変わったのは、周囲だった。
翌朝から、視線が変わった。
廊下を歩くと、すれ違う生徒がこちらを見る。無視される視線には慣れていたが、今日のそれは種類が違った。興味、だった。
ツバサはその視線を、うまく受け取れなかった。無視されることには慣れている。でも見られることには慣れていなかった。
教室に入ると、一人の男子生徒と目が合う。すっと伸びた背筋、きっちり着こなした制服。落ち着いた端正な顔立ちで、生徒会にいそうな整然とした雰囲気がある。学年一位のリクだ。
そのリクが、少し視線を逸らしながら言った。
「……おはよう」
ツバサは一瞬止まった。
リクがツバサに声をかけたのは、初めてだった。同じクラスになって何ヶ月も経つのに、名前を呼ばれたのも、目が合ったのも、今日が初めてだった。
それだけだった。リクはすぐに自分の席に戻った。耳が少し赤かった。
コウセイがその様子を静かに見ていた。
「仲良しなんですか?」
「……昨日までは、そうでもなかった」
「今日からは?」
ツバサはリクの背中を見た。
「わかんない」
コウセイはそれ以上聞かなかった。ただ、いつもより少しだけ近い距離で、隣に立っていた。
二時間目が終わった休み時間に、見知らぬ生徒がツバサの席にやってきた。
小柄な女子で、両手に紙袋を持っていた。少し緊張しているのが、遠くからでもわかった。
「あの……昨日、第三班にいました。お礼を言いたくて」
紙袋を差し出した。中を見ると、学院の購買で売っている焼き菓子が入っていた。
「よかったら」
「あ……ありがとう」
ツバサが受け取ると、女子生徒はコウセイをちらりと見た。何か言おうとして、少し迷っているようだった。
「私は食事が不要なので」とコウセイが先に言った。
「そうなんですね」女子生徒は少し困った顔をしてから、それでも頭を下げた。「でも……ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げて、駆け足で戻っていった。
ツバサは紙袋とコウセイを交互に見た。
「食べなくていいの?」
「不要です」
「じゃあ私が食べる」
「どうぞ」
焼き菓子を一つ口に入れる。バターの風味が広がった。思っていたより、ずっとおいしかった。
「おいしい」
「そうですか」
「コウセイも食べてみる? 昨日パン食べてたじゃん」
「あれは模倣行動です」
「今も模倣でいいから」
コウセイは少し間を置いて、焼き菓子を一つ手に取ると、口に入れる。
――味覚データ取得
――保持
「……おいしいです」
「でしょ」
一秒の沈黙。
「……もう一つ、食べていいですか」
ツバサは少し笑った。
「どうぞ」
◇◇◇
問題が起きたのは、昼休みだった。
ツバサが一人で廊下を歩いていると、前から数人の上級生が来た。学院の制服に先輩を示す徽章がついている。
「ねえ、あんたでしょ。落ちこぼれのくせに演習で目立ったの」
ツバサは足を止めた。
「自分は何もしてないくせに英雄気取りか?」
いつものことだ、と思った。昨日まではこの手の言葉を受け流すことに慣れていた。聞こえないふりを、ずっとしてきた。
でも今日は、なぜかうまく流せなかった。
昨日からの視線が、リクの挨拶が、焼き菓子を持ってきた女子生徒の顔が頭の中でちらついた。
「それって嫉妬ですか?」
声がした。
リクだった。いつの間にか後ろに立っていた。腕を組んで、静かに上級生たちを見ていた。普段の落ち着いた表情のまま、でも声には一本、芯が通っていた。
「先輩たちは一人で海賊に立ち向かえるんですか?」
上級生たちがリクを見た。
「女性一人をよってたかってイジメるような人たちに、そんな勇気があるとは思えないですけどね」
一瞬の沈黙が落ちた。上級生の一人が舌打ちした。
「……次は、その補助アンドロイド連れて来いよ」
それだけ言って、歩き去った。足音が廊下の奥に消えていく。静寂が戻った。
「……ありがとう」ツバサはリクに言った。
「別に」リクは視線を逸らした。「おはようって返してくれたから」
それだけ言って、先に歩き始め。説明するのが照れくさいのか、足が少し速かった。
