7話 憧れへの渇望
「あたし、アイドルになる!」
小学四年生の頃、夏休み明けに一人の友人――七瀬花音ちゃんが私にそう宣言した。
彼女が言うには、夏休みに両親と訪れたアイドルのライブで、舞台上で汗水たらしてファンのために一生懸命パフォーマンスを披露する少女たちの輝きに、自分もあんな風になりたいと、『憧れて』しまったらしい。
当時の私は『憧れ』に対し、特に気に留めることなく、純粋な気持ちで花音ちゃんの応援に回った。
花音ちゃんは夏休み中にアイドルになるための計画を立てたらしく、その算段を私にも報告してくれた。
曰く、養成所に入りしっかりとアイドルとしての基礎を身に着けるところから始めたい、とのことで、夏休み中に両親に報告したらしい。
もっとも、両親は直ぐに縦に頷いたわけではなかったらしく。
本気でアイドルになりたいなら証明をしてほしいとのことで、彼女に一つ条件が課された。
その条件とは――成績表からC評価をなくすこと。
それを達成できれば、養成所に通わせてもらえるということであった。
花音ちゃんとは、よく成績表(A<よくできる>B<できる>C<もう少し>)を見せ合いっこしていたが、その時に彼女は決まってC評価が多く並んでいた。
花音ちゃんにとってC評価を失くすことは、鬼の所業。
けれども、彼女は悲観することなくその条件を飲み込み、憧れのために全てを投げ打って、成績を上げるために全力を尽くした。
今まで学校が終わると花音ちゃんと遊ぶことが当たり前の私だったが、二学期から勉学に力を入れたいという彼女の申し出により、家で過ごすことが多くなり、特に何かをするわけでもなく、ただ漫然とした日々を過ごしていた。
花音ちゃんの努力は実を結び、二学期の成績表ではC評価が消えていて、条件をクリアした花音ちゃんは見事、養成所へと通うことが可能に。
養成所に通い出した花音ちゃんは最初の頃、レッスンの楽しさを興奮冷めあらぬ様子で私に語っていた。
ただ……
日が過ぎていくにつれ、自身のダンスの技術や歌唱力が著しく停滞したことによる苦悩や辛さを苦悶の表情で吐露することが多くなっていったのだが。
それでも、花音ちゃんの双眸は陰ることなく、むしろ、輝きが増すばかりだった。
憧れに向かって努力し続ける彼女は、誰の目からもわかるほどに、生き生きしていて、まるで私とは違う世界で生きているような感じがした。
――毎日楽しそうでいいなあ。私も何かに憧れたらこんな風に毎日が楽しくなるのかなあ。
ここで、私は初めて『憧れ』に対して関心を持つようになった。
そこからというもの、私は毎日の日々を花音ちゃんと比較するようになり、自分の生きてる世界の色がどんどん剝がれていく感覚に陥った。
――憧れを持つとどんな風に世界が映るんだろう? 私も憧れを持つとその景色が見れるのかなあ。
私の憧れへの関心はどんどんと肥大化していく。そして肥大化した関心はやがて、
――ずるい。
嫉妬心へと成り変わっていく。私はここで初めて友人に対して嫉妬心を抱いてしまった。
純粋に花音ちゃんの憧れを応援していた私は、表立って嫉妬を露にしないものの、心の中では妬みや嫉み、恨みなど純粋の欠片もない濁りの感情が募っていった。
――私もあんな風にキラキラした毎日を送りたい!
募り募った濁りの感情は、欲望へと変化し、
――憧れ、憧れ、憧れ、憧れ、憧れ、憧れ、憧れ、憧れ、憧れ……
――憧れ!
