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大阪を歩く犬4  作者: ぽちでわん
21/43

熊野街道を樽井から

ずいぶん暑くなってきた4月の下旬、熊野街道の続きを歩きに行くことにした。

天気予報では「季節はずれの暑さも終わり、曇り空の一日でしょう」。うそだった。一日中日が照りつけ、暑い暑い一日だった。

熊野街道はJR和泉砂川駅(阪和線)近く、信達牧野あたりまでを歩いていた。続きはJR和泉砂川駅からでもよかったけれど、前回行けなかった茅渟神社が気になっていたから、南海本線樽井駅からスタートして、南に茅渟神社経由で信達牧野に向かうことにした。

そこからは熊野街道をJR阪和線の和泉鳥取駅付近まで歩き、和泉鳥取駅あたりからは北上して、これも気になっている波太神社経由で南海本線の鳥取ノ荘駅から帰る予定。

茅渟ちぬとか鳥取とか、気になっていた。あと「信太」「伯太」「穴太」「波太」なんかの「太」シリーズも。

南海本線は岸和田駅から各停に乗り換えた。蛸地蔵、貝塚、二色浜、鶴原、井原里、泉佐野と止まり、ここからは初めて見る駅だった。羽倉崎、吉見ノ里、岡田浦、そして樽井に到着。

この頃、気がついたのだけれど、南海電車って向かいに座った乗客がなんだか近い。なんでも南海電車はレール幅が少し狭くて、その分、電車の幅も狭いらしい。

明治時代、南海電車がいちはやく電車を作ったそうだ。その後で国鉄やほかの私鉄もこぞって鉄道を敷いて、これからの輸送人数などを考えて、車幅を広く、レール幅も広くとったんだって。それで、さきがけた南海の鉄道は他に比べて幅狭で、向かいに座る乗客が近い。


樽井駅(泉南市)の海側には、古そうなレンガの建物がいっぱいあって、古い時代からの工場のようだった。「東洋クロス」だって。ここが本店(本社は大阪市)らしかった。そしてその向こうには「サザンビーチ」。

せっかくここまで来たけれど、先を急ぐことにして、海とは反対に進むと、樽井駅前交差点だった。駅前交差点はよくあるけれど、たいていは広い。ここは普通サイズの交差点で、のどかな田舎町の感じがしていた。車の通りもあまりなくて、そんなサイズで十分だった。

こいのぼりが縦にでなく、横にずらりと並んでいるのが見えた。

茅渟神社はこの交差点からまっすぐ南に伸びる府道255号樽井停車場樽井線の若干右(西)寄りにあるらしい。幹線道路っぽい255線を歩くより、古くからある道を歩くほうが面白そうだし、駅前交差点をまずは右折していった。少し西寄りから行ってみようと思って。

半透明の紫のゴミ袋が固まって置かれていた。自治体によっては、ゴミは有料の指定のゴミ袋に入れて出す方式なんだって。ここはその方式で、指定のゴミ袋が紫色であるらしかった。

最初にゴミ袋を見た角に、南に向かう細い道があった。カーブした上り道になっていて面白そうだったから、ここから行ってみることにした。

なんだか変な匂いがするなと見回すと、車が止まっていて、そこからなが~いホースを抱えた人が小走りでやってくるところだった。

バキュームカー出動中だな。まだ水洗にしていないおうちがあって、道は狭く、車は入れないところが多いから、こんなに長いホースが使われているのだろうな。散歩していて、バキュームカーのことも知った。

ホースはどんどん伸びていって、どこまで長くなるか見とどけたい気もしたけれど、先を急ぐことにした。

そこは、なかなかに古い集落だった。壊れかけの土壁なんて、ふつうだ。最初に古い土塀を見つけたときには、目を見張っていたものだった。けれど、そんなところに生きている日本の人が今もそんなに少数ではなくいるってことが分かってきた。

大阪市に暮らしている犬には、想像しがたいことだった。大阪では古い家もあるけど、それをとりまくのはビルの群れだ。けれどここではとりまくのは山々で、平成(まだ平成だった)のぴかぴかした建造物の方が嘘みたいに思えた。

