花葬「ヒヤシンス、漢字で書くと風信子」
陰鬱であるべき名をその看板に背負う葬儀支援課には鼻歌が聞こえていた。
その鼻歌は事務机に向かう青年から発せられたものである。
青年とは言うが、少年ではなさそうだから青年だろうというくらいの幼さをまだその顔に宿している。
この青年はポエナという名で、今年、エンデンバンデス都庁に入ったばかりの新人だった。
彼には特徴というべき特徴がなく、一度会った人に似顔絵を描かせると、九割は彼の容姿を描くことができないこと疑いない。
また、その名前もよく間違えられる。
ポエラ、ポメナ、ポエラなどその間違えられ方の種類は多い。
彼と同じ課に所属する先輩には、三文字目をよく忘れるため「ポエ太」と呼ばれている。
余談ではあるが、筆者も彼の名前がなんだったか忘れて、ポエラやポメラ、ポメナと書くこともある。
他に似た名前の人物は出さないようにするので、間違いを見つけてもそっとしておいて欲しい。
「おやおや、ポエナ君。ごきげんな鼻歌が漏れていますよ。何か良いことでもあったのですか?」
ポエナの隣に座っていた金髪の青年が、鼻歌の注意と情報の収集を同時に行った。
こちらは均整のとれた顔つきで、その容姿にあどけなさも残っておらず落ち着いている。
容姿だけで判断すると、美青年と呼ばれるにふさわしい。
しかし、彼の細い目と口元にたたえた微笑が、彼の謎めいた部分をより際立たせている。
もっというと、書類仕事のために掛けている丸眼鏡が、彼の胡散臭さをより濃密な物にしていた。
「すみません、キュレル先輩。……実は、このあと彼女と食事に行くんです」
「おやおや彼女とお食事ですか。それは楽しみなことですね」
キュレルと呼ばれた金髪の男はそれだけ返して仕事に戻る。
この話は、これにて終了になるはずだった。
それを許さない男がいた。
「なんだと! ポエ太に彼女だと!」
ソファで、競艇新聞を顔にかけて寝ていた大男が叫んだ。
先ほどまで寝ていたはずなのだが、その目は見開かれ、寝起きとは思えない。
「お前の彼女になるなんて、よほど物好きな女だな! どんな子だ?!」
「なんなんですか、物好きな女って! アネモネアは、とっても良い人ですよ!」
「ほぉう。アネモネアというのか」
「レオン先輩は仕事して下さい」
ポエナは苦虫を噛んだ顔で、話を変えた。
完全に自爆だが、彼女の名前を知られてしまったのだ。
あろうことか、名前を一番知られてはいけないうるさい先輩に。
このままでは、この後の食事まで邪魔をしかねない。
「お名前から察するに、花人族の方でしょうか?」
ポエナの意思を無視した形で、隣から追撃がきた。
エンデンバンデスには、様々な種族が生活を営んでいる。
とりわけ人に連なるものは多く、亜人族を含めれば都市人口の七割強を占めていた。
花人族は比較的少ないが、その外見が麗しいことから注目されることは多い。
「はい。でもクオーターなので、見た目はほとんどノーマルです」
「出身はコルナゼリア連合国のフラフェスタ州ですかね。どういった馴れ初めなんでしょうか?」
キュレルは、ポエナから交際情報を抜き出していく。
ポエナも機嫌がよく、うるさい先輩のことなど気にせず話をする。
話しているうちに終業のチャイムが鳴った。
どうやら無意識のうちに、ずいぶんと彼女について話し込んでしまったらしい。
終業のチャイムは、第二庁舎完成からずっと働いているためか、その音はかすれ音程も外れているが音量が馬鹿みたいにでかい。
歯の抜けた老婆が叫んでいるようにも聞こえ、ある職員がうちの婆の声にそっくりだと話した。
その話が広まり、彼の祖母の名を取って「絶叫婆」などと呼ぶ者も少なくない。
「えっと……」
「帰って良いと思いますよ。今日は特に仕事もありませんから」
ポエナはパッと顔を輝かせる。
上司であるマリーを見るが、彼女はいつも通り黒の前髪をヴェールにしていて顔色を窺えない。
駄目なら何か言うはずなので、問題なしと彼は判断した。
ソファで横たわる男はどうでもいい。
「それではすみませんが、お先に失礼します」
さっさと帰り支度を済ませ、彼は葬儀支援課を後にした。
彼が去った部屋には、三人の彼の先輩が静かに座している。
「どう?」
ポエナのうきうきした足跡が聞こえなくなったところで、マリーが一言切り出した。
その声は先ほどの絶叫婆が、もう聞けなくなるくらい澄んだ声である。
実は今日、初めて喋ったのだが誰もそこには意識しない。
「黒でした」
「そうか」
レオンも言葉短く返答する。
ポエナは彼女について楽しげに話をしていたが、あれはマリーの催眠魔法によるものだ。
下手な催眠魔法では、効果後、本人に違和感が残るのだが、ポエナは違和感をまったく覚えていない。
それだけでも術者の技巧がうかがえる。
さて、都市国家エンデンバンデスは、四カ国と隣接しているため、各国の工作員が非常に多い。
根拠となる資料はないが、全人口の二割は工作員ともまことしやかに噂されている。
ポエナの彼女であるというアネモネアもスパイだったのである。
「コルナゼリアの息がかかっていました。いかが致しましょう?」
