御野とツヌコリ
山本高校前交差点を右折すると、目の前に神社が見えていた。ここが御野縣主神社だった。
参道はぐるっと回った東側にあるようだったけれど、西側の狭い出入り口からすべりこんだ。
なんだか素敵な神社だった。池があり、丘になった部分があり、野趣あふれる感じ。そうしたらここが玉串川の東の堤の跡であるらしかった。
頭上でいろんな鳴き声がして、ウググググとうがいしているみたいに聞こえる声が際立っていた。なんだかジャングルのようなにぎやかさだった。見ると、数羽のシラサギらしかった。シラサギって、こんなに騒がしい鳥だったんだな。
大和川が付け替えられるまでは、支流の玉串川も今よりずっとワイルドで、川幅もあったのだろうな、とは思ったのだけれど、想像以上で、川幅が200mもあったらしい。
古代、このあたりは三野郷だったところ。
ミノさんって豪族の本拠地だったそうだ。その勢力地は渋川郡、若江郡、河内郡、高安郡。ミノ県主ともいい、前に暗越奈良街道歩きで行った花園ラグビー場の北の英田って地名も、この県からきていると思われるということだった。
相当広い範囲を支配していたんだな。橘島から草香江の南あたりまでかな?
深野池や新開池のあったところは、かつては河内湾だったところ。生駒山地まで続く湾に上町台地が半島になってつきだしていた感じ。大阪平野は、ほぼみんな海だった。
けれど上町台地に塞がれて、だんだんと川を流れる土砂が湾にたまっていき、そのうち河内湾は河内湖になった。古墳時代には河内湖は土砂がたまって埋め立てられ、小さくなって草香江と呼ばれていた。それから更に土砂がたまって、深野池と新開池になった。
大和川が高井田を過ぎて石川と合流して北上して行くあたりから新開池まで、かつて草香江だったあたりがミノさんの勢力地だった感じかな?
以前、石川が大和川に合流する西のあたりにある志貴縣主神社に行ったことがある。日本が律令制(中国の真似)を採用し、国や郡を定める前には、県(縣とも表記)が定められていたそうだ。
成立したのは古墳時代と思われ、その主が県主。大王(天皇)に直属する人たちだったと思われ、県主神社は県主の祖神を祀った神社で、各地に点在するみたい。
志貴縣主神社がシキ県主の祖を祀っていたように、御野縣主神社は、御野県主が祖を祀った神社らしかった。
祭神は角凝魂命と、天湯川田奈命。天武天皇の時、連を賜り、ミノ連となったんだって。
ミノは御野のほか、三野、美努などとも表記される。
地名は上之島町南。島だったところなのかな。
天湯川田奈は知っている名前だった。
高井田あたりに天湯川田神社があって、そこに祀られるのが天湯川田ナだった。
11代垂仁天皇の口のきけない息子のために鳥を捕らえてきて、捕鳥(鳥取)の名を賜ったという人だ。近くの白坂神社(宿奈川田神社)に祀られているのは天湯川田ナの親ってことだった。白坂神社の今の祭神はスクナヒコナだった。年代的に言っても、オオクニヌシの国造りを助けたスクナヒコナと天湯川田ナの親が同じってことはないだろうけれど。
天湯川田ナの元々の本拠地は和泉国(和泉鳥取あたり)だということだった。11代垂仁天皇に重用されて、高井田あたりに住み着いたのかな。鳥取の姓を賜って、そこから三野郷のほうまで開拓していき、御野県主となったのかな?
