― 檎葉 ―
どれ程の間、牟螺は、そうしていたのだろう。
「あ、、、」
ふと我に返れば、森の中を歩いていた。
歩きなれた、大地の感触が、足の下にある。
大きく息を吸い込めば、森の大気が肺を満たした。
眩しい木漏れ陽が燦々と降り注ぎ、瞬きを繰り返しながら眼を凝らせば、木々の彼方に、稲を干す肥沃な田畑が見える。
その向こうに、寄り添うようにして建てられた家々。
小浦の集落のあちこちで、炊事の煙が細く、上がっている。
昼が、近いのかもしれない。
「、、、、、」
強く握り締めたままの拳。
開けば、赤い墨が滲んではいたが、
「お、師さん、、、」
その人が書いてくれた退魔符が、皺くちゃになって出てきた。
厳しくも、優しい、そのまま山のような、師。
些細なことで、喧嘩別れして飛び出してきたが、持ち歩いている道具箱の中に、いつの間にか入っていたものだ。
「いつまでも、項垂れたままで、いられるか、、、」
鼻息荒く、一歩を踏み出せば、曲がっていた背筋が伸びていった。
「お師さんに、合わせる顔が無いじゃないかっ」
自分に言い聞かせるように呟けば、いつにもなく、前向きに里山に向き合える気がしてきた。
年々、細くなって来ていると言う小川の保全、肥えすぎた土壌の改善、成長を阻害する木々の伐採など、やらなくてはならない事が、まだ山ほど残っている。
「わいが、、、わいが守る山じゃ。わいが負うた、初めての山じゃっ」
いつの間にか、その足は山を駆けていた。
万華鏡のように、木漏れ陽が煌いて、秋の彩りが眩い。
再生を始めた里山には、栗鼠や野兎が遊び、物欲しげな顔の狐が、
「わいは、わい自身に負けてはいかんのだっ」
跳ねた。
「絶対に、いかんのだぁっ」
里山に響く、牟螺の声。
喧しい山守の背を、
≪ 、、、、、 ≫
椎の梢で、羽根を休めていた翡翠がつぶらな瞳で、いつまでも見つめている、、、
タオフィは、濡れ髪を布で拭きつつ、山頂に開けた境内の一画へ。
簡素な社、その後方の断崖絶壁からは、未開の峻険な山々が続き、神域として信仰を集めている。
「ねぇ」
切立ったその崖は、心の臓が弱いものが見たらどうなる事であろう?
鬱蒼と暗緑そのものの森が、遥か眼下だ。
タオフィは今、その崖の淵にしゃがみこんでいる。
琥珀色の視線の先。
足元からすぐの崖下に、突き出す赤き大岩があった。
大の大人なら、三人程度は大の字になれるであろうその上に、寝そべる不遜な人影が、一つ。
「無視、、、」
領布を腕に巻き直し、タオフィは淵を蹴った。
そのまま、伯の傍らへと舞い降りる。
参拝客が見ていようものなら、卒倒しかねるが、幸い辺りに人の気配は無い。
陽が暮れんとしている時分に訪れるのは、勝間大社の関係者だけだろう。
ふわりと甘く、カリンの香りが、伯の鼻腔を擽って、
「クシュッ、、、」
小さなくしゃみが、出た。
吹き上げる冷気が、清浄なる山の大氣が、心地良いのか、うつらうつらしていたところであった。
「確かに温泉って言ったけど、、、」
山の至る所で豊富に湧き出す温泉は、山頂の社へと延々と続く石段の登り口で、一般開放されている。
その乳色の湯は、打身や切り傷、関節痛に良く効くとされ、参拝帰りに立ち寄る人々も少なくない。
また、代々の神主らの屋敷がある中腹には、コバルトを多く含んだ青乳色の源泉があり、青竜の湯と謳われ、日々の禊はもちろん、湯浴みにと大切に守られている。
タオフィが使わせてもらった湯は、他でもない。
来賓用の離宮に引かれた岩風呂で、採れたばかりのカリンを、香り付けに浮かべてくれたのだ。
今頃、筝葉と蓉亜が、母子水入らずの時間を、過ごしている事だろう。
母子の久々の再会に、水を差すのも気が引けて、蓉亜が袖を引くのも構わず、伯を探しに出てきたところであった。