「話を聞いてたかぎりじゃ、情報を漏らしたってこともなさそうだな。ま、奴自身がほとんど情報を知らないってのもあるだろうが……」
「私がやる」
キュレルとレオンが頷き了承したが、すぐにレオンは思い出したように付け加える。
「食事だけで済むなら、今日はやめておいてやれよ」
ポエナを特徴がない、と蔑むレオンではあるが、彼なりに後輩をかわいがっていたのである。
おそらく人生で初めての彼女とのひとときを、永遠のように楽しんでいるはずだ。
消すのはやむなしとして、せめて今日くらいは楽しませてもいいだろう。
「処理は速い方が良い」
マリーに慈悲はない。
彼女が一抹の優しさをしめすのは故人とその遺族だけである。
レオンがマリーを鋭く見るが、彼女の黒い髪に阻まれ届くことはなかった。
「言い遅れましたが、命令を下した方はすでに処理しました。食事会は中止になるでしょう。今ごろは彼女も食事どころじゃないでしょうからね」
キュレルの発言に対して、レオンが睨みをもって応える。
だが、どちらもそれ以上は何も言わない。
こうして葬儀支援課の、ミーティングは終了した。
問題の当事者たる新人は、家に帰って、来ていく服を真剣に選ぶのだろう。
そして、待ち合わせ場所で、来ることのない彼女の服装を楽しみにしつつ夜を受け入れるのだ。
翌日のポエナは、昨日の様子が嘘のように沈んでいた。
髪はぼさぼさで、ヒゲはそり残しが目立つ。服もよれよれと見るからに精彩を欠いた。
「その様子では、昨日はお楽しみということにはならなかったようですね」
全員が揃ったところで、キュレルが白々しくポエナに状況を尋ねる。
「彼女が刺されて入院したんです。意識不明で、集中治療室から出た後は、ずっと付き添ってて……」
「なんだと?」
レオンは純粋に驚いた。
キュレルもポエナの隣で唖然としていた。
レオンの見るところ、それは演技ではなさそうである。
レオンの観察は正しかった。
マリーがやると言ったので、キュレルも関与を止めた。
下手に手を出すと、彼女の処理作業に巻き込まれてしまうからだ。
レオンとキュレルの視線が、マリーに向いた。
彼女はいつも通り何も語らず、二人の視線に応えようとしない。
「ポエナ君。生活課に行って、こちらの書類を提出してもらえますか。それと戸籍証明申請書が少なくなったので二十枚ほどもらってきてください」
「……はい」
ポエナは少し遅れて返事をした。
「ポエナ君。辛いとは思いますが、それは相談者には関係がないことです。社会人としての身だしなみを、最低限整えてから本庁に赴いてください。一時的に帰宅することも許可します」
キュレルはマリーを見る。
彼女は、ほんのわずかではあるが頷いた。
こうして、キュレルは邪魔な存在を葬儀支援課から追い出した。
「どういうことだ?」
彼の足音が消えることを待つことなく、レオンがマリーに問いかけた。
彼女が処理すると言ったなら、ポエナの彼女はすでに亡き者となり、ポエナ自身の記憶にも修正が入り、今日も特徴のない顔で出社するはずであった。
実際はそうなっていない。彼女は刺されながらも生きており、彼氏はそれに付き添い疲労していた。
「対象は、すでに刺されていた」
誰がやったか魔法で聞き出そうにも、彼女が堪えられる状態ではなかった。
仕方なく信頼がおける病院に連れて行ってやったとのこと。
その後で、ポエナに情報を伝えた。無論人づてで。
マリーはそう話した。
「凶器と傷跡。それに他の情報があれば教えろ」
凶器は残っていなかった。
傷跡の深さと、刺されていた位置を説明する。
彼女の部屋は荒らされた様子や抵抗をした様子もなかったことから知人の犯行だろう。
「刺突位置と傷の深さからおそらく男。もしくは長身の女。傷跡が三カ所で、しかも殺せていない。殺しについては素人だろう」
「それでしたらポエナ君の話していた、彼女の姉を名乗る人物でしょう。場所を突き止めますので、いったん失礼いたします」
マリーが頷くとキュレルの輪郭がぼやける。
彼は扉から出ることもなく、文字通り部屋から消失したのだった。
キュレルが、彼女の姉を名乗ると表現したのは、すでに彼女に姉などいないことを掴んでいるからである。
彼女の上の地位にいる人物だろう。
「ところで、どうしてポエ太に彼女の入院を伝えた?」
レオンにとって犯人が誰で、なぜ刺したのかは、別段気になる理由ではなかった。
裏社会に生きていれば、こういったことは日常茶飯事で、いちいち気にしてはいられない。
そのため彼の疑問は初めからこの一点のみ。なぜマリーが、ポエ太に彼女の負傷を知らせたのか、だ。
入院させたのは、もともと殺そうとしていた相手で、殺した後のポエナのフォローなどもこの女は考えていない。それほどこの女は冷たい。
魔法の行使に、彼女の体がもたないなどとぬかしていたが、もたなくても話させるのが彼の知っている同僚の姿だ。
「課長に指示された」
「あいつが? なぜ?」
マリーは何も応えない。
レオンも気が長い方では決してない。
空気が確かに重さを持って、部屋に広がっていく。
「ただいま戻りました」
