38話 師匠の独白
二十時。
バシン!
「いっ!?」
「しゃきっと背筋を伸ばしてください!」
「し、師匠! 叩かないで――」
「口を動かす暇があるなら、四季の言うことを意識してください」
「は、はいいいい!」
私は師匠に尻を敷かれる形で、鍛錬を行っていた。今日まで師匠に鍛錬を施してもらっていたが、一度だって叩くなどの暴力行使はしてこなかった。
師匠に鍛錬を施してもらう時間は、いつもこの時間帯。
お昼の時の怒りは消化しきれなかったらしく、ずっとご機嫌斜めだ。
寮で出会った瞬間から、圧力と言うものが全身に漂っていた。普段なら訓練所までの道中で他愛のないおしゃべりをするのが常なのだった。
しかし今日は口を開いた瞬間に何か言われるのではないかと思い、びくびくしていたため、喉がつっかえて言葉が出てこなかった。
結局、互いに一言も発することなく、張り詰めた空気のまま訓練所まで歩いた。
あの居心地の悪さは、今思い出しても胃が痛くなる。生きた心地がしなかった、と言ったほうが正しいだろう。
そして今もまた、いつ師匠の叱責が飛んでくるのかと戦々恐々としている。鍛錬どころではなく、居心地は最悪だった。
「……今日はここまでにします」
「え? し、師匠? ま、まだ、三十分ほどしか経ってませんよ」
一時間は少なくともみっちりと鍛錬を施す。それは初めて鍛錬をする日に、師匠が豪語していたことだ。
「……」
師匠は私の問答に答えることなく、何も言わずに、踵を返す。
やっぱり、お昼の件を根に持っているのだろうか。けれど、どうして師匠はそこまで怒って……いや、今はそんなことどうでもいい。このままでは、ずっと気まずいままだ。
謝るなら今しかない。
「し、師匠!」
ぴたりと足が止まる。
振り返らないその背中を見つめながら、私はぎゅっと拳を握り締めた。
「そ、その……お昼のことですけど……」
途端に喉が張りついたように乾く。
言わなければならない。そう思っているのに肝心の言葉がなかなか出てこない。
でも、ここで逃げたら駄目だ。
今日を逃せば、また明日、明日を逃せば、その次の日と、だんだん先延ばしにいって、後回しにすればするほど言い出せなくなって、結局タイミングを逃してしまうのがオチだ。
小さく息を吸い込み、意を決する。
「ご、ごめんなさい!」
ようやく絞り出した謝罪の言葉は自分でも驚くほど小さかった。
静寂が落ちる。
師匠はしばらく何も答えなかった。
その沈黙が、ひどく長く感じられた。
「四季は……神崎さんとのこの時間が楽しいん、ですよ……」
師匠は叱るのではなく、悲しそうな声でそう言う。振り返る師匠の澄んだ青い瞳は、不安に揺れていた。
「四季、昨日、たまたま神崎さんと白雪先輩の会話を聞いちゃったんですよ。神崎さん、明日、白雪先輩に同じ条件でもう一度、戦うんですよね?」
まさか師匠にあの場面を見られていたなんて思わなんだ。ただ。そんな会話を聞いたとて、師匠には全然関係ない話。
どうして、師匠が悲しそうにするのか、私にはさっぱり分からなかった。
「そうですが、どうして、師匠がそんなこと気にするんですか?」
「だって……神崎さんがその条件を達成したら、神崎さんは白雪先輩とパートナーになる。そしたら……!」
師匠は言葉を零すうちに感情がどんどん溢れていき、悲しみの煌めきを灯した涙が、つーっと頬を伝った。
「神崎さんは四季から乗り換え、白雪先輩に教えを乞うことになる。そしたら、この楽しい時間は終わってしまう」
「師匠……」
「実を言うと、四季、選抜パートナーの試合、観戦してたんですよ。神崎さんが白雪先輩に、憧れを壊される瞬間を目の当たりにして……四季、安心しちゃったんです。これからも、ずっとこの時間が続くことに。は、はは……四季、最低ですよね。神崎さんの不幸を喜ぶんですから」
師匠は、自分の醜い心を自嘲するように力なく笑う。
