働くOL
~第三章~
「このままでは、もってあと一年と言ったところでしょうか」
魔王との混浴から、三日が経った。
モルタたちの訓練も彼らだけでできるようメニューを組み、透子自身はベルンシュタイン城の内情を知るためにホルガーの部屋を訪ねていた。本に囲まれ、窓は一つしかない。地震でも来たら生き埋めになるんじゃないの、と透子は思う。
だが、今はもっと大きな問題に直面していた。
「それにしてもこの減り方、異常なんじゃない?」
ある数値の推移、それが記された書類に目を通し、透子は唸った。他でもない、財宝の保有量についてである。
「五年前の六分の一。だいたい一年に七百万……えーっと、ここの通貨の単位って何だったかしら」
「ガルドです」
「そうそう、ガルドね。えー、一年に七百万ガルド。減ってる量は毎年一定みたいね。一体何に使ってきたの? 確か――」
透子はスーツの内ポケットからメモ帳を取り出す。
「んーと、ここは火力も水も明かりも魔力で補ってる。手は出してないけど、ダンジョンの拡張や罠の配置、小悪魔への報酬も魔力。モンスターを雇ったらお給金が発生するけど、ここで働いてるのは私とあなたと豚三頭。あまりお金の使い道があるようには思えないのだけれど」
説明のように聞こえるセリフだが、実際透子自身への説明の意味もあった。聞いたこと、知ったことはメモし、反復することで頭に叩き込む。OLはもとより、社会人の常識だ。
「それに、もってあと一年って言ったわよね? つまり、これからの一年も同じ出費があるってことでしょう? 一体何に使ってるの?」
何度目かの同じ質問をされ、ホルガーは困ったように顎を撫でた。この城のアキレスであるホルガーが知らないわけがない。言おうか言うまいか判断しかねている。そう透子は感じた。
「……私の口からは申せません」
答えは後者だったようだ。
「そう言うだろうと思っていたわ。なら、誰に聞けばいい? 魔王様? それとも――」
透子のセリフは、不意に鳴り響いた耳障りなサイレンによってさえぎられた。
「……透子さん、どうやら先日の冒険者たちが、また来たみたいです」
「うーん、あまりの攻略しやすさに、味をしめられちゃったかしら」
透子は腕を組んだ。
やってきたことと言えば、この世界の仕組みをホルガーから学ぶこと、そしてオークたちとの特訓、それだけだった。本来なら宣伝もするつもりだったが、あまりにオークたちのレベルが低いので後回しにしていたのだ。
つまり、まだ戦うには時期尚早とも言えるが。
「よござんしょ。完全に予定外だけど出るわよ。モルタたちに召集をかけてちょうだい」
「あっさり決めましたね」
「当然よ。予定にないからって追い返してたんじゃあ、本当に不測の事態に陥ったときに混乱するわ。こんな状況でも、すぐに動けるようにしておかないと。それに、あの人たちは常連になりかけてくれてるの。それを手放す手はないわ。ってことで、行ってくるわね」
ウィンクを決め、透子は壁に立てかけていた聖剣を手に取った。
王城の名を冠するに相応しく、ベルンシュタイン城の内装はそこそこ豪華である。それは、廊下に点在する絵画や高そうな壷によく表れていた。
財政が圧迫されているのに絵画や壷とは贅沢なことね、と透子はホルガーを皮肉ったことがある。対する返答は、質入れ予備軍です、だった。激しく納得したのを覚えている。
そんな廊下を、透子は聖剣片手に駆けていた。黒髪がなびき、そこそこたわわな胸元が揺れる。スーツで走り回るなど、前の世界では数えるほどしかなかった。
「……ん?」
ふと小首を傾げる。前方の壁に掛けてある絵画、それが僅かに動いた気がした。風が吹いているわけでもない。
気のせいか、と思ったのも一瞬、
「きゃあ!」
絵画が持ち上がったと同時に、壁から人影が出てきたのだ。しかも人と呼ぶには二周りほど大きく、黄と黒の縦縞が目立っていた。
