讃岐の天領化13
翌朝。
まだ朝靄の残る讃岐国分寺の境内に、人が集まり始めていた。
昨日の評議に参加した国人たちとその嫡子たち。商人、庄屋。
さらに、私(長慶)に連れられてきた阿波の少年たちも。
総勢百名を超える。海雲はその人数を見て苦笑した。
「ため池を見に行くだけの人数ではないな」
「はい」
私(長慶)も否定できない。もはや小さな行列だった。
向かった先は、讃岐でも古くから使われている溜池だった。
後世に知られる満濃池ほどではない。
しかし、周辺の村々の命を支える重要な池である。
池の堤に立つと、讃岐の国人たちが説明を始めた。
「ここは三村で使っておる」
「雨が少ない年は揉める」
「上流の村が多く使えば下流が困る」
「毎年同じ話だ」
私(長慶)は黙って聞く。
そして、阿波の少年たち自身も聞いている。
書いている。質問している。昨日の評議よりも積極的だ。
「どうやって決めているのですか?」
彦太郎(森元村)が尋ねる。
「決まっておらん」
老人が苦笑する。
「その年ごとだ」
皆が顔を見合わせた。
それでは揉める。当然だった。
その時、海雲が声を上げた。
「おい」
阿波の少年たちが振り向く。
「今の話を聞いてどう思う」
突然の問いだった。
しかし、これは学問所でもある。
小一郎が(篠原長房)答える。
「規則が必要です」
「なぜだ」
「毎年話し合うと争いになります」
「そうだ」
海雲は頷く。
次に次郎(一宮成助)が答える。
「記録も必要です」
「なぜだ?」
「去年どうだったか分からなければ比べられません」
「その通りだ」
さらに小太郎(大西頼武)が提案する。
「池の修理も共同で行うべきです」
「なぜ」
「どこか一村だけでは維持できません」
海雲が満足そうに頷く。
「よく見ている」
讃岐の国人たちが少し驚いている。
阿波の少年たちの答えが想像以上に実務的だったからだ。
私(長慶)は池を見ながら言った。
「この池は誰のものですか」
皆が少し考える。
「村のものだ」
「いや三村のものだ」
「寺の寄進もある」
答えが割れる。その様子を見て私(長慶)は頷く。
「では、もし堤が切れたら」
皆が黙る。
「誰が直しますか」
さらに沈黙。それが問題だった。
利益は共有している、けれど責任は曖昧。だから揉める。
私(長慶)は少年たちを見る。
「これが天領化で最初に決めることです」
「責任ですか」
彦太郎(森元村)が尋ねる。
「そう」
「権利だけでは駄目だ」
「責任も決める」
国人たちも真剣に聞いている。
その時、昨日は厳しい顔をしていた老国人が口を開いた。
「四州様(長慶)」
「はい」
「昨日は分からなかった」
「はい」
「だが今日分かった」
周囲が静まる。
「おぬし」
老人は私(長慶)を不思議そうに見る。
「城の話をしておらんのだな」
「はい」
「池の話をしておる」
周囲から小さな笑いが起きる。
確かにそうだった。
戦国の武将なら、城。兵。軍勢。そういう話をする。
しかし、この少年(長慶)は違う。
池。橋。港。市。そんな話ばかりしている。
老人は続けた。
「最初は変な若造だと思った」
「はい」
「今も少し思っておる」
皆が笑う。私(長慶)も笑った。
「ですが」
老人は池を見る。
「この池の話を聞いてくれた者は初めてだ」
静かになる。その言葉は重かった。
池は国を支える。けれど、普通は…
都も。守護も。大名も。普段はそんなところ行かないし、見ない。
だから今、池の堤に立って話を聞いていること自体が珍しいのだ。
その時だった。
私(長慶)は池の形を見ながら、あることに気付いた。
未来の知識、前世の記憶、それらが結び付く。
そして思わず呟いた。
「なるほど」
「?」
私(長慶)の呟きに海雲が振り返る。
「父上」
「何だ」
「まず讃岐でやるべきことが見えました」
海雲が笑う。
「もう見つけたのか」
「はい」
「城ではありません」
「知っておる」
「軍でもありません」
「それも知っておる」
「では何だ」
私(長慶)は池を指差した。
朝日を受けて輝く水面。その向こうに広がる田畑。
「水です」
私(長慶)のその言葉に海雲は静かに頷いた。
そして周囲の国人たちも同じように池を見つめていた。
讃岐を変える最初の鍵、どうやら水にあるらしいと皆が薄々気付き始めていたのである。
私(長慶)の「水」という言葉に、その場にいた者たちの視線が一斉に池へ向かった。
風が吹く。水面が揺れる。ただの池だ。
けれど、讃岐の人間にとっては違う。命そのものだった。
