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40話 憧れの、その隣へ

「ん……」


「あ、目が覚めた?」


 意識が戻ると、鼓膜に届いたのは銀鈴のように澄んだ声だった。目覚めたばかりで視界はまだ霞み、その姿は朧げにしか見えない。


 だが、その声色だけで、そこにいるのが誰なのか、私はすぐに悟っていた。


「しず、く……さん」


「ああ。無理して起き上がらなくてもいいよ。傷は完治してるけど、身体の疲労は凄まじいだろうし」


「ありがとうございます。でも大丈夫です」


 私は疲労困憊の身体に鞭を打ち、ゆっくりと上体を起こそうとする。


「ほら、ゆっくり」


「あ、ありがとうございます」


 雫さんは私の背中へそっと手を添え、身体を支えてくれた。そのおかげで、思っていたよりも楽に身体を起こすことができる。


 その途中、不意に私の視線は雫さんの胸元へと向かう。そこには、浅いながらも確かな切り傷が残っていた。


「雫さん。その怪我……」


「ああ、これ?」


 雫さんは自身の胸元にある傷口にそっと触れた。

 

「光ちゃんに、ね」


「わた、しが……じゃあ、やっぱり夢じゃ……」


 私は最後の最後、すべてを賭けた一太刀を雫さんへ放った。刃が何かに触れたような感触はあったものの、その頃の私は意識を繋ぎ止めるだけで精一杯で、何が起きたのかを確かめる余裕などなかった。


 だからこそ、あの結末は現実味がなかった。


 意識を失う寸前、守護君は確かに私の勝利を告げていた。そう判定を下していたはずだった。


 けれど、それはあまりにも現実離れしていて――まるで夢の中の出来事のようで、全然実感が伴わなかった。


 だが、雫さんの胸元に残る傷痕と、その口から語られた言葉が、その曖昧だった記憶を現実へと引き戻す。


 あの一太刀の感触も、あの戦いも、守護君の宣言も、すべて紛れもない現実だった。


 夢じゃなかった。


「光ちゃんの憧れは私の憎悪を凌駕した。それだけじゃない。私の憎悪、悲しみ、ありとあらゆる闇を振り払ってくれた」


 私はそう言われ、ぱっと雫さんの双眸を視界に入れる。


 そこには、かつてそこに宿っていた悲しみも、憎悪も、もう見当たらない。ただ純粋な輝きだけがそこにあった。


「ありがとうね。また憧れを信じさせてくれて」


「あ……」


 その言葉を聞いたとき、私は胸の奥から感情が堰を切ったように溢れ出す。熱いものが込み上げ、気づけば涙の形となって頬を伝っていた。


 その涙の味は、かつてのようなしょっぱさは感じられなかった。


「え、ひ、光ちゃん!? な、なんで泣いてるの!? わ、私、何か悪いこと言った?」


 急に涙を流す私を見て、雫さんは慌てふためき、どうしたらいいのか分からない様子であわあわする。


 そんな姿が少しだけおかしくて、思わず笑みが零れそうになる。


 そして何より――。


 私へ向けられるその瞳は、あの日と同じだった。


 絶望の底にいた私へ手を差し伸べてくれた、あのときの――曇りのない、純粋な輝きだけを宿した眼差し。


 私がずっと憧れていた、雫さんの瞳だった。


 その事実が、どうしようもなく嬉しかった。


「違い、ます」


 涙を拭いながら、私は首を横に振る。


「これは――『嬉し涙』です」


 きっと今の私は、これまでで一番晴れやかな笑顔を浮かべているだろう。


 長い間、厚い雲に覆われていた花が、ようやく待ち望んだ陽の光を浴びたように、胸の奥から静かに満ちていく温もりを抱えたまま、






 ――私は笑った。

 




