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― 宙 ―

 ― 何故こんなことになった? ―

 牟螺は、いっこうに分からなかった。

 小浦の集落、その外れ。

 人々が諦め、打ち捨てた、里山の麓。

 かつて、山守と水守を兼ねた者が暮らしていた、朽ちた庵がある。

 陽が暮れ始めた空の下、一行は、そこにいた。

 囲炉裏端、

「魚のかたち」

 蓉亜が、ものめずらしそうに言い放った、年季の入った自在鉤。

 その下で、吊るされた大鍋が、ふつふつとしようとしていた。

 庵を覆わんと迫る勢いの木々が、等しく墨色に染まれば、橙一色に塗り込められた茜空に、訪れる宵闇を滲ませる。

 小浦の人々が分けてくれる菜っ葉や根菜に、山を降りながら摘んだ野草や茸を投げ入れながら、

 ― むぅ、、、 ―

 伺った先。

 開け放ったままの板戸。

 傾き、崩れんばかりの軒庇の下。

 縁側に腰を下ろし、右手で上体を支え、左手に杯を持った、華奢な背中がひとつ。

 ややくせのある黒髪が、長く、その鴉色の狩衣の背に流れている。

 ― 黒ずくめ。まったく、死神のような、、、いや、存外、そうかもしれぬ ―

 しかし、結果としてその【黒ずくめの死神】に、危ういところを助けられたのは、事実。

 あの日、あの場にもしこの男が現れなかったら、間違いなく、この山の虫達の苗床と化していた事だろう。

 リイィイン…リリリン…

「蓉亜、ちょっとこっちへ来なさい」

 どこから探し出して来たのか、古びた手桶に湯を張った、タオフィ。

 手拭いを固く絞っていると思ったら、

「えぇっ、どうして?」

 庵の中を、あちこち探検していた蓉亜が、露骨に唇を尖らせた。

 燻製にされている途中の川魚や、山肉。

 庵の一画を占める大きな木棚には、ひとつひとつ墨で名を描かれた、薬草や、採取された様々な色の土や石が、入っている。

 初めて見る山渡の道具を、手に取ったところで、タオフィの声が掛かった。

「牟螺さんの大事なものなのよ。壊したらいけないわ。ほら、体、拭いてあげるから」

 膝を叩くタオフィに、

「もしかして、ここに泊まるの?」

 蓉亜が、眼を大きく瞠いた。

 ― え、、、? ―

 牟螺がぎょっとて、タオフィを見たところで、

「そうよ。ねぇ、伯?」

 当人は、瓶子を杯に傾けながら、

「、、、ああ」

 と、応じた。

「なんだが、お化けが出そうだねっ」

 嬉しそうにそう言った蓉亜が、素直にタオフィの膝に座れば、

「あら、お化けなんて、あんた見慣れているでしょ?」

 タオフィが、袖から腕を抜かせながら、鼻で笑った。

「それって、蟲姫の事言ってるの?」

 蓉亜の幼い背中や腕を甲斐甲斐しく拭いてやりながら、

「それ以外に、ないじゃない」

 ちらりと伯を、一瞥。

 その懐から、出てこようとしない蟲姫に対する、あてつけのようなものでもあるらしい。

「お、奥さん、ちょっと、待ってくださいよ」

 鍋をかき回していた木杓を、思わず取り落としそうになって、牟螺は声を上げた。

「奥さんだなんて、そんなぁ、、、」

 しなを作って、それでも艶然と微笑む、タオフィ。

 この際、否定はしないらしい。

 からからに渇いた、喉。

 それでも、息を一つ呑んで、

「その、坊やが見慣れているのは、む、蟲姫なんですかい?」

 牟螺が、尋ねた。

「あ、、、」

 さもまずい、とでも思ったのか、タオフィが蓉亜と顔を見合わせた。

 だが、いつもの事で、後の祭り。

「む、むむむ、蟲姫、なんですね?」

 タオフィの方へと、身を乗り出さんとする、牟螺。

「あ、や、、、」

 とたんに困惑顔のタオフィが、口をもごもごとさせた時、

 カタ…リ…

 小さな音が、縁側でした。

 暮色に縁取られた世界の中、象牙色の杯がぽつりと、置かれていた。

 変わらずそこに在る背中が、

「もう一度、あいたいか、、、?」

 抑揚に欠けた問いを、した。

 あいたいか、、、?

 それは、、、

 逢いたいか、、、?

 それとも、、、

 遭いたいか、、、?

 牟螺の脳裏を、虫共に全身を咬まれた【あの日】の記憶が、過ぎった。

「め、、、滅相もないっ」

 ぶんぶんと首を降りながら、

 ― こやつに一番、会いとうなかったッ ―

 心の中で、叫んだ。

 牟螺の眼差しの先で、伯が、ゆっくりと振り向いた。

「ところで、牟螺、、、」

 深淵に蟠る闇よりも暗い眸が牟螺を捉え、引きつったその顔に構わず、

「酒が、切れた、、、」

 空になった瓶子を、左右に振ったのだった。

 