キュレルが爽やかな声で、その空気を霧散させた。
雰囲気が良くないことを彼は察したが、いつものことなので無視して話を進める。
「対象はガゥの森へと、近づいているようです」
南方コルナゼリア連合国との国境には、ヤフラ門という関所がある。
ガゥの森は、その門の東側に広がり、魔獣が生息するため国境も曖昧になっている。
そこを狙って密入国する者がいることは否定できないが、危険があまりにも大きすぎる。
「対象の他に、護衛が四名います」
「座標は?」
キュレルはあらかじめ調べていたようで即答する。
ついでに地図まで持ち出して、どういうルートで向かっているかの解説も始めた。
マリーはしばらく俯むいていたが、何かに気づいたように顔をわずかに上げた。
「見つけた」
「俺を森に飛ばせ」
部屋の奥にある掃除道具入れから、モップを取り出しつつレオンが言い放つ。
「飛ばしたら戻せない」
マリーは魔眼と魔法とを利用して擬似的な転移魔法を使うことができる。
これには欠点があり、すぐ近くにあるものを飛ばすだけで、遠くのものを近くに持ってくることはできない。
また、本人自身が転移で飛べる距離も、他の物を飛ばせる距離よりもずっと短い。
レオンは遠く南へと飛ばされた後、自力で都市に戻る必要がある。
「構わん。やれ」
即答である。
レオンに躊躇いはない。
「そうすれば、しばらくはお前の顔を見ないで済む」
余計な一言ではあるが、彼の本心であった。
言われた方というと、別に気にとめている様子もない。
部屋にいた他の一名も、如才ない様子でたたずんでいる。
「生かしておいてください。こちらで回収して他の情報も抜き取りますので」
「殺すほど強い奴らでもないだろう」
「ええ」
キュレルの要望に、軽く答えたところでレオンの姿が捻れるようにして消えた。
「そう言えば、室長。アネモネアの入院している病院周辺で、コルナゼリア関連の動きがあります」
「動く必要はない」
「おや? 彼女は餌だと思いましたが、よろしいのですか?」
「今、あそこは魔境」
「……まさか、課長が?」
マリーは沈黙により肯定した。
キュレルは考える。果たしてより哀れなのはどちらだろうかと。
部下を刺して逃げた上司か、それとも部下の口を完全に封じるため遣わされた名も知らぬ暗殺者たちか。
彼はどちらも同じだと結論づけた。
最終的に両者とも彼の元へ来ることになるだろう。
さて、果たして現在、病院に入院している女はどちらになるのだろうか?
「課長が動くということは、彼女に見込みがあるということでしょうか?」
「彼女しだい。それと……」
その後に続く言葉は、どこかに霧散してしまったようだ。
キュレルは、きちんと行間を読んで言葉にする。
「ポエナ君しだいですか。ああ、ポエナ君といえば……、室長が彼を病院まで呼んだのは、『彼女が死にたがっていた』からと見ていましたが、違っていたようですね。課長に指示されていたのですか」
ちゃっかりレオンとマリーの話を盗み聞きしていたキュレルである。
「てっきり私はこう考えてのです」
マリーは生者に冷たく、厳しい。逆に、死者とその遺族にはささやかな温かみがある。
彼女は死者に対して、彼の理解を超える敬愛の念を抱いているようであった。
そのため、自ら進んで死者になろうとする生者に対しては特に厳しい。
今回のアネモネアがまさにそれに該当していたのではないか。
「遠方にあった寄る辺が消えて、彼女は今や天涯孤独。死にたがりな彼女に新たな繋がりを与え、生への執着を――」
「亡霊。もう喋るな」
マリーに常時かかっている黒のヴェールが外れ、三つの瞳が直にキュレルをみつめていた。
部屋に濃密な魔力が充満していく。魔力の飽和に伴いキュレルの姿が霞み始める。
最後まで口元の笑みを絶やすことなく、ついに彼は部屋から消え去った。
葬儀支援課による追跡作戦を、逃げる方は当然というべきか知る由もない。
その一行がガゥの森にたどり着く。ここまではなんとか逃げ切れた。
魔獣の力は脅威だが、魔具を使えば避けて進むことは容易い。
「順調ですね」
オレンジ色の髪を揺らし、一人の女性が呟いた。
彼女の顔は悠然とした表情である。
「はい。追っ手はもちろん、魔獣の姿もありません。リリーナ様、急ぎましょう」
「無論です。我々はまだ死ねません。死ぬわけわけにはいかないのです。ナスタチウム様が亡くなったいま、一刻も早く大公様にこれを届けねば……」
リリーナと呼ばれた女性は、自身の懐に手を伸ばす。
その奥にしまい込んだ物の感触が、彼女の手へと確かに伝わり安堵の息が漏れた。
彼女が、優秀で生意気な部下を刺してまで奪った機密情報がそこにはあった。
これさえ大公に渡せば、彼女たちの身元は保証されること疑いない。
「これさえあれば……」
「これって何だ?」
突如、男の声が聞こえた。
リリーナは女性であり、彼女を囲む従者も全員が女性であった。
茂みの奥から、長身の男が歩み寄ってくる。
額には小さな角が二本生えており、その顔には獰猛さが漂う。
通常ならば、すぐさま反応するであろう従者たちがその足を止めている。
それは彼が手に持っている物のためであった。
