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桜人 ―― 源氏異聞  作者: 塔真 光
第3章 観音
18/160

3-4

 翌朝は東宮御所にもどる日だった。速仁は、漢詩文の勉強をするという口実をこしらえて、桜子を自分の牛車にまねいた。


「おはよう、宮ちゃん!」

 桜子は笑顔で乗りこんできた。

 それにつづいて賢子も、

「よいしょ! おはようございます」

と言いながら御簾を上げて入ってきた。この数年で賢子は、すっかり激ポチャになったようだ。

「若宮さまがおしゃべりばかりしないように監視せよと、大殿から仰せつかりました。急にお勉強熱心になられて、なにかありましたの?」

 速仁は、乗りこんできたのが賢子だったのでホッとした。賢子はほかの女房たちとちがい、口うるさくないのだ。

「昨日は昼間ずっと蹴鞠しちゃったから、ちょっとは勉強しないとね」

「若宮さま、わたしも蹴鞠が好きですよ。もちろん、自分がするのではないです、ほほほ。お若い男君たちの蹴鞠を御簾越しにのぞき見するのが、女房の楽しみのひとつなのです。それから正月には、男踏歌(おとことうか)を御所で拝聴するのも、とても楽しみです。母が書きました物語にでてくる夕霧の君さまのような、若々しい声が冬の冴えきった空の下で凛とひびくのですよ。それから、お若い方々の舞を拝見するのもすてきですよね。いつの日か若宮さまが、光る君さまのように、帝や東宮さまの御前で、夕陽を浴びながら青海波(せいがいは)を舞われる姿を拝見したいものです。きっと、神さまも空からご覧になって感心されますよ。それから……」

 ながながとつづきそうな賢子の話しに、勉強が気がかりの桜子は、とうとうしびれを切らした。

「もぉぉ、お母さまは、おしゃべりばかり! 宮ちゃんがお勉強できないでしょ」

「まぁぁそんな、お勉強なんていいじゃない。若宮さまも、そう思われるでしょ」

「うん、もっちろーん。アハハ」

「もぉぉ、宮ちゃんまで……」

 桜子も、口では怒っていたが、やはり内心は楽しかった。桜子と速仁がふたりで勉強しているところに賢子が顔を出せば、いつもこうなのだ。賢子のおしゃべりがえんえんとつづき、勉強どころではなくなる。


「それから、夜ふけに通りすぎる車のなかから聞こえてくる笛の音も、風情がありますよね。どこへ忍んで行かれる男君なのかと、つい思ってしまいます。ほほほ」

 速仁は、よく動く賢子の唇をみつめながら、昨夜の大冒険を思いだした。

 ――乳母ちゃーん、おれ、昨日、人生初めての夜歩きしたんだぞ。でも、惟清から秘密にしておくよう言われているからね。おとなの約束なんだ。エヘッ。

「それから、月夜に男君たちが管弦の遊びをしておられるのも、すてきです。その合奏の音が、女房たちの夜の楽しみなのですよ」

「おれも合奏を聴くのが好きだよ。昨日の夜だって、宇治川のむこう岸から聞こえてきた」

「まぁぁ、若宮さまが聴いておられましたのね。お恥ずかしいことで。ほほほ」

 袖で口もとを隠す賢子に、桜子はあきれ顔をむけた。

「もぉぉ、お母さまったら。宮ちゃんたちに聞かせるんだと、はりきっていたのはお母さまじゃない!」


「おれだけじゃなくて惟清たちも聞いていたよ。とくに琵琶の音がすてきだった」

 速仁は桜子を上目づかいで見ながら、口もとをほころばせた。

「まぁぁ、若宮さまったら。どういたしましょう。ほほほ。ありがとうございます」

 笑顔での賢子のこの言葉に、速仁は顔をひきつらせた。

 ――えっ!? えぇぇぇ、琵琶を弾いていたのは、桜ちゃんじゃなくて乳母ちゃんだったの!? だったらおれ、乳母ちゃんをほめたので鬼に狙われたことになるじゃない! そんなの、あんまりだぁぁぁ!


 速仁は、おそるおそる桜子にたずねた。

「それじゃ桜ちゃんは、なにを弾いていたの。もうひとつ琵琶があったの?」

 ――お願いだぁぁ、そうだと言ってください! 一生のお願いです!

