千熊丸、『三好学校』を作る!
細川高国も、一時は近江へ逃れた足利義晴も、『阿波三好』の不可思議な動きに不信を抱きつつも、静観を決めたようだった。つまり、『阿波三好』へは不問にするということだ。
何に対してかって? 今回はどちらにも加勢しなかった。ということに対してだ。
『晴元』側の要請を固辞したってことで、高国側からも要請が来たんだけど、両方固辞。
え? 五歳の子供に何させるっていうんだ? 無理無理。
そんな子供まで駆り出さなきゃいけない?
え? 後見人の父上は名目上療養中だし……阿波に攻め込まれないように防衛に徹します。という旨を書いてもらって(代筆)、署名は自分でした。
晴元少年も担がれたようなものだよね。享年十六歳。この時の足利義維にしても二十歳前後。権力者の子供に生まれたが故の不幸ともいえなくもない。
一応、この後、義維公は義冬と名を改め、阿波公方(平島公方)と言われるようになる。細川氏之公も、そのまま助命される。
この二人の助命を願ったのが、三好海雲と千熊丸だった。ちゃんと今後このようなことを起こさないように責任をもって監視するので、許してください。みたいなことを書いて、幕府と朝廷にめちゃ献金した。
この後、阿波三好の名前はしばらく歴史の中から、あまり名前を見せないことになる。何故って? 内政というか、領地の様々な産業化でめちゃめちゃ忙しくて、外の事まで構ってられなかったからだ。
そうそう、『三好家法』というものが正式にできたのは、千熊丸が十歳(1530年)の時だ。
いろんな知恵者と呼ばれる人達の意見も取り入れた。令和の民法にも繋がってるんだろうなっていう意見も聞いた。それらをシンプルに、武士だけじゃなく、領民にも遵守してほしいというところにまで落とし込むことにした。
この時代は、公家を除けば、ほとんどが武士か農民だ。けれど、それを領民とした。何故なら、固定ではないけれど、農民も商人も職人もいるのだ。国(領地)を豊かにするという点では、全てが重要なのだから。
人材を育てて、人財にする。
『寺子屋』を初等教育なら、『三好学校』を中等教育として作ることにした。
才覚のあるものをどんどん拾い上げていく。
そういった令和では当たり前の『義務教育』を、『家法』にも盛り込んだ。『三好家法』は『バリスタ派閥』にも適用される。
導入が『読み書き』『算術』から始まって、『技能』『家庭』『農業』『道徳』『体育(戦術)』。
とはいえ、簡単なものだ。基礎的なもののレベルを一定以上に上げることを目的とした。
文字も、この当時って確立されていなかったのには驚いた。
私(令)的には平安時代にひらがなやカタカナができたって思っていたんだけど、てんでばらばらだった(驚)。なので、令和でお馴染みの『五十音表』を作り、漢字もある程度、令和の漢字(常用漢字)で統一した。そう、教材作りも大変だった。
父の海雲もだけど、傅役だった篠原長政が大いに活躍してくれた(主に清書)。
『道徳』といっても、『家法』をわかりやすく領民に根付かせるのが目的だ。
『技能』にしても、『土木関連』から『家具職』『鍛冶職』『陶器職』『紙職』等々。
『家庭』は『料理』に関すること、『解体』も含める。『畜産物の飼育』や『裁縫』『藍染め』など。
『体育』は基礎体力の向上。体術や剣術、槍術。弓術。
『農業』は、様々な方法で効率的に『生産力』を底上げするための知識の共有だ。
どの分野も、領地内の産業としての活性化を目的として、製品の質の向上を図り、四国、関西、中国、九州と販路を拡大するためのものだ。阿波ブランドを確立させるということだ。
それらが、ほとんど同時に進行していく。めちゃめちゃ忙しいのだ。自分の周りの大人たちが。どれもが領地改革になり、富を生み出すのがわかっているから。その大きな流れに乗っかろうと必死だ。