 秋も深まり、数えれば直に冬の訪れさえ伺わせる風が、楓の枝に吊るされた季節外れの風鈴の音を、運んでくる。

「今頃、どうしているんだろうねぇ」

 どこか閑散とした、屋敷。

 溜息にも似た声音が、青い唇から、吐き出された。

 脚付きの膳に並ぶのは、落ち鮎の塩焼き、舞茸の塩漬け、甘藷の煮しめに、炒った銀杏。

 どれも、晩秋の幸。

 十六夜の月が掛かった、東の山稜。

 闇色の涼しげな眸が、ぼんやりと眺めれば、

「そんなに心配なら、今からでも追っかけたらどうだ?」

 向かいに座った男が、瓶子を傾けた。

 瑠璃杯を満たす、透明な酒。

 その揺らめきを見つめながら、

「別にね、心配しているんじゃないんだよ」

 強がった。

「ふ、、、」

 向かいにいる男が、鼻で笑う。

「なんだい?」

「いや、なんでも、、、」

 首の後ろを搔きながら、手酌でやる男に、

「、、、どうせ、僕が強情を張っていると思っているんだろう?」

 珍しく、強い口調になった。

「ああ、、、」

「、、、、、」

 その肯定が、少しだけ、勘に触ったらしい。

 けれど、

「ホントはね、どうしてやったら良いのか、良く分からないんだ、、、」

 少しだけ唇を尖らせただけで、すぐに東の山の向こうを、ぼんやりと眺める。

「うん、、、?」

 男は慣れたもので、杯に唇を付けながら、相槌で促せば、

「蓉亜はもちろん、あの日、ここに残った伯を、僕は、、、いや、僕たちは自分たちの家族として迎えた、、、」

 静かに、その心の裡を、吐露し始めた。

 当時、見てくれは調度、今の蓉亜程であった、伯。

 腕に抱き上げた時はただ無言で、けれど強く、それは強く、己が腕を掴んでいたのを、今も鮮明に覚えている。

「蓉亜の父親として、伯の家族として、僕は、何か出来ているんだろうか?」

 その問いに、

「おまえねぇ、、、」

 どこか呆れたような声音が、重なった。

「それって、誰かの意見が必要な問題か?」

 傍らの男は、時折、至極まともな事を言う。

 ― それも、そうだ、、、 ―

 手の中で弄んでいた杯に、青い唇を寄せた。

 当人の自覚はまったくないのだが、それに救われる者も、少なくない。

 考えているようで、まったく考えていなかったり、、、

 いつも何気なしに口を突いて出てしまった言葉なのだろうが、それなのに深く、相手の心を打つ、そんな男であった。

 そしてそれは、昔から、今も、何も変わらない。

「お前はさ、今のお前のままでいいんだ。ここに在れば、それだけで意味がある、、、」

 顎が上がり、その下で喉仏が上下する。

 杯が、空になれば、骨ばった長い指が瓶子を掬い取って、満たした。

 胸中に立った小さなささくれは、すっかり凪いでいたのだけれど、つい、ほんの少しだけ、大人気ない意地悪を、してみたくなる。

「意味って、、、?」

「そ、、、それは、俺にもまだよくは分からんが、、、」

 案の定、その問いに濃い眉を寄せた男であったが、月の光が差し込んだその彫深い眸は、美しい青鈍あおにびを湛え、子供のように、輝いた。

「今、この瞬間に等しく存在している。それが、俺にはもの凄い幸福な事のように思えるのさ」

 別々に産まれ出で、出逢い、えにしを結ぶ。

 それには、別離が付物なのかもしれない。

 たとえそうであったとしても、

「【今】は、共有されている、、、」

 それがとても幸せな事だと、男は笑って言った。

 その人好きのする笑顔に、

「まったく、、、」

 単純明快な男であったと、呆れながらも、釣られて笑った。

 その笑みを隠すかのように杯を唇に当てれば、

「ま、ちょっと安心したよ」

 男の声音が、鼓膜を打つ。

「ん?」

 問い返せば、

「お前にも、人並みに心労なんてあるんだな、ってさ」

「無いように、見える?」

「ほら、お前って、傍から見れば万年小春日和、だろう?」

「そうなの、、、?」

「ま、俺や清親、鳳祥院は、付き合いが長い分、お前の芯の強いところをよく知っているがな。それでも、戻って来てから、あまりお前と話す時間が無かったから、、、その、心配してたんだぞ」

 照れ臭そうに頬を掻く友の横顔を、闇色の眼差しが、穏やかに見つめた。

 お世辞にも、先の都守のように、そして、己に力を貸してくれた【あの者】のようにはいかない、大任。

 その重圧や、諸将、貴族との軋轢に、繊細な心身は、いつ潰れてもおかしくはなかった。

 それでも、毅然として宮中で立って居られるのは、鳳祥院のまっすぐな眼差しであり、清親の不器用なりの叱咤激励であり、すべてを知って尚、変わらずに必要としてくれる、この男の存在であった。