海雲は腕を組む。
「続けろ」
私(長慶)は頷き、そして地面に木の枝で簡単な図を書き始めた。
「まず確認します」
私(長慶)は周囲を見る。
「讃岐は水が足りない」
何人も頷く。
「そう思っていますよね」
「その通りだ」
老国人が答える。
私(長慶)は首を横に振った。
「違います」
一瞬だけ空気が止まった。
「何?」
「足りないのではありません。足りていない場所があるだけです」
その言葉に皆が顔を見合わせる。
私(長慶)は地図を広げる。
「雨は降る。池もある。川もある。けれど…」
指を動かす。
「繋がっていない」
沈黙。
それはこの時代の人間には新鮮な発想だった。
池は池。川は川。村は村。そう考える。
けれど、私(長慶)は違った。どうしてって? 未来では、全体を見る。いわゆる、全体図が見れないと話にならないことが多いからだ。
最初に理解したのは小一郎(篠原長房)だった。
「なるほど」
「何が分かった」
海雲が聞く。
「池単体ではなく」
小一郎は地図を見る。
「池と池を考えるのですね」
「正解」
うんうんと私(長慶)は頷いた。
「豊作の年には水が余る池がある。けれど、旱魃の年には水が足りない池がある、ならどうすればいい?」
小一郎の目が輝く。
「繋げばいい」
私(長慶)は笑った。
「そう」
海雲も思わず吹き出した。
「簡単に言うな」
『令和のおばちゃん』、未来人から見れば当然だった。
水路、用水、分配、記録。全ては仕組みで解決できる。
そこで私(長慶)は後ろを振り返る。
「呼んでください」
測量班が前に出る。昨日まで黙っていた男たちだ。
しかし、彼らこそ今日の主役だった。
「この池の高さは」
測量師が口々に答える。
「こちらが高い」
「向こうが低い」
「どれくらいだ」
「人の背丈三人分ほど」
讃岐の国人たちが驚く。彼ら自身、そんなことを測ったことがないからだ。
「それなら」
私(長慶)は言った。
「流せます」
さらにざわつく。測量師も頷いた。
「可能です。ただし工事が必要です」
そこへ大工が加わる。
「人手も必要です」
鍛冶も加わる。
「道具も必要です」
まるで授業だった。そして、讃岐の国人たちは初めて見る。
武家の会議に職人が参加している光景を。
海雲は黙ってそれを見ていた。そして控えていた側近の篠原長政へ言う。
「見ろ」
「はい」
「これが千熊丸のやり方だ」
篠原長政も頷く。
普通なら国人会議には武士だけだ。
だが今は違う。問題を解決する者がそこにいる。
だから話が進む。未来では当たり前。だが戦国では革新的だった。
老国人が突然笑った。それこそ豪快に。
「はっはっは!」
皆が驚く。
「何がおかしい」
海雲が聞く。老人は涙を拭きながら答えた。
「いやな」
「はい」
「昨日から考えておった」
老人は長慶を見る。
「何を奪われるのかと」
静かになる。
確かに、多くの者がそう思っていた。
土地か。権利か。城か。
「だが違うな」
老人は池を見る。
「おぬし」
「はい」
「増やす話しかしておらん」
場が静まり返る。海雲が小さく笑った。
その通りだった。
四州様と呼ばれる阿波の少年(長慶)は、田を増やす。水を増やす。商いを増やす。人を増やす。讃岐に来てからそういう話ばかりしている。
老人は頷く。
「まだ賛成はせん」
「はい」
「だが面白い」
その言葉に、周囲の国人たちも頷いた。
完全な賛同ではない。
しかし、敵意は確実に薄れている。
国分寺へ戻った夜、阿波の少年たちは疲れ果てていたけれど、誰もが興奮が冷めずにいた。
「池だけで一日終わったぞ」
「城を一つも見ていない」
「殿らしいな」
笑いが起きる。
一方、私(長慶)は海雲とともに縁側に座っていた。
夜風が心地良い。
しばらくの沈黙。やがて海雲が口を開く。
「千熊丸」
「はい」
「今日、お前は何を見つけた」
私(長慶)は少し考え、そして答える。
「ため池ではありません」
「ほう」
「評議の場でもありません」
「なら何だ」
私(長慶)は讃岐の闇を見つめた。
そこには無数の村があり、人々が暮らしている。
「協力できる余地です」
海雲は静かに笑った。
それこそが、戦国の人間が最も見落としているものだった。
争う理由はいくらでもある。しかし協力することで得られる利益は、まだ誰も本当には計算したことがない。
そして私(長慶)は確信していた。
讃岐の『天領化』は、城からではなく、水から始まると。
それが後に、四国全土を変える最初の事業になることを、まだ誰も知らなかった。




