讃岐の天領化20
――1534年、弥生上旬。
阿波国・徳島城。
春の陽気が少しずつ城下へ降り始めていた。
だが政所だけは違う。完全に戦場だった。
実は讃岐『天領化』と共に阿波での『統一規格化』も並行してこなしている状況だった。
つまり、殺人級に忙しいのだ。
もちろん自分たちが讃岐に行っているときは留守を守っている叔父、三好康長(のちの笑岩)が中心となって、引き継いでくれてはいるのだけれど。それでも忙しいのには違いない。
「殿(長慶)」
小一郎(篠原長房)が真顔で言う。
「終わりません」
「何が?」
「書類です」
机の上には書類の壁。
床にも書類。
棚にも書類の山。
私(長慶)は思わず叫んだ。
「増えてる!」
「増えます」
「昨日より増えてる!」
「増やしました」
「犯人お前か!!」
政所の若手たちが吹き出した。
しかし小一郎(篠原長房)は笑わない。
それが怖い。ものすごく怖い。
「殿(長慶)、讃岐を天領化するのですよね」
「うん」
「なら書類が必要です」
「うん、そうだね」
「山ほど」
「うん……」
ぐうの音も出ない。
少し離れた場所で海雲が笑っている。
「楽しそうだな」
「父上は他人事ですね」
「他人事だからな」
「酷い」
海雲は肩を揺らした。
だがその目は真剣だった。
芝生城以来、海雲はずっと千熊丸を見ていた。
この子が何をしようとしているのかを。
昔なら…
城を落とす。
人質を取る。
軍勢を置く。
それで支配だった。
だが千熊丸は違う。
城ではなく、帳面を置く。
兵ではなく、教師を置く。
監視ではなく、規格を置く。
海雲は思う。「面白い時代になる」と。
数日後、京へ向かう使者が出発する。
主上(後奈良帝)への正式上申。
使者の先頭には四州近衛家の家紋。
そして封箱には、厚い文書束。
小一郎(篠原長房)が確認する。
「天領化諮問状」
「あります」
「讃岐国勢調査書」
「あります」
「寺社一覧」
「あります」
「城郭一覧」
「あります」
「戸数調査計画」
「あります」
最後に、最も重要な文書。『讃岐国朝廷編入請願書』
小一郎(篠原長房)は静かに箱を閉じた。
これは、戦の報告ではない。国家計画書だった。
その日の夕刻。徳島城中庭。
千熊丸(長慶)世代の若者たちが集まっていた。
四郎(小笠原長政)。
彦太郎(森元村)。
牛技の太郎(新開元実)。
小太郎(大西頼武)。
昼間の太郎(佐々木高経)。
次郎(一宮成助)。
そして小一郎(篠原長房)。
皆、これから讃岐へ向かう。
四郎(小笠原長政)が口を開く。
「殿(長慶)」
「うん」
「本当に決まると思いますか」
何が? とは聞かない。
当然『天領化』のことだ。わかってる。
私(長慶)は少し考えた。
「半分かな」
皆が驚く。
「半分ですか」
「うん」
私(長慶)は頷く。
「決まるかどうかじゃない」
「理解するかどうかだから」
静かになる。
「領地返上なんて普通なら嫌だよ」
「官職もなくなる」
「今までの当たり前もなくなる」
「だから怖い」
誰も否定しない。
実際そうだからだ。
「でも」
私(長慶)は続ける。
「今のままじゃもっと困る」
全員が黙った。
阿波で見てきた。
港。道路。税。教育。全部。
今のままでは限界が来る。
その夜、天守。
徳島城下を一望しながら、私(長慶)が地図を見ていると、『はるちゃん』が来た。
「眠られないのですか」
「少し」
私(長慶)は讃岐を見る。
香川。香西。寒川。安富。十河。
それぞれが答えを出そうとしている。
『はるちゃん』が尋ねた。
「怖いですか?」
私(長慶)は少し笑った。
「うん」
正直に答える。
「失敗するかもしれない」
「誰もついてこないかもしれない」
「全部無駄になるかもしれない」
しばらく沈黙。
すると『はるちゃん』が静かに言った。
「それでもやるのですね」
私(長慶)は頷く。
「やらないと次の世代が困るから」
