― ヨル ―
この事は、主、蒼奘様にも、お話しておりません。
もっとも、我が君より、ことの次第は聞いていらっしゃるとは思いますけれども。
詳細を知るのは、若様がお生まれになる前の都守と、先代都守であって、わたくしが帰依したただ一人のお方、ヨル様だけでしょうか・・・
わたくしは、若様も薄々お察しの通り、精霊でございます。
火焔の荒ぶる属性を抑えるために、ヨル様から水氣の名を賜り、尾長に、封じていただいておりました。
ええ、今は、前の都守によって人型に、、、え、前の都守ですか?
こちらも、蒼奘様に変りはないのですが、そこのところの事情は、また、別の機会に、お父上様から聞いてくださいまし。
さて、、、
先代都守、ヨル様は、若君もご存知ないのでしたね・・・
では少し長くなりますが、お付き合いくださいませ。
※
大陸。
神都【黄威】。
五重の堀によって守られたその王宮は、そのまま巨大な山の如き姿で、開けた平野に鎮座している。
整然と整備された街道を初めてやってくる者は、その壮大華美な城の姿が間近に迫って、驚嘆する事だろう。
夜中、まるで真昼のように煌々と灯りが燈される、神都。
ゆらゆらと闇の中で蠢いているのは、人の手によって引かれた大河を行き交う、交易船の灯りだろう。
いつも通りの、忙しない、夜であった。
「つくづく、いけすかねぇ都だなぁ、、、」
物見を兼ねた、鐘楼。
巨龍が巻きつくようにして、高く聳えるその物見窓から、闇夜にぼんやりと灯りを滲ませる都を眺めている。
夜も更けてなお、活気に溢れる猥雑な喧騒も、ここでは、無縁。
湿気を帯びた夜気に、静寂が、滲んでいる。
そこへ、
「よ、、、ヨル様、ささ、さ、探しました、よっ」
荒い息遣いと、乱れる足音が、近づいてきた。
「ちっ、、、」
名を呼ばれ、振り向けば、がたいの良い若い文官が壁に縋り、肩で息をしているところだった。
息を切らしているのは、長い螺旋階段を上ってきたせいだ。
大きく迫り出した窓辺に腰を下ろし、足を外へ投げ出していた主は、罰が悪そうに耳の後ろを掻いた。
「また、抜け出して。倭の使節なのですから、少しは自覚を、、、」
文官が、息も絶え絶えに言えば、
「神皇は、好きにして良いと言ったぞ」
けろりとした答えが、返ってきた。
薄闇に揺れる、炎。
頼りない燭台の灯り。
その中で、
「っ、、、」
その眼に遭って、文官はおもわず身を竦めた。
― まだ、慣れない、、、 ―
その眸。
血の色をした眼球。
夜でも炯々と光る猫科、いや、野生の虎を髣髴とさせる、金が散った碧眼に、細い瞳孔。
倭の使節団は、大国の手前、謙遜と侮蔑を含んで、破眼と、言った。
使節が到着した日に、眼を背けがちな闇をも見通すための眸だと、文官らも説明を受けた。
「、、、、、」
当人は、そんな反応に慣れているのから、あえて何も言わず、言葉を待っている。
文官は、喉の奥で、声が裏返りそうになるのを必死に押さえながら、口を開いた。
「へ、、、陛下は、お心が広い方ですが、だからと言って、遥々海を渡って来た使節の、貴方様の労をねぎらう宴の席を抜け出すなんて、、、正気の沙汰とは思えませんっ」
肩を怒らせる年若い文官は、どうやら用意された使節付きらしい。
「戻るさ、もう少ししたらな、、、」
構わず背を向け、手を伸ばす。
ふわり、またふわりと、風が、ヨルの長い髪を、揺らす。
赤銅色に焼けた、くせの無い髪であった。
その髪が、大して風があるとは思えないのに、揺れているのだ。
「ははは、俺の髪で遊ぶなよ、風伯」
「?」
その手が、宙で翻る。
長い袖が、不自然に舞い上がるのを、付き人は、目の当たりにする。
余計な事は、とも思ったが、若さ故が、興味が先立った。
「それ、、、何をなさっておいでです?」
「挨拶していたところさ。大陸に吹く風にな、、、」
「は?」
困惑したその鼻先を、風が打ちつける。
「うっ」
思わず眼を閉じたその耳に、
「聞こえないか?こいつらの声が、、、?」
低い、その声音が聞こえた。
眼を瞬かせながら、
「何をおっしゃっているのか、理解できません」
相手の顔を見つめれば、小さな溜息が唇を擦り抜けて行くところだった。
端正な少年のような面差しが、この時ばかりはひどく年老いた老女のようにも見え、付き人は首を振った。
眼を擦れば、そこには、いつものその人の姿。
疲れているのかと、頬を擦っていると、
「かつては誰しもが等しく、この声を聞く事ができたのだがな。寂しいものだ、、、」
何とも悲しげな横顔が、夜の帳が降りた都を、見つめていた。
その表情が、少し引っかかってしまったのは、付き人も長く故郷を離れていたせいもあったのかもしれない。
誰でも、良かった。
今だけは文官ではなく、ただの人として、大海原を渡って来たこの相手と、何か別の話を、したかっただけなのかもしれない。
「昔は皆、あなたが見ているものが、見えたと?」
倭国の帝の親書を携え、暦道、陰陽道、森羅万象の理を学びに訪れた一行であると言う。
嵐と共に神都を訪れ、到着早々、神皇の御前にて龍神に乞い、見事晴らしてしまった、主である。
もちろん、神皇の覚えもめでたい。
かと思えば、学ぶと言う当初の目的などそっちのけで、好き勝手に辺りを散策し、挙句、この有様。
神苑とされる場所にいつの間にか入り込み、昼寝している時などは、肝が潰れそうになった。
天衣無縫。
まさに、その言葉は、彼女のためにあるようなものだと、付き人は思った。
― 耶紫呂ヨル ―
初めて見る、倭人。
「人は、人だけを必要とした。人だけを信用し、頼った。だから、眼は曇った。それ以外は、見えなくなった、、、」
詠うように、吟ずるように、その声は、夜気に滲んだ。
「でも、貴方は見えていらっしゃる、、、」
「ああ。俺は、どうもガキの頃、捨てられたらしい」
言葉とは裏腹に、穏やかに、ヨルは告げた。
「簡単なことだ。俺は、人に頼ることを知らなかった。だから、曇るその機すら、逃した、、、」
人の前では、声無き、姿無き、【者】達が。
「乳の代わりに精霊達が朝露を運び、獣の群れが温もりをくれた。自然が、神霊や鬼らまでもが、俺を育んでくれたんだ」
細い顎先を擦りながら、
「俺は、人ではないのかもしれん、、、」
ヨルは、ぽつりと呟いた。
黙って聞いていた付き人は、
「そんな、ことが、、、」
口を突いて出てしまった言葉に、すぐに唇を引き結んだ。
絵空事だと、喉まで出てきてしまっていたから。
「ああ、だが、これが真実さ」
別に隠す事でもないと、ヨルは続けた。
すべてを悟っているかのような、澄んだ眼差しが、穏やかに見つめてくれば、付き人は何も言えず、黙ることしかできなかった。
どうでも、良い。
倭人が言う、これは、ただの世迷い事だ。
聞き流せば、それでいいのだ。
ただ、、、
「、、、、、」
付き人は、その人から目を逸らせずにいる。
もう少しだけ、このままでいたかった。
もう少しだけ、その眸に見つめられて、いたかったから、
「ヨ、、、」
ヨルッ
「うん?」
地上から遠く響く、仲間の声。
遥か眼下を見下ろせば、大きく手を振る同僚の姿。
「ああ、ついに見つかったか、、、」
苦笑しつつ、観念したヨルが、立ち上がる。
すらりと長い、手足。
甘い百合の香りをさせて、赤銅色の髪が、流れた。
「あ、、、」
その華奢な、背中。
なんともいえぬ、喪失感に似た感情が、鳩尾の辺りに蟠る。
出逢ってまだ、間もないと言うのに、この感覚は、いったい?