最終的には狂気的な渇望へと進化した。
憧れへの渇きに耐えきれなくなった私は、ついに憧れを手に入れるための行動を開始する。
けれど私は、『憧れ』を知らなかった。
それがどんな感情なのか、どんなふうに訪れるのか。
なので、それを知るために花音ちゃんに訊ねた。彼女は憧れを経験しているのでこれ以上の適任者はいないだろう。
花音ちゃんから聞いた症状としては、"胸が熱くなる"とのこと。
彼女から返ってきた答えはそれだけだった。私はもっと他にもあるでしょ? と彼女に問いただすも、その一点張りで、それ以上のことは分からなかった。
とりあえず、得た情報としては"胸が熱くなる"という症状に陥ることだけ。
頼りない情報だけど、逆に言えば、その一言に尽きる程に鮮烈な胸の熱さに陥るのだろう。
なら、その激烈な熱を胸に感じた瞬間、それは『憧れ』を持ったと同義となる。
そう結論付けて、私の毎日は、その『熱』を求める時間に全てを捧げた。
普段見ないスポーツの番組とか、ドラマとか、政治関係など、あらゆる番組を散策した。
クラシックなど自分から進んで聞かないような曲を聞いたりした。
恋愛小説、漫画ばかり読んでいた私は、それ以外の純文学などの本を読み漁った。
外では、ガラス越しから料理を作る様子をまじかで観察したり、テレビで見た、気になったスポーツなどを、両親に頼んで、実際に足を運んで観戦したりもした。
――しかし、
そのどれもが、私の胸を焦がすほどの『熱』には至らなかった。
私には何かを憧れるなんて、どだい無理なんだと諦観が押し寄せてきた矢先、たまたまテレビでインタビューを受けている人が、その人の『人間性』に憧れたと言っていた。
『人間性』に憧れを抱くことについて完全に盲点だった私は、再び希望に満ち溢れ、その日から人間観察も視野に入れた。
――だけど。
その希望もあっけなく砕け、私の胸中には完全な諦めが支配していた。
私がやってきたことは全て、無駄で無意味で――そもそも、最初から憧れを求めること自体、無謀だったのだと、理解した。理解させられた。
私は色あせた世界で生きることを受け入れ、憧れを追い求めることも、中学に入ってからはやめた。
それでも花音ちゃんとは同じ中学校だったため、顔を合わせる機会は多かった。彼女を見るたびに微かな羨ましさは胸の奥で燻り続けていたけれど、それだけだ。
嫉妬に駆られることも、あの頃のように強く渇望することも、もうなかった。
だって、求めたところで私は憧れることなんて出来ないということを、骨の髄まで思い知らされてしまったから。
それでも、どこかで――
ほんのわずかに、期待していたのかもしれない。だからこそ、私は白雪雫さんに――『憧れ』に出会えたのだと思う。
『憧れ』に触れた瞬間、私の世界は何もかもが変わった。
色の抜け落ちた風景は、まるで絵画のように色鮮やかに彩られた。
失った光は、まるで陽に照らされた湖面のように煌めいていた。
ただひとつの『憧れ』という宝石を手にしただけで、こうも世界は見違えるのかと驚き、感動した。
――そして
ついに『憧れ』を持つ者の一人になった私は、歓喜に打ちひしがれたのだった。
*
――なんだか懐かしい夢を見た気がする。
のんきにも私はそんなことを心の中でぼやきながら、寝ぼけ眼を擦り、机にある数学の教科書とノートをぼんやりと視界に入れた。
どうやらノートを書いている途中に私は力尽きたらしい。
その証拠に、"一"という数字が、縦に伸びすぎて、ノートの枠組みからはみ出す勢いだった。
「おはようございます、神崎さん」
「っ!?」
その不気味なほどに穏やかな声色に私の心は冷や汗をかく。私は本能よりも先に、視線を、その声元の方へと向ける。
「ずいぶんと気持ちよさそうに寝ていましたね」
「あ、あさく、ら、せんせ、い……!?」
「ええ、そうですよ。今、三限目の数学の授業を担当していて、そして、あなたの担任の朝倉先生ですよ。昨日の今日で、私のことを忘れかけてるなんて、先生は悲しいです……」
朝倉先生は目元を手の甲でふきふきし、わざとらしく悲しい演技を披露する。
「あ、いえ……! わ、忘れてないです!」
「授業中に寝る人の言葉は信用なりません。きっちり、私と言う人間をこの身に刻んであげます!」
バシン!
「っ!?」
朝倉先生は腰に添えてある黒い鞭をおもむろに床に叩きつけた。私はそのつんざく音に全身の毛が逆立つ。
「では、神崎さん。この場で腕立てを五回だけやってもらおうかしら。後ろのスペースが空いてるから、そこでやってちょうだい」
「は、はい……」
刻み込むと意気込んでいたから、てっきりその鞭でビシバシと叩かれるかと思っていた。
しかし、どうやらそこまでの鬼畜さは持ち合わせていないらしく、私は少しだけ安堵する。
とはいえ、この公開処刑は恥ずかしさ極まりないので、私は一早くこの状況から脱するために、てきぱき行動する。
「準備が整ったようですね――さて、よっこらしょ」
「ぐえっ!」
朝倉先生は年寄りじみたセリフと共に私の背中を椅子代わりにする。
宙に浮かしたお腹は磁石の如く地面に引き寄せられ、私はまともに身体を動かせない。
出来ることは、「うぐぐ……」とうめき声を上げることだけ。
――待って待って! まさかこのままとか、言わないよ、ね?