上りの細い道をどんどん上がっていくと、右手に茅渟神社が現れた。ちょうど神社の裏手に通じる道を上がってきたみたい。神社は案外新しくて、平安時代の創建だって。境内では犬が飼われていた。

祀られているのは八王子。庶民が祀ったのが始まりだそうだ。その後、秀吉の根来攻めで焼け、安土桃山時代に再建されたのだって。

八王子って、ときどき「八王子神社」があったから、なんのことだろう?と思っていた。ここに説明書きがあって、アマテラスの八人の子どもたちのことらしかった。

五男三女で、五男はアメノオシホミミ(ニニギの父)、アメノホヒ(出雲のノギ大神。野見宿禰や菅原道真の祖)、アマツヒコネ(近江の神)、イツクヒコネ(近江の神?)、クマノクスビ(出雲のクマノ大神)。三女は宗像三女神で、タギリヒメ、タギツヒメ、イチキシマヒメだって。

3人の女神たちは海上を司る神でもあるらしい。そしてタギリヒメはアジスキタカヒコネやシタテルヒメのおかあさんだそうだ。オオクニヌシとの間に二人をもうけた。

市杵島神社も合祀されていた。宗像三女神の一人、イチキシマヒメが祀られているそうだ。

市杵島いちきしま(嶋)姫はニニギを養育した人で、子育ての神様でもあるんだって。厳島神社に祀られるのもこの人だと言われているらしい。

弁天さん(弁財天)に祀られるのも多くはこの人で、それは、寺と神社は区別して、神社では日本古来の神様を祀りなさいと明治時代に決められた時、弁財天(仏教由来)じゃあNGなので、代わりに似たような(?)イチキシマヒメを祀るようになったからなのだって。


茅渟神社の拝殿の向こうには、道祖神さいのかみも祀られていた。どこかに祀られていたのを、ここに移したのかな。塞ノ神さいのかみはお地蔵さん(仏)の神バージョンかな。集落の入り口とか、道の分岐点とかに祀られる、多くは石。

境内の説明に、樽井についても書かれていた。樽井台地は「馬場の長山」の続きの台地であり、海辺にあって、西には男里川が流れている。台地の水は「山の井水門」に流れ、そこは神武東征のとき、神武の兄、五瀬いつせ命がナガスネヒコとの戦いで傷を負い、船をとどめたとされるところ。命の血で海が染まったことから血沼ちぬの海と呼ばれるようになったのだとか。

神武天皇は大和入りするために瀬戸内海をやって来ると、まずは白肩津に上陸。ナガスネヒコに阻まれ、兄は深い傷を負い、草香津(盾津)に退却した。そして西からじゃなく、南から大和に入ることにした。けれど兄は、樽井あたりで血を流しながら亡くなった・・・のね。


茅渟神社を反対方向から出ると、大きな旧家が連なっていた。

ノコギリ屋根の建物などもあって、そこに最近建ったらしい新興住宅も混じってきていた。このあたり一帯の旧家には「○野」さんの名が多いように思った。

樽井南交差点に出て、ここを南に、高校のグラウンドが見える方向に進んでいった。尾根道だったんじゃないかと思われる高い位置に道が続いていた。樽井台地かな。右手に大きな墓地が現れた。見晴らしのいい墓地なのがみてとれた。

右手に池が現れて、樽井東交差点があった。左手に小さな神社が現れて、岡前神社だった。

それから国道26号線と砂川変電所前交差点で交差した。

左手にはゲートの跡みたいな建造物があって、右にはトンネルが見えた。第二阪和国道になっているみたい。このあたりは樽井駅前よりも、ずっと都会の感じだった。車通りも人通りもここのほうが多いし、道も断然広い。ただボーリング場や焼肉店などがつぶれていた。泉南サティもかつてはあったようで、もう少し行くと「この道からサティに行くことお断り」みたいなことがまだ書かれていた。