「楽しみにしてたのに、筝葉様の実家じゃない」
心にもない愚痴に、
「嫌なら一人で帰れ、、、」
肩肘ついて、背を向けられた。
「いや。せっかく、主様にお暇を頂いたんだもん。伯が帰るまで、あたしも帰りません」
「、、、、、」
無言だが、その背中が拒絶するような事は無い。
それが優しさなのか何なのか、タオフィには分からないが、それでも、
― 伯、、、 ―
ここに居てもいいのだと、許されている気がした。
欲した言葉を、贈り物を、ただただ与えてくれる者達は、掃いて捨てる程、いる。
けれど、傍らに在って、静寂を不快に感じさせぬ相手は、この相手の他にない。
幼馴染と呼ぶには、共有した時間は余りにも短く、無論、恋仲でもない。
いつだって、一方的だ。
ただそれを相手は、やんわりといなす。
否定するでもなく、肯定するでもなく、ただ、タオフィで在る事を、そのまま許しているような、、、
それはまるで兄と妹のような、そんな絵空事。
― それでも、、、 ―
とタオフィは思う。
今更壊し、手放すには、痛みが伴う事を、知っているのだ。
「そう言えば、あの幽鬼、どうしたの?」
気配が無い事に気づいて尋ねれば、
「檎葉はとやかく言わぬが、この社に穢れを持ち込んだと知れれば、それだけで筝葉の親父に何を言われるか、、、」
しゃれこうべは、どこぞの木の枝にでも引っ掛けてきたらしい。
今頃、麓の森のどこかで、落ちつかなげにしている事だろう。
「そ、、、っか、、、」
タオフィは、華奢な背中を見つめた。
未開の山々と向き合う、孤高の存在。
その背中に、タオフィは背中をくっつける。
「おい」
わずかに身じろぐのを、
「昨日、どっかの山で伯があたしを支えてくれた時ね、、、」
タオフィは、構わず背中を預けた。
見上げた空には、青さだけが、足りなかった
漂う、灰色の雲。
重たげな曇天が、いつかの煙に、見えた。
「あたし、伯とずっと会う前、生まれ育った大陸にいてさ」
「、、、、、」
「お父さんにくっついて、旅をしてたんだ。年中雪に閉ざされた大地や、熱砂の海、風狼が駆け抜ける草原。あたしのお父さんね、偉い御坊さんの護法童子で、すっごく強い剣士だったの」
末っ子として産まれたタオフィは、神通力が無いために、野で生きる事を母に諭された。
天神に仕えるため、共に地上で生きる事が叶わない。
不憫に思った父が、タオフィを引き取ったのだった。
「大師は、すっとぼけたおじいちゃんだったけど、お弟子さん達がね、皆、しっかり者で」
まだ子狐であったタオフィは、弟子達の熱い志故に巻き起こる口論に耳をそばだて、老いた大師の膝から通り過ぎる景色を見、夜ともなれば、父の温かい手の下で眠った。
父は、御仏の教えを説いて大陸を巡る大師について、その身を獣や賊から守るのが常であったが、けして殺生はしなかった。
「ずっと、今だってずっと、続いていればって、思ってる、、、」
あの日を、除いて、、、
轟々と、腹腔を抉る地脈の声が、今もまだ、耳に、残っている。
その身を焦がさんと迫る焔が、今尚、記憶の中に、燻っている。
「大陸の南西に、ヒョン、って言う活火山があるの」
なだらかな稜線も優美な活火山、ヒョン。
「その年初めの赤子を、山に差し出す土着信仰にさ、大師は、口を挟んじゃった、、、」
灼熱の大地を裸足で、村の神官達に連れ立てられるようにして歩み去るのを、タオフィは父の震える拳の向こうへ、見送った。
その遠い日の光景。
思い出せば、じわりと、涙が込みあげる。
ずっと、秘めていた、その記憶。
揺り起こされてしまった以上、タオフィは、語らずには、誰かに吐き出さずには、いられなかった。
『老いぼれと、その子の未来を秤に掛けるでもない。お前達は、その歩みを止めてくれるな。わしの志は、いつでもそなたらと共に在る、、、』
