阿波へ②
このお話で第三章は完結です。
四州近衛家の京屋敷――正確に言えば、“近衛本家の中に与えられた仮別邸”であるその建物には、既に阿波下向の支度が整っていた。
四州近衛家。
それは、近衛本家そのものではない。あくまで分家。
しかも、成り立ちが極めて特殊だった。
三好千熊丸という武家の嫡男へ、近衛の名を与え、朝廷秩序へ組み込み。さらに、四国経営を担わせるために作られた、半ば国家戦略級の新家。
だから。本家の近衛家とは、似ているようでかなり違う。
屋敷の中にも、その空気は色濃く出ていた。
雅な公家女房の横を、阿波武士が普通に歩いていく。
庭では和歌ではなく、港整備の話が聞こえる。
帳簿。塩。鉄。船。完全に実務集団だった。
永寿内親王――『はるちゃん』は、きょろきょろしながら言った。
「……不思議なお家です」
「うん」
私も即頷く。
「近衛家なのに、なんだか武家みたいで」
「だって実態は阿波三好だし」
「でもお公家様もいっぱいいます」
「混ざってるからね……」
その時、庭先で待っていた海雲――三好元長が、ふっと笑った。
「それが四州近衛家ですな」
法衣姿のまま、どこか楽しそうだった。
「近衛本家の雅と、阿波三好の現実主義を無理やり合わせた家」
「無理やり……」
「否定できない」
実父の言葉に思わず私は遠い目になる。
事実、この家はまだ若い。
制度も。空気も。立場も。全部が流動的だった。
近衛本家から見れば、あくまで“分家”。
だが同時に。帝直属の特別家でもある。
だから、普通の分家とも違う。
海雲は静かに続けた。
「本来なら、武家が簡単に摂家の名など継げぬ」
「はい」
「だが主上は、あえて“近衛”を与えられた」
『はるちゃん』は真剣に聞いている。
「それはつまり、千熊丸をただの武家として扱わぬということ」
皇家を守る家。公武の中間。未来を繋ぐ家。
それが四州近衛家だった。
その時、奥から、近衛本家の使者が現れる。
「四州近衛様」
丁寧な礼。
「本家当主様より、道中の無事をとのお言葉を預かっております」
私は軽く目を瞬かせた。
「……わざわざ?」
「はっ」
使者は静かに頭を下げる。
「また、永寿内親王殿下へ、こちらを」
差し出されたのは、美しい小箱だった。
「まあ……」
開けると、繊細な蒔絵の櫛。
『はるちゃん』が目を輝かせる。
「綺麗……!」
使者は穏やかに言った。
「近衛本家奥方様より、“四州近衛家の姫君へ”とのことです」
その言葉に『はるちゃん』が少し驚く。
“四州近衛家の姫”。
つまり、もう彼女は、皇家の皇女であるだけではない。
四州近衛家の奥方として、公家社会へ迎え入れられている。
『はるちゃん』は大事そうに箱を抱えた。
「……嬉しいです」
海雲は、その姿を静かに見ていた。
四州近衛家。まだ始まったばかりの家。
だが… それはすでにもう動き始めている。皇家。摂関家。武家。その全部を巻き込みながら。
やがて。出立の刻。
私と『はるちゃん』は、並んで牛車へ向かう。
「よし様」
「ん?」
「四州近衛家って、変なお家ですね」
「うん」
「でも」
『はるちゃん』は、少し笑った。
「嫌いじゃないです」
その言葉に私もふっと笑った。
「私も」
牛車がゆっくりと動き出す。
軋む車輪の音。
朝靄の残る京。
その中を、四州近衛家の一行は西へ向かって進み始めた。
御簾の内。
『はるちゃん』は、まださっきの蒔絵の櫛を大事そうに抱えていた。
「……綺麗です」
「気に入った?」
「はい」
嬉しそうだった。
「近衛本家、思ったより優しかったね」
「“分家”だからでしょうか?」
「というより、たぶん様子見」
「様子見?』
はるちゃんが首を傾げる。
私は少し考えながら言った。
「四州近衛家って、前例がないから」
それは本当だった。
武家出身。だが摂家分流。しかも皇家直結。
さらに四国統治の中核。意味不明な家である。
『長慶おじさん』が脳内で頷く『うむ。改めて考えると大分おかしいの』
「近衛本家からしたら、“あれ何になるんだ?”って感じだと思う」
「でも、嫌われてはいないのですね」
「少なくとも今は」
そこで私は、少し真面目な顔になった。
「たぶん、主上が後ろ盾だから」
それが大きかった。
帝が明確に保護している。
しかも永寿内親王が正室。
つまり、四州近衛家へ敵対することは、帝の意向に逆らうことに近い。
『はるちゃん』は少し考え込み――
ぽつりと言った。
「父上、本当に色々考えておられるのですね』
「うん」
静かに私も頷く。
「たぶん、百年単位で考えてる」
主上は、もう“今”だけを見ていない。
皇家の形。宮家の形。血の循環。
そして国家そのもの。全部を次代へ繋ぐために動いている。
その時だった。
牛車の外から、海雲の声がした。
「千熊丸」
「ん?」
「少し良いか」
稀仁は御簾を上げる。
馬上の海雲が、静かな顔をしていた。
「……京はどうじゃった」
その問いに、私は少し考える。
「思ったより、疲れてた」
「帝がか」
「うん」
海雲は目を伏せる。
それは分かっていた。
だからこそ、阿波三好は、畿内へ深入りしなかった。
細川晴元や畿内三好を処断されても。
だがその後も泡に引き篭もり続けた。
京を武家で塗り潰せば、皇家が死ぬ。
それを、海雲も理解していた。
「……じゃが」
海雲は少し笑った。
「永寿様がおられるだけで、だいぶ空気が柔らかくなったのではないか?」
私は思わず苦笑する。
「まあ、アイスの話になったしね……」
海雲が吹き出した。
「本当にそんな話になったのか」
「なった」
「父上も兄上様も、とても気にしておられました!」
『はるちゃん』が元気に補足する。
海雲、完全に笑っていた。
「皇家、未来の制度論より冷菓子に食いついておる……」
「平和ってことだよ」
私がそう言うと海雲は一瞬、静かになった。
「……そうじゃな」
戦乱の世。
だからこそ甘味の話をして笑える時間は、確かに平和だった。
「よし様」
「ん?」
「阿波って、あとどれくらいですか?」
「まだまだ」
「遠い……」
「京から四国だからね」
「海を渡るのですよね?」
「うん」
すると、はるちゃんの目が、ぱっと輝いた。
「船!」
完全にテンションが上がった。
「乗ったことないの?」
「ありません!」
そりゃそうだ。
内裏育ちの皇女である。海そのものが珍しい。
「お魚見えますか?」
「見える」
「波って大きいですか?」
「日による」
「すごいです!」
きらきらしていた。
海雲が小さく笑う。
「永寿様、阿波へ着く頃には完全に阿波好きになっておられそうじゃの」
「はい!」
即答だった。
そして、少しだけ声を落として言う。
「……よし様の育った国、見てみたかったのです」
その言葉に私は少しだけ目を見開く。
『はるちゃん』は、照れたように笑った。
「きっと、大事な場所なのでしょう?」
私は静かに頷いた。
「うん」
阿波。
そこは、私が未来を変えようと決めた場所。
守りたかった場所。
そして今。
その場所へ、新しい家族を連れて帰る。