角凝(ツヌコリ)は天湯川田奈の先祖だそうだ。けれど古すぎる話でよくは分かっていないみたいだった。「コリ」は「王」みたいな言葉ではないかとか言われているみたいだけれど。
鳥居から出て東に進み、恩智川に出たら橋のあるところまで南下した。ここを西に少し行くと、ここにも御野縣主神社があった。「式部御野縣主神社」とあった。小さくて、あまり説明もなかったけれど。
川まで戻り、式部橋で恩智川を渡った。とたんに昭和な雰囲気になった。残っている商店の感じがことごとく昭和な感じだった。
昭和の時代に住宅地になって、お店もいっぱいできた、その頃のままなんだろうなあと思われた。家々はその後も新しく出来ていったようで、新しい家もたくさんあったけれど、商店が昭和のまんま。
山本小学校と幼稚園が見えたら右折して、道なりに南下していった。山はますます近かった。横を川が流れる道を選んで南下していった。川は恩智川の支流の平田川。途中、線路の下を短い地下道で通った。近鉄信貴線だって。このあたりも、思いきり堤だった感のある道だった。
最後に地蔵やベンチの休憩所が設けられたところがあって、ここで堤道も終わり、下り坂になっていた。地形が面白いところだった。ベンチで少々休んでから、道を下っていくと、すぐ東山東新町8丁目交差点。
交差するのは府道5号大阪港八尾線。東の平田川交差点まで進み、交差する外環を南下していった。田舎にこんな大きな道がつくられて、便利になったことだろうなあ。
郡川、荒川(どちらも恩智川の支流)と過ぎ、教興寺交差点まで南下したら左折して、山に向かっていった。東高野街道と交差して、「信貴山道」と古い道標があった。前に歩いた時も目立っていた天理教高安大教会。そのまま進むとつきあたりが教興寺。一帯は松村さんだらけだった。
バッグに入って、教興寺に入っていくと、いきなり里山の風情だった。楠が素敵で、それが門の中にあるようなサイズと風情じゃないから、里山のような雰囲気をかもしているのかな。
入口に門はあるものの、中に入ると、道の向こう、遊具や、そして集落なんかも続いていて、寺と集落との境がはっきりとしていなかった。いい感じだった。村のお寺ってこういうものだったのかな、と思った。
村のお寺といっても、ここは588年、聖徳太子が物部守屋との戦いに際し、秦河勝(聖徳太子の側近で、秦氏)に建てさせたとかいう話になっているそうだ。物部守屋との戦いのとき、聖徳太子はまだ若輩だったし、ただの伝説かなと思うけれど・・・。
鎌倉時代、西大寺の叡尊(この人も有名人みたい)によって再興。けれど戦国時代、大半が焼けてしまったのだって。
「湯川直光勇戦の地」の碑があった。湯川さんは、戦国時代、和歌山あたりに勢力を持っていた湯川衆のドンだって。
河内守護だった畠山さんが三好長慶(元は河内の西隣国の守護だった)に追い出され、河内奪還のために国人衆を集め、出陣させたんだって。湯川衆もその中にいた。久米田の戦い、そして教興寺の戦いがあって、三好さんが勝利。湯川直光さんは教興寺で戦死してしまったそうだ。
前に行った飯盛山城も、この一連の戦いで三好長慶のものになったらしかった。
「根来衆」「雑賀衆」は知っていたけれど、他にも多くの「衆」(国人衆)がいたんだな。そして戦国時代って、戦国大名たちの戦いかと思っていたのだけれど、実際には幾多の国人衆、幾多の人々の戦いだったんだなあ。
教興寺の戦いでは三好側、畠山側、合わせて10万くらいの人々が戦ったんだって。そりゃあ「戦国時代、大半が焼け」ってことになるよね・・・。
素敵な教興寺を出て、左(南)に向かい、寺の石垣が途切れたところで左折。さらに山に向かっていった。上り道で、右手に池があり、「四丁」と信貴山の丁石がたっていた。地名は黒谷だった。
意満寺などもあって、古そうな一帯だった。このあたりに「高安城を探る会」があったみたい。天智天皇の時、白村江の戦い(百済復興のため、唐と新羅の連合軍と戦った朝鮮半島での戦い)で唐の強さを思い知った日本は、唐が侵略してくるのに備えて各地に城を築いたのだって。大和に攻め入られたときの最後の守りが高安城。日本書記にそんな記載があるものの所在は不明で、「高安城を探る会」なる市民グループが結成されたそうだ。
下校中の小さな小学生に混じって、権現社に向かっていった。江戸時代に建てられた小さな社で、ここには「六丁」石があった。
それから右折して、「市民の森」方面へ。こんな山の中に「市民の森」があるのは不思議だったけれど、小学生たちが帰っていくのを見て腑におちた。ランドセルを背負った小さな子たちが、坂を上って帰る先は、きれいな新興住宅地になっていた。
このあたりは最近開発され、お金が動いて、公園も作られたのだろうな。新興住宅地にはきれいな公園っていうのは、散歩で知ったあるあるだった。
左手に信貴山道の入口らしきところがあった。ここから山道を通って、信貴山朝護孫子寺に行けるのかな?