「わたしは箏よ。でも、あまり上手じゃなかったでしょ」

 ――あまり? 桜ちゃん、あれは「あまり」じゃなくて「まったく」と言ったほうが正しいよ、トホホ……。

 だが速仁は、情けなさを隠して顔を左右にふった。

「そんなことないよ。けっこうよかったよ、ハハハ」


 笑っているのか泣いているのかわからない顔をしている速仁に、賢子が、

「若宮さまは、琵琶か箏か、どちらがお気に召しましたか?」と、

真顔でたずねた。

 ――そんなぁぁぁ、乳母ちゃん! 答えにくいこと聞かないでよ。

「ハハハ」と、

そら笑いをつづける速仁に、賢子は肩をすくめながら言葉をついだ。

母娘(ははこ)で張りあっているわけではないのですよ。でも、どうも娘の箏は、いまひとつでして……。亡くなった母は箏がとても上手でした。生前にこの娘がもっと教わる時間があればよかったのですけれどね。母も、亡くなるまでの一、二年は書きもので忙しそうで……」

 賢子が言いおわらないうちに、速仁が口をひらいた。

「式部ばあちゃんは箏が上手だったよね。おれも桜ちゃんといっしょに、よく聞かせてもらったよ。いまは〈サンズ〉で弾いているのかな」

 だがすぐに、速仁は小首をかしげた

「えっ、どうしたの?」

 桜子と賢子の顔色がとつぜん変わったのだ。速仁は、その変わりようを見て、自分がなにかとんでもないことを口走ってしまったような気がした。

「宮ちゃん、それどういう意味?」

「ど、どういう意味って? なにが?」

「おばあちゃまが三途にいると、いま言ったでしょ」

「うん、それを桜ちゃんに教えてあげようと昨日から思っていた。宇治の山寺の阿闍梨さまが、そう仰っているそうだよ。昨日の夜、女房たちが、ひそひそ声でそう言っていた」

 賢子の顔はふだんの柔和さをすぐに取りもどしたが、桜子は、いまにも泣きだしそうだった。


速仁は、自分の生半可さにようやく気づき、

「ねぇ乳母ちゃん、〈サンズ〉ってどこなの?」と、

おそるおそる賢子にたずねた。

 すると賢子は、笑い声をまじえながら答えた。

「若宮さまは、ごぞんじなかったのですね、ほほほ……。どうりで、ほほほ」

 そして納得顔になり、言葉をついだ。

「三途のひとつが地獄で、そこに母がいると、女房たちが噂していたようですね」

「えっ、式部ばあちゃんがそんなところにいるわけないよ! そんなこと、絶対にありえない」

「ええ、もちろんそうですよね。でも世のなかには、母の悪口を言いたてる者たちがいるのです。その女房たちは、不妄語戒についても、おしゃべりしていたのではないですか?」

「うん、そう言っていた。それ、どういう意味なの?」

「嘘、偽りを言ってはいけないという、仏さまの戒めなのです。源氏の物語は嘘と偽りの物語なので、それを書いた母は地獄に堕ちた、というのです。わたしも、そういう噂話を耳にしたことがありましてよ。おかしいでしょ」

 速仁には、なぜ賢子が笑っていられるのか、わからなかった。桜子の顔をうかがうと、やはり、まだ泣きそうな顔をしている。


 桜子の目が潤んでいたのは、悔し涙のせいだった。

「お母さまは、なぜ平気でいられるの? おばあちゃまが地獄なんかにおられないのは、わかりきったことだけれど、それでも、やはりわたしは心配だし、それに、そんな悪口を言われて、おばあちゃまがかわいそう」

「そういう噂話をする人たちは、おばあちゃまの才能を妬んでいるのです。だから、かわいそうなのは、おばあちゃまではなく、妬むことしかできない人たちのほうですよ」

 それでも桜子と速仁は心配だった。式部がもし地獄に堕ちていたとしたら……

「ねぇ乳母ちゃん。不妄語戒はどうなの? 源氏の物語は、歴史書とちがい、本当のことが書かれているわけではないだろ。だから万が一にも式部ばあちゃんがそんな怖いところにいるなら、なにか供養して助けてあげなきゃ」

「母のことを心配していただいて、ありがとうございます。若宮さまは、ほんとにおやさしいですね」

 賢子はそう言うと、ますますおだやかな顔で言葉をつづけた。

「母はよくもうしておりました。人の世の真実は、できごとを語る歴史書などにはなく、人の心を語る物語のなかにこそあると。だから母は、物語を通じて真実を語ったのだと、わたしは信じています。母はだいじょうぶですよ、若宮さま。供養などすれば、噂話をする人たちを、かえっておもしろがらせるだけです。それに、不妄語戒を破ったかどうかをお決めになるのは、阿闍梨さまではなく、仏さまですもの。ほほほ、これも母からの受け売りですけれどね」

「うん、そうだよね。おれ、なっとーく!」

 速仁は安堵の表情を浮かべ、桜子もすこし安心したようだった。


「ただ母には、読んでもらいたいことが、もっとあったのかもしれません」

 賢子は、牛車の御簾に目をやりながら独り言のようにそう言ったあと、桜子に顔をむけて言葉をついだ。

「憶えていて? おばあちゃまのお葬式がおわってから、遺品を整理したでしょ……」

 式部は五四帖を継ぎ足そうとして草稿を書きためていたはずだが、それが屋敷内のどこにも見あたらなかった。草稿もたいせつにしまっておく人だったから、不思議だ。なんらかの事情があって、焼き捨てたのか、どこかに隠したのか、それとも盗まれたのかもしれない。五四帖ですべてを書きつくしたと、本人は言っていた。だけれど、亡くなる直前まで、とても熱心に文机にむかっていたのだから、五四帖で満足していたとは思えない。ひょっとすれば、新しい帖がいくつか完成していて、どこかに眠っているのかもしれない。草稿や、完成した帖が、いつか見つかるかもしれない。もしそうなれば、式部が絵空事の物語を通じて真実を語ろうとしたことが、きっとほかの人たちにもわかってもらえるはずだ――

