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速仁が自身の出生にかかわる秘密を知って三日後の昼下がりのことだ。兼隆邸の簀子縁で、惟清が平身低頭していた。
「一の宮さまは、あいかわらず引きこもっておられるのか?」
惟清を呼びつけた兼隆が、廂から、いらだたしく声をかけた。
「はい。曹司には、わたくしだけしか出入りを許されておりません。もうしわけございません」
惟清は、頭を低くしたまま、恐縮しきった声で答えた。
「予定をきりあげ、あわただしく東宮御所にもどられてから、ずっとではないか!」
「もうしわけございません」
「東宮さまも、たいそう心配しておられる」
「もうしわけございません」
「いったい、なにがあったのだ!?」
「もうしわけございません」
惟清は、同じ言葉をくりかえすばかりだった。
惟清自身も、わけがわからないのだ。三日まえの夜、桜子のようすを機嫌よく賢子に伝えにいったはずの速仁が、血の気のうせた顔で曹司にもどってきた。そして、いまからすぐに東宮御所へ帰りたいと、せっつかれた。こんな夜更けにどうしたものかと迷いながらも、惟清は牛車に同乗して御所へもどった。それから三日三晩、速仁は、曹司とその簀子縁から一歩も出ず、惟清をのぞいてだれもよせつけないのだ。
惟清と兼隆はそれぞれ、賢子に事情をたずねようと、昨日、賢子邸に人をやった。ところが両方の使者は、ともに手ぶらで帰ってきた。重い物忌みで、賢子のほうも、だれとも面会できないという。
「一の宮さまは、病で伏せっておられるわけではないのだな!」
兼隆は、いまいましそうな声で、惟清にふたたび問いただした。
「そういうことはございません。昼間は寝転がってウトウトしておられますが、夜になると格子窓を上げ、ときおり簀子縁にも出て、夜明けまで月をながめておられます」
兼隆は、脇息によりかかったまま庭に目を移し、ちいさく舌打ちをした。
――一の宮になにがあったというのだ。おまけに賢子までが……。まさか、ふたりが源氏の新帖をみつけ、出生の秘密に気づいたのではあるまいな……。道満は、いったいなにをしているのだ、チッ!
賢子が産んだ双子の姉弟。その弟が速仁であることを知っているのは、兼隆自身と、銀杏の葉の文様を結束の印とする秘密結社の同志たち。それに、藤原道長だけのはずだった。
速仁と桜子が生まれる前日のこと、道長の六女である東宮妃の嬉子が、実家の道長邸で男児を出産した。道長は手ばなしでよろこんだ。これで外戚としての地位が、ますます強固になるのだ。だがその赤子は、お産の二日後に亡くなった嬉子のあとを追うように、産声をあげて三日目に短い命を閉じた。突然死だった。
その日、産養いの祝いに来ていた兼隆は、加持祈祷によって蘇生を試みるよう、伯父の道長に勧めた。そして同時に、賢子が二日まえに男女の双子を産んだことを道長に伝え、畜生腹で縁起が悪いから、男の子のほうを、どこぞへ養子に出すか、高僧にあずけたいという意向をもらした。道長は目を輝かせ、心あたりがあるので男の子をすぐにひきとろう、ともうしでた。そしてその日のうちに惟清は、双子の弟を道長の手にわたしたのだった。
ことは、兼隆の思惑どおりにすすんだ。翌日、嬉子の産んだ子が加持祈祷のおかげで息を吹きかえした、とのしらせが、道長から兼隆へもたらされた。大量の金品がそえられていた。さらに翌日には、双子の弟を、素性を伏せて横川の僧都にあずけた、とのしらせも道長から届いた。そして一月後、賢子が乳母として道長邸に参上した。賢子から、あずかった若宮の左胸に小さな赤アザがあることを聞きだした兼隆は、陰謀が成就したことを確信したのだった。
左胸の赤アザは、速仁が賢子の子であるまぎれもない証だ。その証を知っているのは、兼隆と、紫式部邸に仕える老女房。そして、賢子のお産のおりに加持祈祷をした験者がふたり。それらの証言を使って道長を脅し、引退に追いこむ。そして、知らぬふりをして速仁を東宮に就ける。速仁をめぐる出生の秘密こそ、兼隆が握っている切り札だった。