男の左手には魔獣が握られていたのだ。
魔獣の大きさは、ゆうに男の倍はあるだろう。
その首に、男は指をめり込ませて掴みあげ、体を地面に引きずっている。
魔獣はすでに死んでいた。その頭蓋にはモップの柄が深々と突き刺さっていたのである。
「聞こえなかったのか? これって――」
我を取り戻したリリーナの従者が、二人がかりで同時に男へと襲いかかる。
男はそれを確認し、手に掴まれていた魔獣を二人に向かって放り投げた。
丸めた紙くずを投げるかのように軽々とである。
二人を巻き込むように投げられた魔獣を、一人は屈んで避けたが、もう一人は正面から激突した。
衝撃は相殺されたものの、なお魔獣の勢いが強く、リリーナを守るようにして立っていた別の従者をも巻き込んで地面に転がった。
一方、魔獣を避けた方の従者は、体勢が低くなったところを、彼女の眼前に迫っていた男の拳で上から叩き潰された。
地面に埋まった女に目も向けず、男はリリーナと残る一人の側近に歩み寄る。
「これって――」
「リリーナ様! お下がりください!」
あっという間に、四人いた従者が一人になってしまい、リリーナは目を疑った。
残る一人は、彼女の側近中の側近であるゼラニ。彼女は魔法を発動させた。
短縮詠唱からの樹木魔法。
彼女の得意魔法であり、ここは森。
最大の効果が、この場に即時顕現した。
周囲の木々から、蔦が伸びて男の手足をからんだ。
男の歩みがようやく止まった。
ゼラニの魔法は止まらない。
さらに魔法を唱えて、男を蔦で何重にも巻き付ける。
「とどめを!」
リリーナも無能ではない。
ゼラニが最初の魔法を唱えたときから、すでに詠唱を始めている。
「くらいなさいっ!」
土に直接手をつけ、彼女は土に自身の魔力を送り込む。
男の周囲で土が盛り上がり、槍のように尖った先端は、勢いよく男へ突き進んだ。
「な、に……」
土槍は男を突き刺さなかった。
全ての土槍が、男の体に当たったところで勢いを止める。
彼を巻いていた蔦の隙間から、黒い靄が溢れ出ていた。
男が動いた。
彼を巻き込んでいた木々も蔦を介して揺れ動く。
勢いを止めていた土槍は、彼が動くと共にぼろぼろと崩れていく。
ついには、彼を縛り上げていた蔦も千切れていき、黒の靄に覆われた男が姿を現した。
まるで鬼のようであった。
「リリーナ様! お逃ぐぇっがぁ――」
体をくの字に折ってゼラニが飛ぶ。
彼女の横腹に、男の振るった腕が当たったのだ。
茂みを突き抜けてなお勢いは止まらず、木の幹に激突し、今度は逆くの字に体を折って勢いを止めた。
リリーナはその様子を見ることはできなかった。
彼女の一歩前にその脅威が立っていたのだ。
「なぁ、おい」
「あっ、ぁわっ、ひっ……」
何かを言おうとしたが、言葉にならない。
魔法を唱えようとするも、詠唱が思い出せず、口も震えるだけである。
生きたいという本能と、自らが課した使命がせめぎ合う。
両者を解決する手段が彼女には何も思い浮かばない。
彼女の思考など、男にはどうでもよかった。
彼は最後だと言わんばかりに手を伸ばす。
伸ばされる腕が彼女にとっての終わりだと認め、彼女の股からあたたかな液体が流れた。
股をひたすぬくもりを感じて、彼女の神経は限界を迎える。
即座に意識を手放し、地面と抱擁を交わした。
「けっきょく、これって何なんだったんだ……?」
惨劇の中心で男は立ち尽くす。
彼の周辺には、疑問に答えてくれない女が多すぎた。
所は変わってエンデンバンデス内のアネモミロス都市病院である。
この病院は、都市でもそこそこの病院であった。
どの先生が良いとか言う噂もあまりなく、その逆も少ない。
平日には種族を問わず、多くの外来がやってくるのである。今日もまた受付はごったがえしていた。
ただ、今日は患者以外の外来もある。
ちょうどいま、入口をくぐった女の名をメリサ・キュアニという。
長い髪を後ろでまとめ、手には花束とフルーツの盛り合わせが入っていそうな紙箱を持参していた。
服装も落ち着いており、鋭い目つきも色の入った眼鏡で隠している。
一見、ただの見舞客のようだが、彼女は刺客である。
病院の一室で横たわる女に用があった。
メリサに暗殺を依頼した人間は、花人族のようだったがクライアントに深入りはしない。
依頼料がきちんと支払われ、先方から対象の情報提供もきちんとされている。
問題は何もない。後は彼女がやるべきことをやるだけだ。
特に問題もなく階段を上がり、聞いていた部屋の前に彼女はやってきた。
表札には「アネモネア・フラジエント」と書かれている。
部屋の中に、人の動きは感じられない。
周囲に誰もいないことを確認し、扉をわずかに開けて音もなく侵入する。
白を基調にした部屋には、ベッドが置かれていた。
上には管に繋がれた人間が横たわる。
メリサは対象へと歩みつつ、花束に仕込んだ毒針を抜き出す。
フルーツの盛り合わせが入っている箱からは、緊急用の煙幕と小型爆弾を取りだした。
ベッドの前に来て、メリサは止まった。
止まったのは、体の動きだけではない。呼吸と思考もだ。
メリサの目の前で寝ている人間は、彼女の最愛の母親であった。