「じゃあ、神崎さん。腕立て伏せ五回、始めてください。ああ、ちゃんとしっかり自分の口でカウントしてください。カウントしなかったら、その一回は無効となりますので」
心の中の不安は見事に的中し、私は絶望に打ちひしがれる。そんな絶望中の私に、
バシン!
「いっ!?」
無慈悲な鞭が振り下ろされる。
お尻を打ち据えた衝撃は、風船が破裂したかのように鋭く全身へ弾けた。私はまるで家畜にでもなったような気分だった。
音だけを聞けば痛そうな響きだが、実を言うと、全く痛くない。
けれど、私は、唐突なお尻の衝撃と音に、脳が痛みと錯覚し、無意識に痛みを漏らす声を出してしまった。
「この鞭は攻撃力が皆無で痛くないはずです。それより、いいんですか? 五回腕立て伏せを終わらせないと、神崎さんはずっとこのままですよ? 三限目が終わるまでとかそんな生温い話じゃなくて、言葉通り、朝も夜も昼も、日数も、関係なく、神崎さんが五回腕立て伏せをするまで、ですよ?」
――待って待って待って! 嘘だよ、ね? 冗談だよね?
私は朝倉先生の無慈悲すぎる宣告に頭の処理が追い付かない。
「安心してください。私はどんな体勢でも眠れます。ノートパソコンを誰かに持ってきてもらう必要はありますが、仕事も出来ます。食事も誰かに持ってきてもらう必要はありますが、問題ないです。あ、安心してください。神崎さんにもちゃんと食事も飲み物も与えますので。まあ、私と違って、神崎さんには、ワンちゃん用のお皿に乗せて、ワンちゃんのように口だけで飲み食いしてもらいますが。あ、あと、お風呂は当然入らせません。大丈夫です。私もお風呂に入りませんから。これでも、昔、一週間くらいお風呂に入らなかったことが結構あってですね、慣れっこなので気にしないでください。神崎さんがもし、そんな生活をお望みなら、腕立てをする必要はありませんが、どうです?」
――どうです? じゃない! 絶対にそんな生活は嫌だ!
朝倉先生のまくし立てるような言葉から、どんどんと湧き出る無慈悲の奔流に私の心は抗う。
「神崎さんが嫌だと言うなら――それ以上は言わなくても分かりますよね?」
朝倉先生は私の反抗心を機敏に悟って、そう言った。
朝倉先生は本気で、私が五回の腕立て伏せを達成するまで、ここをどかないのだろう。
――だったら!
私は腹を括る。
そもそもこれは自分の自業自得で居眠りさえしなかったら、訪れることはなかった未来。
それを現実にしたのは、他ならぬ自分自身のせい。
それに、クラスメイト達をこんなしょうもないことに、時間を使わしてしまうのは申し訳が立たない。
私は腕、脚、腰、腹筋にありったけの力を入れて――
「い……ち!」
朝倉先生もろとも持ちあげた。
火事場のバカ力と言うやつだろう。
正直、心の底で持ち上げるの何て絶対に不可能だと思っていたが、人間と言うのは不思議なもので、その不可能を可能してしまう。
「はあ、はあ、はあ」
一回目が終わった私はしっかり呼吸を整えてから、再度、力を込める。
一回やっただけで、ほとんどの力を使い果たしたが、それでも、懸命に力を振り絞る。
「に……い!」
ゆっくりと、でも、着実に回数を積み重ねていき、
――そして、遂に。
「ご、おおお……お! はあはあはあ」
「はい、お疲れ様。今後は居眠りしないように、ね?」
私の背中から離れた朝倉先生は、うつ伏せで、死んだゴキブリ状態の私にそう言った。
「はあはあ、は……い。すみ、ふぁせん、でし、た……はあ、はあ」
こんな醜態を公衆の面前で晒した私はトラウマでしかなく、今後絶対に朝倉先生の前で過ちを犯すまいと決意を固めた。
その後は、特に何事も起こることはなく、三限目は終了。
次はいよいよ訓練。
どんなことをするのか未知数の中、ドキドキ過ごしたのだった。




