表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
桜人 ―― 源氏異聞  作者: 塔真 光
第3章 観音
23/160

3-9

 桜子が賢子とわかれて石山寺の大門をくぐったとき、境内には甲高かんだかいヒグラシの声が響きわたっていた。日没までにはまだかなり時間があったが、白かった積乱雲が黒い雷雲に変わり、あたりは薄暗くなっていた。

 石山寺の境内には、その名が示すとおり、激しく褶曲(しゅうきょく)した岩石があちこちに露出している。とりわけ、本堂まえにある大岩は偉観だ。

 その大岩をめずらしそうに見やりながら桜子が本堂に入ると、なかはすでに、夕べの勤行にやって来た大勢の人であふれそうだった。桜子は、本尊の如意輪観音像がわずかに見える片隅に座った。うしろには女房と下男がつきそっている。

 ――おばあちゃまは、どこに座られたのだろう? わたしも一所懸命お願いしよう。まず、源氏の物語のことだよね。おばあちゃまから分けてもらったお力のことも、観音さまにお礼を言わなきゃ。それから、わたしの髪の毛が長くなりますように。

 桜子は、胸元にたれている玉鬘の一連を右手でにぎった。

 ――お人形あそびが好きな男君にも出会えますように。ちょっと欲ばりすぎかな、うふっ。それと、宮ちゃんのためには、なにをお祈りしてあげればいいだろう? やはり、学業成就をお願いしておいてあげよう。たぶん無理だと思うけれど……。


 年配の律師を先頭に僧侶たちが本堂に入ってきた。桜子は、紫式部の遺品である紅水晶の数珠を両手で合わせ持ち、頭をたれた。律師が「釈迦牟尼仏弟子(しゃかむにのぶつでし)」と名乗ったあと、法華経を唱和する声が堂内に響きはじめる。

 外では、ヒグラシに代わって雷鳴がとどろきだした。

 ――雷って、こわいなぁぁ。でもここはお寺なのだから、観音さまがきっと守ってくださるよね。

 桜子がそう思った直後だ。

 バシィー、バキバキ、ドーン

 雷が本堂横の古木に落ちた。木は真っ二つに割れ、そのひとつが本堂に倒れて屋根と柱をおおきく壊した。しかも、雷の直撃を受けた木から炎が上がった。

「火が本堂に燃え移るぞ!」

 だれかが叫んだこの言葉で、落雷直後に増して堂内が騒然となった。人びとが出口へ殺到する。

 桜子は、落雷と同時に女房が覆いかぶさってくれたので、怪我ひとつなかった。だが女房は、落ちてきた瓦で足を痛めてしまった。桜子は下男に、自分はだいじょうぶだと言って、女房を担がせた。


 桜子らは、床に落下した(はり)にじゃまされ、やっとの思いで簀子縁までたどり着いた。桜子たち三人が、本堂から避難する参拝者のしんがりだった。地面へつづく階段を下りようとしたとき、内陣で律師ら僧侶四人が懸命に本尊を外に運び出そうとしているようすが、桜子の目にはいった。台座から持ちあげるのが容易でなさそうだ。人の背丈の二倍ある丈六の座像で、木心に厚く粘土を塗り重ねて造る塑像だった。

「お母さまに、わたしはだいじょうぶだからと伝えてね!」

 桜子はそう言いのこし、下男と女房の制止をふりきって、ふたたび堂内に入っていった。


 堂内は、火の手こそおおきく上がっていなかったが、白い煙が充満しはじめていた。桜子は、咳きこみながら内陣にたどり着いた。

「お小さいのに、お手伝いに来られたこと、まことによい心がけです。ですが、あぶのうございます。早くお逃げなさい」

 律師が桜子にそう声をかけた。

「あの、わたし、観音さまのお力で源氏の物語を書くことができた者の孫です」

「えっ、あの式部殿のお孫さまですか?」

 桜子は、驚く律師の目をまっすぐみつめてうなずいた。

「そうでしたか。式部殿は、あの物語を書かれたあとも、大般若経を納められなど、当寺にしばしば参籠されておられました」

「不妄語戒を犯したせいで祖母が地獄に落ちているともうす者たちがおりまして、そのことを、観音さまにおたずねしたくて参りました」

「おぉぉ、そのようなことは、けっしてございません。観音さまのお力を得てお書きになった物語です。不妄語戒を破るものではございません」

 桜子は、煤でうっすら黒くなった顔を、おおきくほころばせた。

「ご本尊さまにもおたずねになるとよいでしょう。そのほうが、わたくしなどの口からお聞きになるより、ご安心でしょう。それでは、くれぐれも気をつけてお手伝いください」

「はい!」


 桜子は、僧侶たちがつまずかないようにと、床に散乱している物を懸命に片付けた。そして、本尊がようやく内陣から出されたあと、横倒しにされたその首を支えた。本尊を間近に見た桜子は、そのやさしげな顔に魅了された。

 ――おばあちゃまみたい……。

 桜子は観音に、源氏の新帖のことを、心のなかでたずねた。


 煙がますます濃くなってくる。火の手も、落雷にくわえて燭台が転倒したため、おおきくなってきた。床のあちこちに火が広がりはじめていた。

 若い僧侶のひとりが、床に空いた穴に足を取られた。本尊は床に落ちたが、桜子が必死に頭部を支えたので、おおきく損傷することはなかった。だが、火の勢いが強くなった。天井からは、炎をあげながら梁が落ちてきた。

 もう運び出せないかもしれない。自分たちの命だってあぶない。僧侶四人がそろってそう思ったとき、本尊の左手に載っている如意宝珠が輝きはじめ、みるみるうちに、その輝きが本尊の全身を覆った。そして、その胸のなかから、光りに包まれた大小の金銅像が五体、勢いよく飛び出し床にころがった。

 ――観音さまだ!

 桜子も僧侶たちも、みながそう思った。


「御本尊さまは、もうしわけないが、ここにお置きしておこう。観音さまたちだけを、一体ずつお抱きし、外に出よう」

 律師がみなに指図した。

「孫姫さまも、お願いいたします」

「はい!」

 桜子は、目のまえにあったもっとも小さな金銅像を胸に抱きあげ、僧侶たちと、出口をめざして走った。

 だが、燃えさかる梁や板がつぎつぎと落下してきた。桜子は、出口も僧侶たちの姿も見うしなった。煙は濃くなり、白から黄色に変わってきた。一寸先も見えない。落ちてくる梁を避けようとして桜子は転倒した。煙を吸いこみ、意識が朦朧(もうろう)としてきた。


『ぼくに任せて!』

 幼げだが穏やかな声を、桜子は耳のおくで聴いたような気がした。だが、意識はますます遠のき、それが現実なのか夢なのか、もうわからなくなってきた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