それは、幼い頃、母の服の裾を掴んだまま、家を出て行く父の背を、共に見送った寂しさに、よく似ていた。
地上へと降りる、石段の前辺り、
「行かないのか?」
ぼさっとするな、とでもいいたげに、その人に呼ばれた。
「あ、、、い、行きますともっ」
駆け足で、その背を、追った。
「なぁ、お前。ところで、なんて言うんだっけ?」
背中越しの問いに、
「フェイ・スーだと、もう何度も言っているのですが、、、」
「フェイ・スー、、、」
「今度こそ、覚えてくださいね?」
「ん、、、あー」
なんとも、頼りない返事。
それでも今、フェイ・スーの胸中を占めるのは、その人の傍らにいる【喜び】だ。
そして、この感覚が、どうも万人に共通してしまうのを、彼はこれから身をもって知ることとなるのだった。
ヨル様は、神霊を従えるに足る類稀な資質を有する、お方。
破天荒な言動は、人のそれよりも、神霊が持つ荒ぶる属性に似ておられましたが、それでいて、情に脆い方でもありました。
神霊も、人も、どうしたわけか惹かれてしまう【何か】を、その身に秘めたお方でございます。
出自は定かではありませんが、幼少の頃、山伏の一団に拾われ、修行に明け暮れたと聞きいた事があります。
都で、もう随分前に亡くなられた星読博士、鬼生烏海様に見出され、星読寮に招かれたのが、十九の頃。
耶紫呂を名乗られ、ここにお屋敷を構えた三十の頃には、すでに何度も海を渡られ、時の帝の信頼も厚く、大陸の神皇の覚えもそれはめでたく、大陸に親善大使ら一団が派遣される時には、必ず同行するようになっておられました。
ヨル様が幾度も海を渡るに、一度も荒れた事が無いのは、一重に神霊に好かれていた、証。
かく言うわたくしも、その一人なのですけれど、、、
使節団が黄威に迎えられ、半年が過ぎた、夏の終わり。
ヨルは早朝、褥を抜け出し、馬を駆って、神都の郊外へ来ていた。
倭へ戻る半月程前の、ある日であった。
大陸、牙々山。
「あぁ?」
不機嫌この上ない、声がする。
「ですからっ、、、あの山には人喰いの化鳥がおります、と、、、っ、、、な、何度もそう申しておりますッ」
馬も嫌がる峻険な悪路に差し掛かったと思えば、あろう事が馬を手放して歩き出した。
そこでようやく追いついて、自身も馬を降りて息も絶え絶えに駆けつければ、
「うるせぇ、喚くな。聞こえていらぁな」
恒例となりつつある、いつものやりとりが、始まった。
「倭よりの使節であらせられる方に、万が一のことがあれば、わたしはッ」
言いかけた視線の先で、
「ま、首が飛ぶだろうな」
ヨルは、そのまま己が首を手刀でとんとん、とやった。
「わ、、、」
やるせなさと、憤りで、耳まで赤く染めつつ、
「わ、わたしの首は良いのですっ!!あなたさまの身こそ危ういとっ」
― まったくどうしてこの方は、分かってくださらないんだッ ―
捲くし立てようとすれば、意味深な相手は流し目でもって、一瞥。
「ううっ」
それだけで、並みの者ならば、彼のように萎縮してしまう。
その眼が、大陸で言うところの【蛇眼】と呼ばれる所以なのかもしれない。
「俺は構わんと言っている。万一の時は、崖から落ちたとでも、落雷に打たれたとでも、使節を抜けたとでも、好きに言えよ」
「ヨル様ッ」
気力でもって足に力を込めると、背を向けた白袍姿の女丈夫の後を追う。
― 嗚呼、わたしはなんでいつも、貧乏くじを引いてしまうんだ、、、 ―
試験に受かり、晴れて役人になったものの、うだつの上がらぬ地方勤め。
ようやく神都に呼び戻され、倭からの使節を迎える大役に抜擢。
今度こそ、出世の道が開けたと思えば、珍妙極まりない、この女付きであった。
眼に見えぬ者らと対話し、星を数え、卜占に精通。
にも拘らず、ここ半年、ヨルの小間使い然としている自分しか、記憶に無い。
神都を訪れる倭人の印象は、色白で小太りな貴族然とした者や、病的な痩躯の僧侶らが多い。
その中でも、この女は異質であった。
健康的な、褐色の肌。
すらりと手足は長く、髪は陽に焼け、赤銅掛かっている。
それを背に無造作に流し、纏うものこそ白袍だが、端正な顔立ちには、野性味が溢れている。
その立ち振る舞いからは、女と言うより、少年のそれに近く、当人も検める気は無い様子だ。
大の大人でも、その重さに持て余す錫杖を共に、今、都から馬で一刻程西にある曰く付きの岩山【牙ヶ山】の山懐へと、足を踏み入れようとしていた。
付かず離れず、ぴたりと後をつけてくる、気配。
荒い息使いと、照りつける暑さに、とうとうヨルの堪忍袋の尾が、
「おい、何度も言わせるな。これ以上、ついてくるな」
切れた。
続いて、ビュッ、と風を切る音がして、
「ヨ、、、」
フェイ・スーが息を、呑む。
身の丈以上はある錫杖の切っ先が、鼻先。
「もう一歩前に出てみろ。砕くぞ、その顎」
「っ」
細い瞳孔。
血のように赤く染まった、眼球。
破眼。
平素、口は悪いが、眼差しは柔和な、ヨル。
だが、さすがに苛立ちが募ったこの時ばかりは、獰猛な猛虎と化す。
獣のように鼻に皺を寄せつつ威圧されれば、フェイ・スーは首を振ることしかできなかった。
恐る恐る、踏み出そうとした足を、そろりと後ろへ伸ばせば、
「、、、分かったなら、よし」
ヨルが、にっ、と笑った。
目が細くなって、人好きのする顔へ。
「、、、、、」
― 笑っていれば、美人なのに、、、口を開けば相変わらず、ケダモノ、、、 ―
体力は言わずもがな、気力も失ったフェイ・スーの、臆病な割には随分と逞しい肩を叩いて、
「日暮れには、戻る」
鼻歌交じりに、勾配を増す山道へ、向き直ったのだった。
「おや、趣味が良いことで、、、」
眼下に散らばって見えるは、枝状の白いもの。
高いところから落ちたのか、砕けたものや、まだ形の残ったものもある。
ヘシ曲がり、外れて朽ちた車輪は、かつてここを通った商隊のものだろうか?