                 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇





「それで? 二人はいつまでそこで見ているのかしら?」


 雫さんが私が泣き止んだのを機に、扉を睨みつけながらそう言う。そして、刹那。まるで観念したように扉が開いた。


「あはは~ばれてたか~」


「ん」


 姿を現したのは、臼井先輩と反町先輩。雫さんは、腰に手を当てて子供をしかりつけるような母親のような態度で二人に接する。


「もう、二人共帰ったんじゃなかったの? 盗み見なんて感心しないよ」


「いや~帰ろうと思ったんだけど、二人の様子が気になって」


「ん。私は盗み見なんてするのはダメって言ったけど、渚が聞かなくて」


「え、ちょっとはーちゃん。確かに私からその提案をしたけど、はーちゃん、反論どころか、全然乗り気だったじゃん」


「ん。そんなこと知らない」


「むう~はーちゃん!」


 反町先輩が手をワキワキとさせながら、臼井先輩に襲い掛かろうとする。


「二人共」


「「っ!?」」


「理由は何であれ、二人が盗み見した事実は消えないから、ね?」


「「す、すみませんでした……」」


 雫さんの穏やかな笑みと圧を前に、二人は成すすべなく陥落した。揃って頭を下げる姿は、さっきまで言い合っていたのが嘘のようだ。

 

 臼井先輩ならまだしも、反町先輩まで大人しくなるとは……雫さん、おそるべし。


「なんか、お三方の仲、深まりました?」


 初任務で会った頃の三人には、どこか壁があった。けれど今、その壁はもう見当たらない。


 軽口を言い合い、叱られれば揃って頭を下げる。


 その何気ないやり取りからも、三人の間に流れる空気が穏やかで温かいものへと変わっているのが伝わってきた。


「光ちゃんが目を覚ます前に、三人で色々と話し込んで、わだかまりは解消できたの。でも……まさか、私とのパートナー解消の後で、二人にあんな辛い思いをさせていたなんてね……」


「もう、雫ちゃん。あれは私たちが勝手に罪悪感を抱いただけなんだから、気にしなくていいってば」


「ん。それに、この話はもう終わったこと。いつまでも引きずる必要はない」


 二人は、悔やむ雫さんを優しく諭すように言った。


「二人共……ええ、そうね」


 雫さんは少しだけ目を伏せると、小さく息をつく。そして顔を上げたときには、その表情から苦さは消え、穏やかな笑みが浮かんでいた。


「神崎さん。ありがとう。こうして私たち三人が本当の意味で向き合えたのは、あなたのお陰よ。それに、雫ちゃんも、はーちゃんも、そして私も……あなたに救われた。本当にありがとう」


「ん。あの戦いを見て、私たちは救われた。神崎さんが憧れを貫く姿に。どれだけ力の差を思い知らされても、それでも立ち上がり、挑み続ける。その姿は、本当に眩しかった――だから確信した。神崎さんなら、雫ちゃんの隣に立っても、その憧れの輝きを曇らせることはないって」


 二人から向けられた感謝と信頼の言葉が、胸の奥へと静かに染み渡る。


 自分は涙脆い人間ではないと思っていた。だけど、それは思い違いだったらしい。


 ようやく引っ込んだ涙が、また溢れそうになっていた。


「光ちゃん。あの戦いであなたは、私とのパートナーになれる権利を得たわけだけど、どうする?」


「そんなの、決まってます!」


 雫さんの問いが終わるよりも早く、私は答えていた。


 迷う理由なんて、一つもない。


「な、なります! なりたいです! 雫さんのパートナーになりたいです!」


 長年抱き続けてきた想いを、私はありったけの声に乗せてぶつける。


 迷いのない返事に、雫さんは柔らかく微笑むと、私に右手を差し出す。


「ふふ。じゃあこれからよろしくね、光ちゃん」


「あ、はい! こ、こちらこそ、ふ、不束者ですが、よろしくお願いします!」


 差し出されたその手を、私は力強く握り返す。その温もりが、ずっと追い続けてきた夢が現実になったことを教えてくれた。


 こうして私は、念願だった憧れの雫さんと”パートナー”になった。

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