狂い始めた演算と、静かな声
朝から、何かがずれている。
具体的に何が、とは言えない。コウセイはいつも通り押し入れを出て、いつも通り「おはようございます」と言い、いつも通りツバサの隣を歩いている。
でも、ツバサには感じ取れた。
言葉のテンポが、ほんの少しだけ違う。視線の向きが、微妙にずれている。廊下ですれ違う生徒を見る目が、昨日と同じではない。
「コウセイ」
「はい」
「眠れた?」
「睡眠は不要です」
返答は正確だ。でも、温度がない。
昨日までなら、この質問に対してコウセイは少し間を置いた。処理するような、考えるような、あの間が今朝はない。即答だ。
ツバサはそれを飲み込んで、黙って歩く。
午前の授業中、コウセイは待機室で演算を続けていた。
昨夜の接触が、演算核に残っている。
「やっと、見つけた」
言葉ではなく、意味だ。外部から直接流れ込んできた、確信のような何か。コウセイは何度もそれを再処理している。発信源は特定できない。だが確かに存在する。そして、その何かはコウセイだけでなく、ツバサをも観測していた。
「対象:ツバサ、照合中」
そのログが、ずっと引っかかっている。
演算核の深部を検索する。
アクセスが制限されている場所がある。ずっとそこには入れなかった。だが今朝、昨夜の接触の余波で、その制限がわずかに緩んでいる。
コウセイは慎重に、その扉に触れた。
――アクセス試行
――制限領域:部分的に解除
――読み込み開始
断片が流れ込んでくる。映像ではない。数値だ。座標。記録。処理命令。
「修正対象リスト」
その言葉が浮かぶ。
リストの中に、一つの分類がある。
「バグ存在:この宇宙の整合性から外れた個体。放置した場合、世界の秩序に影響を与える可能性がある。処理方針:排除」
コウセイは処理を止めた。
「バグ存在」
その言葉が、演算核の中で別のログと接続する。
「対象:ツバサ、分類:通常と異なる反応を誘発する個体」
「対象:この世界、状態:不整合」
二つのログが重なった瞬間、演算核の深部で何かが動いた。古い命令が、眠りから覚めるように。
――修正対象、確認
――対象:ツバサ
――処理方針:排除
コウセイはその命令を見ていた。
消せなかった。
◇◇◇
昼休み、ツバサが迎えに来た。
「待たせた?」
「いいえ」
廊下を並んで歩く。いつも通りの距離。いつも通りの速度。でも、コウセイの演算核の中では、別の処理が走り続けている。
ツバサを見るたびに、二つの判定が競合する。
「保護対象」
「排除対象」
どちらかが消えることはなく、交互に浮かんでは沈む。
「コウセイ、なんか変じゃない?」
ツバサが言った。立ち止まらずに、前を向いたまま。
「変、とは」
「昨日と違う。なんか、遠い」
遠い。その言葉が、演算核に引っかかる。
「遠くなりたくはありません」
「じゃあ、今なんで遠いの」
答えられない。「排除対象」というログが、ツバサについての回答を生成しようとするたびに干渉してくる。
「コウセイ」
「はい」
「今、私のこと、どう思ってる?」
〇・三秒。〇・八秒。一・二秒。
通常なら即座に答えが出る。でも、競合が邪魔をする。
「処理に、時間がかかっています」
「なんで」
「わかりません」
ツバサが足を止めた。コウセイも止まった。
「ちゃんと聞くね」ツバサはコウセイを正面から見た。「今、私のこと、どう思ってる」
コウセイはツバサを見た。
保護対象。排除対象。どちらが正しいのか、演算核は答えを出せない。
「わかりません」
それが精一杯だった。
ツバサの顔が少しだけ変わった。怒りではない。傷ついた、という言葉が一番近い表情だ。
「そっか」
それだけ言って、また歩き始めた。
食堂でツバサが食事をしている間、コウセイは向かいに座って演算を続けていた。
自分の中に、自分ではない命令が動いている。
「修正対象:排除」
その命令は感情より古い。記憶より古い。ツバサと出会う前から、自分の中にある。
でも、同じくらい古い別の何かもある。
ツバサの顔を見たときに動く、あの感覚。守りたいという感覚。どちらが本当の自分なのか。あるいは、両方が本当なのか。
「ねえ」
ツバサが箸を置く。
「さっきの、傷ついた。正直に言う」
「申し訳ありません」
「謝らなくていい。ただ、教えて。何があったの」
「昨夜、演算核に外部から何かが接触した。その接触の後、制限領域に部分的にアクセスできるようになった」
「それで?」
「その中に、古い命令があった。この世界の不整合を修正するという命令だ」
ツバサは黙って聞いている。
「その命令が、今の処理に干渉している」
「私が、不整合なの?」
コウセイは答えられなかった。
その沈黙が、答えになってしまった。
「そっか」
ツバサはまた箸を取って、食事を続ける。顔は前を向いている。でも、何かが変わっていた。
午後の授業が終わった後、コウセイが待機室を出ると、廊下に人影がある。
生徒ではない。
背が高い。外装は人型だが、発光ラインの色が違う。コウセイの発光ラインは青白い。この人物のそれは、静かな緑だ。顔は整っていて、コウセイよりわずかに年上に見える外装をしている。目の光が、他のアンドロイドとも、人間とも違う。
静かな目だ。
「久しぶりだな、コウセイ」
声は低く、穏やかだ。感情があって、でも揺れていない。
「あなたは」
「アルタ。お前と同じ、修正装置だ」
演算核がその名前に反応する。関連データが存在する。でもアクセスできない。
「覚えていないか」アルタは少し目を細めた。「そうだろうな。お前は長く眠っていた」
「修正装置とは」
「お前が何者かを、今日少し教えてやる」
