千熊丸の投じた一石
千熊丸の後見人として、阿波の内政を第一とするという方針を打ち出した海雲は、中央を目指す晴元少年から阿波細川嫡子の氏之少年へと主人替えを申し出た。
最初は難色を示したものの結局は細川家は三好家のこれまでの功績を鑑みてそれを許した。
ほとんどゴリ押しでそれをやり切ったのはすごい。おそらくこんな形でというのは前例ないんじゃないかな。
つまり細川のお家騒動には関わらず、阿波三好宗家は中央を目指さないと言い切ったようなものだ。
そして、本来なら一枚岩ではないはずの阿波三好一門全てが綻び一つも見せずにそれに従ったのだ。
それには阿波公方家も阿波細川家も、阿波の国人たちも一様に驚いたのだった。
さて、ここでちょっと『歴史』のお時間。いわゆる史実とされている大まかな流れを簡単に説明していくことにすると……
この物語の現時点は1522年生まれの長慶が数え三歳(満二歳)つまり1524年。彼は当時幼名である千熊丸と呼ばれている。
父親は三好海雲(元長)。
海雲というのは本来は史実ではもっと後になって(三十一歳頃)引責を取る形で出家したときに名乗った法名。
今回は一応千熊丸に家督を譲り出家して隠居後、幼い千熊丸の後見人になるという形になっている。この時点で海雲は二十三歳。
三好家と細川家の因縁は根深い…… あ、そのきっかけとなったのが簡単に言えば応仁の乱から始まる足利家のお家騒動と細川家のお家騒動だ。それに巻き込まれたのが細川氏に支えていた海雲(元長)の亡き祖父、長慶から見れば曽祖父である三好之長だ。結果的に政敵である細川高国の計略で処刑された。まあ、それの敵討もあって、父である海雲(元長)も細川晴元と一緒に政争の中に身を置いていた。
晴元少年が泣きつけば、一緒に中央へ、高国憎しで海雲(元長)も動くはずだったのだが、そこに千熊丸になった令和のおばちゃんが現れたことで、大きく流れを変えることになった。
殺し殺される負の連鎖はどこかで断ち切らなくては泥沼からは抜けられないのだ。
仇をとって一族が滅亡するのがいいのか、一族存続かどうかなんてわかりやすいことだ。
もちろん阿波に攻めてきたら、徹底的にやるみたいだけど。長慶おじさん曰く。




