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桜人 ―― 源氏異聞  作者: 塔真 光
第3章 観音
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3-10

 石山寺の本堂で夕べの勤行が始まったとき、ずぶ濡れの速仁と惟清が、賢子一行の滞在する参籠部屋棟のまえに着いた。予定より早い到着だった。

 逢坂の関の手前で雨が止み、惟清は関屋での着替えを勧めたが、先を急ぎたい速仁はそれを断り、新しい馬に乗り換えて一気に石山寺までやって来たのだ。


「若宮、かなり早く着きましたね。これって、御所から石山寺までの、最速記録かもしれませんよ」

 さきに馬を下りながら惟清がかけた言葉に、馬上の速仁が、

「惟清のおかげだよ、ありがとう」

と返した。

 惟清は、すこし驚きながら、速仁の顔をあらためて見た。雨粒と汗で濡れ、さわやかに輝いている。惟清は速仁に黙礼した

 ――若宮は、宇治での夜歩き以来、ずいぶんとおとなになられたなぁぁ。われわれ家臣にも、感謝の言葉を自然と口に出されるようになった。


 と、そのときだ……

バシィー、バキバキ、ドーン

 大門のむこう側で落雷の轟音がした。

 ――京都の雷が石山に移ってきたのかな!?

 下馬した速仁が呑気そうに大門の方向を見ていると、門前の建物のなかから賢子が大慌てで飛び出してきた。

「えっ、若宮さま!? どうしてここに? あっ、それよりも、若宮さま、たいへんです」

「やぁ、乳母ちゃん。おれ、来ちゃった。エヘッ」

「ほ、本堂に!」

「本堂に、って、勤行は明日の朝からでよいのだろう!? おれ、お腹すいたよ。惟清もそうだと思う。乳母ちゃんおすすめの、しじみご飯を食べたいな。それに、今夜晴れたら、お月見もしよう。桜ちゃんはどこ?」

 速仁はあいかわらず、くったくのない顔だ。

「そ、それが、本堂で勤行をしているはずで、さきほどの大きな雷が、もし本堂に落ちて……」

 賢子が言いおわらないうちに、速仁の顔色が急変した。


 速仁は、いてもたってもおられず、全速力で寺へ走った。

「若宮! お待ちください!」

 速仁のあとを追った惟清は、大門をくぐりぬけたところで追いついた。速仁が立ち止まったからである。

 速仁は、そうせざるをえなかった。目のまえの参道は、本堂から逃げてくる人々でごった返していた。

「おそろしく大きな雷だったな」

「本堂は丸焼けになりそうだ」

「御本尊さまも焼けてしまわれるかなぁぁ」

 速仁の耳に入ってくる言葉は、不安を高めるものばかりだった。そのうえ、参道のどこにも桜子の姿が見えない。

「若宮、もし一の君さまが難儀な目にあっておられるなら、若宮おひとりではなく、わたしとふたりで力を合わせてお救いしましょう。その方が、大きな力が出せます。よろしいですね」

 惟清は、速仁を落ち着かせようと、その背に手を当てながら諭した。

「うん、そうだね。ごめん、おれ、あせっちゃって……」


 速仁と惟清は、人の群れのあいだを()って本堂まえにたどり着いた。

 だが、桜子はいない。桜子付きの女房が、下男に足を介護されながら、煙を吐き出している本堂のなかを心配そうに見やっていた。煙のむこうの堂内には大きな火炎が立ちあがっている。速仁の動悸が一気に激しくなった。