穴の開いたしゃれこうべや、事故直後の惨状を髣髴とさせる大腿骨が、何が起こったかを、生々しくも鮮明に伝えてくるのだった。
「気が、合いそうだ」
切立った崖下を眺めていたヨルは、にんまりすると、晴天に聳える灰恢の岩山が織り成す寂寞とした世界を、眺めた。
どこを見ても、植物の姿は無い。
遠く遥かなる高みで、足を踏み外すその時待つ禿鷹だけがここで見受けられる命在るものすべてであった。
そこを、草木の蔓で編まれた草履で、行く。
草履の下で、小石らが擦れ、
ザッ・ザッ・・・
砂を噛む小気味良い音が、する。
落石か、ところどころに大小様々な岩が、転がっていた。
カカ…カラ…カラ・ラ…
対岸の岩肌。
垂直に切立ったその一部が、砂塵を上げて崩れては、眼下、水無しの川底へと落ちていった。
人の管理の手が離れて長い、悪路である。
かつては、山向こうから、都へ至る最短のルートであったのだが、ある理由によってすっかり廃れてしまい、今では、地図にすら記されることはなく、口に出すのも憚られる曰く付きの道となってしまった。
キィィ…ヤアアアァ…
山間から、風の音にしては甲高く、不快極まりない【音】だけが、吹き抜けてくる。
それは、足元から背筋に掛けて泡肌が立つような、
アァ…ゥウ…ァァア…
人と呼ぶには、獣じみていて、それでは獣かと言えば、哀しすぎるものだった。
ヨルの髪に、小石が当たった。
と、次の瞬間、
カラ…カカガ…ッ
崩落。
零れ落ちる砂塵に、礫。
その中を、白い袖が舞った。
「よっと、、、」
急ぐでもなく、慌てるでもなく、その痩躯は右へ左へと跳躍を繰り返し、先の道へ出た。
後方では、今し方まで歩いていた箇所に、岩々が堆く積もっている。
振り返る事も無く、歩みを止める事も無い。
高いところにある太陽の陽射しが、幾分、厳しくなって来たのは、傾いたからだろう。
ギグアアアァ…アア…
その【音】は、途切れる事無く、続いている。
ギガガ・・・ガガァッァア・・・
その叫びは、【脆弱なるもの】を切り裂き、神霊達は逃げ返る。
加護を失った人々は惑い、足を踏み外し、屍の山を築く。
たどり着いたのは、いつの事だったか、、、?
思い出す前に、思考は音となって、霧散してしまう。
その、繰り返し。
嘆きを、、、
孤独を、、、
怨嗟を、、、
そここそが相応しとばかりに、四枚の真紅の翼を広げれば、陽炎のように揺らめく、禍々しい黒き靄が、辺りを朦々と満たす。
嘆きを、、、
孤独を、、、
怨嗟を、、、
しゃれこうべをしっかと踏みしだくのは、漆黒の鱗の脚。
嘆きを、、、
孤独を、、、
怨嗟を、、、
鋭い鉤爪には血肉がこびりつき、乾いていた。
ギリリグコオオオゴゴ・・・オゴゴゴ・・・ッ
空へ向けて放っても、応える者は、無い。
遥か高みより神仙らが、気紛れの一瞥を、与えることすらないだろう。
朝な夕な、たとえ闇夜であろうとも、息絶えるその日まで、止めるつもりはなかった。
襤褸を纏った屍を、積み上げた山の上。
化鳥は、いた。
だれぞ、この辺りを通り掛かろうものなら、瞬時に発狂するだろう。
だが、心配することは無い。
成仏できぬ者達が手をこまねいて、谷底で、諸手を挙げて歓迎するに違いない。
風雨に晒され、象牙色の骨がむき出しになったのなら、またここに積み上げよう。
そうすれば、きっと、寂しくはないはずだ。
誰ガ?
≪ ≫
内腑から喉を押し、せり上がる、焔。
天を焦がせとばかりに立ち昇るのは、常人には不可視の炎柱。
いっそ、この身も焼き尽くしてくれたのなら、楽になれるのだろうか?
「寂しさでは、その身は焼けまいよ」
≪ !! ≫
澄んだ声音が、乾いた大気に、弾けた。
見れば、屍の塔の下。
荒涼とした牙々山の頂に、人影があった。
眩しそうに手を翳し、こちらを見上げるその人は、辺りに耳を澄ませてから、
「嗚呼、ようやく止んだ、、、」
大きく頷き、にこりとした。
見上げる程ある化鳥を前に、
「やはり、お前だね、泣いていたのは?」
≪ 、、、、、 ≫
ヨルは、言い放った。
今まで、この頂に姿を現した者があっただろうか?
一度も、無い。
何が、起きているのか?
声も出せない化鳥に、
「お前の声を、世話焼きの風伯が運んでくるのさ。大陸のどこにいても、わんわんと、赤子のように泣き喚きやがる、その声を。ただでさえ、喧しい都だ。お陰で、こちとらろくに眠れやしねぇ。そいつの顔を、ここを離れる前に拝んでやろうと、こうして足を運んだわけだ」
恐怖など微塵も感じさせぬ、そのもの言い。
今にも、迷惑千万だとでも言いかねない、喧嘩口調だ。
いや、存外、売っているのかもしれない。
― ニンゲン、、、? ―
己の姿を目の当たりにすれば、ことごとくが逃げ出し、許しを乞うては平伏す中、この女はどうだろう?