母は病に冒され、都内の別の病院に眠っている。ここ数年は目を覚ますこともない。
彼女を長い眠りから覚ますのに必要な薬と治療を得るために、メリサはこの稼業に手を出していた。
その母がなぜか眼前のベッドで眠っている。
「メーちゃん……」
母が薄く目を開き、名前を呼んだ。
その声も、呼び方もメリサの佳き過去を揺り起こすのに十分であった。
これが現実ではないことを彼女はわかっている、幻覚魔法だという自覚もある。
それでも彼女は、目の前の光景を否定することができない。
気づけば手に持っていた毒針も煙幕等もなくなっていた。
背すら縮み、目線は母親の顔と同じ高さになっている。
「ママ」
幼い姿のメリサは、母の細い手を取った。
メリサをいつも抱き上げてくれた腕があった。
骨に、わずかな肉が張り付いているだけの腕ではない。
「いつもお見舞いありがとうね。良くなったら、お家で一緒にご飯を食べよ。メーちゃんの好きな、卵サンドも作ってあげないと」
「……ママ」
メリサは、母の手をきつく握った。
そして、彼女はまぶたをかたく閉じる。
「これは幻覚。私は、現実にしてみせる。だから、――ママ。私に力を」
大きな声ではない、小さな声で自らに深く刻み込むよう、ゆっくりと呟く。
目を開ければ多くの人々が、陰鬱な表情で長いすに座っている。
自らも座っていることに気づき、すぐさま立ち上がる。
周囲を見渡せば、病院のエントランスだった。
メリサは隅っこ近くの席に座り、誰も隣には座っていない。
「おや、お目覚めかね……」
後ろから声がかかりすぐさま振り返る。
そこには彼女と背中合わせで座っていた人物がいた。
その人物は後ろ向きで、かつローブを頭から被っており、姿が判断できない。
すぐさま花束から毒針を抜き投擲する。針はローブをすり抜けてどこかへ消えてしまった。
「幻術……」
彼女はそう判断したが、幻術ではなく時空魔法であった。
難度の非常に高い魔法で、扱える人間もほぼいない。
彼女が知らなくても無理はない。
目立つ行動をしても誰からも注目を浴びず、周囲に人もやって来ない。
人払いの魔法と、先ほどの幻覚魔法から、このローブの人物が魔法使いであることは想像がつく。
自身はすでに敵の術中にあり、容易に手出しができないとメリサは判断した。
他にも敵はいるのかもしれないが、今はわからない。
そもそもここが現実かも怪しい。
「おねえちゃん、困っているねぇ。どうしていいかわからない様子だぁ……」
声は嗄れた老婆のようである。
ローブの人物は依然として後ろを向いたままだ。
そして、ゆっくりとした様子で二枚のカードを取り出した。
「あんたには、二つの道がある」
右手で一枚のカードを取って彼女に向ける。
「一つは、ここで闘うという道だぁ」
キヒヒと笑い声が漏れる。
「その道を選ぶなら、おねえちゃんはもうママと会うことができない」
老婆が右手に持ったカードが裏返る。
そこには骸骨が白馬に乗った絵柄が示されていた。
もちろん闘うことをメリサは考えた。
しかし、冷静に考えて勝ち目がない。すでに後手に回っている。
魔法使い相手では、先手を取ることが必須なのだ。
「もう一つは、逃げるという道だぁ」
今度は、左手にカードが提示される。
「あたしゃ追わないから、生きて帰ることはできるだろうねぇ。でも、その後に待ち受けるのが何かは、聡いおねえちゃんにはわかってるんじゃないかい」
左手のカードが裏返る。
大きな塔が描かれ、二人の人間が落下している。
メリサには、落ちゆく二人が彼女自身と母の姿に感じられた。
彼女も考えた二つの選択肢。
しかし、どちらを選んでも最悪のゴールがその先に待ち受ける。
「そんな哀れなおねえちゃんに、三つ目の道を示してあげようじゃあないかぁ」
老婆はキヒッと嗤う。
メリサは先の見えない暗い洞窟で蝙蝠と話している気分になった。
明かりはなく、自身の足下さえおぼつかない。唯一の道しるべが、得体の知れない存在の言葉だけなのである。
「おねえちゃんが座っていた椅子の上に、カードが置いてあるだろう」
メリサが目線を落とせば、老婆の言うとおり彼女の座っていた椅子の上にカードが置かれていた。
そのカードは裏になっており、表に何が描かれているかわからない。
「……何が望みだ?」
これは誘導だ。
闘うことも、逃げることも許さない。
彼女に、何かをさせようとしていることが明らかである。
「望み? あたしゃ、何も望まないよ。おねえちゃん、あんたが望んだんだ」
何にせよ。彼女はまだここで終わるわけにはいかない。
この伏せられたカードを手にするしか道はないのだ。
「待ちな」
カードに手を伸ばそうとするメリサの動きが止められた。
「三九万ジェランを置いてからカードをめくりな。じゃないと何も起きないよ」
依頼金は四十万ジェランであった。
そのほぼ全額を老婆は要求してきたのである。
どちらにせよ、死ねば全てを失う。彼女は懐に入れた札束から一枚抜いて椅子に置いた。
「よしよし、良い子だぁ。さ、カードをめくりな。おっと、右手じゃない。左手でだ」