透子は悲鳴を上げて急ブレーキをかけたのも無理はない。すわ虎人間でも現れたかと身構えたが、
「あれ、チーフ? 血相変えてどないしましたん?」
その人影はオークたちの末っ子、関西弁の目立つロースだった。
「どっ、どうしたじゃないわよ、何であなた壁から出てくるの!?」
涙目で透子が睨みつけると、ロースはバツが悪そうに頭をかいた。
「あ~、いや~、こないだチーフに虎柄を勧められましたでしょ? せやからそれっぽい服を買うてきてたんです」
確かに、ロースは虎柄のズボンと上着を着ていた。体は虎、頭は豚、手には釘バット。新種の鵺かも知れない。
「案外似合ってるのが腹立つわね……そもそも、どこで買ってきたのよ」
「いや~、その~、町に行って……」
口をもごもごさせるロース。
「町ぃ? 確かあなたたち――」透子は懐からメモ帳を取り出す。「――町はもちろん、外出にも私とホルガーの許可がいるんじゃ……」
そこまで言って、透子は壁から出てきた理由に思い当たった。
「まさか、勝手に……」
「ああああいやいやいや! 釈明と謝罪は後にしますって! それより今は、もっと大事なことがあるんちゃいますの!? 急いではったみたいやし」
「そうだったわ!」
ロースの言う通り、問いつめることなど後でいくらでもできる。冒険者たちはそろそろダンジョンに入っている頃だろう。
「こないだの冒険者たちがまた来たのよ! あなたも来なさい!」
言うが早いか、透子はダンジョンの方へ駆けだした。ロースも戸惑いつつそれに続く。
「え、宣伝もしてないのに?」
その問いかけの相手は、すでにロースの視界から消えていた。
* * *
透子とロースがダンジョンに着くと、すでに作戦部屋にはモルタとラルドが待機していた。警報装置を聞いて駆けつけたらしい。
「遅くなったわね。彼らはどんな感じ?」
つかつかと監視カメラに歩み寄る。
「かなり入り込まれてます」
次男ラルドが指差した画面の一つ、そこに雑談しつつ歩みを進める冒険者たちの姿が映っていた。
「そりゃそうよね」
何せ、今ダンジョンの中は空っぽである。
「仕方ない、ポイントブラボーで迎え撃つわよ」
どこですか、というモルタの疑問を無視し、透子は作戦部屋を飛び出した。遅れては何を言われるかわかったものではない。慌てて三兄弟は透子の背を追う。
ダンジョンには道が二つあり、一つは外から来た者が歩みを進めるためのもの。そしてもう一つが、城側の者が行き来する関係者通路のようなものだ。基本的に関係者通路は近道になっており、よほどのことがない限りは侵入者の先回りができる。
その例に漏れず、透子たちも冒険者を迎え撃つことに間に合った。透子が言ったポイントブラボーとは、ダンジョンの最後の小部屋。そこを過ぎるともう財宝が置いてある部屋である。危うく、エンカウントのないダンジョンとして名を残すところだった。
「はぁ、ふぅ、よく来たわね、待ってたわよ」
「いや、待ってた風には見えないんだが」
息を切らしている透子を、冒険者のリーダーであるテオバルトは呆れた目で見やった。
「それはともかく、今日もレベル上げに付き合ってもらうぞ。ついでに財宝ももらっていくがな」
がははと笑うテオバルトだったが、透子もまた不敵な笑みを浮かべた。
「果たして、そう上手くいくかしら?」
「何だって?」
「以前の私たちのままじゃないってことよ」
す、と透子が腕を上げる。それに合わせ、オークたちが前に進み出た。二度目だからか、さすがに震えるといったことはないようだ。
「ほう、雰囲気が変わったか?」
「だからそう言ってるでしょ」
口角をつり上げる透子に、テオバルトはさすがに警戒心を抱いた。わずかに眉を顰め、注意深くオークたちを観察する。
彼らの見た目は大して変わっていない。なぜか一体が虎柄の服を着ているくらいだ。だが、テオバルトも無駄に場数は踏んでいない。前回との違いにはすぐに気がついた。