「神崎さんとの、この時間が失ってほしくなくて、四季は神崎さんに酷いことをしました。選抜パートナーの前日に、鍛錬をさせないように、身体を労わるように諭したり、その効果が薄かったために強引に遊びに連れていったり」
師匠は今までの行いを一つ一つ白状していく。
「今だってそう。お昼の時の怒りを利用して、鍛錬を中途半端に区切ろうとしている。本当は今日、神崎さんを鍛錬から遠ざけるために、寮のラウンジで待ち伏せして、半ば強引にでも遊びへ連れ出そうと考えていました。でも、もう一人の四季が言うんです。『こんなことはやめよう』って。もやもやした感情は四季の判断を迷わせ、にっちもさっちもいかなくなった四季は、一度、心をスッキリさせようと思って、お昼ごろに訓練所に向かいました」
師匠は抱える刀を労わるように、優しく、優しく、撫でていく。
「向かうと神崎さんと水無月さんがいて、二人で鍛錬をしていました。その時、どうしてか、水無月さんに嫉妬心が宿って、そして、神崎さんが白雪先輩に鍛錬を施しているところを想像して、ダメな方向に行きそうだったので、それらの激情を吐き出すために、お昼は無意識に神崎さんに強く当たってしまいました」
師匠は労わるために撫でていた手をふいに止める。止めた手は何かに怯えているようにぷるぷると震えていた。
「ただ、全てを吐き出せず、お二方が去った後に、その残り香を全て追い出そうと、ひたすら鍛錬に打ち込みました。でも、それは頑固な汚れみたいに心にこびりついていて、いくら振り払おうとしても消えてくれなかった。結局、四季は自分の欲望を優先して、自身の怒りを言い訳にして、こうして、鍛錬を勝手に終わらそうとしている。本当に最低ですよね。こんなのが師匠なんて、最低、ですよね……」
師匠は目を伏せた。そして、その口元には、自嘲するような弱々しい笑みが浮かんでいた。
「師匠」
私は一歩踏み出し、師匠との距離を縮めた。
「たとえ私が白雪先輩とパートナーになったとしても、師匠に教えを乞うつもりです」
確かに雫さんとパートナーになれば、雫さんからの直接指導が施される可能性もある。だけど、それは決して師匠から学ぶことをやめる理由にはならない。
「し、信じられません。こんなに酷いことをしたのに、それでも、四季に教えを乞うなんて……」
師匠はそう呟くと、私が踏み出した一歩を拒むように、一歩後ろへ下がった。
「む、無理して慰めの言葉を掛けているなら、そんな情け要りません」
「私は無理をして慰めているつもりでも、情けで言っているつもりもなくて、本心で言ってるんです」
「……う、そです」
「師匠。私が嘘を吐いてないって分かりますよね? そうじゃなければ、動揺して、歯切れの悪いことは言わないはずです」
「!?」
師匠は私の言葉に肩をピクリと震わせた。
「少なくとも、その反応をするってことは、私の言葉を信じている証拠です。私、自分で言うのも変ですけど、嘘を吐くのは下手、ですから。それはもう、悲しいくらいに」
私は苦笑しながら、自分の嘘の下手さ加減を茶化す。
これまで、私は幾度となく嘘を見破られてきた。師匠然り、反町先輩や臼井先輩にも。
二度も、私の嘘を見破った師匠だ。そんな人が、今さら私の本心を見誤るはずがない。
「し、信じられ、ません……」
師匠は、私でもわかるほどの態度を晒しにも関わらず、なおも、食い下がる。どうすれば、信じてもらえるのか、しばし考え。
「じゃあ、こうしましょう。もし、私が一度でも、師匠との鍛錬を放棄したら、私は師匠の言うことを何でも聞きます。どうです?」
師匠は私の提案に今日一の驚きを露にした。だけど、それも一瞬のこと。身を縮こませながら、目を伏せる。
「そ、そんな、く、口約束、信じられ、ません」
師匠は弱弱しく、そう反論する。
「では、録音しますか? そうすれば、言い逃れ出来ません」
「どう、して、そこまでして……」
「師匠がそうだったように、私もこの時間が好きですから。それに……」
「それに……?」