その言葉に、彼女は少しだけ微笑んだ。
数日後の徳島城下。
港が異様な熱気に包まれていた。
『四州近衛船団』
荷車。文書箱。測量道具。技術者。教師。医師。
そして、朝廷から到着した使節団。
公家。
記録官。
宣旨奉行。
彼らが錦の御旗の前へ整列する。
阿波国人たちが息を呑む。こんな光景、これまで見たことがない。
武士の行列ではない。朝廷の行列でもない。何か別のものだった。
海雲が隣へ来る。
「準備は良いか」
「はい」
私(長慶)は答える。
視線の先、風に揺れる錦の御旗。
その向こうに、讃岐がある。
今から行うのは、征伐ではない。
服属でもない。
降伏でもない。
選択だ。讃岐の諸家が、自らの意思で。
新しい秩序へ入るのか。あるいは、外に残るのか。
その答えを受け取りに行く。
私(長慶)は船へ乗り込む。
後ろには、未来の阿波を支える若者たち。
前には、未来の讃岐。
そして風を受けた錦の御旗が、春の瀬戸内の空に大きく翻った。
こうして弥生上旬、後に「第二次国分寺評議」と呼ばれることになる歴史的な会合へ向けて、『四州近衛』の船団は静かに讃岐へと出航したのであった。
――1534年、弥生上旬。
瀬戸内海。
春の海は穏やかだった。
だが船団に乗る者たちの心は穏やかではない。
先頭を進む船。
その中央には錦の御旗。風を受けるたびに翻っている。
その姿を見ながら、次郎(一宮成助)がぽつりと呟いた。
「未だに慣れませんね」
「何が?」
私(長慶)が聞く。
「御旗です」
次郎(一宮成助)は苦笑した。
「戦で見るものと思っておりました」
「私も」
彦太郎(森元村)が頷く。
「敵を討つ時のものかと」
私(長慶)は少し笑った。
「今回は逆だよ」
「逆?」
「戦をしないために持っていく」
皆が黙った。確かにそうだった。
今回は誰かを討つためではない。
誰かを屈服させるためでもない。
朝廷の名の下に、新しい秩序へ加わるかを問う。
ただそれだけ…けれど、だからこそ重い。
船団の中には朝廷から派遣された使節もいる。
年配の記録官が海を見ながら言った。
「近頃の若者は恐ろしい」
隣の公家が笑う。
「四州近衛殿(長慶)ですか」
「そうだ」
記録官は手元の文書を見る。
『讃岐国朝廷編入請願書』
『戸数調査計画』
『教育所設置計画』
『技術者派遣計画』
どれも異様だった。
普通、地方から朝廷へ来る願いは。
「官位をください」
「所領を認めてください」
そればかりだった。しかし今回は違う。
「国をこう作りたい」
そんな文書だった。
記録官は思わず笑う。
「まるで太政官の仕事ですな」
一方その頃、讃岐国分寺。
再び準備が始まっていた。
前回以上だった。なぜなら今回は、ただの評議ではない。
決断の場だからだ。
香川氏。香西氏。寒川氏。安富氏。十河氏。
その他の国人たち。
それぞれが家中評議を終えている。
弥生上旬、再び讃岐国分寺。
人が集まっている、前回以上に。
讃岐の国人。城主。寺社。庄屋。商人。
皆が知っている。
今日は違う、今日は決める日だ。
昼頃、遠くから法螺貝が聞こえる。
ざわめき。門番が走る。
「来た!」
全員が振り向く。
瀬戸内の道の先に、旗が見える。
一つ。二つ。三つ。
そして、錦の御旗。
春風の中で大きく翻る。
国分寺が静まり返る。
その後ろ、朝廷使節。四州近衛家と側近。阿波三好家と国人たち。
さらに五十を超える若き阿波の次世代たち、誰もが理解した。
前回とは違う。今日は説明ではない、確認の日。
そして、讃岐が、四国の未来を選ぶ日だった。
私(長慶)は国分寺の門を見上げ、ゆっくりと息を吐く。
「さて」
隣で小一郎(篠原長房)が帳面を開く。
海雲が腕を組む。
朝廷使節が席へ着く。全ての準備が整った。
そして国分寺の大鐘が鳴る。
ゴォォォォォン……
重い音が讃岐平野へ響き渡る。
第二次国分寺評議。その幕が、静かに上がった。