その微笑を、タオフィは一生、忘れないだろう。
皺深いその顔は、いつもの穏やかな大師のものだった。
細い、悲鳴染みた読経続く中、長き年月の末に錆付いた錫杖が、この日ばかりは耳障りな遊環が触れ合う音を響かせていた。
音が小さくなるにつれ、大師の痩躯は、神官達によって引っ立てられるようにして、小さくなって行った。
見上げた先は、細く噴煙上げる、噴火口付近。
米粒となったその痩躯が、呆気なく突き落とされた瞬間、温厚な父は目を見開き、牙を剥いた。
そして、
「あいつらったら、ホントひどいのっ!!神官が邑を牛耳るのに、教えを持ち込む余所者は邪魔だからってっ、、、」
たまらず追いかけた弟子達は、神官と揉み合いながら、火口に投げ飛ばされていった。
そして、
「だから、、、」
顔に当たったそれは、鈍い光だった。
鈍色の空の雲間から、差し込む陽の光のような、、、
「だから、あんなやつ、、、」
顔を上げたタオフィは、塗れ光る大剣を抜き放つ父を、見た。
刃を返す際の鍔鳴で、今だに眼を覚ます時もある。
温厚な父が、豹変してしまった瞬間を、幼いタオフィは見てしまったのだ。
無我夢中で、父の足元に身を寄せれば、
『タオ、眼を閉じて、じっとしておいで、、、 』
抱き上げられ、父の領布に、包まれた。
父の領布。
それは、地仙や神霊が産まれ持つ、荒ぶる属性。
凍てつく土地でも、灼熱の大地でも、彼の身を守らんとする定めによって形を成さしめた、神器。
娘の前。その身を取り巻く感情を押し殺さんとする声音は、返ってひどく掠れ、垣間見た父の横顔と相俟って、それは恐ろしいものだった。
― お父さん、、、 ―
嗚咽が、喉から込みあげて、
「でも、、、あたし、、、ホントはちゃんと分かってた、、」
タオフィは、自分の肩を抱いた。
「地脈が、欲しがってたのはっ、、、赤ちゃんでも、大師でもないっ、、、」
細い顎先を伝う涙が、毀れて弾けて、幾つも白い岩肌に染みを作った。
タオフィは、震える声を、記気力で絞り出す。
「あたし、、、あたしだって、、、」
ヒョンに近づく程に、名を呼ぶその声は、禍々しさを増していった。
地鳴りに紛れて、風に乗って、時には夢に忍び込んで、、、
地仙級の間に生まれた娘は、そこを縄張りとする自然神霊にとって、最適の眷族であったのかもしれない。
「怖くて、言えなくて、、、でも、ううんっ、、、ホントは大師も、気づいていたんだ。お父さんだって、、、」
タオフィは声を出せず、父が化身を解き、理に逆らう様を、その頭上高くへと舞い上がりながら、食い入るように見つめていた。
守人を失い、意義を失った男は、抗う事を選んだのだ。
その刃は、俄かに噴煙を朦々と立ち上られ始めた火口から、逃げるようにして駆け下りてくる神官らを、あっけなく刎ねた。
噴出した血飛沫を浴びて、咆哮する父の声に、地鳴りが交じる。
声の限り、父を呼ばなくてはいけないのに、、、
タオフィは、灰色一色の噴煙に包まれながら、それでも父の姿を探さんと、瞬きを忘れる事しかできなかった。
視界を塗り潰された噴煙の中、父は嵐を喚び、稲妻でもって打ち砕かんをしたのかもしれない。
火口から吐き出される灼熱したマグマは、赤黒い無数の大蛇のように、うねりながら山肌を覆い、下っていった。
これは後から、遙絃に聞いた事だが、、、
七日間、空は立ち込める漆黒の積乱雲によって陽の光も差し込まず、大地は、赤き大蛇によって蹂躙された。
まさにその最中、タオフィは父の領布によって守られ、白い中空を漂っていたのだった。
「あたしが、皆を死なせたんだ、、、」
地上の異変に駆けつけた母は、燻り続ける死滅した大地を食い入るように見つめ続ける我が子を見つけ、空に連れ帰った。
何も語らぬ子狐は、野狐にも等しい。
袂を分かったと言え、慈しんだ男を死なせた娘だ。