砂川変電所前交差点のあたりが一番の高台だった。交差点を過ぎ、そのまま南に進むと、大鳥居交差点。

大鳥居なんて見当たらなかったけれど、撤去されたのかな? どこの神社の鳥居かな?と思ったら、ここには金熊寺近くにある信達神社の大鳥居があったそうだ。今では少しJR側に移動したらしい。


ここが熊野街道(紀州街道でもある)で、ここから右折して先に進みたいところだったけれど、前回熊野街道を歩いたのは信達牧野交差点までだった。もう少しだけ引き返したところ。

真面目に信達牧野交差点から始めようと左折した。そうすると往生院があって、中には鳥居のある神社も見えていた。日が照ってきて暑いし、先を急ぎたくて中には入って行かなかったのだけれど。

ここが、後で知ったことには道昭が創建したお寺だった。道昭は出自は船氏(渡来人オウシンニの子孫)。遣唐使として唐に渡り、三蔵法師にも師事した人。公共事業を行って、弟子だった行基に多大な影響を与えたと思われる人。日本で最初に火葬されたとも言われる人。

ここは呼唹おの郷だったところで、古くからの朝廷の直轄地だったそうだ。

船氏は船舶、海運、土木工事の担当部族だったと説明されていた。道昭は天武天皇の勅令で、往生院を建立したのだって。

泉南くんだりに?と驚いたけれど、海会寺跡もあったし、南海道の要所だったのだろうな。


信達牧野交差点から大鳥居交差点まで戻ると、右手に地蔵があって、その上に上っていけるみたいだった。

上ってみると、池だった。けれど柵と、さらに有刺鉄線で囲われていて、風光明媚とは言い難かった。人通りの多いあたりだから、自由に行き来できるようにしているとゴミですごいことになるとかかな。

「5キロで山中」だって。山中渓のある山中のことみたい。

続きを行くと、田舎ではありつつも街道沿いだった感のある上りの道で、ノコギリ屋根の建物や、「製綿所」と書かれた布団屋さんなんかがあった。

緑の一里塚が現れて、熊野街道の看板があった。「伝・信達一之瀬王子跡」と書かれた一角があって、馬頭観音などがいた。

馬頭観音って、顔が馬の観音様かしらと思って見たら、普通のお地蔵さんだった。

なんでも観音様は世を救うため、様々に姿を変えて現れるのだって。「六道の辻」って散歩していて、たまに出会うけれど、餓鬼道、地獄道、畜生道、人道、修羅道、天道の6つの道の辻だとされているらしい。それぞれの道にはそれぞれに姿を変えた観音さまがいて、畜生道にいるのが馬頭観音なのだって。


ここから道は下りになった。

そして左手に向かう道には「林昌寺」への古い道標があって、ハイキング姿の人が、そちらに向かっていた。かなり気になったけれど、なにせ暑くて、山登りすることになるのかもしれないし、と思ってスルー。

その後も林昌寺への道標があったけれど、ここが熊野街道からは一番最寄りの場所だったみたい。あとほんの3、400mで林昌寺だったようで、鐘の音が何度も聞こえてきていた。林昌寺はツツジで有名で、その名も躑躅山林昌寺というらしい。この先々で「林昌寺のツツジ」のポスターが貼られていて、その写真を見ると、行かなかったことを後悔するくらいだった。こんなぴったりのシーズンに通りかかったというのになあ。

愛宕山なる小さな山のあたりにあり、銅鐸も見つかったところだそうだ。

前方後円墳は古墳時代のもので、仏教が広がって全くはやらなくなったけれど、同じように銅鐸は弥生時代のもので、前方後円墳が広がって全くはやらなくなったもの。それどころか各地で、同じような時期に、故意に埋めてしまったと思われるそうだ。中には故意に壊した上で埋められているものもあるらしい。