メリサは、伸ばし掛けた右手を制止し、左手でカードをめくる。
真ん中には大きな円と、その内側に小さな円が描かれ、読めない文字が書かれている。
さらに、カードの四隅には四体の魔獣が描かれていた。
「ヒヒッ。運命の輪の正位置か」
老婆が右腕をまっすぐ横に伸ばし、その緑色の指がメリサの行き先を示す。
病院の入口には、ちょうど一台のタクシーが止まり通院客を降ろすところであった。
「あのタクシーに乗りな。あれが――怖い国の人たちも、亡霊ですら振りきる不可思議な馬車になるだろう。会いたい人のところまで寄り道せずにまっすぐ行くんだ。おねえちゃんに幸あらんことを……」
メリサは、タクシーから視線を戻し、老婆を見る。
席にはすでに誰もおらず、椅子に置かれたお金も消えていた。
花束は残っているが、フルーツの紙箱はどこかにいった。
彼女の左手には、輪の描かれたカードが握られている。
「そこ、空いてますかな?」
マスクを付けた老人がメリサに話しかける。
彼女は、我に返り小さく頷いた。
メリサは花束を取って、病院の入口に向かった。
そのままタクシーに乗って、母の入院する病院名を口にする。
「ははっ、おねえちゃん。病院を間違えちまったのかい?」
タクシーのおっさんは、陽気な顔でルームミラー越しに笑いかける。
メリサは笑わない。ただなるようになれと諦め気味で呆然とするだけである。
後日、彼女は暗殺稼業から足を洗う。
意識を取り戻し退院した母親と生活し、新たな仕事で葬儀支援課とも浅からぬ関係をもつことになるのだが、これはまた別の話である。
ポエナが葬儀支援課に戻ってくると、一人いなくなっていた。
週末は大きなレースがあると話してたから、その関係で間違いないだろう。
キュレルに報告し、お疲れ様でしたと声をかけられ、他の仕事に手をつけていく。
ありがたいことに相談者はなく、事務仕事だけで時間は過ぎ去っていった。
「ポエナ君。それは明日にしなさい」
定時になり、耳障りなチャイムを聞き、仕事を続けようとしたところでキュレルに声をかけられた。
「でも……」
「手際が悪く、ミスも多すぎます。これ以上は時間の浪費にしかなりません。今日はもう帰って、明日から気持ちを切り替えてきちんとやりましょう。それと――どこかに寄ってもいいですが、睡眠時間は削らないようにしてください」
少し間をおいてから、はいと返事をして、礼を述べてポエナは支援課を後にする。
彼は第二都庁を出た後、まっすぐアネモミロス都市病院に向かった。
昨日と同じ病室に入り、ベッドに横たわるアネモネアの枕元に座った。
点滴の管が刺さった彼女の手をそっと握る。彼のほうから手を繋げたのはこれが初めてである。
デートの時は、なかなか握ることができず、汗だくになって、けっきょく彼女のほうから握られてしまった。
今夜は、特に意識もせずに握ることができた。
「んっ……」
手を握って、一時間は経っただろうか。
アネモネアの手がびくりと痙攣し、言葉にならない音を発した。
ポエナが彼女の顔を見ると、新芽が開き始めるように、ゆっくりと目を開いたところであった。
「ネモネ……、ネモネ。僕がわかる?」
普段から穏やかな声だが、このときはさらに穏やかなものにしてポエナは問いかける。
「ここは……?」
「大丈夫、病院だよ」
アネモネアは状況を把握したという様子で、瞬きをすることで頷いた。
薄紫色の髪が、顔の横で動く。
「今、先生を呼ぶから」
椅子から立ち上がったポエナに制止がかかった。
彼女の手から伸びる細い枝が、ポエナの腕に力なく巻き付く。
「ネモネ?」
アネモネアは返事をしない。
彼女は何も言わず、じっとポエナの瞳を見つめている。
ポエナには、彼女が「行かないで」と言っているように感じ、椅子に再び腰掛けた。
特に何か話すということもなく時間が過ぎていく。
ポエナはアネモネアを眺め、一方の彼女は天井をまっすぐ見つめている。
「……痛くない?」
「薬が効いてるから」
無為な会話だった。
何も生み出すことのない反応。
会話というのもおこがましいほどである。
「刺した人、捕まったんだって」
「…………そう」
その影響だろう、昨日は部屋の前に立っていた警察の人が今日はいない。
犯人の情報はポエナに伝わっておらず、ただただ彼女を安心させようという想いから出たものである。
「怪我が良くなったら、今度こそ一緒に食事に行こうよ」
「……そうね」
アネモネアにとって、もうどうでもよかった。
帰るべき場所はすでに失われた。
頼る人はもういない。
何もないのだ。
彼女を刺したリリーナは捕まったという、それなら芋づる式に彼女にも捜査の手が及ぶだろう。
あのままあの場で死なせてくれていたら、どれだけ楽だっただろうか。
「大丈夫?」
まだ、アネモネアのことを被害者だと思い込んでいる、彼氏面の哀れな男が問いかける。
大丈夫な訳がない。全てを失ってしまったのだ。どうして生きていられようか。
「頼みがあるの」
天井を見つめていたアネモネアの目が、久方ぶりにポエナの瞳を射貫く。
「うん、何?」
しっぽを振る犬のようにポエナが目を輝かせて尋ねる。
「もう帰って。貴方といるとイライラする」