顎を上げ、
「それが、どうだ?俺を前にしたとたん、泣き止みやがった。こんなところで油を売っておらずと、仲間の元へ帰ればいいだろう、迦楼羅?」
≪ 汝は、、、 ≫
しゃがれたその声に、女は胸を張った。
「ヨルと言う」
≪ ヨル、、、忌まわしき、闇の名、、、 ≫
「ああ。だが、気に入っている」
再び言葉を失った化鳥を見上げる、ヨル。
その眼差しは、荒涼としたこの世界の中で、一際精彩を放っていた。
≪ ッ、、、 ≫
思わず面食らった、化鳥。
≪ な、、、仲間など、おらん。ワタシは、独りだ、、、 ≫
言葉が紡がれるたび、その嘴からは轟々と炎が、噴き出した。
触れれば、その者の精神がまず、消し炭と化すだろう。
ヨルは、それを知ってか知らずか、
「そうかい。なら、俺と共に、いっそ大陸を離れてみるか?」
あっけらかんと、言ってのけた。
≪ 離、れる、、、? ≫
何が起ころうとしているのか、化鳥は訳が分からす、身じろいだ。
人が現れ、共に来いと、言う。
棲む世界の違う、脆弱なる、その相手。
化鳥は、困惑した。
翼を折り、足場を変えれば、カラカラと骨らが乾いた音をさせて、転がっていった。
「おっとっ、、、」
ヨルの足元に降ってきたのは、長くしっかりとした、骨の一部。
大腿骨。
それを手に取ると、華奢な肩に打ち付けながら、
「でかい眼、ひん剥くんじゃねぇよ。そのまんまの事さ。ここでお前に喰われはしない。俺は、もうじき役付きになるんだ。前々からの約束でな。だから、倭へ帰らなくちゃならねぇ」
脆弱なる人間は、言い放つ。
その挑発に、
≪ 貴様、、、 ≫
胸の奥が、いつになく、熱い。
≪ 何故、そう言いきれる?ワタシが、貴様を、喰らわんと、、、? ≫
低い声音が、大気を震わす。
それを受けても、
「人や獣の屍を、後生大事に弔っている奴になんぞ、喰われねぇって言ってんだよ」
≪ 、、、、、 ≫
相手は、どこ吹く風だ。
耳の穴に指を突っ込みながら、
「それにな、俺は強い。そう簡単にゃ、やられねぇよ」
ヨルは、からからと笑った。
ヒョウ・・・ルル・・・ヒュ・・・ン・・・
風伯達すら敬遠し、近寄らなかったこの牙々山に、涼やかな風が、吹き込んだ。
ヨルに付き従う、風の神霊。
風伯。
気紛れで、扱いづらい事で知られているそれらが、懐いている。
化鳥は、今だかつてそんな人間を、見たことがなかった。
熱い。
総毛立つ程に、その熱は今、全身を包まんと広がって行く。
― ワタシが、揺れている、、、? ―
興味が、湧いてしまう。
それを抑えようとしつつ、
≪ 大した、自信だな、、、 ≫
喉の奥を、低く鳴らせた。
ゴルゴゴォォオオ…
威嚇だ。
今すぐ、ここから立ち去れ。
そう言わんばかりの殺気に、大気が張り詰める。
どこかで、崩落が始まった。
その轟音が、立ち上る砂煙と共に聞こえてくる。
手にしていた骨を、積み上げられた屍の山に戻すと、
「お前さぁ、こんなところに篭っているから、辛気臭いんだな」
≪ なんだと、、、? ≫
ヨルが、口角を吊り上げた。
風が、幾つもの小さな旋風となって、砂塵を舞い上げる。
ヨルを傷つけようものなら、と、臨戦態勢だ。
― 風伯。我が火の気性の前では、勝機など無いと言うのに、、、歯向かうのか?!ならば、、、 ―
一息に、消炭にしてやらんと、腹腔に蟠る焔を解放せんと嘴を開き、
「お前達は、下がっておいで、風伯」
錫杖を構えたヨルが、手を振った。
風が、動揺を運べば、
「心配するな。お前達の心は、俺が届けてやる。俺の気持ちも、お前達と一緒だから」
ヨルが、屍の塔を、駆け上る。
≪ 貴様ッ ≫
四枚羽根を広げ、炎を吐き出そうとし、
「なぁ、おい。まだお前の弔いは、済まねぇのか?」
≪ !! ≫
息が、詰まった。
その間にヨルは、錫杖の柄を骨の間に咬ませ、
「よっ、と、、、」
体を押し上げると、一息で化鳥の鼻先へと、踊り込んだ。
幼き頃からの嶮しい霊山での修行日々が、その身に強靭な筋力を、培わせた結果だろう。
少年のような痩せぎすな体は、極限まで絞り込まれたものだったのだ。
カラカラ・・・シャン・・ンン・・・
錫杖が、遊環を触れ合わせながら、落ちて行く。
ヨルは、無腰だ。
目の当たりにした鋭い嘴の口腔には、炎と闇が詰まっていた。
≪ 馬鹿め、、、 ≫
眼を見開き、その全身に炎を吹きつけんとして、
≪ ぬぐっ!? ≫
化鳥は次の瞬間、身じろぐ事も、許されなかった。
「ちょっと、聞けって」
舌を、むんずと掴まれ引き出されていたのだ。
ヨルの腕は、炎に炙られている。
健康的に焼けた褐色の肌が、じりじりと赤黒く、変色してゆこうとしている。
どす黒い炎は、その手指から侵蝕し、自我を奪う毒の属性を持つ。
心が弱い者なれば、すぐざまその身は廃人と化すことだろう。
ヒョウッ・・ヒュンッ・・・ヒヒョ・ウッ・・
風がざわめき、化鳥の頬を打つ。
やめろ、と、喚いている。
― やめるのは、どちらだ ―
忌々しげに睨めたところで、化鳥もどうにできない。
すぐ鼻先に、
「人を喰らうと聞いていたが、大嘘だな?匂わない」
≪ 、、、、、 ≫
穏やかな眼差しで、こちらを見上げる者が、いる。
その腕は、焼かれているはずなのに?
