悠斗を愛おしく思ったようだ。だが悠斗は、人混みで目に埃が入ったからだと言いわけした。わざとらしい言いわけしか思いつかなかった自分の頭の悪さにも、言ったはしから情けなくなった。黙っていた方がまだましだったと、悠斗は悔やんだのだった。
そして今年の八月十六日、悠斗はひとりで大谷祖廟に行ったあと、鴨川の河川敷を三条大橋まで歩き、そこから電車で石山寺へむかった。
悠斗がこの日に石山寺へ行くことにしたそもそもの発端は、父親の潤一郎からの呼びだしだった。大津市瀬田にある医科大学で仕事があるので、それがおわったら、ひさしぶりに会おうというのだ。潤一郎は臓器移植の専門医だ。といっても、首都圏を中心に大病院をいくつも傘下におく医療グループ〈銀杏コーポレイション〉の会長として、現在は経営に専念している。
石山寺を指定したのは潤一郎だった。京都の寺社仏閣はほとんど訪れているので、まだ行ったことのない石山寺がいいというのだ。
ところが当日、悠斗の乗った電車が石山寺駅に到着する直前に、潤一郎がキャンセルのメールを携帯端末に入れてきた。医療事故が発生したので急ぎ東京にもどる、という内容だった。
――そりゃ、いいですよ……。
メールを読んだ悠斗は、実は内心おおいに喜んだ。大学卒業後は銀杏コーポレイションの仕事を手伝えと、このところしつこく言ってくる潤一郎に、顔を会わせなくてもすむのだ。悠斗はひとりっ子なので、進路に対する父親の口出しを、人一倍、重苦しく感じていた。
悠斗は、石山寺なら行ってもいいかなと、もともと思っていた。夏休みの宿題のためだった。観光文化学演習の、レポート課題だ。源氏物語を利用した観光の、歴史と現状をまとめるつもりでいる。
悠斗が祖父母と住んでいる餅屋は、鞍馬寺の門前にある。鞍馬寺は、深い森に抱かれた山寺だが、市街地にある悠斗の大学まで、電車で三十分ほどしかかからない。源氏物語のなかで光源氏が若紫を垣間見た〈北山のなにがし寺〉のモデルのひとつが、この鞍馬寺だった。悠斗の祖父母が営む餅屋の名物が若紫餅で、これなぞ、悠斗のレポート課題に恰好の題材だろう。潤一郎からの誘いがなければ、若紫餅をレポートしてすませていたかもしれない。だが暇をもてあましていた悠斗は、潤一郎に会うついでに、いままで行ったことのない石山寺をレポートしようと思いたったのだ。
悠斗の目当ては、本堂に隣接して設けられている〈源氏の間〉だった。紫式部が源氏物語を執筆しているようすが、実物大の人形で展示されているという。
悠斗が石山寺の大門をくぐると、境内ではヒグラシが鳴いていた。
本堂まえの広場に着くと、盂蘭盆会がおこなわれていたが、人影は濃くなかった。おしゃべりしながら本堂から出てくる中年女性のグループと、しずかにお詣りする数組の家族連れ。さらに、大岩のまえで話しこんでいる男ふたり。そして、本堂の簀子縁に、ぽつねんとたたずむ女性の背中が見える。平安装束のその姿が、悠斗の目を引いた。長い髪が薄衣の下から透けて見えるようすも、珍しかった。
――へぇぇ、平安時代のコスプレか。どのマンガのキャラなんだろう?
簀子縁に上がった悠斗は、その女性が高校生ぐらいなのに気づいた。真珠とガラス玉の長い髪飾りが似合っていると思った。
悠斗は、その子が狭い〈源氏の間〉のなかの式部像をじっと見ているので、じゃまにならないようにと、本堂の見学をさきにすませることにした。
だが、堂内を見るのに時間をかけたつもりで簀子縁にもどってきたのに、その子は式部像をみつめつづけていた。その寂しげな横顔が、こんどは気になりだした。
「あのぉぉ、すみません。レポートのデータ集めで、源氏の間を写真に撮りたいんです。ちょっとだけ場所を空けてもらえますか?」
「もうしわけありません」
「こっちこそ、ごめんね」
写真を撮りおえた悠斗は、その女の子がまだ〈源氏の間〉のかたわらにいるので、ますます気になってきた。いや、それを通り越して、心配にさえなってきた。
――ひとりなのかな? 服も顔も汚れてる。それに足袋だけだし。草履はどうしたんだ?
「あの、おれ、観光文化学の調査をしてる学生です。データを取りたいので、協力してもらえますか? 簡単な質問に答えてくれたらいいだけなんで……」
「………」
「その服、すてきですね。自分で作ったんですか?」
「………」
「えーと、なにか困ってるんですか?」
――あっ、これじゃナンパだよ。いま横を通ったオバサンたち、おれのこと白い目でにらんでたよな。お寺でナンパなんか、まさかしませんよ!