彼女の本心だった。
これ以上、この男の顔を見ると全てを吐き出してしまいそうだ。
そうしても構わないのだが、疲れるだけで得られるものはなにもない。
「……いちおう先生を呼んでから帰るよ。ゆっくり休んでね」
とぼとぼという言葉がぴったりな様子で、ポエナは足を引きずって部屋を出て行く。
ポエナが出て行った後、すぐに代わりの人物が部屋を訪れた。
この人物が立ち去ったら自死しよう。
彼女はそう考えた。
アネモネアは相変わらず天井を見つづけている。
部屋の訪問者は、ずっと彼女の脇に立ったまま一言も発しない。
彼女は異変に気づいた。背筋に冷たいものを感じながら、その人物に顔を向ける。
ローブを纏った人物がそこにいた。
気配は確かにあるのだが、ローブの中の顔がわからない。
暗い部屋でもないのに、その人物の周囲だけ光が射していないようである。
「死にたがってるね、おねえちゃん」
嗄れた声であった。
老婆のように聞こえるが、その中身はうかがい知れない。
「さて名前は、キヒッ、そうだそうだ。ヒヤシンスラノ・フランソワだったねぇ」
アネモネアは目を見開いた。
その名前を知っている人物は、この世にもう一人もいない。
彼女に諜報を命じた人物ですら、偽名で彼女を呼び、さらに偽名を上乗せしてこの都市へと送り出した。
葬儀支援課の亡霊ですら、その名前までは辿りつかなかった。
その名は、彼女が親に与えられた最初の名前であった。
「死にたいんだろう? 死にたいように死ねばいいさ、ヒヒッ。フラフェスタだと、式は――花葬かねぇ」
アネモネア・フラジエント――否。
ヒヤシンスラノ・フランソワの意識が急激に遠のいた。
ヒヤシンスラノが目を開くと、足下に彼女が横たわっていた。
服装は、彼女の髪と合わせて紫色のドレスが着飾らされている。
彼女の周囲には、大量のアネモネが花を咲かせ、風に吹かれてゆらゆら揺れる。
フラフェスタ伝統の花葬だった。
名前についている花を、故人の周囲に添える。
周囲の花が枯れてなくなるまで、故人を悼み続ける葬儀形式だ。
花はいつか枯れる。しかし、また年が変われば新たな花を咲かせる。
花人族が、生命の輪廻を信じていることが伝わる葬儀である。
眠り続けるアネモネアを、ヒヤシンスラノは立ち尽くして見下ろす。
ヒヤシンスラノの他にもう一人だけ、眠り続ける女性の傍らには姿があった。
アネモネの花をどかして膝を付け、目を覚ますことのない女性に泣きながら話しかけている。
「また一緒にご飯に行くって……」
彼の他には誰の姿もない。
しかたがない。彼女と関係を持っている人物は、もう誰もいないのだから。
いや、きっと上司やさらにその上の人物が生きていてもこの場には現れることなどない。
ヒヤシンスラノは初め馬鹿馬鹿しい想いしかなかった。
偽りの彼女が死んで涙を流す哀れな男。
日が暮れて、夜になり、朝がまた来ても彼は彼女の側から離れない。
涙を流しては涸らし、また流しては涸らすを繰り返す。
「……ネモネ」
またしてもポエナが遺体に話しかけた。
「………………違う。その女は――」
彼女は男に話しかけるが、声は届かない。
触ろうとしてもすり抜けるだけである。
男は立ち去らない。
アネモネの花は徐々にしなびて朽ち果てていく。
遺体だけが腐らず、そのままの姿で眠りつづけている。
「もう笑顔も見せてくれないんだね。ちょっと演技がかっていたけど、その顔が好きだったのに」
男は鈍感なりに、彼女の違和感に気づいてはいたようだ。
それすらも好きだという、なんと哀れな様よ。
きっと死ぬまで騙され続けるのだろう。
花は朽ち、風に飛ばされ散っていく。
アネモネアの骨は埋められて、その上にはもう何も残っていない。
「また来年に花を咲かせるから……」
ポエナは、彼女とその墓に背中を向けて去って行った。
これでいいと言い聞かせる。私にはもう何も残っていないのだ。
頬をつたう生ぬるい液体は、一人になれる嬉しさから溢れてきたのだろう。
――一年が経って、宣言どおりに彼はまた墓に来た。
その腕には、溢れんばかりのアネモネが花を咲かせている。
「…………違う。その花は――」
彼女の言葉は届かない。
彼は墓の周囲に、一本一本花を捧げていく。
「これで寂しくないね」
先輩に聞かれたら突っ込まれるな、と青年は笑った。
「死んだ人間に寂しさも後悔もない、正しいのかもしれない。でも、それでも僕はやっぱり寂しいんだ。もっと一緒にいたかった……。君はどうなのかな――」
彼はまたしても涙を流す。
その頼りない背中を、彼女は見つめる。
「……違う。寂しくなんて――」
男は立ち上がり、目頭を指で拭った。
「来年もくるから。またね、ネモネ」
「違う。私は――」
男は実体のない彼女をすり抜けて歩き去る。
「待って、私はここに――」
彼の背中を追うことはできない。
見えない壁が、彼女の行く手を遮る。
やがて彼の背は見えなくなった。
彼女は一人、墓の側で嘆き続ける。
その声は誰にも届かず、誰の目にもとまらない。
やがて彼女の意識は遠くなっていく。
ヒヤシンスラノは手に温もりを感じた。