すぐ鼻先で、
「ここに居座る限り、好き勝手言われ続けるぞ。だいたいな、後生大事に、骨を集めて積み上げる、そんな奴がいるか?」
くすくすと苦笑している声が、聞こえる。
ヨルは、もう一方の手を、そっと伸ばした。
すぐ鼻先に、
「お前が弔って来た彼らを、そのお前までをも、鬼だと言うのなら、、、」
温もりをもたらす手が、置かれた。
≪ 、、、、、 ≫
不思議な、気持ちになった。
すぐ鼻先で、
「そいつらを俺が片っ端から、ぶっとばしてやる」
力強い、眸と、ぶつかった。
≪ 、、、、、 ≫
細い三日月のような瞳孔が、丸くなる。
すべてを見透かされているような、望月を思わせる、そんな澄んだ眸であった。
化鳥の眸が、焦点を結んだ。
その先。
化鳥を映す、ヨルの眸。
ヨルを映す、化鳥の眸。
― 嗚呼、、、 ―
今、共に在るのだと、一羽と一人は、この時ようやく、対峙した。
― ワタシ、は、、、 ―
下界の祭囃子に、浮かれて舞い降りたところで、偶然にも、その姿を見られてしまった。
牙々山は、道も細く、足場も悪い。
忠告しなければ、と後を追ったが最後、足を滑らせ、谷底へと落ちて行った、羊飼い。
それは、事故だった。
だが、もし、下界になんぞ遊山に出掛けなければ、防げたものだ。
谷底へと落ちて行く悲鳴が、その日からずっと、耳から、離れなかった。
化鳥はそれから、牙々山の無念仏達を集め始めた。
霊山へは、戻らなかったのだ。
幾日も、幾日も。
散らばった遺骨を咥えては積み上げ、積み上げては、祈った。
最初は、どこぞの神に、魂送りをしてもらうために。
一年、二年、五年、十年が、経った。
誰も、応えなかった。
誰も、訪れなかった。
人々の訪れも絶え、人が足を踏み外すような事故も、起こらなくなっていた。
ただ、人を喰らう化物の棲家だと、謂れが残った。
孤独は、いつの間にか、憎しみと怨嗟に摩り替わっていた。
いつしか、眠れぬ幽鬼らと、
― ワタシは、孤独に、憑かれていたのか、、、 ―
同調していたのだ。
「もう、いいんだ。お前の声は、確かに俺に、届いた」
温もりは、いったいどれ程ぶりだったろうか?
ヨルのその声は、化鳥の奥深くへと染み渡り、
≪ 、、、、、 ≫
炎は、波が引くように、喉の奥底、腹腔深くへと、沈んでいった。
ヨルの手が、離れた。
そのまま、ゆっくりと引き出されたその腕を、見つめる。
細かい傷が無数に奔り、赤々と焼けた、その腕。
滲んで滴る血潮がひたひたと、白く乾いた牙々山に、命ある者の色を刻んだ。
ククルコォオオ・・・
喉が、鳴った。
そのまま身を低くし、
≪ 、、、、、 ≫
「、、、、、」
その血塗れた爪先に、額づいた。
それは、風伯らを立会いに、化鳥が人間に帰依した、瞬間でもあった。
額づく刹那、化鳥は眼を閉じた。
声が、聞こえる。
紛れもない、それは自身の声。
あの問いの答えに、ようやく気付いたのだった。
誰ガ?
≪ 嗚呼、それは、ワタシだったのだ、、、 ≫
と。
良く陽に焼けた水夫らが、積荷の点検をする中、
「、、、、、」
活気溢れた港にあって、珍しく、大人しくしている者がいる。
舫ったままの大船の船縁に腰掛け、立膝に頬杖を付く、その人。
赤銅色の髪を、ばさらに長く垂らし、どこかぼんやりと、彼方の山を、眺めている。
― まだ、空を眺めていらっしゃる、、、牙々山から、戻って来てから、ずっとあんな調子だ、、、 ―
あの日、腕に奇妙な怪我を負って戻ってきたヨルは、多くを語らなかった。
『いずれ分かる』と、その一点張りで、しかし、怪我とは裏腹に上機嫌であった。
そして、上機嫌のまま、ぶっ倒れたのだった。
ヨルを担ぎ、神都まで戻ったのは、夜半。
叱責を受けながらも、神皇が寄越した典医と共に懸命に看護すれば、程なくして眼を覚ました。
数日して出歩けるまでに回復すると、今に始まった事ではないのだが、空を眺めてぼんやりする奇行が加わった。
それはちょうど十五日後に当たる、倭に帰る今日でさえ、変わらずあの調子である。
「ヨル様っ」
フェイ・スーが岸から声を掛ければ、
「ん?」
その視線が、人ごみの中を彷徨った。
「ここですよっ」
手を振れば、
「なんだ、来たのかよ。見送りは、いらんと言ったのに」
口調とは裏腹に破顔しつつ、眼下の桟橋へと飛び降りようとした。
「あ、ぁぁああっ、いけませんッ!!そんな高い所から飛び降りるなんて、、、ああっもう、、、」
そして、案の定、
「こっちの方が、近いだろ?」
構わず、飛び降りた後だった。
「また怪我でもされたら、わたしは、、、」
「悪かったな。俺のせいで、この後、また地方に飛ばされちまうんだって?今さっき、おしゃべりな女官から、聞いちまったよ」
「あ、、、いえ」
ヨルは、
「俺のせいで、お前の出世、台無しにしちまった。すまない」
頭を下げた。
「そんなっ、お気になさらないでください。黙っててと、言ったんだけど。い、いやだなぁ、ばれちゃうなんて。最後くらい、わたしにもカッコつけさせてくださいよ」
苦笑したフェイ・スーが、ヨルの肩を押して顔を上げさせた。
毎回、手を焼くと言われるヨル付きであったが、フェイ・スーは、実際にこの日を迎え、なんとも言えぬ寂しさを、抱くのであった。
一度目を離せば、探すだけでも一苦労であったが、そこには、いつも笑いがあった。
息苦しい宮勤めを、ついつい、忘れてしまう程に。
「お、、、?」
ヨルの視線が、フェイ・スーの小脇に抱えたものを捉える。
「ああ、そうそう。これなんですけどね、、、」
袱紗を外すと、金箔で口を閉じられ、神龍の焼付けを施された瓶子が、現れた。
「なんだ、酒か?気が利くじゃねぇかッ」
「これは、飲むためではございませんッ!!長い道中、その傷を消毒するためにと、神皇が下賜された、神酒でございますっ」
「でも、飲むためだろ?」
「ヨル様ッ!!」
無事な手で、ひったくられるようにして、奪われる。
― まったく、この人は、、、 ―
別れと言う感慨すら、無縁のその所業。
フェイ・スーは、頭を抱えたくなった。
「この傷は大したことねぇって、何度言えば分かるんだ?」
「人の顔を見たとたん、ぶっ倒れて。そのまま高熱を出して何日うなされていたとお思いです?つい先日まで、その怪我のせいで食事もできずに、わたしが三食、晩酌、介添えした事をお忘れですか?!」
「あん?そーだっけ?」
「くぅ、、、っ」
― こう言う方だった、、、ッ ―
顔を突き合わせば、このやりとり。
でも、不思議と憎めない。
先に見送りに来ていた者達から、くすくすと忍び笑いが聞こえてくる。
パンッ・・・パパンッ・・・
出航を間近に告げる、正午の花火。
青い空に、白い煙が弾けると、桟橋を行き交う人々が皆、小走りになる。
「ヨルッ!!おいてくぞッ」
船から、声が掛かれば、
「達者でな、フェイ・スー」
初めて、名を、呼ばれた。
― 最後の最後に、、、 ―
にっと笑って、背を向けられれば、
「ヨル様も、、、道中っ、お気をつけてっ」
フェイ・スーは、大きな声で叫んでいた。
肩越しに、包帯でぐるぐる巻きにされた手が、ひらひらと振られた。
駆けられた船への橋を渡り、甲板でこちらをみつめる、その人。
明日から、もうその背中を追いかけることが無いと思うと、寂しさが込みあげる。
舫った縄が、外されて、甲板へと引き上げられてゆく。
固定されていた大船が二艘、神皇が遣わせた水軍らに守られ、川の流れにゆっくりと離岸を開始。
丸四日掛けて川を下り、海に出れば、一月弱の航海になる。
倭は、遠い。
フェイ・スーは桟橋の突先へと、人ごみを掻き分けながら、出て行った。
― 本当に、気をつけてっ ―
大きく手を振りながら、船上で頬杖し、にんまりとこちらを見つめる眼差しを、確かに感じて。
せめて、その姿が見えなくなるまで、見送ろう。
その気持ちに応えるかのように、その姿も、いつまでも甲板の上にあった。
見上げる程に大きかった朱塗りも艶やかな遣威船も、小さく、小さくなって行く中で、
「あれ?」
視線の先、その人が、落ちつかなげに、彼方の水上で首を廻らせ始めた。
そしてそのまま、後方へと歩いてきた。
帆を操る者達らを前方へと下がらせると、
「ん?」
ふいに、太陽が翳った。
雲も無く、天気が良かったはずなのに。
フェイ・スー、居合わせた者達が、空を見上げ、
「ええ?!」
揃って息を呑んだのは、一重に現実だと言う事を、物語っていた。
「いいのか、あの坊也、連れて来なくて?」
傍らの長身の男が、にやにやとヨルの顔を眺める。
「あ?なんで?」
また、ここを離れる。
そして、再び訪れることだろう。
遣威使として。
その時、あの文官は、達者にやっているのだろうか?