傍に置くのは、歯痒い。
やはり、野に放たん。
記憶を消され、領布も取り上げられる寸前、不憫に思った天狐遙絃が、後見役の名乗りを上げた次第だ。
「みんな死んじゃったのに、あたしだけ、生きてるって、、、ずるいな、って思う」
母にも語れなかった、あの日の出来事。
タオフィは、一息に吐き出した。
年月を経て、あの時抱いた感情が薄れゆく中、揺り起こされた記憶。
本当は、誰かに聞いて貰いたかったのかもしれない。
自分を、何度も、何度も、戒めるために。
「、、、、、」
伯は、案の定、何も言わなかった。
いつものように、話しなど聞かずに眠っているのだろうと、タオフィは思った。
それで良いのだ。
意見など、求めていない。
赦しなど、在ってはいけない。
沈黙こそが救いであり、今を生きるタオフィにとって何よりも、心や安らぐものであるのだから。
涙を拭いて、空を見上げた。
ぼやける、空。
ぷくり、また、ぷくり。
涙は込みあげ、止めどなく頬を伝う。
引き結んだ唇は震え、どこか遠く、轟く雷鳴が、聞こえた。
「っ、、、ぅっ、、、」
喉を突く、嗚咽。
どうしたら一番良いのか、分からない。
それ自体が、今生で負った罪なのかもしれない。
ただ、思い出せば、それがいつももどかしく、胸を締め付けるのだ。
― あたし、泣いてばかり、、、 ―
その頬に、ぽつりと、雨粒。
ぽつ、、、ぽつつ、、、ぽつぽぽつつりりり、、、
生暖かい雨風が、緑の香りを運んでこれば、辺りは風が巻きだした。
「、、、、、」
涙で滲むタオフィの視界が、突然、塞がれた。
「は、く、、、?」
鴉色の長袖が、掛けられたのだ。
「ずぶ濡れは、御免だ、、、」
どこかぶっきらぼうな物言いに続いて、腕を取られた。
「え、あっ、、、」
力強い、跳躍。
高く崖上に舞い上がり、張り出した拝殿の軒下へ、駆け込んだ。
「、、、、、」
「、、、、、」
掴まれたままの手首が熱く、痛い。
掛けられたままの長袖で、傍らにいるはずのその人の貌すら、見えない。
それでも、
「、、、、、」
『離して』なんて、欲しくない。
今は、誰かにこうして掴んでいてもらわなければ、この場に立っていることすら叶わない、ひどく脆弱な生き物のような気がした。
雨音が、忙しなく大地を穿ち始める。
「、、、、、」
「、、、、、」
降り出した雨は、しばらく止みそうにない、、、
橡や椎、檜。
色づき始めたその葉の先で受け止めた雨粒は、雫となって煌いて、大地へと還る。
大地を覆う下草に触れ、砕けるものや、そのまま枯れ草の上に溜まるものまで。
虫食いの葉の先に、人知れず結ばれた雫は、
ポタタっ…
「おや、、、」
調度、その真下。
獣道を歩いていた者の、傘に落ちて、砕けた。
ぬかるみ、露を跳ねる大地を踏みしめて、裾が汚れるのも構わず斜面を登ってゆく。
その雫が落ちた時、調度、その者は瘤だらけの檜の古木の前で、足を止めていたところだった。
くるりと、傘が回り、
「そんなところで、一人で雨宿りかい?」
白い繊手が伸びて、いつ朽ちて折れたともしれぬ枝に掛けられたしゃれこうべに触れた。
≪ ほぅ、、、 ≫
白い溜息が、その頭上で毀れた。
「蟲姫、、、」
≪ これは蒼奘様。主に、ここで待てと、命じられましたの、、、 ≫
蟲惑的な表情で、唇を尖らせる美しい、幽鬼。
「みんな、筝葉のところに寄っているんだね。無事で何より。でも、なんでまた、君だけ?」
相対するのは、万年小春日和の死人還り、都守。
小首を傾げ、穏やかな闇色の眼差しで見つめられれば、
≪ わたくしは、死霊。それだけで、人や神霊に、忌み嫌われるには十分ですもの、、、 ≫
ついつい、卑屈にもなりたくなってしまう胸中を、吐露してしまう。
「蟲姫、、、」
蒼奘は、何故か不思議そうな顔で、蟲姫を見つめた。
