鉄血女帝アナスタシア 第七十一話
ベルリン パリ広場 ブランデンブルク門の前
※パリ広場 ベルリン中心部・ブランデンブルク門のある広場
2月中旬のベルリンの最高気温は零度を少し上回る程度で、屋外の水桶には分厚い氷が張っている。そんな薄曇りの寒空の下、ロシア陸軍元帥服を着た少女がベルリン市民の前に歩み出た。
ブランデンブルク門の前には13人のロシア軍兵士が木の柱に縛り付けられている。その男たちの顔は暴行を受けたのか赤紫色に非道く腫れ上がっていた。
群衆達は縛られているロシア兵に対して罵詈雑言を浴びせていた。“殺せ”“鬼畜”そんな激しい憎悪のこもった言葉だ。そして歩み出た少女にも同じように憎悪の言葉がぶつけられる。
“何が聖女だ!”“お前の兵隊は悪魔だ!”“本物の聖女だったら殺された少女を生き返らせろ!””薄汚いロシアの王!“
しかし少女はそんな言葉にひるむこと無くゆっくりと、そしてしっかりとした足取りで演台に上った。
少女は一度空を仰いだあと少し頭を下げ、右手の親指・人差し指・中指を合わせて胸の前で十字を切った。そして左手で自らの胸元を広げ、傍らに用意された真っ赤に熱せられている焼きごてを右手に持ってそれを天に掲げる。
パリ広場を埋め尽くしていた群衆はその光景の前に憎しみの言葉を発するのを止めて、そして同心円状に静けさが広がっていった。辺りからは一瞬にして音が消えて無くなり、静謐で神聖な空気に支配される。
そして少女は右手に持った焼きごてを自らの左の鎖骨の下に押し当てた。真っ赤に熱せられた焼きごては少女の真っ白な皮膚を焼き、白い一筋の煙を立ち上らせる。少女がその焼きごてを離したとき、少女の白い胸にはくっきりとロシア正教式の十字架が刻まれていた。
群衆はその光景をほんの少しの声も出すこと無く見守っていた。声を出すことが出来なかったのだ。少し離れていれば皮膚が焼けた匂いも一筋の煙も感じることは出来ないのだが、その場に居た全ての人の心にはその光景がはっきりと映し出されていた。そして多くの群衆が、その少女の痛みを自らの痛みの様に感じてしまっていた。
少女はこの戦争における人間の罪の全てを背負って、自らの胸に十字架を刻んだのだ。この光景を見た全ての人間がその事を一瞬で理解した。民間人に対して罪を犯したロシア兵達の罪を、お互いの敵に向けるあらゆる憎悪も、直前まで自分たちが浴びせていた罵詈雑言も、人間のあらゆる“罪”を少女は全て自らに受け入れ背負って今ここに立っているのだ。
少女は元帥服を正して詰め襟をしっかりと留めた。そして両手を顔の前で合わせて膝立ちになる。これはキリスト教徒が神に祈るときの姿だ。そして少女は何かを呟いた。
『神よ、この者達をお許しください』
小さく呟いた声など少し離れていれば聞こえるはずなどない。しかし、その場にいる全ての人には間違いなくそう聞こえたのだ。一切の汚れを知らない澄んだ少女の声がまるで啓示のように、預言のように人々の心に浸透していく。
ゴルゴタの丘
今まさに人々には“それ”が見えていた。キリスト教徒なら誰もが知っていて、だれもが心に描いた情景だ。さっきまで少女にぶつけていた自分たちの罵詈雑言は、ゴルゴタの丘で十字架に磔にされた救世主に投げかけられた異教徒の穢れた言葉と全く同じだ。自分たちは救世主を、神を呪う言葉を口にしてしまった。1900年前と同じ“罪”を犯したことに気付かされてしまった。そして目の前に居る少女は救世主の“復活”なのだと知らされたのだ。
人々が祈りを捧げる中、パリ広場に銃声が木霊する。13人の咎人は刑に処された。
◇
「皇帝陛下・・・なんと痛ましい・・・」
パリ広場を後にした私は占領軍本部の置かれているシャルロッテンブルク宮殿に戻っていた。そして十字架の形に焼けた傷をルスランが濡れた布で冷やしてくれてるんだけど、かなり痛い。これはものすごく痛いわ。でも、レイプされた挙げ句に殺された少女の苦しみに比べればたいしたことはないのよ。
ドイツ政府が降伏した後、占領政策のために追加で15万人のロシア兵がベルリンに投入されたのよね。私は綱紀粛正を第一にしてドイツ市民への暴行や略奪、レイプを絶対に防止するよう通達を出してたんだけど、これだけの兵士がいるとやっぱりそういう事をする連中が出てきてしまった。今回処刑された13人は疑いようのない犯罪だったので、すぐに軍事裁判をして即刻処刑にしたのよ。これ以上の犯罪を防ぐための見せしめでもあるわ。それに、こんな犯罪が続いてドイツ市民の反感を買ったら占領政策もうまくいかなくなる。ロシアは自軍の犯罪にも容赦はしないという姿勢を見せるのは重要よ。
「アナスタシア、消毒しますよ。ちょっと痛いと思いますが我慢してくださいね」
蒼龍がピンセットでガーゼを摘まんで赤い消毒液に浸した。そしてそれを引き上げると見るからに毒々しい色をしているわ。ちょっと怖い。
蒼龍はそれを私の傷にポンポンと軽く叩くように押しつけた。
「うっ!」
「皇帝陛下!大丈夫ですか?蒼龍、もう少し痛まない方法は無いんだろうか・・」
ルスランはものすごく心配してくれて悲壮な表情をしてるんだけど、蒼龍のヤツはまったく表情を変えないのよね。私の胸のさきっちょが見えるか見えないかギリギリの所まで服を下げてるのにほんのちょっとも顔を赤らめないなんてどういう事かしら?本当に屈辱だわ。
蒼龍は軟膏をたっぷり塗ったあとガーゼを当ててテープで留めてくれた。軟膏を塗るときやテープを貼るときに私の胸に触ったわよね。絶対ドキドキしたはずよ。ドキドキしてなきゃ許さないんだからね!
