第一話 弟を失った日、弟が帰ってきた
その日、僕は弟を失った。
――生きるはずだった、弟を。
なのに今、そいつは。
僕の目の前で、空中に浮いている。
――夢を見た。
満開の桜。家の近くの公園。
サッカーボールを抱え、こちらを振り返る少年――颯。
僕の弟だ。
「兄ちゃんー!はやくー!」
公園に向かう颯が僕を呼ぶ。
早く行かなくては、そう思うのに足は動かない。
「……そっち、何かいる」
視線の先には、ずぶ濡れの女性。
前髪の隙間から覗いた目が、ぎょろりと光った。
颯は、気づいていない。
「はぁ〜?何もいねーよ!ほら!」
躊躇いなく僕の手を掴む。
小さなその手は、やけに力強い。
「俺がいれば大丈夫だろ!」
颯はそう言ってニカっと笑った。
あの懐かしい、太陽みたいな笑顔で。
「俺がずっと、お前のこと守ってやる!」
――ピピピピピ!
アラーム音で現実に引き戻された。
白い天井。窓から差し込む朝の光。
「……夢、か」
久しぶりに見た幼い日の夢。何だか妙な気分だった。スマホを手に取ると、画面には七時五十分の文字。
「……っ寝坊!!」
飛び起きて、着替えを始める。高校までは三十分ほど。始業時刻には何とか間に合う。だが、問題はそこではない。
階段を飛ぶように駆け降りた。リビングには、いつもならそこにいない――颯の姿。
これが、問題だ。
短い銀髪に、つり上がった眉、両耳に光るピアス。
行儀悪く片足を椅子に乗せ、トーストをかじる――颯は、僕の同い年の弟だ。僕とは、外見も性格も、全く似ていない。
「……おはよう」
「……」
返答はない。
昔は、あんなに仲が良かったのに。
――チーン。
「母さん、行ってきます」
おりんを鳴らし、仏壇に手を合わせる。
五年前。
……僕たちの母さん――白瀬綾は災害に巻き込まれて他界した。あの日から、僕の世界は少し欠けたままだ。
父さん・白瀬 透は、いつも僕たちのトーストを用意して仕事に行く。僕はそれを一口だけ齧って皿に戻し、玄関に向かった。
靴を履き終わった颯が、僕に背中を向けたまま、冷たく言い放った。
「……ついてくんなよ」
「うん、ごめん」
へらっと笑う自分が情けない。
同じバス停、同じバス、同じ高校。それでも、僕らの間に会話はない。
颯はイヤホンをつけて、まるで僕との世界を完全に遮断しているみたいだった。
バス停で降り、もう葉桜になった並木道を歩く。信号待ちで、僕らは並んだ。
高校に入学して、あっという間に一年が経った。
あと二年。颯とはこのままの関係で、僕の高校生活は終わるのだろう。
信号が青に変わる。
僕が歩き出した――その瞬間。
パパーーーーッ!!
「え……?」
車のクラクションが耳を裂いた。
視界の端に、赤い鉄の塊。
「兄貴!!」
颯の声が響いた。「兄貴」だなんて、何年振りに聞いただろうか。
颯の姿が、視界に飛び込んできた直後――
ドン!!
鈍い痛みと共に、目の前が真っ暗になった。
――また、夢を見た。
桜の木の下、僕の手を引いて走る、颯の背中。
ああ、そうだ。
颯はいつも僕を怖いものから守ってくれたんだ。
そして、僕はそんな颯が大切で、大好きで、ずっと一緒にいたいと思っていた。
「颯、いなくならないでね」
「はあ?いなくなんねーよ!」
「僕も、颯を守れるくらい、強くなるから……!」
――君を守るって決めたのに。
「……っう!柊!柊!!」
遠くで父さんの声がした。
薄く目を開ける。自室ではない天井。消毒液の匂い。
視界がはっきりした瞬間、父さんの顔が飛び込んできた。
「柊!気がついた!本当に……良かった!」
震える声でそう言うと、父さんは僕を強く抱きしめた。
「……父さん?」
「今朝、学校に向かう途中で、事故に遭ったんだ」
思い出した。赤い車。颯の叫び。
「颯!!父さん、颯はどこ!?無事なの!?」
父さんの身体を引き離して、その肩を掴む。
「柊、聞いてくれ。颯が……颯が守ってくれたんだ」
「颯が、僕を?……どういうこと?」
「颯は今――集中治療室にいる。手術の後、意識が……戻らないんだ」
父さんの声がかすれる。一瞬で、血の気が引いた。
颯が僕の代わりに――?