 ――そんなぁぁ。

 速仁は本堂まえに、呆然と立ちつくした。

 惟清は女房と下男から、桜子が本堂にもどっていったようすを教えられ、それを速仁にも伝えた。

 その直後、僧侶が四人、小さな金銅像を抱えて、堂内から転がるように脱出してきた。だが、桜子は出てこない。

「どうした、式部殿のお孫さまは?」

 律師がほかの僧侶にたずねるが、だれもがしゃがみこんだまま、首を横に振るだけだった。

「しまった! わたしの横におられるとばかり思っていた。――どうか観音さま、あの姫をお助けください!」

 律師は、体をふらふらさせながらも本堂にむかって頭をたれ、必死に祈りはじめた。ほかの僧侶たちも、いまは光をうしなった金銅像を地面に据え、ひたすら祈りつづけた


 はげしく咳きこみ、目もまともに開けられない僧侶たちのありさまを見て、速仁の焦燥感は大きくなるばかりだった。

 いまにも本堂に飛びこみそうな速仁を抑えるために、惟清は速仁を背中から抱えこんだ。

「よろしいですね、若宮。むちゃはしないでくださいよ」

 速仁は唇を震わせながら、桜子がいると思われる堂内を、じっとみつめつづけた。

 ――んっ!? あれは? なにかが光っている。

「惟清、もしかしてあそこに……」

 惟清も、その小さな淡い光に気づいた。

「堂内に入るのは絶対にダメです。ですが、簀子縁のところまでなら行けるでしょう。あの光の正体を、できるだけ確かめましょう。そして一の君さまの姿が見えれば、わたしが、なかへ助けに入ります。よろしいですね。わたしより先にけっして進まないでくださいよ。ちょうど袖がぐっしょり濡れています。これを口と鼻に当て、なるべく頭を低くして行きましょう」

「うん、わかった。惟清、いつもありがとう」


 速仁と惟清は簀子縁に上がり腹ばいになった。堂内に目をやると、やはり、なにか小さなものが床上に光っている。かすかに声も聞こえた。

『ぼくに任せて!』


 幼げな声だった。

『ぼくたちを助けようとしてくれて、ありがとう。今度は、ぼくが助けてあげる。でも、父上と母上、そして兄上と姉上たちの力も合わせないと、君を別の場所に移してあげられない。末っ子のぼくだけでは、空間を移動させてあげられないんだ』

 速仁と惟清は、光のそばに桜子がいるのだと思った。きっと、気をうしなっているにちがいない。光っているものは、おそらく観音の化身だ。だがその化身も、どうやら家族らしい観音たちと離れてしまい、ほんらいの力を発揮できないようだ。このままいたずらに時間がすぎれば、桜子の命があぶない。

「若宮、かならずここに留まっていてくださいよ。わたしが一の君さまを運び出します」

 立ちあがろうとする惟清の肩を、速仁は押し止めた。

「いっしょに行こう! ふたりなら大きな力が出せると、さっきそう言ったのは惟清だろ。宇治橋でも、九人で力を合わせようとしたから、惟清が鬼をやっつけることができたんだよ。それに、あの観音さまだって、ひとりだと力を十分にふるえないって言っているよ」

「若宮!」

 惟清は、子どもだとばかり思っていた速仁が、仕えがいのある主君に変わりつつあることに、胸を衝かれた。

「わかりました。若宮、いっしょに行きましょう。ただし、わたしが先に参ります」

 速仁はおおきくうなずき、惟清のあとから、身を屈めて本堂の外陣へ入っていった。


『空間のなかを移動させてあげられないけれど、時間のなかなら、そしてひとりだけなら、ぼくだけの力で移動させてあげられる』

 ――えっ!? 時間の移動? どういうことだ?

 速仁も惟清も、光のなかから聞こえてきた言葉の意味がわからなかった。

『石山寺に参籠された式部殿は、源氏の物語が、百年後、千年後の世では人びとから見むきされなくなっているのではないかと、ぼくたちにたずねられた。そんなことにはなっていないことを、孫である君が、自分の目で確かめるといい。式部殿が隠さなければならなかった新しいお話も、君が探しだし、みんなに読んでもらうといいよ』

 ――源氏の物語に、新しい帖があったんだ!

 速仁と惟清は顔を見あわせた。ふたりにとっても、寝耳に水の話しだった。

『この場所の千年後に、君を移してあげよう。君にとってその世界は、源氏の物語のなかの人びと以外に身よりも友もいない、孤独な場所だよね。でも、源氏の物語の行く末を見届け、新帖も見つけ出すという目的があれば、しっかりと生きていけるはずだ』

 光のなかから聞こえてきたこの言葉に、速仁は肝をつぶした。

 ――そんなぁぁ! ひどいよぉぉ。そんなことになったら、おれ、もう桜ちゃんに会えなくなるじゃないか! 