林昌寺で見つかった銅鐸は、当時の大きな集落跡の男里遺跡や、その後の高地性集落「ナメンジョ遺跡」に関係しているんじゃないかと思われるそうだ。

南海道の要所だっただけかと思いきや、ここも古くからの土地柄だったんだなあ。

林昌寺は「お大師さん」とも言い、樽井駅あたりからは大師道で行けるらしい。

このあたりには他にも街道がいっぱいあるみたいだから、そのうちまた行くこともあるかな。熊野街道(ここらでは紀州街道、信達街道でもある)の他、浜街道(孝子道)、根来街道、信長街道なども通っているのだって。


竹林の峠だったのじゃないかなと思われる岡中交差点を過ぎると道光寺池があって、池には橋がかかっていた。橋は渡らずに、左折して、すぐのJR阪和線の高架下へ進んでいった。

熊野街道の道標があって、「岡中の大楠 500m」とあった。そして「林昌寺 600m」だって。

JRの高架下に向かう道は、すごく田舎の感じだった。この先は辺鄙な、物寂しいくらいのところじゃないかと予想しつつ、高架の下を進んでいった。

高架トンネルの左手には水路のための古そうなトンネルもあって、それが素敵だった。今では人んちの敷地になっているようだったけれど、かつては川で子供が遊び、上を電車が通っていく、そんなノスタルジックな光景があったのじゃないかな。

そして高架を過ぎてみれば、そこにはまた集落があり、家がいっぱい建っていた。

左手に緑が見えていて、「岡中の大楠」ってやつかな?と行ってみた。

大きな楠もけっこう見てきたけれど、これも寄り道して見る価値のある大きさだった。横に大きく手を広げ、道の向こうまで枝が伸びていた。木陰でいったい何人が涼めることだろう。ただ、大きすぎてか、枝があまり密じゃないので、影になっていない部分もいっぱいあった。それくらいに大きかった。

ここには「高城の宮」と呼ばれた神社があったのだって。中世には寺社もあったらしい。

今は岡中鎮守社があった。横には倒れた墓がいっぱいの空き地のようなところもあった。ここを大師道が通っていて、ここからも林昌寺は近いようだった。

元の道に戻り、続きを歩いて行った。すごい古さの廃屋などもいっぱいあった。地元ではそんな建物にはよく「電話融資 マルフク」なんて書かれた大きなシールが貼られている。ここでは「野中信用」のシールだった。


金熊寺川を渡り、車道(府道63号泉佐野岩出線)を越えた。

また上り道で、田んぼと山に囲まれていた。すっかり田舎の様相だけれど、家も結構建っていた。

「片木反毛」の貸物件があって、これが地元では絶対見ないサイズの物件で、笑えた。名前からして繊維から始めて、大きくなって不動産も手がけるようになった会社なのかな。

峠の部分に鬼木池(通行NG)、オレンジコープなるお店があり、それからまた道は下っていった。

糸紡ぎの工場があった。街道よりずいぶん下の方にあって、窓が開いていたので、中の様子が見られた。

このあたりから阪南市。そんな市があることも知らずに今まで暮らしていたなあ。案外面白かった泉南市。阪南市はどうかな?と思いつつ南下。


また左手に池が現れた。このあたりでは池はいつも高台にある。

ここものぼって行ってみると、赤い鯉がいっぱいいた。だれかが放したとかかな?

左手は新興住宅地で、坂になったところに新しい家がいっぱい建っていた。地名は自然田じねんだだった。かつてはただの田舎くさい地名だったのが、今は格が上がって、おしゃれな地名になってきているとかじゃあないかな。この近くで見た分譲の広告には敷地面積45~111坪と書かれてあった。

道なりに道を下っていくと、右手に鳥居があって、その向こうはJR和泉鳥取駅だった。鳥居は波太神社のもので、このあたりには長岡王子があったらしかった。

そばを山中川が流れ、本当にのどかな田舎の様相なのだけれど、そこに現代的な駅舎があって、かなり浮いていた。最近出来た感じのきれいな駅だったけれど、昭和38年開設だって。もっと風景に溶け込んでいただろう以前の姿を見てみたかったな。


熊野街道はこのまま道なりに進んでいくみたい。

けれどここまでとして、ここからは波太神社を目指した。駅を通り過ぎて、北へと向かった。

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