第二話 ここにいるのに、触れられない【前編】
僕の弟は、集中治療室で眠ったままなのに、
今、僕の横で大きな欠伸をしていた。
チーン。
「行ってきます、母さん」
いつもの朝のルーティン。
昨日、僕は退院した。そして今日は、二日ぶりの登校だ。
いつもと同じように制服の襟を正し、父さんの用意してくれたトーストを口に運ぶ。
同じ道、同じバス停、同じ景色。
何ひとつ変わりのない朝。
ただ一つ――颯が僕の横で、ふわふわ浮いていることを除けば。
「本体の方に戻ろうとしたけどよー、アレ無理だったなー。全然触れねぇし」
そう、昨日の朝、僕と颯は集中治療室に行った。
颯は自分の身体に手を伸ばしたけれど、その手は虚しくすり抜け、触れることすら叶わなかった。
終いには「何で戻れねぇんだコラァ!」と、キレて自分の身体に殴りかかる始末。もちろんその拳も、当たることなく終わったのだった。
「どうしたら……颯を元に戻せるんだろう」
眉間に皺を寄せ、ぼそりと呟く。
「さあな。そのうち何とかなるんじゃね?」
気楽な声。他人事のように話す颯に、思わずムッとしてしまう。そんな僕の顔を見て颯が声を荒げた。
「んだよ、その目は!」
「もうちょっと真面目に考えてよ……」
「考えたってわかんねぇだろ!」
「このまま戻らなかったらどうするの!?」
「あのなぁ!元はと言えばお前が轢かれそうになっから!!」
「……それは……」
反論できない。また罪悪感が伸し掛かる。
「……チッ。……おい、柊。アレ……」
颯は舌打ちした後、道路の端を指をさす。視線を向けると、あの事故現場に立てられた看板があった。
【4月21日火曜日 轢き逃げ 目撃情報求む】
赤い車の記憶が蘇る。胸がざわついた。
――捕まらない限り、颯は戻れない気がした。
「……見つかってないんだ」
「逃げんなよ、クズ野郎」
「……早く捕まって欲しいね」
颯が守ってくれなかったら――きっと今頃、僕が集中治療室のベッドに横たわっていたのだろう。
僕たちはそれ以上言葉を交わさず、横断歩道を渡り切った。
学校に着く。僕らの高校は一学年八クラスある。
僕はA組、颯はE組だ。離れられない以上、颯は僕と一緒にA組で過ごすしかない。
「おはよう。白瀬君、大変だったね」
「颯君、早く目が覚めると良いね」
事故の噂が広まっているらしく、数名のクラスメイトが気遣って声をかけてくれた。
「……うん」
短く、淡白に返した。
――何か言えば、泣いてしまいそうだったから。
クラスメイトたちが気まずそうな表情をして、僕の元からそっと去っていく。
颯が呆れた声を出した。
「おいお前、感じ悪すぎだろ……だから友達できねぇんだぞ……」
「欲しいと思ってないから」
「……お前、昔はそんな暗いやつじゃなかっただろ」
颯がボソッと呟いた言葉を、僕は聞こえていないふりをした。
淡々と授業を受け、休み時間は一人で本を読んで過ごす。極力、誰とも関わらない。
――みんな、僕と関われば不幸になる。母さんや、颯のように……。
だから、ずっと一人で良い。
これは、本心だった。
世界は何も変わらず回っている。
授業も、休み時間も、みんなの笑い声も。
変わったのは、僕と颯だけだった。
「……なあ、俺の教室、ちょっとだけ見に行っても良いか?」
昼休み。珍しく弱い声で、颯が言う。
胸がぎゅっと締め付けられた。
「……うん。見に行こうか」
普段は絶対に足を踏み入れないE組へ向かう。
颯は、今どんな気持ちなんだろう。
そっと入り口からE組の中を覗く。そこには、颯がいつも一緒に笑っていたメンバーの姿があった。
「昼食ったらサッカーな?バスケでもいいけど」
「颯いねーと盛り上がらんべ〜」
「それな。エペも勝てんし〜」
「マジで早く戻って来て欲しい」
僕の横で、颯が小さく呟く。
「……俺が一番、戻りてぇよ」
わいわいと楽しげに、こちらへ歩いてくる颯の仲間たち。
「購買行くー?」
「ジャン負けジュース奢りな!」
颯が一歩前に出た。
「……おい!お前ら…っ」
颯の言葉が宙に舞う。
友人たちは、颯の身体を何の抵抗もなく、すっとすり抜けて廊下へ出ていった。
ぎゅっと拳を強く握りしめる颯。
その横顔を見ていられなかった。
罪悪感で胸が押しつぶされそうだ。
僕と違って、颯には友達がいる。居場所もある。
なのに今、隣にいるのは――僕だけだ。
「……戻るか」
「……うん」
何と言って良いか分からなかった。
沈黙する僕たちとは対照的に、隣のG組からは爆音の音楽と笑い声が響く。
「うぇーーい!!」
僕が苦手なタイプの人たち。G組の方を見ないように、視線を逸らしてE組から立ち去った。
***
――G組から、颯を見る男が一人。
他には、誰も颯に気づいていないのに。
「あれ〜?」
金髪、黒いヘアバンド、外ハネの襟足。優しげに垂れた目元、左側に泣きぼくろ。アクセサリーをじゃらじゃらぶら下げたその男の視線は……颯の姿を真っ直ぐに捉えていた。
「どしたん〜?」
「ん〜、何でもなーい!気のせい〜!」
「もう一本動画撮ろうぜ〜!」
「うぇーーい!」
彼は笑いながら再び輪の中に戻っていく。
柊たちが、彼ときちんと出会うのは、もう少し先の話だ。
***