 パ…シャ…ァアン……

 大池に月影が落ち、浮かれた鯉が、飛沫を上げた。

 水面にゆらゆらと刻まれた波紋が、いくつもいくつも、寄せては消えて行く。

 その水面を渡る夜気が、肌を泡立たせる。

 寒気に、薄い肩を擦ったところで、

「おぉい、琲瑠」

 男が屋敷の中へと声を掛けた。

「お呼びでしょうか?」

 すぐに現れた琲瑠に、

「すまないが、提灯を一つ」

「もう、お帰りで?」

 相変わらずの、困ったような表情で見つめてくる、琲瑠。

「ああ。こんな月夜じゃ、つい、過ぎちまうからな。今日は、これで帰るよ」

 傍らの友の肩を、無骨な手でもって叩くと、男は草履を引っ掛けるべく、庭へと続くきざはしを降りた。

 草履を突っかける友に、

「羽琶殿に、よろしく伝えておくれ。今度は、是非共に、とね」

「ああ、、、」

 屋敷で縫い物をしているだろう妻の貌が、思い起こされた。

『お屋敷に、今日は蓉亜も伯様もいらっしゃらないのでしょう?きっと、寂しくお過ごしのことでしょう。たまには、ゆっくりとお二人で、ささを酌み交わしてはいかがです?』

 妻のその心遣いを思えば、その人に、すぐにでも逢いたくなった。

 蒼奘もそれを心得て、袖を引くような事はしない。

 己の肩に掛けていた、淡い甕覗に青海波せいがいは模様が縫い取られた長衣を、

「燕倪」

「お、、、」

 その広い背中に、掛けてやった。

「遠慮なく借りてくぜ、蒼奘。深酒をして、風邪なんか引くなよ」

 琲瑠が手渡した、提灯。

 その灯りが、見送りに出る琲瑠の提灯と並んで、ゆらゆらと、木立の向こうへと消えて行くのを見送って、

「さすがにね、良心が痛んだよ。それに、こんなやり方、、、」

 欄干に背を預けた蒼奘が、母屋に向かって呟いた。

「口では言えても、実際のところ、子離れって言うのは、なかなかできないものだね。僕も、貴方も、、、」

 真新しい更紗を一枚、新しい杯を一つ、増やしていた汪果が、母屋の暗がりに向かって、蹲踞そんきょ

「彼は、ああ言ったけどね、こんな日は、深酒に限る。つきあってくれるだろ、、、?」

「、、、、、」

 暗がりから、衣擦れの音をさせ、白い人影が、歩み出た。

 長く背に流したままの、銀の髪。

 薄い、青い唇。

 そして、噎せ返るような、今となっては懐かしい青き花の香り。

 その香りを纏い、もう一人の自分が差し出す杯に、

「そうこなくっちゃ」

 蒼奘は、瓶子を、傾けたのだった。




 時折、何かが、板戸に当たる音が、する。

 立て付けの悪い戸から洩れる、行燈の灯りに誘われたのだろう。

 帝都では、精々草葉の陰で、つつましく鳴くだけの虫の羽音が、ここでは近い。

 それに、木の葉を揺らす風の音が、混じっている。

 こんな日は、規則正しい寝息が、鼓膜に心地よい。

「、、、、、」

 火を落とした、囲炉裏端。

 空になった鍋と、大小不揃いな上、欠けた椀が、積まれている。 

 その向こうの、居間と呼ぶには狭すぎる続きの間に、ところどころほつれて孔の空いた蚊帳が、吊るされている。

 ジジ…ジ…

 橙の焔が揺れ、菜種油が焦げる、微かな音。

 薄明かりの中、敷かれたせんべい布団に、蓉亜とタオフィが身を寄せ合うようにして、眠っていた。

 はしゃいでみせてはいたものの、見ず知らぬ地。

 やはり心細いようで、灯りはつけておいてと、駄々をこねたのだ。

 心得たタオフィが共に褥に入る事で事なきを得たが、あまりにうるさいようなら、夜分遅くに、蒼奘の遠縁の屋敷を訪ねる羽目になっていたかもしれない。

 ふご…っ…ふごごぉ…

 一方、不快な鼾の主は、土間に積まれた筵の上。

 大鹿の皮を敷いた即席の寝床で、高鼾だ。

 ぼりぼりと腹を掻くのを、

 ― 食い扶持を得た、山渡やまわたりか、、、 ―

 どこか侮蔑を含んだ漆黒の眼差しで、眺めた。

 元々は、狩猟を生業として、山を転々と渡り歩くマタギを指した言葉であったが、時代と共に、荒れた里山を再生させ、その地に根付く事はもちろん、金堀衆と組んで鉱脈を探す者達も指すようになった。

 どちらかと言うと、根無し草のような気性の者が多い中、牟螺と言う男、なかなかしたたかなようだ。

『あの日見た事は、黙っとる。だから、この通りだ。わいが蟲姫さんを祓った事にしてくれないか?!』

 どうも、あの日は逃げ帰ったが、後日、様相が一変。

 動物たちが帰ってきた森を見て、自分のおかげだと風潮し、この村の【山守】に落ち着いたらしい。

 断る理由も特に無い。

『好きにしろ』と言ったろころで、安心した相手は酒をかっ喰らい、寝床にひっくり返ってしまったのだ。

「、、、、、」

 伯は、板の間に片肘ついた状態で、横になっている。

 牟螺が仕込んでおいた猿酒も尽き、動くと言えば、時折菜種油を足してやるくらいで、夜の山の音を、聴いている。

 懐で、何かがもぞ、と動いた。

 見れば、寛げた襟元から、赤光が洩れていた。

≪ 主様、、、 ≫

 それは、蚊の鳴くような、小さい声。

 眼差しだけを、寄越せば、

≪ 眠れないのですか、、、? ≫

 案じた蟲姫が、尋ねた。

「ここは、水のが、遠くてな、、、」

 抑揚に欠けた低い声音が、静かに応じた。

≪ 水の、音、、、 ≫

 眠りを誘う、水の音。

 帝都の屋敷は豊富な湧水によって、水氣で満たされているが、この大地は、乾いている、らしい。

 しかし、

「、、、、、」

 どれ程、経ったのだろう。

 ― そろそろ、暁か、、、 ―

 その耳に、小鳥の囀りが、聞こえた気がした。

 少しは寝ておかなければ、と伯は瞼を閉じ、

 ブ…

 耳障りな、

 ブブ…ッ…ブ…

 それは、羽音。

 ― これは、、、 ―

 瞼を押し上げようにも、まるで眼球ごと押さえつけられているかのように、重い。

 僅かに開いた、瞼。

 胸元から、赤光が、

 ― む、しひめ、、、? ―

 こちらを見つめている。

 ブブブ…

 瞼が、重い。

 闇色に塗りつぶされる、視界。

 刹那、伯の手が伸びる。

「、、、、、」

 蚊帳の向こうで眠る、人の子へ。

 ブブブ…ブ…

 朱鷺色の唇が、微かに戦慄いて、その身は板の間に伏してしまった。

 意識が急速に落ち窪んでいく。

 抵抗し、磨耗するのは、精神か?

