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桜人 ―― 源氏異聞  作者: 塔真 光
第3章 観音
21/160

3-7

 桜子と賢子が走井で食事をとっていたころ、速仁は東宮御所の曹司にいた。両手を頭のうしろで組みながら仰むけになり、天井の板目をぼんやりと見ている。

 ――あぁあぁぁ、つまんないや。石山寺へ行きたかったなぁぁ。

 月見の名所として知られている石山寺で、速仁は、桜子と月をながめたかったのだ。そうすれば、月の光に助けられ、桜子に思いを伝えられるような気がしていた。それなのに、……

――あぁあぁぁ、つまんない。


 曹司には、桜子に代わって惟清が、速仁の勉学を監視するために詰めていた。だが惟清は、勉強を放り投げている速仁に背中をむけ、なにも言わずに文机のまえに座って手習いをしている。

 ――おかわいそうに。若宮は、一の君ちゃんと石山詣に行きたかったのだろうな。それに、二の君ちゃんと結婚されることになるにしても、ご自分の気持ちを一の君ちゃんに伝えておいたほうがいいにきまっている。勉強より大事なことじゃないか! 今夜が、そのよい機会になったかもしれないのに……。

 惟清は、手習いに替えて、晴明邸でみかけた女性の姿を料紙に描きはじめた。

 ――文をなんども贈ったのに、返事もない。都の女人は冷たいよな。須磨に帰ろうかなぁぁ。

 惟清は、料紙のなかの女性の姿をみつめた。

 ――えーい、わたしが責任をとればよいのだ!

 惟清は、筆をおいて速仁にむきなおり、意を決して口を開いた。

「若宮!」


 惟清のその力強い声に速仁はビクッとして上半身を起こしたものの、両手を床についたまま、惟清にむかって口をとがらせた。

「なんだよ!? きゅうにそんな大声をだしたら驚くだろ」

 速仁はふてくされた顔で、惟清の目をまっすぐにらんだ。

「わかったよ、勉強すればいいんだろ!」

 速仁は、不機嫌なままで体全体を起こし、あぐらをかいた。だが、うつむいたままだ。

「いえ、勉強のことではありません。いまから石山寺へ参りましょう!」 

「はぁあ!?」

 おもわず惟清の顔を見あげた速仁だったが、まだ半信半疑だった。

「なに言っているんだよ惟清は。そんなの無理にきまっている」

「東宮さまや大殿からのお叱りは、この惟清が引き受けます。まさか遠流おんるにはならないでしょう。若宮の護り役は免ぜられるでしょうが、それは致し方ありません。馬で参りましょう。粟田口や逢坂の関屋で元気な馬に乗り換えられるかもしれませんし、いそげば日没までには石山寺に着くはずです」


 速仁の目がうるみだした。

「ありがとう!」

 ゴツン

 速仁は惟清の体に抱きつき、勢いあまって、乗りかかるように惟清を押し倒してしまった。横に文机があったので、惟清は速仁の頭をとっさにかばい、左肘を机の角でしたたかに打ったようだ。

「ごめん、惟清。痛かった?」

 速仁は惟清の右手を取って助け起こした。

「いえ、だいじょうぶです」

 惟清はそう言ったものの、激痛に顔をしかめている。

「ですが、今日はとくに慎重に行動してくださいよ。ほかの者にとがめがおよばないように、わたしひとりだけがお供しますので」

「うん、わかった。おとなどうしの約束だよな」

「そうです。あの宇治での最後の夜のように、がんばりましょう」

 速仁は、口を引き締めておおきくうなずいた。

「もうひとつお約束ください。東宮さまと大殿にご心配をおかけするわけにはまいりません。わたしたちが粟田口の関屋まで行けば、そこから大殿に使者を出します。事情をお伝えし、大殿に石山寺まで迎えに来ていただきましょう。石山寺で一泊し、朝の勤行を終えたあと、東宮御所にもどります。このことは、かならずお守りください」

「うん、わかった。おとなの約束だ! 絶対に守りまーす。エヘッ」

 速仁は、こぼれるような笑顔で答え、惟清がそれにうなずき返した。

 ――こういう顔や物言いが、まだまだ、お子ちゃまなんだよなぁぁ。まっ、おれがしっかりお守りしよう。しかし、さっきはマジで痛かった。


 惟清は、まだ痛む左肘をさすりながら、

「今夜は、乳母殿たちのように参籠部屋に泊まりましょう。夕飯に、きっと、しじみご飯がでますよ」

と、言葉を足した。

「しじみご飯って?」

「乳母殿が、石山詣が決まってから毎日のように、しじみご飯、しじみご飯、と言っておられました。琵琶湖と瀬田川は、しじみの産地なのです。乳母殿は参籠部屋の世話人に作らせるおつもりなのでしょう」

「ふぅぅん。乳母ちゃんが言うんだから、きっと、おいしいんだろうな。でもおれは、月見が楽しみなんだ!」

 速仁はそう言いながら、ほほと口もとを両方ゆるめた。

 惟清も、明るくなった親仁の様子がうれしくてならなかった。

 ――若宮はいま、一の君ちゃんのことを考えているでしょう。わかりやすいんだよな若宮は。すぐ顔に出るから。そういうところも、お子ちゃまですな、ハハハ。

「なぁ、惟清。夕飯のあとに月見ができるかな?」

 ――とうとう一の君ちゃんに告白かな? ククク。

 惟清は、おもわず口もとにあらわれそうになった笑みを押し殺し、きまじめな顔をつくってこたえた。

「あいにく天気がくずれるかもしれませんが、雲間に見える十六夜月は風情があります。きっと一の君さまも、およろこびになるでしょう」

「うん!」

「それでは、時間を無駄にせず、いまからすぐに出かけましょう」

「うん!」

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