庭に目をやりながら十五年まえのできごとを思いかえしていた兼隆は、また舌打ちをした。そして、あらためて惟清にむかって、いまいましげに口を開いた。
「明日の夜は、東宮さまのご主催で月待ちの宴が宮中でおこなわれる。それには一の君さまもかならず臨席されるよう、取りはからえ。よいな」
「はい、こころして、そのように努めます」
そうは請けあったものの、惟清には自信がなかった。蹴鞠をしましょう、賭弓をしましょうと、この三日間、なんど声をかけたことか。だが速仁は、耳を貸さないのだ。
惟清は、どうしたものかと腕組みしながら、重い足取りで兼隆邸から東宮御所へもどった。
惟清が速仁の曹司へ直行すると、簀子縁で女房と舎人たちが困りはてた顔をしていた。賢子からの使者が速仁あてに唐櫃と手紙を持ってきたが、曹司へ入る許しが速仁からもらえないという。
惟清は手紙をあずかり、唐櫃は簀子縁に置かせたまま女房たちをさがらせ、ひとり曹司に入った。
速仁は仰むけになり、両手を頭のうしろに組んで天井をみつめていた。
「ただいまもどりました」
「おかえり」
聞きとれるか聞きとれないかの、かぼそい声で速仁は返事した。
「乳母殿からの書状をあずかっております。お読みになりますか?」
「………」
速仁はしばらく無言だったが、意を決したように上体をおこすと、居ずまいをただして文机のまえに座った。そして半身になり、左手を後ろななめに差しだした。
「乳母殿は出仕しておられないの?」
惟清は、
「は、はい……」と、
かろうじて返事はしたものの仰天した。「乳母ちゃん」ではなく「乳母殿」と、速仁は言ったのだ。
――いつまでも子どもっぽい呼びかたはよくないだろうが、それにしても……?。
惟清は、ふに落ちないまま速仁に手紙を差しだした。
速仁は読みおえると、唐櫃を曹司のなかへ運びこむよう惟清に頼んだ。
「源氏の物語が入っているそうだ……」
それは、紫式部が五年まえに、形見の品のようにして桜子に贈った自筆の五四帖だった。
惟清が大きな唐櫃を持ちあげあぐねていると、速仁が、やおら立ちあがり簀子縁にやってきた。
「ふたりで運ぼう」
「いえ、わたしひとりでなんとか……」
「石山寺で力を合わせただろ」
「は、はい……」
「千年先の世でも、おれ、一の君たちと三人で力を合わせたんだよ。……楽しかった」
――エッ!?
惟清は、
「それではお願いいたします」
と言いながらも、「楽しかった」という速仁の言葉づかいが気になった。
曹司に運びいれられた唐櫃のよこに座り、惟清は、
「いますぐにお読みになりますか?」と、
ためらいがちにたずねた。文机のまえに座りなおした速仁の背中が、この三日間とおなじように、さみしげに見えたのだ。
「うん、読むよ」
速仁はふり返らず、ポツリと答えた。
「どの帖をお読みになりますか?」
「最初から読む」
惟清は、〈桐壺〉帖を取りだし、速仁の目のまえの文机に置いた。そして、文机のうえに広げられたままの賢子からの手紙を手にとり、折りたたんでかたづけようとした。
すると速仁が、
「惟清も読めばいいよ。いいことが書いてある」
と、穏やかな声で言った。
惟清が文面に目をやると、そこには、ほんの三、四行、簡潔な文章がしたためられていた。
〈源氏の物語を読みかえすごとに、生きていくうえでのなにか励ましになるものを見つけてもらえれば、うれしいです。これは、母、式部の言葉です。わたくしも、いま、母が遺してくれた物語をあらためて読んでおります〉
読みおえた惟清は、ゆっくりと目を閉じた。
――なるほど、さすが式部殿だ。人の心をやさしく誘う言葉をお持ちだったな……。それにしても、乳母殿と若宮のあいだに、なにか、ただならぬことがあったのだろうか。