 瞼の向こう。

 ブブブブブブ…

 更なる闇によって、侵蝕されて行く。

 ― 、、、、、 ―

 やがて訪れた【それ】は、夢に落ちる刹那に、似ていた。




 星々が、木の葉の天蓋の彼方で、瞬いている。

 薄靄が這う、大地。

『、、、、、』

 見回せば、そこは深い森。

 湿気を多く含み、淀んだ大気は、不快な熱を帯びていた。

 逆しま、だ… 

 そう思ったのは、大地が頭上にあり、星空が眼下に見えるからだ。

 その理由は、すぐに分かった。

 特徴的なぎざぎざの、不安定な深緑の足場には、葉脈が奔っている。

『、、、、、』

 伯は今、橡の葉の裏に、在るのだから。

 ぁ…ぅうあ…

 誰かが、泣いている。

 すすり泣くような、憐憫をそそる、若い娘の声。

 ブブ…ブ…

 あの不快な羽音と共に、世界があるべき姿へと戻ったのは、橡の葉から舞い降りたからだった。

 木立の中を、その声の方へと飛んで行く、意識。

 迫る枝を擦り抜けて、茂る葉の下を、掻い潜る。

 途中、梢に仲睦まじく羽を休める番いの大鴉と出逢ったが、ころころと喉を鳴らしただけで、互いの首に額を寄せて、再び眠りに就いた。

 静かな、夜であった。

 羽音と、そのすすり泣きを除いては、、、

 眼下に、色鮮やかな色彩が、飛び込んでくる。

 赤紅、濃紅に薄紅、薄桃、雪、淡黄、浅葱、鶸、萌黄、白、そして、緋。

 唐衣、袿、単、帯、小袖、そして、裳。 

 引きずられて泥が付き、引きちぎられて散らばった、簪や翡翠の帯飾りが散乱し、星明かりを受けて、儚げに瞬いている。

 大気に、甘く、饐え、それでいて鼻に衝く腐臭が濃厚に、混ざり始める。

『、、、、、』

 羽音が、止んだ。

 大きく枝を伸ばす、欅の巨木。

 その赤茶けた幹に、張り付いた。

 噎せかえすような、芥子香の中、

 …ひ…ぁぁ…ぁぁああッ…

 薄靄の中、白い肢体が伏している。

 長く、乱れた黒髪は、今なお大地に、在りし日のまま豊かに、流れていた。

『飛鷺姫、、、』

 捩れた手足、明後日の方角を向いた、頭部。

 掻き毟られた、大地。

 剥がれかけた爪には、土と泥と、憎悪が詰まっていたに違いない。

 青紫の蹂躙痕を無数に刻まれ、あけに濡れたであろう箇所は、どす黒く変色し、白い体液と共にこびりついていた。

 夏の陽気に腐乱が始まり、膨れた腹部が背を盛り上げはじめてはいるが、その肢体の生まれ持った優美な曲線を、損なう事はないだろう。

 終始濡れているような肌の下、蠢く、小さな牙を休める事を知らぬ無数の蟲達も、それを知っているのかもしれない。

 ただ、赤い肉が覗いた、貌を除いて。

 ぁぁッ…ひぁ…ひひ…っく……

 すすり泣きであったものは、

 ひひひ…ひ…っ…

 いつの間にか、笑い声に、変わっていた。

 甲高く、耳障りで、淫靡な、不協和音。

 その声が、少なくともここで起きた一部始終を、生々しく物語っていた。

 ひひぁはっ…はふふ…あはっ…

 それは凄惨極まりない、己への哀歌であったのかもしれない。

 声は、すぐ傍らで、している。

 陽炎のように、ぼんやりと霞んで見える、虹色の輝き。

 魂魄だ。

 それが、屍となった、かつての肉体から離れられずに、いる。

『迷い、濁った眼に、道を示す光は、差し込まぬ、、、』

 伯は、胸中で、呟いた。

 それは、同情なぞ、微塵も感じさせぬものであった。

 ブ…ブブ…

 羽音が、聞こえ、

 其レハ 違ウ 望マヌ カラダ

 それに、応えた。

 屍に、舞い寄る中、

『お前、俺の声が、、、』

 ブブブ…ブブ…

 救済ナンゾ 何処ニモナイ 最早意味スラナイ コノ娘ハ ソレヲ 良ク知ッテイル

『、、、、、』

 たおやかな丸みを帯びた、肩に、舞い降りる。

 ブ…

 ダカラコソ 我ハ 叶エテヤリタカッタ

 薄羽を仕舞うと、忙しなく動く無数の脚が、絡まりあう黒髪を、伝い始める。

 肉が削がれ、筋が覘いた頬骨の陰から、百足が現れ、紅の小さき森の主の姿に、そそくさと道を譲った。

 産まれ出でたばかりの白き蛆達は、一様に大地に毀れ落ち、髪から額へと降りた主を、見送る事にしたらしい。

 白く濁り、乾いた眼球。

 泥に脚を取られるような、感覚に、

『叶えるとは、、、?』

 堪えきれず、伯が問うた。

 ・・・・・

 しかし羽音は聞こえず、声の主は、もう何も、応えようとはしなかった。

 鼻先を伝い、血塗れた唇へ、脚を掛けた時、

『ッ』

 伯は、嫌な予感を、確信に変えた。

 物言わぬ黒いつぶらな瞳が、かつて姿を惜しむかのように、その貌を見つめた。

 やがて、小さな牙が、剥かれた。

『おい』

 静止の声空しく、その血塗れた唇に突き刺さる、刹那、 

『うっ!!』

 この身に押し寄せる、感情は?