悠斗は、まわりに聞こえるようにと、大声でつづけた。
「服のことも、レポートに必要なデータなんです!」
するとしばらくして、女の子は簀子縁に座り、頭をたれながら、か細い声をあげた。
「これは、今回の石山詣のためにと、父上と母上から頂戴したものです」
そして、とうとう涙声になってしまった。
「どちらさまのお屋敷のかたかぞんじあげませんが、ご質問にはお答えいたしますので、わたしをどうかお助けください」
「は、はい!」
悠斗も、土足のまま簀子縁に正座した。
――ったく、おれも座らなきゃいけなくなるじゃない。
〈源氏の間〉のまえで若い男女がむかい合って行儀よく座っているさまに、堂内を出入りする参拝客は不思議そうな目をむけた。悠斗は、周囲の目が気になってしかたなかった。だが、頭をたれて頼ってくる女の子を、ここで見捨てる気にはなれなかった。
悠斗は、その子の平安装束と長い髪を、じっとみつめづけた。
――父上とか、お屋敷とか、この子、そうとうに変わってるよなぁぁ。
「あのー、ご質問はなんでしょうか?」
「あっ、す、すみません!」
女の子が顔をあげたのも、悠斗は、すぐには気づかなかったのだ。
「え、えーと、なぜ石山寺に来たんですか?」
「観音さまにお願いごとがあって参りました。学業成就とかを……」
――そ、そりゃそうだよな。バカな質問でした。
「えーと、源氏物語の内容を、どれぐらい知ってますか? やはりマンガでですか?」
「そのような御本はぞんじあげませんが、源氏の物語は、幼いころから祖母に読み聞かされておりました」
――わおぉぉ。ひょっとして旧家のお嬢さまなわけ!?
「それじゃ、源氏物語の、どの帖がいちばん好きですか?」
「その日その日の物思いにより、心ひかれる帖が変わります。今日は、〈いかなる罪深き身にて、かかる世にさすらふらむ。わが親、世に亡くなりたまへりとも、われをあはれと思さば、おはすらむ所に誘ひたまへ。もし、世におはせば、御顔見せたまへ〉と、玉鬘の女君が仏さまに祈られた帖が、いまのわたしの心を映しております」
「?※▼△?○#?……。そ、そうですか。それじゃ、え、えーと、ひとりで来たんですか?」
「そ、それが……」
女の子は言いよどみ、両手で顔を覆ってしまった。
「もしかして、みんなと、はぐれたの?」
「はい、そうだと思います。気がつくと、この〈源氏の間〉のまえにいて、あたりは知らない人ばかりでした」
手で涙をぬぐいながら顔を上げるその仕草を、悠斗は、とてもいじらしいと感じた。
――おれより源氏物語に詳しいみたいだけど、やっぱりまだ高校生だよな。
ひとりっ子の悠斗は、こんな風に自分に頼ってくる妹か弟がいれば楽しいかもなと、ふと思った。
「携帯持ってないの? バッテリーが切れてるなら、おれのを使う?」
その子はキョトンとした顔をした。
「裙帯ですか? それなら今年中にする予定です」
「今年中にするって、のんびり屋さんだね」
その子は唇をふるわせ、また泣きだしそうになった。
「あっ、ごめん。――おれ、君にどうしてあげればいいのかな?」
「わたし、いまのこの状況がよくわからないのです。今朝早く家を出たのですが、よく覚えていなくて……」
――えっ、記憶喪失? スゲェー!
「家の近くに下鴨神社があって……。下鴨神社をごぞんじですか?」
「ああ、そのあたりなら知ってるよ。おれの行ってる大学の近くだから。――お家の人とはぐれたんなら、駐車場までいっしょに行ってあげようか? お母さんかだれかが、心配して待ってるんじゃないか?」
下鴨神社を知っているという悠斗の言葉に、その子の表情がやわらいだ。
「暗くならないうちに駐車場に行こう」
「はい!」と、
女の子は初めて元気な声をあげた。
地面につづく階段の最後の段で、女の子は懐から草履を取り出した。
「草履を持ってたんだ! どうして脱いでたの? 本堂内も土足でよかったのに」
悠斗の質問に、その子は、いぶかしげな顔で答えた。
「本堂では履物を脱がなければと思ったものですから。観音さまだって、履物を脱いでおられますし」
「そ、そりゃそうだよね。あはは!」
その場をつくろうための空笑いだった。だが、悠斗が顔に出して笑ったのは、ひさしぶりだった。
地面に下りると、女の子は、あらためて本堂にむかって頭をたれ合掌した。
――信心深いんだ。おれなんか、おさい銭、五円しかあげなかったぞ。
悠斗は、参道脇の手水舎のまえまで来ると、ハンカチを取り出そうとポケットのなかを探った。出てきたハンカチを見て悠斗は一瞬ためらったが、それを手水舎で濡らし、女の子に渡した。ユルトラオムガイアの、すこし色あせているハンカチだった。へりに〈むとう ゆうと〉と手書きされている。
「顔になにか黒いものがたくさん付いてるから、これでキレイにするといいよ」
「たいせつな物を使わせていただき、ありがとうございます」
そう言って頭をさげる桜子に、悠斗は、ぎこちない辞儀をかえした。
――ほかのハンカチを持ってくればよかった。でも、まっ、オタクだと思われなかったみたいだから、たすかった。それにしても、おれがだいじにしてると、なんで分ったんだろう?
悠斗は不思議に思いながら、女の子がハンカチを使うようすを見ていた。
顔がハンカチでぬぐわれると、みずみずしい桜色のほほが現れ、悠斗は、おもわず目を見はった。駐車場で別れるにしても、名前を知りたくなった。
「おれ、武藤悠斗。名前、聞いてもいいかな?」
その女性は、汚したハンカチを手水舎ですすぎ、ていねいに折りたたんだ。そして、それを悠斗に返しながら、名前を告げた。
「藤原賢子ともうします」




