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桜人 ―― 源氏異聞  作者: 塔真 光
第3章 観音
22/160

3-8

 桜子と賢子が石山寺へむけて私邸を出立したころ、安倍晴明の屋敷では、十二天将が全員、晴明の枕もとに集まっていた。変化するまえの、ほんらいの姿だ。蛇頭に竜頭、狗頭に羊頭といった獣人と、老婆の大陰である。

 晴明のふたりの息子も、かたわらに座っている。沈痛な面もちだ。


 晴明は、橋姫の右腕を三日かかって封印したあと、急激に体が衰えた。今朝は十二天将全員を呼びだし、ひとりひとりに、思い出語りをしながら、これまでの労をねぎらおうとしていた。

 天将たちはみな頭をたれ、晴明が振りしぼるようにして発する言葉に、一言も聞き漏らすまいと耳をかたむけている。晴明が最後に声をかけたのは、大陰だった。

「おぬしとのつきあいが、いちばん長かったのう。いろいろ苦労をかけたが、許せ。源氏の新しい帖のことも、ようやってくれた。おかげで、その存在が兼隆たちに気取られることもなかろう。あのときのことが、おぬしとの一番の思い出だ。フクロウの姿でいるおぬしは、かわいかったぞ」

『晴明さま、ありがとうございます……』

 晴明のまえで涙を見せまいと、大陰は懸命にこらえていた。賢子親娘が石山寺で観音から源氏の新帖の存在を告げられるのではないだろうかという心配事も、ひとり胸に納めつづけていた。


「よいか、みな。体は朽ちるとも、思いは滅ばぬぞ。善行を尽くせば、われらの思いがかない、別の世でかならず再会できるであろう。その時のために、この晴明は懸命に働いてきたのだ。この世での命が消える最後のときまで、善人たちのために力を尽くして働いてくれ。まだ仕事をやり残している者がおろう。ここを立ち去り、最後の一刻まで、それに取り組め」

 晴明の言葉を聞きおえて、三名の天将が退室した。晴明は、三人を目で見送ったあと、すぐそばにいる大陰の右手を取り、それを両手で包んだ。

「わしとおなじようにシワシワだな。これまでようやってくれた。礼を言う。わしを看取る必要はない。おぬしにも、まだ仕事があるのではないか? そうであるなら、行くがよい」

『………』

 大陰は言葉が出なかった。

「さぁ、行け!」

 かぼそいが、力強い声だった。

 大陰は、いまいちど晴明に頭をふかくたれた。そして、まっ白なタカに変化するや、うしろをふり返らず、朝陽あさひが輝きを増しはじめている空へ羽ばたいていった。


 ハクタカは、下鴨神社の境内から出てくる賢子と桜子を、鴨川と高野川の合流点で見つけた。そのあとはふたりを追い、鴨川の東岸を三条大路まで南下し、そこから始まる琵琶湖への街道を東へ進んだ。だが、東山連峰のむこう側へ大陰は進めない。ハクタカは、東山三十六峰のひとつである華頂山(かちょうざん)で、賢子一行を見送った。そして、山頂にある将軍塚の、その脇に植わっているミズナラの巨木に留まった。そこからは、西方に京都の街が一望でき、北と東をむけば、街道を眼下におさめることもできた。

 大陰は京都の街を見わたしながら、この街で晴明に仕え、人に悪さを働く妖と闘ってきたこれまでのできごとを、あらためてふり返った。この十年は、藤原兼隆とその一味が、大陰にとって、調伏すべき妖のようなものだった。源氏の新帖に書かれていることは、式部の意図に反して、賢子親娘に災いをもたらせかねないのだ。だが、新帖の公開を妨げ、兼隆たちから賢子親娘を守る務めは、晴明の死とともに閉じなければならない。

 ――残念じゃが、わが力がつづくかぎりは、務めを果たそう。それが晴明さまの願いでもあるのだから……。さっ、だれかけしからぬ者が石山寺へ行こうとしておらぬか、しっかり見張ろうぞ。


 昼をすぎたころ、雷鳴がとどろきはじめた。やがて豪雨となり、稲妻も空を激しく走りだした。だがハクタカは、身じろぎひとつせず、街道を行き交う者を監視しつづけた。すると、……

 ――んっ!? あれは速仁と惟清ではないか? この雷雨のなか、御所を抜けだし馬をとばしてくるとは……。若いのう、ククク。


 速仁と惟清は、大陰が見守るなか、粟田口の関屋で馬を下りた。そして惟清は、文箱を懐から取りだし、関屋の番人に手渡した。速仁と惟清は、わずかな休憩もとらず、新しい馬に乗り換え、石山寺へむけてふたたび出発した。そのあとすぐに番人が、反対方向の京都の街へむかって関屋を出る。

 ハクタカの金色の目が赤みを増した。

 ――あの文は、兼隆のもとへ送られるのじゃろう。まさか、このオババあての文ではなかろう、ククク。さて、兼隆がどう動くか……。

 ハクタカは、ミズナラから飛びたつや、番人のあとを追った。


 稲妻が走る驟雨(しゅうう)のなか、ハクタカは懸命に羽ばたいた。だが、鴨川の近くまで来たとき、翼はわずかしか動かなくなった。大陰の力は、晴明の命とともに尽きようとしていた。大陰は最後の力を振りしぼり、フクロウに変化した。

 耳をつんざく大音響とともに太い稲妻が虚空を切り裂いたせつな、フクロウは一片の紙となった。人形ひとがたのその紙は、大粒の雨に激しく打たれ、まっさかさまに鴨川へ落ちていった。そして、雨できゅうに水かさが増した流れにのみこまれた。

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