「観音さま、待ってください! おれと惟清がここにいます!」

 速仁は大声をあげながら、煙のなかを必死で目をこらし、手で床を探った。化身の光がだんだんとおおきく見えてきているのだ。光のなかに金銅像の形もぼんやりと見えてきた。桜子は、きっと近くにいる。

『君はだれ?』

 光のなかから問う声がした。速仁はホッとした。観音さまにおれたちのことを気づいてもらえたのだ。

「速仁といいます!」

『君か。式部殿の孫姫が君のことを、ぼくたちに祈願していた。君と、もうひとりの仲間とで、孫姫を外に連れ出せるかい? 君たちでできるなら、それにこしたことはない』

「はい、できます! やってみせます!」

 速仁がそう返事したとき、惟清の右手が桜子の腕に触れた。

「一の君さまを見つけました! 観音さまの光のお導きのおかげです、ありがとうございます」

 惟清が光にむかって礼を述べたその直後、ヒューという音とともに瓦が落ちてきた。頭を直撃された惟清は、気をうしない桜子の上に倒れた。


「惟清! だいじょうぶか! 起きてくれよ!」

 ――どうしよう!? おれひとりじゃ、桜ちゃんと惟清を同時に運びだせないよ。

 両ひざを床について頭を抱える速仁に、光り輝く化身が問うた。

『選びなさい! 君が惟清を外へ連れ出し、ぼくが式部殿の孫姫を千年後の世に移し、それぞれの命を救うか。それとも、君が孫姫を連れ出し、ぼくが惟清を別の時代に移すかを。しかし、惟清をどの時代に移せばよいのか、ぼくには分らない。孫姫なら、千年後の世でも生きていけるだろう。でも惟清には、無縁の時代を生きぬく心の拠り所があるのだろうか。深い孤独のなかで、自死することだってありえる。さっ、もう時間がない。選びなさい!』

 ――そんなぁぁ、おれにとってふたりともたいせつな人だよ。選べないよ……。


 だがすぐに、速仁は顔をあげた。ついさきほどまで戸惑いを浮かべていた瞳が、いまは決然とした意志を宿していた。速仁は光にむかって、力強く言葉を放った。

「おれ、この手でふたりとも救います! まず惟清を連れ出す。すぐもどって、桜ちゃんもおれが連れ出す。そして観音さまもおれが外にお出しします。このままじゃ、金銅の体が溶けてしまうでしょ。もし万が一、おれがもどってこられなかったら、その時は、……桜ちゃんのこと、お願いします。でも、ぜったい間に合わせるから。おれ、がんばるから!」

 速仁の目の先で、光が二度三度と、おおきくまたたいた。

『わかった。君を待つよ』


 速仁は、引きずるようにして惟清を担ぎ、外へ急いだ。だが、十五歳の速仁には、たくましい体のおとなの男を運ぶのは大仕事だった。足がつってきた。

 ――桜ちゃん、待っていろよ! ぜったいおれが助け出すからな!

 やっとの思いで簀子縁にたどり着いた速仁は、惟清を地面へ転げ落とした。

 ――痛いだろうけれど、ごめんな、惟清。

 速仁は急いで引き返そうとした。室内に、ぼんやりとだが、まだ光が見える。

 しかし、外陣に足を一歩踏み入れたとき、大音響とともに屋根が落ち、本堂全体が煙と炎に包まれた。その衝撃で、速仁は外へ吹き飛ばされ、地面に転がっている惟清の体の上に、仰むけに倒れた。

 体が空中を飛んでいるあいだ、速仁の目は、人ほどの大きさの光の塊が、崩れ落ちる屋根から雷雲へむけて勢いよく、まっすぐに放たれたのをとらえていた。光は、雲に吸いこまれるようにして消えていった。


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