「アナスタシア、しかしやることが過激ですね。でもドイツ国民に対してだけで無く、全世界にアナスタシアの高潔さが伝わったのは良いことだとは思いますけど、あんまり無茶をしないでください」
「あら、珍しいわね。蒼龍がそんな風に心配してくれるなんて。レナ事件の時は私が傷を負っても平気だったくせに」
「平気だったわけじゃ無いですよ。レナ事件を収めるためには必要だと思ったからです。今回はここまでしなくても良かったんじゃ無いかって事ですよ」
蒼龍の言いたいことも解るけど、今日処刑された連中のうちの5人がした犯罪は特に許せなかったし、それを私の罪として受け止めたかったのよね。あれだけ綱紀粛正を厳命していたにもかかわらず、酔っ払った5人が郊外の一軒家に住む7人家族を襲ったのよ。父親を射殺して30代後半のその男の妻をレイプしたの。その夫婦には19才・18才・16才・14才の娘と11才の息子が居たんだけど、子供たちには手を出さないで欲しいって懇願する母親を子供たちの目の前でレイプしたらしい。母親は、自分はどうなっても良いから子供たちは助けて欲しいって懇願した。5人のロシア兵は、言うことを聞くなら子供たちには手を出さないって言ったらしいけど、結局娘さん達もみんなレイプされてしまった。少し酔いが冷めてきた兵士達はさすがにまずいと持ったのか口封じをしようとしたのよね。母親が抵抗して子供たちを逃がそうとしたんだけど、なんとか逃げることが出来たのは14才のマリアさんだけ。他の家族はみんな殺されてしまった。マリアさんは裸で夜の道を走ってなんとか300メートルほど離れた隣家に逃げることができて発覚したのよ。
まるで前世の私だわ
前世では目の前で家族全員殺されてしまった。私は今回の事件の報告を聞いた時、その時の情景がフラッシュバックして倒れちゃったのよね。今世ではお姉様達は無事にイギリスに逃げている。でも、私が歴史を変えちゃったから、私たちの代わりにあの家族が犠牲になったんじゃ無いかって思えて仕方が無いのよ。だから、私の胸に刻んだ十字架は私の罪悪感を少しでも和らげる意味もあるの。
「心配してくれてありがとう、蒼龍。でも私がこれだけすれば不埒なことをする兵士もいなくなるわ。この程度の傷で何の罪も無いたくさんの人たちが助かるんだったら安いものでしょ。だからね、ルスランも気にしないでね」
「皇帝陛下・・・なんと慈悲深い・・・」
ルスラン、そんなに顔をクシャクシャにして泣いちゃったら美人が台無しよ。でもありがとう。私には私のために涙を流してくれるルスランがいる。こんなに嬉しいことはない。最近はルスランを蒼龍にとられちゃったような気がしてモヤモヤしてたんだけど、やっぱりルスランは私のことを一番に考えてくれている。どう、蒼龍。私の勝ちよ!
「ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世との会談は3日後ですよ。それまではゆっくり休んでください。傷が原因で熱でも出たら大変ですからね。塗った軟膏には抗生物質が含まれているので多分大丈夫だと思いますけど、しばらくは毎日ガーゼを取り替えますからね」
「毎日取り替えるの?じゃあ、毎日蒼龍は私のお胸に触るのね。イヤラシいわ」
「・・・・・ルスラン、皇帝陛下は俺の事が気に入らないみたいだからキミがガーゼを取り替えてくれないか?注意点は説明するから」
「あ、ごめん、蒼龍!医学知識のあるあなたがしてよ!万が一化膿とかしてルスランが責任感じちゃったら大変よ!こ、これはルスランに不要な心配をかけないためなんだからね!勘違いしないでよね!」
はぁ、何でこんなに慌ててるのかしら。バカみたい。
そして翌日
処刑された兵士の上官が何人か自決しちゃったのよね。責任を感じて。私が自分の体に消えない刻印を入れちゃったから、その原因を作った兵士の上官は身につまされるわよね。だから公的な処罰以外で自決することを禁止する勅命を発したんだけど、今度は十字架の焼き印を自らに刻む将官や士官が続出しちゃった。まあ戒めになってくれるんだったらそれでもいいんだけど、焼き印は見えないところにしてよね。ある将官なんか額に焼き印を入れて私への忠誠の証だって言ってきたのよ。正直ドン引きしちゃったわ。