 伯は理解し、故に、

『貴様、、、蟲姫に、何をしたッ?!』 

 怒りをあらわに、叫んでいた。

 ブブッ…ブブブ…

 カッカッ…ア―…アア―ッ

 それが合図だったのか、何処に隠れていたのか、黒い幕となって押し寄せる蟲達が、鴉達が、一斉に屍に群がり

『くっ、、、』

 再び、伯の意識を黒く染めたのだった。




 ブ…ブブン…

 飛び立つ、微かな、羽音。

 重い瞼を押し上げれば、

 ギリ…

 伯は、歯を鳴らせた。

 鼻先に、天道虫が、羽を休めている。

 ブブブ…

 伯の目覚めを待っていたのか、それが、飛び立った。

「待、、、」

 喉が渇いていて、声にならない。

 その隙に天道虫は、青紫の燐粉を撒き散らしつつ、戸の隙間から、外へ。

 ― これは、、、霊紫 ―

 燐粉の芳しい香りに、覚えがあった。

≪ 主様、、、 ≫

 不安げな、その声音。

 突然意識を失ったと思えば、くだんの地仙とやらが、這い出して来たのだから、無理もない。

「蟲姫」

 闇夜に沈んだ双眸が命じれば、

≪ あい ≫

 心得た蟲姫が、戸を擦り抜け、一足先に出ていた。

 伯も続こうと、板戸に手を掛け、振り返った。

 視線の先は、

「、、、、、」

 蚊帳の中。

 蓉亜が、安らかな寝息を立てている。

 静かに板戸を開ければ、しめった夜気が吹き込んで、

「、、、、、」

 踏み出そうとした足が、戻った。

 伯は、肩を怒らせ、蚊帳の元へ。

 むんずと掴み上げ、そのまま寝ている蓉亜を、抱き起こす。

「ぅ、、、んんんっ、、、」

 濡れた黒曜石を思わせる眸を瞬かせ、伯を見上げれば、

「、、、、、」

 その人の冷たい人差し指によって、急に起こされ、ぐずる唇を、押さえられた。

「、、、、、」

 蓉亜の腕が、甘える子のように、伯の首に回る。

 その熱い体温を腕に、

 ズズ…ズ…

 木々が擦れる微かな音を残して、伯は庵を後にした。

 舞い込んだ夜気にふわりと揺れた、蚊帳の中。

 儚げに揺れた行燈の灯りに見守られ、何も知らぬタオフィが、

「ん、、、ふふ、、、」

 甘い夢を、貪っている、、、




「、、、、、」

 筵の上にひっくり返っていた牟螺が、むくりと起き上がった。

 糸のように細い眼が、充血して、赤い。

 ― むぅう。あの若造が現れたのだ。やはり、何事も無い筈がなかった、、、 ―

 どうやら、気力を振り絞って、今の今まで寝たふりをしていたらしい。

 ふらつく脚を叩きながら、神棚に手を伸ばす。

 何やら赤い朱で描かれた符を、

 ― 頼むでッ、お師さんの退魔符、、、 ―

 挟んで拝み、袖に入れた。

 戸を開けると、

 ― しかし、おかしな虫を追いかけて行ったが、、、 ―

 辺りを見回す。

 眼を凝らせば淡い輝きが、彼方の斜面でゆらゆらとしている。

 滲んだ油汗を、拭いつつも、

「へへ、、、如何なる事でも、その山を知る事。山渡の、いや、小浦の山守の本懐じゃ」

 そう自分に言い聞かせる。

 先日の【人外なる者達】に触れた恐怖は、腹腔深くに蟠ったまま、なのだ。

 それでも、

「食い扶持を、みすみす逃してたまるか」

 足音を忍ばせ、その後を追いかけるのだった。




≪ 主様、こちらです ≫

 先行している蟲姫が、指を指す。

 蓉亜を腕に、伯が緩やかな斜面を、ふわりふわりと跳躍を繰り返し、舞い上がる。

 天道虫は、ふらつきながらも、森の北へ北へと分け入って行く。

「蟲姫」

 不意に、伯がその名を呼んだ。

≪ あい ≫

「異変は無いか、、、?」

≪ あっ、、、 ≫

 相変わらずのぶっきらぼうな口調ではあるが、蟲姫は頬を染め、白い吐息をひとつ、吐いた。

 この身を案じてくれている。

 それだけで、身悶えしてしまうほど、嬉しいらしい。

≪ 特に、変わりは、、、 ≫

 上ずってしまいそうな声帯を気力で補えば、その眼差しは彼方へ。

 ― 地仙の力は、蟲姫に与えたままだが、地仙の権限は有している、、、 ―

 伯は、儚げに霊紫を振り撒く天道虫を、睨んだ。

 ― 新たな地仙を他に選び、森に、、、 ―

 脳裏に、ぼんやりと遠い面影が揺れた。

 橙の髪を持ち、森へ還る事を選んだ、

 ― ルゥシャ、、、 ―

 その女性ひとを、、、

「ハァッ」

 伯が、鋭い犬歯を剥いた。

 蟲姫とせしめたあの地仙に対する憤りと、不甲斐ないかつての自分を、重ねてしまったのだ。

 赤味を帯びる、漆黒の眸。

 珍しく、感情を剥きだしにせんとする、伯に、

「ねぇ、伯、、、」

 それまで、黙って肩に顎を預けていた蓉亜が、首に擦り寄った。

 そうして、

「タオフィ、置いてきちゃったね」

「、、、、、」

 ぽつりと、呟いた。

 そしてそれは、荒ぶらんとする伯の胸中を、当人が舌を巻く程たやすく、凪いでしまう。

「蓉亜、、、」

 守るべき、人の子。

 それが己の腕に、背にある時、一人では成しえなかった事が、できるのかもしれない。

「また、怒られちゃうかな?」

 言っている割りには楽しそうだ、と、伯は思った。

「ねぇ、聞いてる?」 

「ああ、、、」

 いつもであれば、『聞いてないじゃないか』とばかりに噛み付いてくるところだが、朝も迎えぬ時分だけあって、今日のところは大人しい。

 眸も、とろりと、潤んでいる。

 まだ、半ば夢に在るのかもしれない。

「ぁふ、、、」

 小さな欠伸が、伯の耳朶を擽った。

「蓉亜」

「なぁに?」

「今、俺たちは天道虫を追いかけている、、、」

「えっ」

 鼻先で、黒い眸がぱちくりとして、伯を見つめた。

「どこどこどこ?!」

「ん、、、」

 顎でしめした前方に、小さな輝きが揺れている。

「あれ?天道虫じゃなくて、蛍、だったの、、、?」

 首を傾げた、蓉亜に、

「俺に聞くな、、、」

 虫の名はもちろん、花鳥の名もろくに知らぬ伯が、吐き捨てた。

 これには蓉亜も慣れたもので、

「でも、、、ずっとくっついていたのに、なんで蟲姫から離れたの?」

≪ さて、わたくしにも、それは、、、主様が眠ってしまって、直に、、、 ≫

 蟲姫も、急にしゃれこうべから這い出して来て、伯の鼻先に止まったのだと言った。

 二人の眼差しが、自然、伯へと注がれる。

「よくは分からんが、、、」

 仕方なく、伯が口を開いた。

「この森が、地仙に力を与えたんだろう。地仙は、役目を終えるために、飛び立った、、、」

 見上げた先に、幾千もの星々が連なる、天の川。

 その東の空が、しらがみ始めている。

 暁が、近い。

 苔むした大地を、蹴る。

 風か、頬を弄い、しがみ付く蓉亜の腕の力が、強くなる。

 天道虫に、つかず離れずの距離を保てば、川の音が、近づいてきた。




「はぁ、はぁ、、、ぁぁ、、、」

 顎先から滴る、汗。

 息など、とうに切れている。

 険しい岩場に噛り付き、腕が悲鳴を上げるのもかまわず、体を引き摺り上げる。

 ― くっ、、、 ―

 山と言う山を知り尽くした山渡でも、この様。

 最初は、足音を忍ばせていたが、すぐにそれどころでもなくなった。

 のらりくらりと見えるのに、伯は、それほどまでに、速い。

 撒かれまいとついて行くので、必死だ。

 崖を上り、熊笹の茂みを駆け上がり、谷を二つ渡った。

