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牛車は早駆けになった。
と、そのときだ。空間が、まるで前後にずれるようにゆらいだ。
それは一瞬のゆれだったが、橋の両側の欄干のうえに、人の頭ほどの青白い鬼火がサァーッと列をなして現れ、宇治川も、青い一筋の光の川に変わった。速仁たちは異界に入ったのだ。
そして、一行が橋を渡りきる直前に、牛飼童が、
「ヒェェェ」
と叫び声をあげ、牛車は急停止した。
薄絹の白い舞衣をまとった巫女姿の女人が、両腕をひろげて行く手をふさぎ、紫色の瞳で牛車をにらみつけていた。肌が、染められているように赤い。そして、鉄の輪に三本脚が付いた台を逆さに頭に載せ、その脚には松明が燃えている。
「若宮は車からお出にならないように。よろしいですね」
惟清は、まだ事情がのみこめない速仁にそう言いのこし、車から飛びおりて女のまえに立ちはだかった。
「橋姫さまとお見うけいたします。どうかお許しいただき、これをお納めください」
惟清は懐から、ありったけの銅銭を取りだした。だが、
『カカカッ』
という冷ややかな笑い声とともに女は鬼に変化し、ひと息でそれを、惟清の手から吹きとばした。鉄輪のまん中から角が二本、ニョッキと生え、口が耳もとまで裂けている。
『欲しいのは、ほかの女をほめた男の命じゃわ!』
「それではわたしの命を奪え。わたしがその張本人だ」
毅然としてそう言いはなつ惟清を、鬼女は目をつりあげてにらんだ。
『われの耳に聞こえてきた声は、もっと若い男のものであったようだがな、……カカカッ』
従者たちは、牛車を背にして惟清の左右に一列にならび、いつでも斬りかかれるように身構えた。
「お、おれです……」
そう言いながら、まっ青な顔の速仁が、車から降りてきた。両手がこきざみに震えているが、その声はしっかりとしていた。
「若宮、どうして!?」
鬼女から守ろうとかけよってきた惟清に、速仁は、すまなさそうな顔でこたえた。
「おれが惟清とのおとなの約束を守れなかったせいだから。ごめん。もし惟清がおれの身代わりになったら、おれ、一生後悔するから」
「若宮……!」
「それにおれたち、全員で九人だぞ。きっと勝てるよ!」
「そ、そうでした。戦いましょう。よーし」
全員が鬼女に刃をむけた。速仁も、惟清に守られつつ、父である東宮から授かった懐剣を抜いた。
――おれ、蹴鞠だけじゃないんだぞ。乗馬だって弓矢だって、太刀だって練習しているんだからな! 桜ちゃのことをほめたら怒るヤツなんか、絶対にやっつけてやる!
『ううぅぅ、小癪なぁぁ!』
鬼女は怒声をあげながら、速仁の頭をつかもうと、右腕を伸ばして跳びかかってきた。その憤怒に燃える形相に、速仁は背筋も凍る思いだった。
――うわぁぁ、おれ、やられるかも……。
ギャァァー
悲鳴をあげたのは鬼女のほうだった。惟清の太刀がその右腕を、速仁の髪に届くすんぜんに斬り落としたのだ。
『い、痛いわ。ひどい人たち!』
鬼女は三十歳ほどの清楚な女に変化し、背中をこきざみに震わせながら、橋のうえに横たわっていた。鉄輪の替わりに、明るい紫色の被衣をかぶっている。角はなくなり、赤かった肌も、いまは病的なほどに白い。
あぜんとした顔で速仁らが取りかこむなか、女はよろめきながら立ちあがった。
『ひどいわ、あんまりだわ、おぼえてらっしゃい』
女は泣き顔でそう言いのこし、祠の横の欄干にヒューっと飛びあがるや、川に身を投げた。
速仁たちが欄干から下に目をやると、青く光る川面に被衣だけが浮いている。だがそれも、光の川に呑みこまれるようにして、たちまち消えていった。そしてその光も淡くなり、速仁たちがみつめるなか、夜の宇治川はいつもの黒い流れを取りもどした。
「あれはいったい、なんだったのだ?」
みなが異口同音につぶやいたとき、欄干の上で浮遊していた鬼火が、ひとつずつ消えはじめた。
「若宮、お怪我はありませんでしたか?」
惟清が片ひざをつき、あらためて速仁に声をかけた。
「うん、おれはだいじょうぶ、ありがとう」
速仁がそう返事したとき最後の鬼火が消え、ふたたび空間が、前後にずれるようにゆらいだ。速仁たちは、異界から、もとの世界へもどったのだ。
惟清は立ちあがり、
「さっ、遅くなりましたから、早くもどりましょう」と、
速仁をうながした。
「うん、そうだね」
速仁はうなずいたあと、ゆっくりと言葉をついだ。
「もういちど言うね。約束を守れなくて、ごめん。そして、ありがとう」
「はい、これからは、しっかりと守ってくださいよ」
「ハハハ!」
九人全員が笑っていた。
「なぁ、惟清。あれを放っておいて、いいのかな?」
速仁が指さしたさきには、斬り落とされた鬼の右腕がころがっていた。
「たしかに、このままではまずいですね……。わたしが預かり、これが悪さをしないよう、どこかに納めましょう。おそらく、安倍晴明さまに封印していただくのが、もっともよいかとぞんじます」
惟清はそう言うと、鬼の腕に近づいた。赤黒くゴツゴツした表面が、するどい剛毛にビッシリとおおわれている。惟清は、しかめ面をしながら、それを懐紙に包んだ。そして、
「おい皆、いそいでもどるぞ。まだ油断するなよ」
と一同に命じた。
惟清は速仁ひとりを牛車に乗せ、あたりを警戒しながら急ぎ足で別荘へむかった。
別荘の母屋にもどった速仁は、女房らに気づかれないよう、コッソリと寝所へ忍びこもうとした。屏風のうしろで女房がふたり、横になりながら、ひそひそ声でなにやら話しているようだった。速仁は、式部の名前が聞こえたような気がしたので、おもわず立ち止まって耳をそばだてた。
「三途におられるそうよ。宇治の山寺の阿闍梨さまがそう仰っていると、この別荘に出入りする下人たちがもうしておりましたわ。不妄語戒を犯したとかで……」
「乳母殿の母上とちがい、わたしたちは物語など書けない凡人でよかったですよね。きっと往生できますよ」
「そいうことですかね。ほほほ」
速仁には、女房たちがかわしている言葉の意味が、生半可にしかわからなかった。
――乳母殿の母上って、式部ばあちゃんのことだよな。〈サンズ〉ってところにいるのか!? あじゃりさまといえば、内裏にも出入りする偉い坊さんだよな。その人が言っているのだから、まちがいないよな。〈サンズ〉って、どこなのだろう? 〈フモウゴカイ〉って、どういう意味だ?
そして速仁は、肩をすくめながら口もとをゆるめた。
――まぁっ、いいか! わからないけれど、桜ちゃんに教えてあげよう。きっと喜ぶぞ。式部ばあちゃんに会えるなら、おれも会ってみたい!
垣間見えた桜子の顔と、やさしかった式部の顔を思いうかべながら、速仁は衾にくるまった。
――おやすみ、桜ちゃん。今夜の君は、いままでで、いちばんきれいだったよ。