それから「市民の森」が現れた。山の斜面にあって、高いところまで登っていけるようだった。
上っていってみると、最高のロケーションだった。子どもたちは下校したばかりでまだやって来ていない公園は、ベンチに座ったおばさんたちの憩い場所になっていた。ここに上る足腰の強さがあれば、ここは最高の憩い場所だな・・・。そよ風が吹き、山の上で最高に見晴らしは良く、大阪市内に住む犬からしたら、ほとんどファンタジーの世界だった。
そこで病院や夫の話をするおばさんたち。
公園には、地すべり工事についても説明されていた(でも落書きだらけでいまいち読めない・・・)。「マムシ注意」の看板がたっていた。
デンジャラスだけれど素敵な公園を去って、続きを南下していった。
左手に鳥居が現れて、「岩戸神社」と書かれていた。ここは山を少し登ったところにつくられた平坦な車道(車はほぼ見なかったけど)で、鳥居の向こうは山に向かっていく山道だった。
鳥居をくぐって、山の方向に登っていった。途中、左に分岐する道があって、「岩屋弘法大師」とあった。後で寄ってみようと思いつつ先を進んで、そのまま忘れてしまったのだけど。
岩戸神社と天照大神高座神社が現れた。
祭神はアマテラスの他、伊勢津ヒコ、伊勢津ヒメで、古代感ありありの名前だった。
伊勢津ヒコは別名、出雲建子。伊勢の国(伊賀の安志。元々は伊賀も伊勢の一部だったのだって。穴石神社がある)に暮らしていたところ、神武天皇側に国を引き渡すよう求められたらしい。一説によるとオオクニヌシの息子。
天照大神高座神社は、式内社「高御座神社」を名乗っているのかな? 「たかみくら」って、高い位置にいるって感じのニュアンスなのかな。たかおかみ神、くらおかみ神とかもいるし、「たか」「くら」って、古代によく使った言葉なのかな。
岩戸神社は空海が高御座神社参拝の時、ここに弁財天を祀ったとか、日本初の弁天だとかとも言われているそうだ。けれど、なんだろう、ここは総じて、神社っていうよりも、これまでにも山の中で見てきた、宗教の混沌とした地みたいな様相を呈していた。苔むした岩があり、いろんなことが刻まれて、それらが山中に隠れている。高御座神社の周りに、いろんな混沌が生まれていったって感じなのかな。
他にもちょっと参拝にやって来てみたって感じの中年カップルがいたけれど、困惑している様子だった。
奥にはさらに「←城山大神」とあったけれど、フェンスがあって、入っていけないようになっていた。神社から来た道を戻ろうとすると、そこから左(西方向)にも進む道があって、行ってみた。お墓の横の細い道を通り、山を下っていく道だった。
お墓には梅岩寺とあった。そこから車道に出たけれど、その向こうにも墓地があって、階段が続いていた。「階段(お帰り道)」と書かれてある階段方向に進んでいってみた。
梅岩寺古墳4号と5号が現れて、墓地の中に、高井田で見たのと同じような横穴があった。見晴らしのいいここは、大昔から墓地だったところなんだな。
階段をどんどん下っていくと、今度は金ピカの仏像が立っている墓地が現れて、ここは大窪寺だって。仏像の後ろを通り、車道に出た。車道を下っていくと、別の車道と交差。ここはそのまままっすぐ進んで、次を左折。下っていくと、右手に垣内公園、左手に子守社(犬NG)が現れて、つき当たりを左折。
善光寺が現れた。
思いのほか小さなお寺だったけれど、クスノキがすごかった。ずっと緑ばかり見てきた日だったけれど、それでもこの日のナンバー1。
「もと善光寺」と言われているわりには、あまり説明もなくて、くすのき以外はそんなに見所もなさそうな、けれど地元で愛されている感じのお寺だった。歴史を物語るお寺というよりも、地元の人々と一緒に変遷してきたお寺って感じ。
こんなものを信心するから疫病が流行るのだ、みたいなことを言ったとかで、物部守屋が難波の堀江に投げ捨てたという仏像を、後に拾った(600年)のが本田善光。本田善光は仏像を赴任先に持ち帰り、その仏像を本尊にして建てた(644年)と言われているのが信州の善光寺だった。
難波から信州に行くまでに立ち寄ったところにも善光寺が建てられていて、「もと善光寺」を名乗っている。藤井寺の小山善光寺がそうだったし、ここもそうなのだって。
本田善光さんが信州に戻る途中に一泊したところで、その縁で信州善光寺創建の翌年に創建した寺らしい。
善光寺の本尊は、元は百済の26代目の王(聖王)が日本にもたらしたものだった。当時から不穏だった百済は滅び、百済最後の王(31代)の息子の百済王善光さんはそのとき、日本にいた。
白村江の戦いが663年。百済王善光さんは641年までには日本にやって来ていて、他にも百済からは多くの人々が亡命してきていて、わたしは善光寺は百済王善光さんに関わるお寺だったのじゃないかと勝手に思っている。
目的としていたところは全部回って、さあ帰ろうと、帰り道を考えた。見晴らしのいい、山の上のほうの道でとりあえず南下していくってどうよと、山の方向に進んでいってみた。元は池があったのかもというようなところを歩いていると、ヘビに遭遇。今では慣れたけれど、ヘビはその時、初めてだったからぎょぎょっとした。1m少々あったと思う。道を横断していくのを離れて見守っていると、ゆうゆうのんびりとヘビは去っていった。
そして迷いつつ恩智駅(近鉄大阪線)に到着。つかれた~と帰っていった。