「颯のところに行かなきゃ!」
僕は、父さんと集中治療室に向かった。
父さんに握られた手は心許ないほど震えていて、それがむしろ現実を突きつけてきた。
「……颯」
ガラス越しに見た颯は、全身に包帯が巻かれ、痛々しい姿だった。
それでも、表情は眠っているかのように穏やかだった。モニターに映る波形が、颯が「生きている」ことを伝えてくれている。
「……ごめん」
涙が溢れる。
「違う!柊のせいじゃない!」
父さんも泣きながら、僕を強く抱きしめた。
「ごめん……ごめん颯!」
足から力が抜け、その場に崩れ落ちた。
――僕は、弟を殺した。
僕は明日、退院することになった。
でも、そんなことはどうでも良かった。
ただ、颯が目を覚ますことだけを祈っていた。
深夜ニ時。眠れない。
時計の針の音がやけに大きく聞こえる。
「颯……。ごめん。全部、僕のせいだ」
両手で顔を覆う。視界がじわりと滲んだ。
「――ほんとだよ。なんで俺がてめぇの代わりに死んでんだよ」
「……そうだよね。ごめん、颯……」
「っつか、まだ死んでねーし!勝手に殺すな!」
「そっか……ごめん……って、え?」
鼓動が一瞬止まった。
「……僕、今……誰と話してる?」
颯の声がはっきり聞こえた。
颯のことを考えすぎて、脳が壊れたのだろうか。
「いよいよ、僕もおかしくなったな…」
ハッと笑い、僕が寝返りを打った。その時――。
「……何笑ってんだよてめぇ。見えてんだろ?」
僕の目の前に、空中に胡座をかき、頬杖をつく颯が現れた。いつもと同じ、あの不機嫌そうな顔で。
「わあああああああ!!」
「うっせーよ!ここ病院!!」
僕は飛び起きた。目をゴシゴシ擦る。
見間違いじゃない、確かに颯だ。銀髪、つり眉にピアス。着崩した制服もそのまま。
ただ一つ、体が透けて空中に浮いていることだけを除いて。
「これアレだろ?俺、霊?みたいな?」
「で、でも颯まだ死んでないよね!?」
「んなこと知るかよ。あ!俺、もしかして死にかけてんじゃね!?ちょっと見て来る!」
そう言って颯が浮遊しながら病室の外に出た瞬間――。
バチィィィン!!
颯が何かにぶつかったらしい。ただ激突しただけではなさそうな、何かに弾かれたような凄まじい音がした。
「っっだああ!!」
「颯!?大丈夫!?」
「んだコレ!?見えねぇけど、バリアみてーなヤツあるぞ!?これ以上先に進めねぇ!!」
「ええ……」
僕も立ち上がり、颯の言う“バリア”の位置まで来てみる。手を伸ばして確認してみるが、何も触れない。
「別に何もないけど……」
「嘘つけ!ちゃんと見ろや、てめぇ!……ってあれ?今は消えてんな?」
僕と颯は顔を見合わせた。
「おいチビ、一回あっちの方行け」
「チビじゃないけど……」
僕が颯から離れてベッドに戻ると――
バチィィィン!!
「いでっ!!引っ張られ……っ!何だこれぇ!!」
何かに引っ張られるかのように、颯も僕の方へ戻ってきた。
「もしかして……僕の近くから離れられないんじゃ……?」
「はあ!?」
「白瀬さん!?大丈夫ですか!?」
僕の喋り声が聞こえたのだろう。看護師さんが病室に飛び込んできた。
「だ、大丈夫です……ちょっと、気が動転して」
「事故の後ですからね。……弟さん、様子は変わりないですよ。きっと……目を覚まします」
「……はい。ありがとうございます」
颯がその真横をふよふよと浮遊しながら通過するが、看護師さんは全く気づかない。
「何かあったら、すぐ呼んでくださいね」
そう言って優しく微笑み、看護師さんは去っていった。
再び、僕と颯だけの空間になる。
「やっぱお前にしか見えてねぇんだな、俺」
「う、うん。看護師さん、颯の状態は変わりないって言ってたよね?ってことは、颯は死にかけてないはず」
「これさ、俺が本体の方に戻れば、生き返るんじゃね?おい、集中治療室行こうぜ!」
「今日は無理だよ……深夜だし。明日、一緒に行こう。絶対」
「明日も俺がこのままならな」
颯が空中で胡座をかきながら、あっさりと不吉なことを言う。
「……怖いこと言わないでよ」
その夜、僕は結局、一睡もできなかった。
――にもかかわらず。
颯は、霊体のまま、空中で寝転がって爆睡していた。僕が寝れなかったのは、そのいびきが凄かったせいでもある。
「なんで普通に寝れるんだろう……」
思わず愚痴が溢れた。
でも。
颯とこんなに会話をしたのは、
五年振りだった。
こうして、僕の弟は帰ってきた。
――人間では、なかったけれど。
第二話 ここにいるのに、触れられない【前編】【後編】同時公開しました。
毎日21時頃更新していきます。
(前後編は朝7時と21時で更新します)