彼なら、大丈夫だろう。
堅物だが、それは性格だ。
柔軟性は、欠いてはいない。
きっと、どこに行っても、良い役人になるに違いない。
「珍しく、気に入ってたんだろ?」
含みのある声音に、
「男は皆、そんな事ばかり言いやがる。そんなんじゃ、ねぇよ」
ヨルは眼を、吊り上げた。
異国の地に郷愁すら抱き、そんな感慨に耽っていたのに、水を差された。
白袍纏った同僚が、買い込んだ大陸の書物を懐や袖からはみ出させながら、
「ここしばらく、ずっとうわの空だったらしいじゃないか?」
「ああ、それか、、、」
唇から、侮蔑の笑みが毀れた。
その赤銅色の髪を、水上を渡る風が、揺らした。
「、、、今に分かるよ」
「?」
それまで、フェイ・スーを眺めていたヨルが、同僚に瓶子を預け、待ちくたびれたと言わんばかりに、伸びをする。
そのまま、後方へ移動し、
「すまない、皆。少しばかり、場所を開けてくれないか?」
出航したばかりで、舵を取ったり、帆の調節をしたりと、何かと忙しいのだが、
「天下の風読が言うなら」
「おい皆、言うとおりにしろ」
荒波をも鎮めるその威光は、水夫らに絶大な支持を得ていた。
皆が息を潜めて見守る中、ヨルはするすると包帯をはずす。
晒されたのは、まだ赤黒く生々しい傷跡持つ、右腕。
その手が伸ばされると、太陽が、翳った。
「おおおっ!?」
「ありゃ、なんだ?!」
紅蓮の焔を纏う、四枚羽根。
赤黒い体躯は、大の大人が腕を伸ばしても軽く十人分はありそうだ。
どよめく中、その姿に向かって弓を向ける兵士らに、
「慎めッ、俺の客だっ」
一喝。
大気を、突風が渡った。
その声を、風伯が運んだのだ。
猛者達がつがえた矢を外し、辺りは触れ合う具足の音も止んで、静まりかえった。
鉤のように禍々しい嘴が、
≪ 遅くなった、、、 ≫
躊躇いがちに、言って寄越した。
舞い降りることなど、到底できず、旋回するのを、
「返って急かせちまって、悪かったな。ここへおいで、凰火」
手招いた。
すると、その身はするすると小さくなり、
バササッ・・・
力強い羽ばたきと共に、ヨルのその腕へと舞い降りた。
ヨルの腕は、対価。
契約の証の前では、その意のままなのだが、その言葉通りで、他意は感じられなかった。
舞い降りたところで、
≪ あ、、、 ≫
「うん?」
動揺。
白い袖に土埃がついたのは、その足が土で汚れていたため。
身じろぎ、再び飛び立とうとするのを、ヨルの手が、優しく羽根を撫でて宥めた。
「土に、埋めてやったのか?」
≪ 、、、もう、守ってやれないから ≫
飢狼が死肉を、禿鷹が骨の中に残る髄を、狙っていたことだろう。
化鳥は、堆く積んだ骨を、大地に還してきたようだった。
ヨルの眼差しが、眇められた。
「そうか。陽が暮れたら、彼らのために、俺も祈ろう」
≪ 礼を、言う、、、主よ ≫
まだ、慣れないのだろうか?