雨に濡れたしゃれこうべを、枝から抜き取れば、
≪ あ、いけません。ここに、居なくては、、、 ≫
「一人きりで、雨に濡れているのを、放っておけないよ」
蟲姫の制止の声など、なんのその、そのまま腕に抱いて歩き出した。
「ねぇ、許してくれるだろう、檎葉?」
≪ えっ、、、 ≫
森に一陣の風が巻き起こり、蒼奘の髪を巻き上げ、雨粒は天高くへと舞い上がった。
それは、まさに一瞬の出来事で、蒼奘の声に応えた、勝間の地仙の答えであった。
「ほら、いいって」
にこりとした蒼奘は、まるで庭であるかのように獣道を外れ、生い茂る笹の斜面を登って行く。
その歩みは、この山を知り尽くした、そんな感があった。
そして、
― 同じ森だと言うのに、この森は、眩しい、、、 ―
蟲姫は、神気に満ち満ちた森を、蒼奘の肩に在って、見上げた。
梢では、久々の雨粒を浴びて、そわそわと落ちつかなげな小鳥らの囀り。
暢気に草を食む鹿の群れに、木の実を運ぶ栗鼠らが忙しなく大地と木々を行き来している。
すべてが、あるべき姿をとり、その生を享受し、謳歌している姿が、ここには在る。
― あれは、やはり、、、わたくしの、、、 ―
それとは対照的に暗く、重苦しい陰の氣で満ちた、小浦の森。
それが、己の有様であったのだと、痛感した。
≪ 、、、、、 ≫
どこか浮かない顔の蟲姫を見上げて、
「僕はね、蟲姫。子供の頃、この森で育ったんだよ?」
蒼奘は、穏やかな声音で、言った。
≪ 都では、なかったですの? ≫
「ああ。僕は、妾腹の子でね」
≪ 、、、、、 ≫
けろりとした顔で、さらりととんでもないことを言う男だと、蟲姫は思った。
「子供ってのは無邪気な分、残酷な一面も持っているわけで、生来の見鬼で、人の生き死になんて見えた日には、薄気味悪かったんだろうねぇ」
今ならよく分かると、蒼奘は笑って言った。
「だから、母子共々、この山の麓の屋敷で、隠棲していたんだ」
年の頃が近い相手もいなかったため、幼い蒼奘は、自然と獣や小鬼、森の神霊らを相手に育った。
「ああ、そうそう。筝葉とは、その頃出逢ったんだよ」
今ではすっかりなりを潜めたが、屋敷に閉じ込められる程のじゃじゃ馬だった、筝葉。
顔を付き合わせれば、時間が経つのも忘れ、山中を探検して過ごしていたらしい。
「それと、先代ともね」
生死を視る見鬼と言う噂に尾鰭がついて、天狗などと呼ばれた事もあったらしい。
その噂が、当時の都守の足を、この山まで運ばせたのだ。
「その頃には、田舎暮らしを悲観していた母も鬼籍に入っていてねぇ。僕は帝都へ入ったわけさ」
≪ あの、、、先代は、どのような方でしたの? ≫
世俗とは縁遠い暮らしをしていたが、この男の屋敷に厄介になっているせいか、ふと、気になった。
「うう~ん、、、」
手入れが行き届いた竹林に辿りついた時、
ピション…ィイイン…ヒョン……ォォン…
遠く、水琴の音が聞こえてきた。
筝葉の屋敷が、近い。
雨は、上がっていた。
「なんというか、豪胆で、繊細で、、、」
傘をたたむと、蒼奘は裾を払った。
白かったはずの浄衣は、すっかり雨を吸い、泥を跳ねていたが、構わないらしい。
草履を片手に、素足になって、雨を吸った大地の感触を懐かしく確かめながら、
「それでいて、とても懐の深い人、だったよ」
水滴を捕らえた大きな蜘蛛の巣をしげしげと眺めたり、走り去るハクビシンの巣穴を覘いたり、急ぐでもなく、竹林の先へ。
やがて、ひっそりと薄霧に沈む、その屋敷の入り口へと、辿りついた。
四脚門の脇で、
クク…ゥゥォン…
伸ばした前肢に顎を預け、眼を閉じていた白狼が、首を擡げた。
「ご苦労だったね、ソラ、、、」
主人にその頭をひとしきり撫でられると、颯爽と森の深みへと走り去って行った。
門を潜れば、
「まあまあっ、これは旦那様、いらせられませっ」