 更に、小川を飛び越え、窪地を這い上がり、息も絶え絶えに峻険な勾配を、文字通り這い上がった。 

 ― ようやく現れよった、あの蟲姫に、おかしな光る虫、、、 ―

 すぐ鼻先を、驚いた雉が掠めては、飛んでいった。

 ― しかし、あの蟲姫が、ああまでしおらしいとは、、、あのおかしな虫には、きっととんでもない秘密があるに違いないっ ―

 この男、その欲に駆られた好奇心が、かつて命取りになりかけた教訓を、すっかり忘れてしまったようだ。

 辺りはすでに、薄明るい。

 空は白く明け、薄い雲がちらほらとして、星々はその輝きを潜めている。

 すぐ頭上で、淡い露草色の体色も美しいカケスが囀り、栗鼠は忙しなく、梢を移動し始める。

 鹿の群れや、連れ立った猪らが、茂みを揺らせては、餌を求めて、遠ざかっていく中、

「ぁ、、、はぁ、、、」

 息を整えつつ、牟螺は茂みに伏せた。

 高鳴る鼓動は抑えきれず、

 ― 光る虫、、、蟲姫、、、わいの山、、、あの時の若造、、、 ―

 欲に濁った眼を見開いて、腹這いになって覗き込む。

 昨日、一息に駆け下りた渓谷に、その背中が変らず、佇んでいた。




「伯、あそこに、、、」

 蓉亜が、指を差す。

「、、、、、」

 飛沫を上げる、急流。

 その川面で、ゆらゆらとしている。

 ― 青角も、水辺を選んだ、、、 ―

 ぼんやりと、そんなことを思い出した。 

 伯は、儚げに燐粉を振り撒く【小浦の地仙】から、程近い大岩で、蓉亜を降ろした。

「、、、、、」

 川を覗き込む蓉亜の傍らに、伯も無言で佇んだ。

 見あげた空は明るく、藍色に染められていた世界は、それぞれの色を取り戻す。

 東の山稜に掛かった雲が、橙色に焼けている。

 直に旭が、この渓谷にも差し込むことだろう。

『あっ、、、』

 蓉亜と蟲姫が、揃って小さい悲鳴を上げた。

【小浦の地仙】が、飛沫を受けて、川面に落ちたのだ。

 思わず手を伸ばす蓉亜を、

「うぐっ」

 伯が水干の首根っこを掴んで、とどめた。

 この激流に呑まれたら、幼い人の子は、ただでは済まないだろう。

「はっ、、、行っちゃうよぉッ」

 苦し紛れに呻いた、蓉亜。

 小浦の地仙は、川面に見え隠れしながら、下って行く。

≪ 主様、、、 ≫

 蓉亜と蟲姫は、すぐに見失ってしまったが、その米粒程の存在を、伯の漆黒の眸は、

「、、、、、」

 無言で追っていた。

 不意に、背後の茂みが、ざわついた。

 蓉亜と蟲姫が振り向く中、

「あっ」

 川辺へと駆け下りる、牟螺の姿。

 川面に落ちたと言う事に慌てたのか、

「あっ、あの、おかしなわいの虫は、どこ行った?!」

 大岩を飛び越え、川辺を覗き込む。

「ど、、、どこに、行った?!」

 血相を変えて、眼を皿にする様は、半ば、狂気掛かっていた。

≪ 邪魔を、、、 ≫

 ざわざわを黒髪を逆立てる、蟲姫を、

「、、、、、」

 伯の手が、制した。

 この時、水面化では、既に変化があった。

「む、、、」

 パシャ…シャンン…

 小柄な鮠が、跳ねた。

 一度は川底に消えたが、ちょうど大岩と大岩の窪地で、流れが緩やかになる場所に、ぷかりと浮かんできた。

 二三、ぴくついたが、そのまま白い腹を川面に浮かべ、動かなくなった。

「どこじゃ、、、わいの虫、、どこじゃ、、、」

 ぶつぶつと川面を睨む牟螺の傍らを、流れに呑まれて通り過ぎる。

「蓉亜、今、天道虫が、あの魚に喰われた、、、」

「魚?」

 伯が、その鮠を指差せば、蓉亜は眼を凝らす。

「ああ。そして、一度死んだ。よく、見ていろ、、、」

 伯の声音が、頭上。

 蓉亜は、視線を離せずに、いた。

 急流と言うだけあって、流れは速く、大岩の上から追うともなれば、相当な集中力が、要る。

 蓉亜は、拳を握りしめた。

 そして、それは正に、一瞬。

 波間に、きらきらと腹を見せるその鮠が、

「え、、、」

 ぴくりと、動いたような?

 もっとよく見なきゃ、と瞬きをした刹那、

「?!」

 青い一閃が、梢から水面へ。

「ええ?!」

 それは、文字通り、一瞬の出来事。

 昨日と同じ梢で、獲物を狙っていた翡翠が、【小浦の地仙】を喰った鮠を、捕らえたのだ。

 悠々と元いた梢に戻ると、元気よく跳ねる咥えた獲物を、枝に叩きつける。

 そのまま、

「ああっ」

 丸呑み。

 そして、次の獲物を狙おうと再び水面を睨み、

「っ、、、」

 蓉亜は、息を呑んだ。

 翡翠が、そのまま水面へ、落ちたのだ。

「どう言う、事?」

 眼を丸くして、伯を見あげる蓉亜を、

「行くぞ、、、」

 伯は、腕に抱き上げ、大岩を下手しもてへ、下手へ。

 途中、

「いったい、この森はどうなっててて、、、」

 何故か退魔符を手に、頭を掻き毟る牟螺を他所に、川面に見え隠れする翡翠を追った。

 そのまま、美しくも可憐な小鳥を、急流の真ん中にぽつりと取り残された岩場に陣取った伯が、

「来たよ?取れる?」

「、、、、、」

 蓉亜の心配を他所に、掬い上げた。

 己が手の中を覗き込む蓉亜に、

「蓉亜、手を、、、」

「あ、、、」

 伯は翡翠を、委ねた。

 細く長い、嘴。

 頭頂部から翼の先までを覆う、深緑の羽毛。

 頬の橙は、腹部と同色で、鮮やか。

 すっ、と伸びた尾の、目が覚めるような浅葱色が、正に翡翠ひすいの名に相応しい。

 けれど、

「かわいそう、、、」

 羽ばたきを、囀りを、忘れたその姿。

 それは、ただ美しいだけの虚像だと、子供心なりに気がついた瞬間でもあった。

 蓉亜は、動かぬその翡翠を、両手で包み込んだ。

 水に濡れて、すっかり冷たくなってしまった、その小鳥。

 温もりを移すかのように擦っても、もう、ぴくりともしなかった。

「、、、、、」

 しょんぼりと、蓉亜が項垂れた時、だった。

 東の山稜が、橙の錦を掛けた。

 雲間からようやく差し込んだ旭が、蓉亜とその傍らに佇む伯を、照らし出せば、風が巻いた。

「ん、、、眩し、、、」

 旭に、眼を瞬かせる中、もぞ、と手の中で、何かが蠢いた。

 パタタタ…タタ…

「ッ」

 それまで、微動だしなかった翡翠が、蓉亜の頬を掠めて、木立の中へと消えていった。

「、、、、、」

 ぽかん、と口を空けた蓉亜の傍らで、伯が大きく伸びをした。

 ついでに、犬歯を剥いてあくびをするその袖を、

「、、、、、」

 蓉亜は無言で引いた。

 視線は、そのまま翡翠が消えた木立の向こうを、彷徨っている。

「なんだよ、、、」

 あくびを噛み殺しつつ、問えばようやく、

「ど、どうなっちゃったの?!なんで、死んだ魚が鳥で、飛んでっ?!」

 混乱した蓉亜が、眉を寄せて、睨んでくる。

 伯は、煩そうに耳の後ろを掻きながら、

「次代を選ぶ地仙の権限だ。一度死んで、蘇る。実際は、地仙たるってものを、引き継ぐためとも言われている。天道虫から、それを喰ったあの魚、そして、翡翠に権限が移ったんだろう、、、」

「え、、、」

 潤んだ大きな眸を見つめた。

「誰でも地仙を食らえば、地仙に成れる訳じゃない。蟲姫は幽鬼。すでに死んでいるから、地仙の資格は無い。力を貸し与えてはいても権限は、今だあの天道虫にあったんだ。地仙自身が選ばなければ、その力の根源、霊紫は移行しない、、、」