 賢子はそう語りおえると、扇子をパタパタとせわしなく使いだした。

「おばあちゃまは、冥土のなかまで秘密を持って行っちゃったのでしょうね。本当のところはどうなのか、それがわからないのは残念だけれど、しかたないわね。――あぁぁ、それにしても車のなかが暑くなってきたわ。はやく東宮御所に着いて、涼みたいわね」


 速仁は、桜子の顔をソッとうかがった。

 ――桜ちゃんは、さっきからずっと落ちこんでいるよな。おれが変なこと言ったせいだ。ごめんな。おれがもっと勉強しておけば、女房たちの噂話の意味がすぐにわかったんだよな。その場でとっちめて、桜ちゃんの耳に入れたりしなかったのに。おれって、やっぱりバカだ。……わっ!? ど、どうしたの急に笑顔になって!?

「ねぇ、お母さま。お願いがあるの。宮ちゃんのお勉強に初瀬詣のあいだもずっとつきあって、たいへんだったから、ひとつだけお願いをきいて欲しいんだけど……、いいでしょ」

 ――桜ちゃんがこういう顔をするときは、要警戒だよ乳母ちゃん。それに、おれのことを()しにつかって、ひどいや! そりゃ、たしかにおれ、バカだけど……。

「ええ、いいですよ。そんなにたいへんだったの?」

 ――な、なんだよ、乳母ちゃんまで!

「あのね、長谷寺の観音さまにお詣りしたのだから、つぎは、石山寺の観音さまにもお詣りしたいの。そうしないと、石山の観音さまが、ひがまれると思うの」

 ――そんなわけないだろ! 観音さまは心が広いんだぞ! なにを考えているんだよ桜ちゃんは。おれよりバカだ。

「それに、おばあちゃまは石山寺に参籠されたおかげで、源氏の物語を書きはじめることがおできになったのでしょ。石山寺は源氏の物語の聖なる地だと、女房たちが言いそやしていました。だから、石山の観音さまにおたずねしようかと思うの。五四帖のほかにも、おばあちゃまはなにかお書きになったのかどうか。下書きだけでなく、完成した帖があるのかどうかも。あるなら、その場所もおたずねする。それを見つけることが、本当の意味での、おばあちゃまへの供養になると思うの」

 ――へぇぇ、やっぱり桜ちゃんはおれより頭がいいや。

「はーい賛成! おれも石山寺に行きたいでーす。ねぇ、乳母ちゃん、いいだろ。父上に、乳母ちゃんからもお願いしてよ! 父上は、乳母ちゃんの頼みだったら、よくおききとどけになるから」

 速仁は、自分の扇子を取りだし、暑がりの賢子を両手で力一杯あおいだ。

「涼しい?」

「まぁぁまぁ、若宮さま、ありがとうございます。とても涼しいです。それでは三人そろってお詣りいたしましょう。おふたりにとって初めての石山詣ですね」

 車のなかは三人の笑顔でいっぱいになった。


 昼すぎに京都に入った桜子の一行は、五条大路で鴨川を東から西へ渡った。速仁は、ますます暑くなってきた車中に北からの川風を入れようと、橋を渡りはじめるとすぐに物見の窓を開けた。北山連峰と、そこから流れ出る鴨川の川面が、窓越しに見渡せた。

 ――あっ、鳥さんだ! 水のなかに脚を浸けて、気持ちよさそう。

「おーい、こっちだよー」

と言いながら、速仁は、両手首を窓から出し、翼のようにパタパタさせた。


 速仁が、空を自由に羽ばたける鳥の気分になっていると、とつぜん、桜子の大声が耳のうしろでひびいた。

「あっ、宮ちゃん、漢詩文の勉強を忘れていたよ。どうしよう!?」

「まぁぁ、あなたはよく思いだしたわね。わが娘ながら驚き! でも、忘れたものはしかたありません。明日からまた頑張ればよいのです。明日も忘れたら、明後日から頑張りましょう」

「もぉぉ、お母さまときたら。お母さまは勉強の監視役なのでしょ!」

「あっ、そうでした。ほほほ」

「だいじょうぶだよ、桜ちゃん。おれ、三途と不妄語戒をしっかり覚えたから」

「そうですね、若宮さま。これはきっと、母のおかげですよ。大殿には、若宮さまが難しい言葉をたくさん覚えられたと、お伝えしておきましょう」

 車のなかは三人の笑い顔で、またいっぱいになった。

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