なかなか眼を合わせられない、化鳥。
それでも、ヨルは大きく頷いた。
「さすがの俺も、魂送りできる神霊のツテは無い。それくらい、させてくれ」
これから、時間を掛けて少しずつ慣れていけば良いのだと、その眼差しは言っている。
化鳥を腕に、何やら談笑する様を遠目に、男は、
「憂鬱の原因は、よりによって、迦楼羅と言うわけかい」
遠くで眺め、呟いた。
「真砂殿、その、今度はなんですか?きゃ、る、ら?」
遠巻きに眺めていた水夫らが、集まってくる。
「ああ、迦楼羅はね、毒蛇や虫を食べる霊山に住まう神獣でね。平地で会うのはとても珍しいのさ。かく言うオレも、初めて眼にしたが、、、」
― まったく、厄介な奴に、手を差し伸べちまうんだな、お前って奴は、、、 ―
そんな事を思って、苦笑。
「皆の目にもはっきりと見えるのなら、ヨルと契約したのだろう。心強い式神に、変わりは無いよ」
「おお、さすがはヨル様だ」
「わしらの風読士様は、やはり天下一じゃ」
人々の賛辞や笑い声を、聞きながら、
「賑やかだろう?皆、気の良いやつらだ」
≪ そ、うか、、、 ≫
「ああ。だがしかし、このまんまじゃ、ちと、目立つわなぁ」
≪ ワタシなら、雲に隠れよう。人目を避けるのは、わりと得意、だから、、、主、、、? ≫
しかし、相手は、細い顎先に手を当てて、何やら思案の真っ最中。
「お前の気性を抑えるために、まずは、水氣の名を冠す事としようか、、、」
そのうち、ぶつぶつと呟きながら、手のひらに指を奔らせ始める。
そして、
「うむ、、、」
一つ大きく頷くと、化鳥を見上げた。
細い瞳孔が、まあるい望月のように広がってゆく。
陽光に交じり合う、深い碧と金色。
化鳥はその眼差しから、眼を逸らす事を、
≪ 、、、、、 ≫
できずにいた。
― 破眼。いや、これはやはり【覇眼】。見る者の精神を支配すると言われる、【覇王眼】だ。だか、どうだろう?この眸は、こんなにも心地良い、、、 ―
血の色の眼球に、碧の月を思わす、瞳孔。
この時、化鳥凰火は、美しい眸だと、思った。
そのまま、夜の月を宿した、眸だ、と。
と、同時に戦慄した。
この眸を持って生まれ、人の中で生きるには、並々ならぬ苦労があったに違いない。
それを微塵も感じさせぬ、からりとした風を纏う、女であった。
「【凰火】の真名は、預かる。これからは、汪果と名乗るといい」
≪ 汪果、、、 ≫
「これから行く帝都は人が多い。その姿じゃ、動きづらいだろう。形代は、もっと小型で、愛らしい方が人受けが良い。これなんて、どうだ?」
≪ あ、お、、、 ≫
水が、跳ねた。
大の大人程あろう大きな鯉が、高く跳ねたのだ。
きらきらと輝くその飛沫が、掛かる。
「うぷわッ!!こら蛟っ、てめぇっ、俺にもかかったじゃねぇかッ!!」
白金の魚影を残し、水底へと悠々と消えて行く姿に、ヨルが怒鳴った。
一方、その腕で、ぶるぶると身を震わせた凰火は、異変に、羽をバタつかせた。
「お、なかなか、、、」
≪ ? ≫
見上げれば、にやりとしている、ヨルの顔。
その腕から船縁に舞い降りると、羽根を広げ、水面を覗き込んだ。
水面に映るは、
≪ 、、、、、 ≫
青灰色の体毛も優美な、尾長の姿。
汪果は言葉を失った。
≪ これが、、、ワタシ、、、? ≫
尾は、一際長く、絹の如き生成色が、灰白、そして、青味を帯びて、さながら、水面を映す空の色であった。
「あ~、やっぱ、気に入らない、とか?」
船縁に頬杖ついて、見つめられれば、
≪ そのうち、慣れる、、、 ≫
強がった。
本当は、少し、抵抗があった。
― それでも、、、―
汪果は、もう一度、水面に映すその姿を、眺めた。
その身は、水面に映った空に融け、ここより遥か天空に在った頃の気持ちが、込みあげてきた。
これから、まだ見ぬ地へ、行く。
そこにずっと腹腔に蟠っていた孤独は、もう無い。
「あ~、でも、ちょっと勿体無かったなぁ、、、」
≪ ? ≫
ヨルの長い指が、こちらへ向かって伸びてきた。
「だってさ、お前の真紅の翼って、、、」
顔を寄せると、汪果の羽根を突きながら、
「青空に映えて、凄く綺麗だったからさ」
≪ 、、、、、 ≫
笑って言った。
汪果は、しばし、言葉を反芻していたが、
≪ こ、、、この翼の色も、、、悪くな、ぃ、、、 ≫
パ・ササッ・・・
語尾を濁して、飛び立った。
照れ隠し、だった。
天高く舞い上がる、その優美可憐な姿を見上げ、
「ああ、もちろんだ」
ヨルは、その覇王眼でもって、彼方に広がる大空を仰ぎ見るのだった。
※
吊り下げられた透かし灯篭から、橙の灯りが漏れる。
濃紺の宵闇に沈んだ四阿屋には、琲瑠が運んでくれた火鉢で温かい。
「、、、そんなご縁で、こうしてこの地にあるのです」
汪果は、向かいの蓉亜を見つめた。
話の途中で飽きてきたのか、楓の木に向かおうとしたところを、袖を掴まれ阻まれた。
今尚、袖を離さない蓉亜のせいで、長椅子に寝そべったままの、伯。
蓉亜は、その胸の前に浅く腰を掛け、逃げ出さないようにしているのだ。
「汪果は、ヨルさんのこと、本当に大好きなんだねっ」
「え、、、」
蓉亜がそう言えば、汪果が面食らった。
しかし、すぐに、
「、、、ええ、そうですね」
その言葉を、噛み締めるように、頷いた。
「あの方が現れなければ、わたくしは、いまだ孤独に囚われたまま、牙々山に在るでしょう。それこそ、若様が苦手な鬼に、なっていたかもしれません、、、」
蓉亜の心中を察して、少し意地悪な笑みでもってそう言えば、
「お、汪果っ、冗談、やめてよっ」
向かいで、むくれる。
「驚かせてしまって、申し訳ありません、若様。皆さまのお目の無いところで、と思ってはいたのですが、はしたないところを、、、」
「そ、そんな事ないよっ!!毒蛇、だっけ?汪果だって、ちゃんと食べないとだめだよ。汪果が倒れちゃったら、皆困っちゃうもの、、、」
蓉亜の言葉を受けて、汪果は頭を振った。
「わたくしを、案じてくださっての事でしょう?若様は優しさが、汪果は何よりも嬉しゅうございます」
いつもの微笑みを浮かべ、慈愛に満ちたその眼差しに見つめられると、蓉亜は汪果に怯えた自分が、とたんに恥ずかしくなった。
と、同時に、なんだか申し訳ない気持ちで、いっぱいになった。
そんな蓉亜の気持ちを知ってか知らずか、
「、、、、、」
伯の手が、その背を突いた。
「汪果っ」
その指先に力づけられたのか、弾かれたように、蓉亜が立ち上がった。
そのまま唐衣の袖を掴み、
「ごめんっ、ごめんねっ、汪果ッ!!僕、汪果が大好きだよっ」
たまらず、しがみ付いた。
一度抱いてしまった気持ちの始末のつけ方を、幼い蓉亜はまだ知らなくて、
「うわぁぁあんっ」