「皆、しばらくぶりだね。世話になるよ」
いつもの事ながら、突然の来訪を、侍女らの毀れんばかりの微笑みが出迎えた。
泥だらけの素足を見て、
「本当に、昔となぁんにも、お変わりにならないんですから」
年嵩の侍女頭が、足を濯ぐための湯桶を持って来るように、手配。
階に腰掛け、足を拭いていれば、屋敷の奥から、甲高い笑い声が聞こえてくる。
「奥方様も蓉亜様も、お待ちかねでございますよ」
蓉亜が、筝葉と久々の団欒を満喫しているのだろう。
突然の来訪に続く、さらなる【突然】にも、侍女らは慣れている様子。
それを、楽しんですらいる。
「ああ、行ってくるよ」
蒼奘は、奥の間へと続く長い廊下に向かった。
いつもはどこか瀟々と響く水琴の音が、今日は、雫が踊っているかのように、賑やかに響いている。
橙、黄、紅、翠。
どこからともなく舞い込んだ落葉が、苔むした大地に錦を描き、竹林はさわさわと、まもなく訪れるであろう夜風を、奏でる。
≪ 、、、、、 ≫
それまで蒼奘の肩の辺りに居た蟲姫が、止まった。
そのまま戻ろうとするか細い手首を、
「蟲姫」
蒼奘の手が捉えていた。
媒体は、その袖の内。
触れられるはずの無い幽体の蟲姫を、事も無げに触れている。
「もう君も、うちの子なんだから」
≪ あ、、、 ≫
それは、かつて味わったことのあるような、不思議な感覚だった。
冷たく凍える幽身の、深いところが、ドクンッ、と刻んだような、、、そんな感覚。
思い出そうにも、かつての記憶は遠い。
「、、、、、」
その胸中を知ってか知らずか、蒼奘はその手を、そっと離した。
再び、歩き出した、その背。
この背中を見つけ、小浦から出た、あの日。
ことのほか掴まり心地が良かったのは、拒絶されていないからであったのだと、遅まきながら気がついた。
≪ 、、、、、 ≫
白く透けるたおやかな手が、戸惑いながらも、伸びた。
触れたその場所から、蟲姫はとうの昔に失った温かい体温が、伝わってくる。
長い廊下を行きながら、蟲姫は、
≪ どうしてわたくしを、小浦から都へお連れ下さったんですの、、、? ≫
あの日と同じようにその背に掴まりながら、問うた。
「うん、、、?」
やはり、蟲姫に気づいていたらしい。
その気になれば、この男、調伏は無理でも、祓う事ぐらいは出来ただろう。
「だって、、、」
欄干を手に、蒼奘が振り向いた。
深い闇色の眼差しが、
「誰だってひとりぼっちは、寂しすぎるよ」
まっすぐに蟲姫を見つめてくる。
≪ ひとりぼっち、、、寂しい、、、 ≫
蟲姫は思わず、鼓動を刻まぬ胸に手をやっていた。
吹き抜けていた虚しさは、あの日、伯に手を取られた時から、とうに埋まっていたのかもしれない。
≪ 、、、、、 ≫
言葉を失った蟲姫を他所に、
「お、、、」
忙しない足音と、聞き覚えのある鈴の音が、聞こえた。
腕にしがみ付くタオフィを引き摺るように現れたのが、
「離せ、、、」
「何よっ、自分から掴んどいてっ」
伯である。
「お前が、びーびー泣くか、、、むぐっ」
「あら、蒼奘様っ、、、と、お邪魔蟲」
伯の口を塞いだところで、タオフィが微笑み、蟲姫を睨んだ。
「お帰り、タオフィ。それに、伯。随分と早かったみたいだけど、どうやら無事に済んだようだね」
「ふん、、、」
タオフィの手を引き剥がし、憮然とした様子で踵を返す。
「ちょっとぉ、どこ行くのよ?!」
タオフィが追いすがろうとするが、
「蒼奘のところにいろ。俺は、檎葉に用がある」
「ええぇっ」
今度こそ、同行は許されなかった。
≪ あ、、、 ≫
ふよふよと、その背を追う蟲姫は、
「お前もだ、蟲姫、、、」
≪ あの、わたくし、、、 ≫
「、、、、、」
言いつけを守らず、屋敷に足を踏み入れてしまった事が、その機嫌を損ねてしまったのではないか?
