『稀人』③
不思議な空気だった。
内裏の朝。
本来なら、厳粛で、静かで、誰もが言葉を慎む場。
なのに。
「……つまり、その頃には既に決まっておったのですか?」
『はるちゃん』が、じっと主上を見ている。
「何がです?」
「私と、よし様の婚姻です」
対面で主上が「あー……」という顔をした。一方、方仁親王は静かに視線を逸らしている。
逃げたなこの人。
「え、えっと……」
「八つの頃のよし様に、近衛稙家殿が勅使として阿波へ赴いたのでしょう?」
『はるちゃん』は平然としている。
「その折『帝が稀人を守るため、第一皇女の降嫁を考えている』という話が出ていたと」
主上が咳払いをされた。
「……永寿」
「はい、おもう様」
「少し加減せよ。稀仁が完全に固まっておる」
本当に固まってた。
だって当時の八歳の頃の記憶が、一気に蘇ってきたのだ。
◇◇◇
――阿波。
まだ“千熊丸”だった頃。
わずか八歳。
阿波三好領内も色々本格的に形を整え動き始めた頃だった。
その日、阿波へ『勅使』が来た。
左大臣『近衛稙家』。公家の頂点に立つ男。
当時の自分は、表向きはただの幼子を演じていたが、内心では完全に警戒していた。
なにせ相手は、戦国最大級の化け物公家だ。
『帝は、“稀人”を守るおつもりでおられる』
唐突にそう言われた瞬間。
背筋が凍った。
自分が未来人―― 『稀人』であることを、朝廷はある程度察している。
その事実を、初めて真正面から突きつけられたからだ。
しかも近衛稙家は、恐ろしいほど自然に言った。
『ゆくゆくは、第二皇女降嫁も考えられておる』
当時の自分は混乱した。
いや待ってほしい。自分、まだ八歳なんだけど。
何言ってんのこの人?
しかもさらに。
『伏見宮の姫君。三条、三条西の公女を側室に。あるいは他家の姫たちも… 縁を結ぶことになるやもしれぬ』
と言い出した。
その時の自分の感想。
―― 囲い込み方やばい。政治こわい。本当にそれだけだった。
あの感覚を思い出して、思わずブルッと身震いしてしまった。
「……思い出しました?」
そんな私を見て『はるちゃん』がくすっと笑う。
「……はい」
「私は後から聞かされました」
さらりと言う。ああ、確か彼女は門跡になるために幼い頃にすでに寺に入っていたのだった。それが『稀人』との婚姻のために得度の前に内裏に戻された。
「“未来を知る稀人を、皇家と結び、公家社会へ組み込む”と」
その『はるちゃん」の言葉に、主上が静かに言われた。
「守るには、外へ置いてはならぬからな」
「……」
「力ある者は、必ず狙われる」
その声音は穏やかだったが、中身は冷徹だった。
「武家に利用されれば、天下が壊れる。寺社に担がれても厄介。異端として恐れられれば、今度は命が危うい」
だから…
「皇家へ組み込む」
私は黙った。
それが、最も強力な保護になる。
戦国時代において、“帝の縁者”という立場は、政治的に極めて重い。
軽々しく手を出せなくなる。
方仁親王が静かに続けた。
「伏見宮の姫を候補に入れたのも同じ理由です」
「…… そうですか」
「伏見宮は、皇家の枝です」
皇家の血を引きながら、皇位継承から少し距離を置く親王宮家。
だからこそ
「そして、皇家と武家。その中間を繋ぐ役目を担いやすい」
方仁親王はそこで少し笑った。
「……」
いや待って。
つまり私、八歳の時点で、既に未来の婚姻網が組まれてたの?
蜘蛛の巣にかかってしまったような感覚。
怖。朝廷怖。内心恐れ慄いていると、主上がこちらを見て、妙に優しい顔をされた。
「案ずるな。無理に囲うつもりではなかった」
「……本当ですか?」
「半分くらいは」
半分は本音じゃないか。
いや、そもそも『勅命による婚姻』なのに拒めるはずもない。矛盾してる。
方仁親王が咳払いした。
「主上」
「冗談だ」
いや絶対半分本気だった。
ただ… その空気が、妙に温かかった。
利用するためだけではない。本気で、“守ろう”としていたのだと分かるから。
『はるちゃん』が、静かにこちらを見る。
「私は」
その声は柔らかかった。
「『御簾入り』の時に初めてよし様と会いました」
「……はい」
「でも、不思議と怖くはありませんでした」
にこりと笑う。
「もっと変な人を想像していましたので」
「どういう想像ですか」
「仙人みたいな」
「それ方仁親王じゃないですか?」
「稀仁」
方仁親王が真顔になった。
主上が耐えきれず吹き出された。『はるちゃん』まで笑い始める。
朝の内裏に、柔らかな笑い声が広がる。
その光景を見ながら、私はふと思った。
五百年後、令和の世でも、人々は“皇室とは何か”を悩み続ける。
男系。 女系。 宮家。 旧宮家。
正解なんて、簡単には出ない。
けれど…
目の前にいるこの人達は、ただ一つだけ、決して失わなかった。
――繋ごうとする意志。
それだけは、五百年経っても、確かに続いていたのだと。