「……ネ。ネモネ」
懐かしい声がする。
彼女が目を開けるとそこには頼りない青年がいた。
「どうして?」
彼女はまだ夢うつつであり、現実の状況に理解がおいついていない。
男の方はというと、これもまた情けない顔をしている。
「先生が他の患者の所にいってるみたいだから、イライラさせちゃうかもしれないとおもったんだけど、えっと……、その心配だったんだ、ごめん」
要領を得ない言い訳を並べ、最後は謝って頬を指でかいた。
繋がれている手を見る彼女の視線にも気づいた。
「戻ってきたら、すごいうなされてたから……。ごめん、離すね」
「離さないで」
彼女の許可が下り、ポエナははっきりと嬉しそうな表情が見て取れた。
あれは夢だったのだろうか。あるいは、この部屋に現れた人物の幻覚魔法か……。
彼女は、確認がしておきたかった。
「もしも、私が死んだらどうする?」
握られた手がびくりと震えた。
「あまり考えたくないことだけど、きっと……泣き続けると思う」
次に震えたのは彼女の手だった。
聞かなければ良かったと後悔する。
確認はできた。
幻覚を見せられていたの間違いない。
しかし、おそらくあの幻覚は現実となり得るものだ。
なによりも彼女自身が抱いた気持ちも、錯覚ではなかったと自覚した。
「寂しいよ。ネモネは――」
「違う」
「えっ?」
話の途中で否定された。
何を否定されたのかもわからず青年は戸惑う。
「寂しくない」という否定だったのだろうか、と推察しているのだろう。
「ごめんなさい。そうじゃないの。……話を、聞いてくれる? 長くなるけれど――」
ポエナは頷いた。
夜はまだ長い。先輩には愛想をつかされるかもしれない。
それでも聞いておきたかった。彼女が自分のことを話してくれるなんてこれが初めてなんだから。
「私の本当の名前は、ヒヤシンスラノ・フランソワ。アネモネア・フラジエントは偽名。コルナゼリア連合国、フラフェスタ州の工作員……だった。貴方たち――葬儀支援課のことを調べろって命令されてたの」
今日一番の爆弾がポエナに直撃した。
しかもその爆弾は直撃しただけで、爆発はまだしていない。
全てを吐き出してしまおうと彼女は考えた。
ヒヤシンスラノにとっても、今夜は長く、そして、有意義なものになるだろう。
唯一の繋がりを得られる夜に、きっとなる。
二週間後、ヒヤシンスラノが退院すると、彼女の身柄はそのまま警察に引き取られた。
聴取事情に関して、ポエナは一切聞かされていない。
ただ、聴取がポエナに及ぶことはなかった。
そのまま音沙汰なく、一月が経った。
別件で葬儀支援課を訪れたザナド刑事から情報を聞こうとするが、何も知らないと話す。
それでも彼は律儀に調べて、その結果を教えてくれた。
アネモネア・フラジエントなる女性は、警察のデータベースにも該当がない。
関係しそうな部署に尋ねても、本当に知らない様子だったとのこと。
警察は関係していない。
ただポエナは実際に彼女が連れて行かれる現場に立ち会った。
彼女はいったいどこに行ってしまったのだろうか?
あの警察官は、コルナゼリアの工作員でそのまま国に連れて帰ったのか。
それとも……。考えれば考えるほど悪い方向にいってしまう。
これではいけない。
気持ちをリセットしなければ。
今日もまた、長い一日が始まるのだ。
相談者の言葉を聞く立場の人間が、うじうじと悩んでいてはいけない。
「室長はどうしたんですか? 机を掃除してますけど」
「新入りが入るんだってよ。とうとう俺の席がなくなっちまった。これじゃあ、仕事ができねぇよ」
レオンは嬉しそうに言う。
そもそもこの先輩が事務机に座っている所などポエナは見たことがない。
立っているか、今のように壁際のソファで座るか、寝転んでいるかのどちらかだ。
「こんな時期に転属ですか?」
「いきなりではありますが、中途採用の即戦力だそうです」
「おおぉ! ……おぉ?」
ポエナは手を打つ。
新入りではあるが、彼よりも使えそうな人材であるようだ。
まだまだ「新入り」という、彼にかけられた看板は外せそうにない。
「いつからです? 明日ですか?」
「今日からです」
「今日!」
本当にいきなりすぎた。
いったいどんな人なのだろうか。
「コルナゼリア連合国、フラフェスタ州の出身で花人族です。クオーターなのでほとんどノーマルですよ。いやぁ、コルナゼリア出身はいなかったので、ちょうど五カ国出身が揃ってバランス良くなりましたね」
「…………冗談ですよね?」
「名前は、フランソワさんです」
「冗談ですよね?!」
冗談ではなかった。
すぐに一人の女性が、葬儀支援課を訪れる。
薄紫の髪が印象的であった。
「本日より葬儀支援課に配属となりました、ヒヤシンスラノ・フランソワです。縁あってこちらで働かせていただくことになりました。前職の経験を活かしつつ、一日でも早くこちらの仕事に慣れて、戦力となれるようがんばりますので、ご指導のほどよろしくお願い致します」
どこか芝居がかった様子で優雅に礼をする。
窓から入る風が彼女の髪に触れ、懐かしい香りをポエナへ運んだ。
ポエナの長い一日はまだ始まったばかりである。