蟲姫は、それが恐ろしかった。
長い回廊を颯爽と歩み去る、その華奢な背中が、角を曲がる寸前、
「、、、蒼奘、礼を言っておく」
「はいはい」
ぶっきらぼうに、そう言い捨てた。
面食らって、思わず傍らの男を見れば、
「ね?」
≪ あ、、、 ≫
片目を瞑ってみせた、蒼奘。
蟲姫は、無人となった長い渡り廊下を眺め、一人、胸を撫で下ろしたのだった。
轟々と、水が流れる音がする。
苔むした大岩を、その飛沫が濡らし、露を結ぶ。
それが宵闇の中、きらきらとして、漂う薄霧と相まって、どこか幻想的な風情で、宵闇を迎えようとしている時分。
杉の巨木に守られた大滝が祠に、鴉色の狩衣を纏った伯が立った。
「なんだ、蓉亜を連れてこなんだのか?」
どこか不満げなのは、緋色の髪、その身に燐を纏う、女童の姿。
勝間の地仙、檎葉。
「今し方まで、千羽が滝行しておったよ」
「調度良い。顔を付き合わせんで、済んだ、、、」
手近な木の枝に舞い上がると、そのまま仰向けで寝転がった。
夜気に冷やされた水氣が、心地よい。
「まぁ、そう言うな。あれで、なかなか骨のある良いやつだそ」
「どうだか、、、」
千羽。
勝間の御山を守る神主であり、筝葉の父である。
冬季でも、朝夕と滝行欠かさぬ屈強な偉丈夫で、今の蒼奘に連れられ初めて会った日には、『人型に封じられた神霊とは、、、』と珍しがられ、追い掛け回された苦い過去がある。
クキッ…イキキ…
すぐ頭上の枝が微かに揺れて、暗がりの中から、丸い卵程の果実が一つ、二つ、降ってきた。
ほんのりと淡紅色に染まった、林檎だ。
眼を凝らせば、いつもの母子猿が、枝を渡って、遠ざかって行くところであった。
齧れば、口の中に瑞々しく、微かな渋みと酸味、そして爽やかな甘味が、広がった。
「蓉亜は兎も角、件の幽鬼に、天狐のところの野狐が供とは、、、なんとも賑やかな道中であったろうな」
大岩に腰を下ろせば、それまで轟き響いていた滝の音が、心なし遠くに聞こえ、水の流れは緩やかになった。
「本当は、後見役のあんたに尋ねるつもりだったが、蟲姫がらみともなれば、天狐の方が詳しかろうと、近場で手を打ってな」
伯は、事の次第を掻い摘んで説明した。
空にはいつの間にか、星が輝き始めていた。
「、、、そうか、小浦の地仙が蟲姫に」
大きな鈴張目が、眇められた。
「【哀れ】と、思うたのかもしれんな、、、」
人を人と思わぬ地仙も多い中、それは、極めて異質な事であった。
伯は、檎葉の声音を、林檎を噛み砕きながら聞いていたが、
「、、、違うな」
飲み下して、そう言った。
「違う?伯よ。地仙に同調し、お前は、何を見たのじゃ?」
見上げた先に、長く髪が垂れている。
象牙色の手が、空へと伸びていた。
子供のように、夜空を掴まんとしているようだった。
墨色に染まった葉と葉の向こうで、白銀の薄い靄が東西へ掛かっている。
雨が降り、大気が澄んだ夜にだけ現れる、天の川。
それを無謀にも、掴もうとしている。
いや、本当は言葉にするのが、照れくさかったのかもしれない。
「地仙は、蟲姫に恋をしたんだ、、、」
「、、、、、」
その声は、呟き似て、それ程までに、小さかったから。
「我ら地仙が、人に恋、とな、、、」
「、、、、、」
檎葉の呟きに、今度は伯が黙った。
あの時、【小浦の地仙】と同調した際、押し寄せた感情は確かに、深い愛情であった。
何故、伯がそれと分かったか、今は、あえて触れないでおこう。
【小浦の地仙】は、力を与えた蟲姫の【その後】を、伯に見せなかった。
だが、容易に想像がつく。
発狂した魂魄は、その導きによって復讐を果たし、鬼へと堕ちたのだ。
【小浦の地仙】は、その浅ましい姿を、ようやく得た蟲姫が慕う主に、見せたくなかったのかもしれない。
それとも、冥土の土産として、【蟲姫】と【小浦の地仙】、二人達だけの秘め事に、しておきたかったのかもしれない。
「奇しき縁も、あったものだ、、、」
「、、、、、」
伺った先には、まだ、手を伸ばす、伯の姿。
― まったく、人の子のように、、、 ―
大岩に手を当てて、見上げた夜空。
この世のありとあらゆる宝玉をぶちまけても、足りないだろう。
それらが我こそは、と燦然と輝かんとしている。
宙に伸ばされたその手に、掴まれん、として、、、
― いや、存外お前になら、可能やもしれんな、、、 ―
屋敷から、こちらへと向かう者達の足音が近づいてくるのを隠さんと、滝の音が、大きくなった。
無論、まもなく訪れるであろう出迎えに気づかず、手を伸ばし続ける様を眺めつつ、檎葉は祠に吸い込まれるようにして、掻き消えた。
― あの破天荒な星々を、統べる事も、、、 ―
澄んだ眸が、無心になって見つめる、先。
天津国で産まれた者達も、その果て知らぬ、暗黒宇宙。
伯が、
「、、、、、」
馳せる想いは、一体、何であろうか?
