『はるちゃん』の『お国入り』①
第五章開始!舞台は阿波へ
――1533年、十一月末。
冬の潮風は冷たかった。だが海は穏やかで、淡路を経た船団は、ゆっくりと阿波の海へ入っていく。
船縁へ立つ『はるちゃん』――永寿内親王は、白い息を吐きながら、目を見開いていた。
「…… 海、広いです」
素直な声だった。
京で育った皇女である。
海そのものが、まだ“物語の向こう側”に近い。
まして大船団など初めてだ。
周囲には、四州近衛家旗。と阿波三好の三階菱旗。
そして、朝廷より下された錦旗。
護衛の船だけではない。
荷船。
塩船。
材木船。
商船。
阿波水軍の小早。
海そのものが動いているようだった。
私(長慶)は甲板で潮風を受けながら言う。
「これ全部、“道”だからね」
「海が……道?」
不思議そうにこちらを見る『はるちゃん』。
「うん。陸の街道より、一度に大量に運べる」
「だから船を大事にしてるんですね」
「そういうこと」
海雲――三好元長が笑う。
「永寿様、阿波では“海を見る目”が変わりますぞ」
「変わる?」
「海は端ではない。“真ん中”です」
その言葉に、『はるちゃん』は静かに海を見つめた。
やがて…
「――見えました!」
前方の船頭が声を上げる。
阿波。撫養。
冬空の下、海沿いに広がる港町から、白い煙が立ち上っていた。
息を呑む『はるちゃん』。
「……大きい」
思わず零れた声。
港には、既に無数の船が並んでいた。
漁船。
商船。
荷船。
瀬戸内を行き交う船団。
そして岸壁には、人、人、人。
旗が翻る。
三好家旗。
四州近衛旗。
そして、祝いの幟。
歓声が、潮風に乗って届き始めた。
「若君様だ!」
「永寿様ー!」
「万歳!」「帝の姫様だ!」
その声に『はるちゃん』がびくっと肩を揺らす。
「わ、私にですか!?」
「うん」
「こ、こんなに……?」
無理もない。
京の公家社会と違う。
阿波の歓声は、もっと直接的だった。
海雲が静かに言う。
「皆、“生き残れた”のです」
その一言に、『はるちゃん』は目を瞬かせる。
「え……?」
海雲は港を見た。
「昔の阿波は、もっと荒れておりました」
「……」
「戦。海賊。重い関銭。飢え」
「……はい」
「じゃが千熊丸は、港を整え、道を繋ぎ、関を減らした」
潮風が吹く。
「すると、人が戻ってきたのです」
港にいた子供たちが、船へ向かって手を振っている。
女たちが笑っている。
商人たちが忙しく走っている。
船乗りたちが怒鳴り合っている。
生きている港だった。
『はるちゃん』は、小さく呟く。
「……人がいっぱい」
その声は、少し驚いていた。
京の都は確かに大きい。
だが、どこか静かだ。
積み重なった千年の重みがある。
しかし阿波は違う。
若い。
騒がしい。
未完成。
だからこそ、前へ伸びる熱がある。
船が着く。どっと歓声が上がった。
「若君様ー!!」
「四州近衛様!!」
「永寿様、ようこそ阿波へ!」
出迎えるのは武士たちだけではない。
漁師。
商人。
寺僧。
子供。
百姓。
皆がいる。
『はるちゃん』は、完全に圧倒されていた。
「……すごい」
私(長慶)が苦笑する。
「ちょっと集まり過ぎだよね」
「“ちょっと”ではありません……!」
そこへ、撫養の国人衆が進み出る。
「殿(長慶)!」
深く頭を下げる。
「港、予定より早く整いました」
「お疲れ様」
「橋も完成しております!」
「ありがと」
そのやり取りを見て、『はるちゃん』が不思議そうに言った。
「……皆、よし様を怖がってませんね」
「え?」
「もっとこう…… 平伏して震える感じかと」
思わず吹き出した。
「私(長慶)は暴君か何かってこと?」
「違うのですか?」
「違うよ!」
二人のやりとりに周囲の国人衆まで笑いを堪えている。
海雲も肩を揺らした。
「永寿様、千熊丸は妙なところで領民へ甘いのです」
「父上、妙って何ですか?」
だが実際、阿波の空気は独特だった。
武士だけの国ではない。商人だけでもない。寺だけでもない。
全部を巻き込んで“動いている”。
その感覚を『はるちゃん』は既に感じ始めていた。
そして数日後、一行は吉野川沿いを進み徳島城下へ入る。
冬空の下、整えられた街路、拡張される堀。
新しい橋。整然と並ぶ倉。行き交う荷車。湊へ向かう人の流れ。
『はるちゃん』は、馬車の御簾を上げたまま、ずっと外を見ていた。
「……京と、全然違います」
ぽつりと言う。
「うん」
「新しい、です」
その言葉が、一番近かった。
京は完成された都。 だが阿波は、“これから作られる都”だった。
徳島城もまた、そうだった。
古い山城ではない。
平地と水運を意識した城。
堀。
船着き。
倉庫群。
城下との接続。
『はるちゃん』は城を見上げ、しばらく黙っていた。
「……お城、なのに」
「うん?」
「“人が入るため”に作られてる感じがします」
私(長慶)は少し驚いた。本当によく見ている。
彼女の指摘の通り、普通の戦国の城は“拒む場所”だ。守るための場所であり閉じるための場所。
だが徳島城は違う。
人も。物も。船も。流れ込むように出来ている。
静かに『はるちゃん』は続けた。
「京のお公家様のお屋敷とも違います」
「うん」
「怖いお城じゃなくて……」
少し考え、
「“生きる場所”みたいです」
私(長慶)は、思わず笑ってしまった。
「はるちゃん、時々すごいこと言うよね」
「え?」
「いや、本当に」
海雲も静かに頷いていた。
「永寿様は、よう見ておられる」
その時だった。
城下の子供たちが、一斉に駆け寄ってくる。
「殿様ー!!」
「おかえりなさい!!」
「姫様きれー!!」
「わあ、本当に帝の姫様だ!」
侍たちが慌てる。
「こら下がれ!」
「危ない!」
だが『はるちゃん』は、驚いた後――。
ふわりと笑って、手を振った。
一瞬、静まる。
次の瞬間、歓声が爆発した。
「姫様ー!!」
「手振ってくれた!!」
「すげぇ!!」
その熱気に、『はるちゃん』自身がびっくりしている。
「よ、よし様……」
「うん?」
「阿波の方々、近いです……!」
「慣れて」
「無茶です!」
私(長慶)は声を上げて笑った。
けれど、冬の阿波の空の下。
人々の笑顔に囲まれながら立つ『はるちゃん』は、もう“京から来た客人”には見えなかった。
後に“四州の母”と呼ばれることになる少女は、この日初めて、海と人の熱で動く、新しい国へ足を踏み入れたのである。