込みあげる気持ちを持て余し、終いには大きな声で泣き出してしまった。
「まぁまぁ、若様、、、」
困ったような、それでいて穏やかな眸で、汪果は、自分の胸に顔を埋めてなきじゃくるその頭を、ただ優しく、撫でやった。
異形と、人の子。
そのやりとりを、
「、、、、、」
ぼんやりと、菫色の眸が見つめている。
その長椅子の後ろ。
背凭れに両肘をついていたタオフィは、そんな伯を見下ろした。
― ホント、人間臭いんだから、、、 ―
神命に忠実な相手であったらのなら、いつまでもこんな気持ちは抱かないだろう。
遥か高みから、地上を睥睨している天津国の神らを、タオフィは知っている。
顔色一つ変えず、神命に則って、地上に落雷を、大津波を、洪水を、【喚ぶ者】たちだ。
― 伯、、、 ―
彼らと肩を並べ、等しく、手の届かぬ高位の相手であるにも関わらず、名乗りを上げることを拒み、同じ地上に立っている。
口は悪いが、高位の神々が持つ、高圧的な威圧感は、微塵も、感じさせない。
だからこそ、離れがたくもある。
それが返って、もどかしい。
「若様。ほら、涙をお拭きになってくださいまし」
「う、、、うぐっ、、、うっ、、、」
汪果の手が、そっと蓉亜の肩を押した。
まだぽろぽろと毀れる涙を、袖で拭いてやりながら、
「わたくしは、多くを、あの方と共に在って、頂いた。皆さまと、こうして結ばれた縁も、そのひとつです」
宵闇を従えて、こちらに歩んでくる白い人影に向かって、言った。
「僕も、そうだよ」
人影が、それに応じた。
「ち、父上、、、?」
透かし灯篭の灯りの中に、
「吾子。皆を集めて、今度は何をやらかしたんだい?」
浄衣を纏った蒼奘が、立っていた。
「汪果、皆に先代の話を、していたの?」
「ええ。わたくしが至らず、若様を、不安にさせてしまったのです。お詫び致します、都守」
汪果が深々と頭を下げるのを受け、
「違うんだ。父上、僕が悪いんだ。僕がおくびょーだから、こんなおおごとに、、、」
蓉亜が蒼奘を振り返って、首を振った。
その二人を、切れ長の闇色の双眸が見つめると、
「何があったんだい、伯?」
長椅子に寝そべったまま、タオフィが髪を弄ぶのを、煩そうに手で払いのけていた伯は、
「あぁ?」
不機嫌この上ない声を、あげた。
話が終わり、ようやく解放されると思った矢先であった。
「伯」
いつもより幾分低い声で名を呼ばれた。
腕を組み、闇色の眸で見下ろされれば、
「、、、くっ」
伯が、呻いた。
蒼奘は、その姿の使い方を、よく心得ているのかもしれない。
忌々しそうに白い犬歯が覘くと、
「蓉亜が、汪果の食性を知ったんだ。それで、鬼に憑かれているんじゃねぇかと、思い込んだ、、、」
憮然としながらも、そう説明した。
「、、、そうか」
蒼奘は、大きく一つ頷くと、
「吾子、それは、驚かせてしまったね。汪果も、すまなかった。ちゃんと僕が蓉亜に話すべき事だった」
蒼奘が二人に向き合い、詫びた。
「そんなこと、ないよ。タオフィも、伯も、蟲姫も、みんな僕と一緒にいてくれたし、もう、全然、平気だよ。だって汪果は、いつもの汪果だったんだもの」
「若様、、、」
汪果が、そっと蓉亜の肩に手を置けば、蓉亜が彼女を見上げ、睫毛に涙を結んだまま、にっこりと笑う。
二人の間の蟠りは、とうに無い。
むしろ、絆が、強くなったような、感じさえする。
― まだ分からないだろから、もう少し先でもいいかと思っていたけれど、子供の成長は、速いものだね、、、 ―
その速さに蒼奘は、内心、舌を巻いていた。
仕事柄、屋敷を空けがちな役職を、この時ばかりは少し疎ましく感じながらも、
― まったく僕は、、、 ―
周りを眺めれば、我が子を父母に代わり、時に厳しくも育んでくれる者達が、いる。
― 本当に、彼らに助けられているなぁ、、、 ―
しみじみと感じ入っていれば、
「あんっ、伯、どこいくのよぅ?」
≪ 主さま、、、 ≫
伯が、鴉色の袖を翻して立ち上がっていた。
そのまま颯爽と四阿屋を出て行くと、木の葉を足がかりにふわりと大池を渡り、母屋へ。
「琲瑠ッ」
短く呼べば、忙しない足音と共に現れた琲瑠が、
「嗚呼、若君、お酒のご用意、できております。皆様も、夕餉のご用意は、とうに整っておりますよ」
いつものなんとも困った顔で、告げた。
「すいません。わたし一人では、手が回りませんで、こんな時間まで掛かってしまいました。火の世話は、どうにも苦手でして、やはり、炊事は汪果でないと。火は通っていると思いますが、味の保証はしませんよ」
「かまわん。酒の味は、変わらん、、、」
「あ、それもそうですねぇ」
腹が減っていたのか、その空気から逃れたかったのかは定かではないが、琲瑠をせっついて、早々に母屋の奥へと消えていった。
「都守」
汪果に呼ばれれば、
「ああ。僕らも行こうか。タオフィ、蟲姫もおいで」
「え、あたしも、蒼奘さま?」
「こんな遅くまで付きあわせて、空腹で帰した日には、怖い天狐どのに、怒られてしまうよ」
蒼奘が、苦笑した。
星が煌きだした、夜空。
手が回らず、行燈や吊り灯篭には灯りは無いが、渡殿を母屋へと渡りながら、蓉亜は、父の大きな手に、自分の手を重ねた。
繋がれた、手の温もり。
もう一方の手は、汪果の手。
少し離れて歩いていたタオフィが、
「あ~あ、あたしも伯と、繋ぎたかったなぁ、、、」
小さく呟いた。
そのすぐ傍らで、
≪ なんなら、わたくしが、繋いであげて? ≫
蟲姫の皮肉が、応じた。
「誰が、あんたなんかとっ」
≪ ふふ、、、 ≫
すかさず牙を剥いたタオフィに、勝ち誇ったような蟲姫の笑み。
「もう、喧嘩しないでよぉ。僕の手、二つしかないんだから」
蓉亜が肩越しに言えば、
「お二人とも、おいでなさい。火傷しても、いいのなら」
汪果が、意味深な笑みでもって手をひらひらとさせながら、続いた。
さらに、
「あ、妻子がいるけど、僕でよければ」
蒼奘の、のほほんとした声まで掛かった。
「え、遠慮しとく」
≪ わたくしも、、、 ≫
頭を振って遠慮する、タオフィと蟲姫。
夜に同化しつつある彼方の山稜のその上に、星が流れた。
空気が澄んだ、夜であった。
ほんのりと赤く色づいた、宵待月を見上げながら、
― 今日は、賑やかな夜になりそうだ、、、 ―
蒼奘は、蓉亜の手を握り返し、そう思ったのだった。
活動報告で、書けないと書いた割りには、すんなりと書きおえた煬です。
本篇より先に、ヨル様が世に出てしまうことになっちまったが、、、( ´艸`)ヶヶヶ
しかし、、、
ダンディなおっさんにする予定が、魔眼なアネゴになってしまった、、、ε-(;ーωーA
おっさん追いかけて、冥府渡りますか?
僕だったら、絶対渡りません。。。
と言うことで、以下、割愛。