「あーっ、伯っ、みいつけたッ!!」
「つッ、、、」
甲高い、蓉亜の声音。
珍しく無防備だったのか、驚き、その拍子に危うく枝から落ちそうになったところを、
「あんたって、ホント凄いわね、蓉亜、、、」
感心したタオフィが、いの一番に伯を見つけた蓉亜に言った。
「昔から、蓉亜は伯を見つけるのが早かったからね」
すぐ後ろから現れた蒼奘が、舞い降りた伯を見つめた。
≪ 主様、、、 ≫
ゆらゆらと落ち着き無げな、蟲姫。
「蒼奘、、、」
「ああ。ほら、おゆき、蟲姫、、、」
袖から取り出したしゃれこうべが、伯の手に。
「待たせたな、蟲姫」
≪ あ、いいえ、、、 ≫
それを伯は、懐へしまった。
「何よ、見せつけちゃって、、、」
気に喰わないタオフィは放っておいて、
「大滝の神様、今日はもう遅くなっちゃったから、また来るね」
「檎葉、たまにはうちの屋敷においでよ。待ってるから、、、」
≪ さっさと行け。人に、狐精に幽鬼に幼神、まったく揃いも揃って、、、息が詰まりそうじゃ ≫
苦笑した蒼奘が蓉亜を促し、伯は、何故か揃って頭を下げたタオフィと蟲姫に纏わりつかれながら、木立の中を、帰路へとついた。
騒がしい一団が山を降り始めれば、いつもの勝間の静寂が、辺りに戻って来たようだった。
≪ やれやれ、、、 ≫
深い溜息が、吐き出された。
平素、孤独を好む檎葉の事だ。
≪ 神仙たるもの、やはり人との距離は、必要だと思うのだがな、、、 ≫
やはり、独りが落ち着くらしい。
白い大砂海。
その日は、同色の空も泣く時があるのか、まるで粉雪のように、白い砂が、降っていた。
その白い世界の中枢。
目にも鮮やかな青い花が咲き乱れるその中から、長身の男が歩み出た。
「、、、、、」
闇色の長袍を纏った、冥官だ。
その世界よりも白い髪を、背に長く垂らし、冷たく沈んだ金色の双眸が、寄せては返すその波打ち際を、見つめている。
やがて、打ち上げられた【もの】は、何だったのか?
そっと手で掬い上げて、
「とうに、尽きた命数であった、、、」
その【もの】は、脆くも崩れ去った。
最後に飛ぼうとしたのか、橙に、黒き斑点を描いた小さな片羽根が、ふわりと舞い上がり、降り注ぐ砂雨に当たって儚く、霧散した。
青い唇が、砂雨の中、無機質な大海原へと紡いだのは、
「あの子に逢って、そなたは救われたか、、、?」
答える者の無い、問いであった。
「それとも、、、」
その魂を消耗する程に得がたい、それは恋であったのか?
「その身を焦がす程の切望に、焼かれたか、、、?」
今となっては、誰にも分からない。
男は、踵を返した。
青い花群れるそこに、
「皇子」
好々爺が一人。
「そのお姿なれば、どうぞこちらを、、、」
その頭上に、傘を差し向けた。
「、、、、、」
何ともいえぬ眼差しを向け、傘を受け取れば、
「我は、そうそう、どこにも行かぬよ、、、」
「いえ。あなたさまは、双冥皇が、【眼】でいらせられる。どこへなりとも、お出掛けになられて結構でございますれば、、、」
「【眼】、か、、、」
鬱々とした声音が応じると、次の刹那、手にした傘が高く舞い上がった。
「まったく、上手く言ったものだな、、、」
その身が、白焔纏う巨躯へと変じると、
≪ いつも思うのだ。双肩なんぞを食い破らず、その魂魄を、呑みこんでやれば良かったと、、、 ≫
青き花を揺らし、白銀の軌跡を残しながら、彼方の深淵へと吸い込まれて行った。
くるくるり…
砂浜に舞い落ちた傘を取り上げて、蛮器翁は、
「ああ、持て余しておられるのは、あなたさまも同じでしたね、、、」
変らぬ微笑を湛えるだけだった。
ひとりひとりに、物語があるはずだ。架空の世界にでも、現実にでも。それを、正確に語り、あるいは書き出すには、膨大な労力と時間が掛かる。
細かく、情景を書き込めば、俺の文体はひどくくどくなり、理屈っぽくなってしまう。性格と、癖のようなものだ。
描かれないところに、目を向けさせる。これは、書き手の特権なのかもしれない。文字だけの中に、彩りを呼び込みたい。読み込まれそうなところで、あえて季節の変化へ、その目が向けられるよう意識して、いきたいものだ。