ツバサはその背中をしばらく見てから、小さく息をついた。
なんとなく悪くない一日だと思った。
◇◇◇
午後の授業が終わると、技術研究科の教官がツバサとコウセイを廊下で呼び止めた。
連れて行かれた先は、見慣れない計器が並ぶ一室だった。魔力解析装置、測定端末、それから名前もわからない機器がいくつか。昨日とは別の部屋だった。
計器をコウセイに向けると、数値が上がり、止まり、また動いた。教官が眉をひそめた。
「……やはりか。マナの流れが読めない。魔力があるのに、方向がない。いや、でもこれ魔力と呼べるのか?」
教官はコウセイを見る。
「我々の知っている魔力の法則とは、根本的に違う何かだ」
一拍置いて、別の教官がツバサに向いた。
「ツバサ」
「はい」
「このアンドロイドは、お前が宇宙で拾ったものだな」
「……はい」
「無許可で回収し、無許可で持ち込んだ。学院長が試験的に認可したとはいえ、正式な登録はまだ済んでいない。出自も不明、製造元も不明」
端末をテーブルに置く音が、静かな部屋に響いた。
「本来なら、即時没収が妥当だ」
ツバサの手が、膝の上で強く握られた。反論できなかった。
コウセイはその手を、ちらりと見た。
――対象:教官
――脅威評価:低
――排除必要性:なし
「異議があります」
コウセイが口を開くと、教官が顔を上げた。
「異議だと?」
「はい」コウセイは静かに続けた。「私の出自が不明であることは事実です。ただ、昨日の戦闘において第三班の生徒三名を保護したことも事実です」
視線が集まる。
「そして私がツバサの元を離れた場合、同様の状況で同様の対応が取れる保証はありません」
沈黙。
「……それは脅しか」
「事実の提示です」コウセイは一拍置いた。「私はツバサの補助機体です。それは変更されるべきではありません」
教官たちが顔を見合わせ、担任が深いため息をついた。
「……正式な登録手続きを、一週間以内に完了させろ。それまでは研究科の管理下に置く」
「……わかりました」
「それとツバサ」
「はい」
「次から無断で何かを拾うな」
「……肝に銘じます」
廊下に出ると、ツバサはコウセイを見た。
「さっきの、自分で考えたの?」
コウセイは少し考えた。
「ツバサが、困った顔をしていたから」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
窓の外に、夕暮れが広がっていた。レイアスの空は、夕方になると少しだけ紫がかった色に変わる。今日もそうだった。
「きれいですね」とコウセイが言った。
「そうだね」
「昨日より、少し長く見ていたいと思いました」
「……学習したの?」
「おそらく」
ツバサは前を向いて歩き出した。笑いたいような、泣きたいような、不思議な気持ちだった。理由はうまく言えないけれど、今日という一日が、昨日までとは少し違う形で終わっていく気がした。
◇◇◇
夜。
「コウセイ」
「はい」
「没収されそうになった時、怖くなかった?」
少しの間。
「今回の"怖い"の定義はまだわかりません」コウセイは言った。「ただ、ツバサが困るような事は避けたかった」
「それって怖いとは違うの?」
「……違うかもしれません。でも、似ているかもしれません」
ツバサは天井を見上げた。
今日一日のことを、順番に思い返した。リクの挨拶。焼き菓子の味。上級生たちの顔。廊下でのリクの背中。教官室でのコウセイの言葉。夕暮れの紫。
「もし嫌なことがあったら、言って」
「嫌の定義を……」
「また今度でいい」
「……了解しました」
「おやすみ、コウセイ」
「おやすみなさい、ツバサ」
電気が消えた。
---
押し入れの中で、演算核が静かに処理を続ける。
本日の記録。廊下の視線。リクの挨拶。焼き菓子の味。没収という言葉。ツバサの握られた手。
――ツバサ、保護継続中
――感情類似反応、検出
――分類候補:「恐怖」「保護衝動」
――競合状態
――未解決項目に追加
――「ツバサが困るような事は避けたかった」
――この感覚の分類:不明
沈黙。
アンドロイドは目を閉じた。
答えは、まだない。
ただ問いだけが、静かに増えていく。