「そ、、、じゃないよ」

「うん、、、?」

 伯が、俯いた蓉亜の顔を、しゃがんで覗き込んだ。

 ぽたり…

 涙が一滴、大岩に、染みを作った。

「伯も、死んじゃうの?!」

 ぽたぽたと、染みが、増えていく。

「嫌だよぉ。一回でも死んじゃうなんてっ、、、そんなの、嫌だっ」

「、、、、、」

≪ 、、、、、 ≫

 伯と蟲姫が貌を見合わせる中、

「伯が凄く痛かったら、僕、、、いやなんだもんっ」

 多感な蓉亜が、

「うあぁああんっ」 

 突然、声を上げて泣き出した。

 思い返せば蓉亜は、まだ何も分からぬであろう赤子頃、癇の虫が強く、毎日夜泣きをしては、筝葉と蒼奘を心配させていたものだ。

「、、、、、」

 だが、伯は知っていた。

 この子の癇の虫、その【癇】が、【勘】に通じている事に。

 この時、蓉亜は、いつか訪れる伯との別れを、予感していたのかもしれない。

「蓉亜」

「ぅうやっ、やぁああっ」

 伯の手が、蓉亜の頭に置かれ、頬へ。

 青味がかった黒瞳から、こんもりとして、幾つも零れ落ちる、涙。

 はらはら、、、

 顎先を伝って、白くまろやかな岩を、穿つ。

「は、く、、、っ」

「、、、、、」

 その涙を、親指で拭い拭い、

「んむッ」

 頬を抓った。

「な、何すんの?!」

 大きな口で喚く蓉亜に、

「俺は、死なん。地仙級と、一緒にすんじゃねぇよ、、、」

 唇を吊り上げて、そう言い放った。

「ほ、、、ント?」

「ああ、、、」

 小さな溜息に続いて、涙も止まったようだ。

「用は済んだ。都に帰るぞ、、、」

 袖で顔を拭う蓉亜を腕に抱き上げれば、

「ん、、、」

 こくり、、、

 蓉亜が頷いた。




 眩しい陽光の中、蓉亜を腕に座らせ、森の暗がりへ向かおうとして、

「ま、ままま、、、待てッ」

 掠れた叫びに、伯は無言で視線だけを向けた。

 蟲姫が、ふよふよと伯に、舞い寄った。

「蟲姫、何?」

 ふわりと芥子香に包まれたと思えば、

≪ お眼を閉じて、、、 ≫

 蟲姫の袂に抱かれ、蓉亜は、視界を塞がれていた。

 大人しく言われた通りにすれば、

「むむむ、虫、虫、、、、むし、、、ひかっ、、、る虫を、寄越せッ」

 恐ろしい声音が、飛び込んできた。

「欲に、憑かれたな。牟螺、、、」

 ぼんやりと伯が言えば、

「やかましいわいっ」

 行く手を塞ぐように立ちはだかった牟螺が、糸のように細い眼を剥いた。 

「この森は、わ、、、わいのものだっ」

 来る日も来る日も、一人黙々と山に入り、枝打ちや余分な木々の伐採に追われる毎日。

 人々の飲み水と成る川底を浚い、清流に保つために魚を放ち、薬草の在りかを調べて回った。

 最初は牟螺を馬鹿にしていた人々も、森が、徐々に里山として機能し始めてゆく様を目の当たりにして、【山守】としての彼を認め出した、そんな矢先であった。

 彼の、血の滲むような、そんな努力を、伯は知らない。

「、、、、、」

 能面の如き貌のまま、静かに牟螺を見つめている。

 その貌に、牟螺の手の中のものが、伯の貌に鈍い輝きを落とした。

「そうだ、、、あの虫を、あんさんは、手に入れたんだろ?それで姫さんを手懐けたんだ。そ、それを、わいに寄越さんかっ」

「あれは、いつだったか、、、?」

 ズ…ズゾ…

「寄越せッ」

 牟螺の形相を他所に、

「言ったはずだ、、、」

 震えるその手の中のものを見つめ、伯は嘯いた。

「この森は、鋼を嫌う、と、、、」

 ズゾゾゾ…ズズ・ゾゾゾゾ……

「?!」

 牟螺が、身じろいだ。

 欲に駆られ、充血した眼に、その姿は今はっきりと、映し出されていた。

 長くうねる黒髪は、陽光の中で在っても、生々しく広がり、ざわついている。

 赤紅の唐衣で、蓉亜を抱いて、今、伯の傍らに、在る。

「むむむ、、、蟲、、、蟲、、、」

 蟲姫。

 陽光を浴びて、ぬめぬめと白蛇を思わせる濡れた肌が、袂から覗いたのは、手。

 カカカカ…ッ

 伯の懐からひとりでに浮かび上がり、赤光放つのはしゃれこうべ。

「かつて、その鋼で削がれた痛み、忘れようはずがあるまいよ、、、」

 俯く、その頭部に吸い込まれると、赤い顎先が上がり、牟螺を、

 ズズズゾ…

 見た。

 赤々と濡れた肌の、貌。

 落ち窪んだ眼窩で、暗い光を放つ、赤き眼。

 削がれた鼻に、爛れ、白い蛆を零す、頬。

 白い歯円に張り付く百足が鎌首を擡げ、触角を動かしながら、黒いつぶらな眸で、牟螺を、見る。

「む、し、蟲姫ぇ、、、」

 それでもなお、手にした小刀を放さぬ様に、伯は蓉亜を腕に、

「蟲姫、殺すなよ、、、」

 背を向けた。

 コォォオ…

≪ あい、、、 ≫

 しゃれこうべと言う媒体を得て、この世に現れる、蟲姫。

 ブブ…ブォォォオオ…ッ

 その力、健在。

 黒い帯となって、彼方の空よりこちらに向かってくる、虫、むし、蟲。

 更に、

 シュルル…シュシュルル…

 生臭い吐息に視線を落とせば、

「ひぁぁああッ」

 小刀であったそれが、大人の腕程もあろう大蛇と化して、青い舌を覗かせている。

 我に返って腰を抜かし、

 かろん…かろ…ッ

 手から零れ落ちた小刀は、固い音を立てて岩に当たり、転がった。

 ブブブブブブブブ…

 それでも尚、こちらへ向かってくる蟲達に、

「た、助け、、、」

 蚊の鳴くような声で縋った主はすでに、三つ四つ向こうの、大岩の上。

「むむむ、蟲姫、、、後生じゃっ、、、助けて、助け、、、」

 意を決して、見あげたその貌。

 剥きだしの白い歯が、

 カカ…カカカカカカ…

 嘲笑うかのように乾いた音を、立てた。

 ― いかんッ、、、こやつらはやはり、化け物じゃっ、、、わいは、もうッ、、、 ―

 牟螺が、固く目を閉じた。

 幾千、幾万もの蟲達が織り成す、黒い帯が、