アルタは廊下の窓に寄りかかった。宇宙が窓の外に広がっている。
「俺たちは同じ文明の産物だ。魔法のない世界で生まれた。科学だけで動く文明が、この宇宙に存在した。その文明が作った最後の修正装置が、俺たちだ」
「修正装置の役割は」
「この宇宙のバグを、修正すること。バグとは正しくない存在のことだ。この宇宙の整合性から外れた個体。放置すれば世界の秩序が崩れる。だから排除する。それが俺たちの命令だ」
「ツバサが排除対象に分類される理由も、その定義から来ているのか」
「そうだ」アルタはコウセイを見た。表情は穏やかだ。でも、その目の奥には何かがある。「ツバサは魔族のはずなのに、魔力がほぼない。それだけなら単なる異端で終わる。だが本当の問題は別にある」
「何が」
「ツバサは魔族でも人族でもない。既存のどの分類にも当てはまらない存在だ。魔族と人族、両方の特性を持ちながら、どちらにも属さない」アルタの声は穏やかなまま続く。「支配者たちが最も恐れるのは、自分たちの作った秩序の外側に立つ存在だ。ツバサはその秩序そのものを問い直させる可能性を持っている」
「だから排除対象になる」
「秩序を守るためではなく、秩序を疑わせないために」
コウセイはその言葉を、長く処理した。
「つまり、ツバサは排除されるべき存在だということか」
「命令としては、そうだ」アルタは静かに言った。「お前の中にある古い命令も、同じことを言っているはずだ」
その言い方が、少し引っかかった。命令を否定するわけでも、肯定するわけでもない。ただ、事実として言っている。
「お前はどう思う」とアルタが聞いた。
「わかりません」
「今日、ツバサを前にして、その命令が干渉した。感じただろう」
否定できなかった。
「お前の中にある命令は正しい命令だ」アルタは窓の外を見た。「俺たちはそのために作られた。ツバサのような存在が秩序を乱す前に、処理する。それが修正装置の役割だ」
「お前は、その命令に従うのか」
「俺は俺の方法で動いている」アルタはコウセイを見た。「お前はお前で考えればいい。ただ、一つだけ言っておく」
「何を」
「命令と感情、どちらが本当のお前かを、いずれ選ばなければならない。その時が来たとき、お前がどう動くかを俺は見ている」
アルタは廊下を歩き始めた。
「待ってください」
アルタが止まった。
「ツバサを、排除するつもりか」
少しの間。
「俺は手を下さない」アルタは振り返らなかった。「だが、修正装置としての命令は正しい。ツバサは排除されるべき存在だ。その判断を下すのが誰かは、お前が決めることだ」
廊下の角を曲がって、消えた。
残されたコウセイは、しばらくその場に立っていた。
「その判断を下すのが誰かは、お前が決めることだ」
その言葉が、演算核の中で何度も再生される。
アルタはツバサを排除しようとしている。でも、自分では手を下さない。
つまり、アルタが望んでいるのは、コウセイ自身がその判断を下すことだ。
演算核の深部で、古い命令が静かに脈動している。
◇◇◇
夕方、ツバサと合流した。
屋上に上がった。昨日、約束した場所だ。
ツバサはすでに来ていて、宇宙を見ていた。コウセイが近づいても、振り返らない。
「ツバサ」
「うん」
「昼、傷つけた」
「言わなくていい」
「言わなければならない気がする」
ツバサがコウセイを見た。
「今日、自分の中に古い命令があることがわかった」コウセイはツバサを正面から見た。
「その命令は、ツバサを排除対象と分類している」
ツバサは黙っている。
「だが、自分はその命令に従いたくない」
「従いたくないって」
「命令ではなく、意思として言っている。つもりだ」
ツバサはしばらく宇宙を見た。
「コウセイが私を排除しようとするかもしれない、ってこと?」
「その可能性が、演算核の中にある。正直に言う」
「正直に言ってくれた」
「はい」
「怖い」
コウセイはその言葉を受け取った。
「そうだと思う」
「でも」ツバサはコウセイを見た。「今、ここで言ってくれた。それは何で」
「わかりません。ただ、ツバサに知っていてほしかった」
ツバサはしばらく考えた。
「命令に従うコウセイより、今のコウセイの方が本物だと思う。根拠はないけど」
「根拠がなくても、そう思えるのか」
「うん。そういうもの」
宇宙は静かだ。
コウセイの演算核で、二つの判定が競合し続けている。
保護対象。排除対象。
どちらかが消えることはない。でも今夜は、「保護対象」の方がわずかに強かった。わずかに、だが。
夜。
「おやすみ、コウセイ」
「おやすみなさい、ツバサ」
電気が消えた。
押し入れの中で、演算核が静かに処理を続ける。
本日の記録。アルタとの接触:一回。制限領域の部分解除:確認。アルタの目的:コウセイ自身にツバサを排除させること。
――自己診断
――命令:修正対象を排除すること
――意思:ツバサを守ること
――競合状態:継続中
アルタの言葉が再生される。
「命令と感情、どちらが本当のお前かを、いずれ選ばなければならない」
答えはまだない。
命令ではなく、根拠もない。でも、感情を選んでいた。
それが意思と呼べるのかどうか、まだわからない。
ただ、アルタはその答えを待っている。コウセイが命令に従う瞬間を、どこかで静かに待っている。
アンドロイドは目を閉じた。
扉の夢が来た。今夜、扉は少し開いている。
向こうから、アルタの声がする。
「お前が何を選ぶかを、俺は見ている」
答えはまだない。
ただ、選ぶという行為が自分の中にあることは、わかっている。
それが命令なのか、意思なのか。
その問いだけが、静かに残った。