「私は師匠から、刀の振るい方について、合格を貰えてません!」
師匠との鍛錬が始まってから、私はずっと師匠から刀の振るい方を学んでいる。やってる内容としては、素振りだけで、何の代わり映えもしない。
たったそれだけ。
でも、私はそこからというもの、飛躍的に強くなっていた。自分でも自覚できる程に。
授業の訓練の成果もあるかもしれない。だけど、強くなったと思えた瞬間は、師匠から教わった『刀を正しく振るう』と言う基礎の心得を身に着けたところからだった。
理由は分からない。
ただ、それだけで見える景色が変わった。それだけは確かだった。
そして、鍛錬を重ねるうちに、私は一つの目標を持つようになった。
いつか師匠を納得させたい、と。『合格です』と言わせたいと、そんな景色を見たいと思ってしまった。
それは、及第点でもお情けでもない。師匠が心から認める、本物の合格を。
正直、その日が来るまでに私の三年間は終了している可能性はあるが、いや、そっちの方が高いと思うけど、それでも、私はその合格の印を師匠から押してもらえるまでは、師匠から教えを乞うつもりでいた。
「ぷっ……!」
私の内なる野望を聞いた師匠は、耐えきれず笑いを吹き零した。
「くふふ、くふふふふ。やっぱり、神崎さんは面白い人です。あ~あ。四季のやってきたのはとんだ杞憂だったんですね」
師匠は口元を抑えて吹き出す笑いを必死にこらえながら、吹っ切れたような、清々しい声音で言葉を紡ぐ。
「神崎さん、すみませんでした。色々と酷いことを……」
「いえいえ。気にしないでください! そ、それで、その、師匠もおしゃっていたように、明日の白雪先輩との戦いに備えて、少しでも強くなりたいので、鍛錬を……」
「むむっ!」
師匠はピクリと眉を動かすと先ほどまでの遠慮がちな後退とは正反対に、ずんずんと勢いよくこちらへ歩み寄ってくる。
表情に不機嫌を宿しながら。
――あ、あれ? な、なんで、師匠、そんな不機嫌になってるの? わ、私、何か変な事言った?
「四季の謝罪を軽く流すだけじゃなくて、別の女性のことを考えるなんて……神崎さんは本当に、四季との鍛錬の時間が好きなんですかあ?」
師匠はお昼の時のように、身を乗り出し、私の鼻が自身の鼻が軽く触れ合うくらいに、ずずずと近づけてくる。
「し、師匠。お、おお、落ち着いてください」
師匠は不満そうにぷくっ頬を膨らませる。
「……やっぱり信じられないので、神崎さんにはちゃんと宣言してもらいます」
「え、ええ!?」
私の失言により、師匠の私への信頼度は急降下してしまったようだった。
師匠は、驚く私を横目にジャージのポケットから、自身のスマホを取り出して私の方へと向ける。
「ほら、驚いてる暇があるならちゃんと言ってください。神崎さんも言いましたよね? 信じられないなら、録音しても構わないって」
先程の言葉を師匠は掘り起こしながら催促してくる。
「た、確かに言いましたけど、それは……」
「……もしかして」
師匠の瞳がすっと細くなる。
「嘘だったんですか?」
「え」
「信じてもらうための建前で、本心ではなかった、と」
「い、いや」
「だったら今までの言葉も全部――」
みるみるうちに師匠の表情から光が失われていく。その様子にまずい! と思って私は慌てて首を振った。
「いや、嘘じゃないです! 嘘じゃないですから! わ、わわ、分かりました! 録音してそれで、師匠が私の言葉を信じてもらえるなら、それでいいです!」
「本当ですか?」
「本当です!」
「嘘じゃないですか?」
「嘘じゃないです!」
「逃げませんか?」
「逃げません!」
「そうですか。では、お願いします」
師匠は満足げに口元を緩めた。完全に獲物を追い詰めた捕食者の顔だった。私はそんな師匠を見ながら、自分で蒔いた種の大きさを今さら実感する。
それでももう後には引けなくなってしまい、私の宣言は師匠のスマホに収められたのであった。