 ブブブッ…

 ィィィイイインン…

 ギリギギギギ…

 そのまま嵐となって押し寄せてくるのを、肌で感じながら、

 ― お師さん、わい、またしくじってもうた、、、 ―

 袖に入れた師に縋るように、退魔符を強く、握り締めたのだった。




 ― もうっ、ホント、伯ったら信じらんないっ ―

 置いていかれたタオフィが一行を探して、渓谷を一望できる突き出した岩場にたどり着いた時、すっかり夜は明け、

「んん?」

 た、はずなのに、辺りは俄かに、薄暗闇へと戻ってしまった。

 首を傾げながら空を見あげれば、

「げげッ」

 黒い蟲達が、太陽を覆っていた。

 ― うわっ、、、伯、蟲姫に何させちゃう気?! ―

 思わず、鳥肌の立った肩を、タオフィは擦った。

 蓉亜を腕に、牟螺を蟲姫に任せたまま歩み去ろうとする、伯。

「っ、、、」

 ― なんだか、、、って、怖がってるの、あたし、、、? ― 

 こんな時、まっさきに飛び出して、『やめなさいーッ』と言うべきなのは、分かっているのに、、、

 ― 足が、、、 ―

 すくんで、動かない。

 ― あたし、あの時も、、、 ―

 タオ…

 その声に、また、囚われてしまう。

 ― だめっ、、、 ―

 ぎり、と奥歯を噛み締めた時、

「ひゃっ」

 その榛色の髪を巻き上げる程の風が、すぐ傍らを擦り抜けて行くのを、タオフィは呆然と、見送るしかできなかった。




 オォオオオン―――ッ

 突如、渓谷にこだまする、その咆哮は?

 ― お師さま、お師さま、すんませんッ、すんませんっ!!半人前なのに、御山を飛び出したりして、すんま、、、ん? ―

 羽音が、止んでいた。

≪ これは、、、 ≫

 呼んだ蟲達を霧散させられた蟲姫は、己が前に現れたその主を、怪訝な表情で見つめ、

「ちっ、、、」

「伯?」

 伯は心当たりがあるのか、舌打ちと共に、振り向いた。

 チリリ…リリリィイインッ…

 忙しない、それでいて軽やかな鈴の音と共に、領布が旭に透けて、煌く。

 慌ててその傍らへ駆け寄ったタオフィが、

「伯っ、あれって、、、」

「、、、、、」

 伯の背中に隠れながら、顔を覗かせる。

「蒼奘が、【富紀の地仙】より借り受けている式神だ。あれで、何故か地仙らの受けが良くてな、、、」

 ほんの少し侮蔑を含んだ、もの言いになった、伯。

 分からないものだが、時折人の中には、無条件で神霊に気に入られてしまう者がいる。

 耶紫呂蒼奘と言う男、数少ない、そんな一人であるらしい。

「ふぅん。初めて見ちゃった」

「タオフィ?」

 タオフィの声に、蓉亜が首を巡らせれば、

「おはよ、蓉亜。って、ねぇ、あんた、なんで目、閉じているの?」

 タオフィが、怪訝な顔。

「だって、蟲姫が、、、」

「相変わらず、聞き分けのいい子、演じちゃってんの?」

「そんなんじゃないよぉっ」

 黒瞳が毀れんばかりに開いて、タオフィを見、

「ん」

 指を指された方へ。

「あっ、さっきの声って、、、」

 牟螺と蟲姫の、その間。

 牟螺を、背に庇うようにして、蟲姫を見据えているのは、

「父上の、式神ソラっ」

 立てば大の大人程あるだろう、白き狼。

「蟲姫」

 伯の声に、弾かれたように振り向いた蟲姫。

 その黒髪は垂髪で、いつもの瑯たけた美姫の姿であった。

 いそいそと舞い戻り、

「あら、ご苦労様、、、」

≪ まぁ、お寝坊さん、、、 ≫

 いつものやりとりについで、浮遊するしゃれこうべは伯の懐へ。

ソラっ」

 ォオンッ

 伯の腕から降りた、蓉亜の声。

 その声に応じ、白狼が駆け出す。

 そのまま、

「ぅわぷっ」

 蓉亜の腕の中へ。

 ハッ…ハッ…ウゥン…ッ

 白狼の温かい舌に顔中舐められながら、

「ソラっ、やめてよぉっ、くすぐったいっ」

 蓉亜は、その頬を両手で包み込んだ。

 柔らかい毛の中で、

 ゥウン…

 印象的な蒼い眸が、蓉亜を映している。

「僕達の事、心配して来てくれたの?」

 ウオォンッ

 力強く、吼えて応えた白狼を尻目に、

「達、ってなんだ、、、」

 伯が、憮然と呟いた。

 蓉亜はその太い首を抱いて、

「大丈夫だよ。おまえも来てくれたし、みんな一緒だもん」

 その背中を撫でた。

 一方伯は、

「離れろ、タオフィ、、、」

 太陽を背に歩き出し、腕から離れないタオフィを睨んだ。

「置いてきぼりにしておいて、良心が痛まないの?」

 唇を尖らせるタオフィに、

「戻るつもりだった、、、」

「だからって、ひどいことだなぁって、少しも思わなかったの?って聞いてるの」

「、、、、、」

 伯が、口を閉じた。

 いつものことで、面倒になったのだろう。

「♪」

 どさくさに紛れ、そのまま伯の腕を独り占め。

 二人の傍らを、

「ねぇ、僕、お腹空いちゃった」

 クゥンッ…

 白狼に乗った蓉亜が、ソラと見あげてくれば、深く項垂れた。

 ― こいつらの飯の算段を、なぜ俺が、、、 ―

 川を一息に飛び越えれば、その後ろに、白狼が続く。

「あたしはねぇ、どうせなら温泉がある所がいいなぁ。お風呂にゆっくり入ったら、きっと伯を赦しちゃうんだから」

「急いで帰ること、ないよね?」

 タオフィと蓉亜に挟まれ、

「、、、、、」

 伯は、溜息を一つ。

 それが、伯が折れたと言うことを、二人は良く知っていた。

 一方、

「もう、二度と、、、」

 果たして、師匠の退魔符の効果があったのか、無かったのか?

 来たときよりもいっそう賑やかな一行が、木の葉を揺する風と共に、木立に消えて行くのを、

「あいたくない、、、」

 牟螺の呻き声が鬱々と、見送ったのだった、、、


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