(統率が取れてやがるな)
ダ○ョウ倶楽部状態だった前回とは異なり、僅かに斜めに並んでいる。タイマンはやめたようだが、囲むのか波状攻撃なのかは判断がつきにくい。
何にしろ前回ほど容易には勝てそうにない、そうテオバルトは思った。
「なるほどな、ただ遊んでいたわけじゃあなさそうだ。だが、それはこっちも同じだぜ?」
テオバルトが僧侶の少女――カーヤの背を押した。カーヤは少しおずおずとしながらも、しっかりした足取りで歩み出る。
「わ、わたしだって強くなってるんです。あなたたちもレベルが上がってるみたいですが、負けません!」
「……負けられないのは、私たちも同じだ」
カーヤに呼応するように、モルタも口を開いた。その口調は、自分たち自身にも語りかけているようだった。
「君にも強くなりたい理由があるのだろう。だが、私たちも負けられない。故郷で待つ、母のためにも」
その言葉がダンジョンの小部屋に響いた刹那、一瞬だけ冒険者たちの間に動揺が走ったのを、透子は見逃さなかった。だが、その理由まではわからない。
「いざ尋常に、とは言わない。私たちはただ勝利のみを渇望する。――行くぞ!」
かけ声を上げたモルタを先頭に、オークたちはカーヤに波状攻撃を繰り出した。両刃の剣、ハルバード、釘バットが次々と僧侶を襲う。だが、カーヤはそれを何とか受け流した。
(波状攻撃の方だったか。だが、よく凌いだ)
テオバルトは心中で賞賛を送ったが、三兄弟の攻撃は当然それでは終わらなかった。
攻撃を流された三体がそのままカーヤを囲み、三方から武器を振り回していく。波状攻撃からの包囲攻撃、それが透子の立てた作戦だった。
個々の技量はまだまだカーヤに及ぶべくもないが、さすが兄弟と言ったところか、息の合った連携でカーヤに反撃の隙を与えていない。金属と金属がぶつかり合う甲高い音が、あまり広くない石室に響きわたる。
(まだレベルは低いみたいだけど、十分通じてるわね)
透子がそう確信するにほど、眼前の戦闘内容は充実していた。相手がもっと高レベルだったり、複数人であったりすればこうは決まらないだろうが、少なくとも今は問題ない。
(むしろ……勝てる!)
にやりと透子は笑った。
軍配はオークたちに上がりつつあった。何とか包囲攻撃を凌いでいたカーヤだが(それも十分すごい)、徐々に連携への対応が遅れつつある。
そもそも反撃の隙がないのだ。それは初めから出口のない袋小路だったのかも知れない。
決着の瞬間は、あっけなく訪れた。
「あっ!」
一際甲高い音が響く。ロースの釘バットが、カーヤの錫杖を弾き飛ばした。石畳を滑り、壁に当たって乾いた音を響かせた錫杖は、まるで小さな悲鳴を上げたようだった。
「とどめだ、ラルド!」
振りかぶったハルバードを、ラルドは勢いよく振り下ろす。カーヤが堅く目を瞑ったのは、覚悟を決めたからなのか、はたまた攻撃に対する恐怖心からか。
だが、いつまで経ってもハルバードの衝撃は来なかった。
恐る恐る目を開けるカーヤの眼前には、寸止めの状態で震えているハルバード、そしてその向こうで苦虫を噛み潰したような顔をしたラルドの姿があった。
「……兄さん、やっぱり僕には無理だよ」
絞り出すような声だった。
「ラルド……」
モルタの声に叱責の響きはなく、ロースも追撃を加える気配がない。二体とも、まるでラルドの行動を予測していたようだった。
「どう……して……?」
戸惑ったのはカーヤの方である。テオバルトたち他のメンバーも、同じように怪訝な顔をしていた。
モルタはハルバードを下ろし、訥々と語り始める。
「僕たちには……故郷に母がいるんです」
母。その単語を耳にした瞬間、先ほどのように冒険者たちの間に動揺が走った。
「僕たちがこうして魔王城で働いているのは、その母に楽をさせるためなんです」
「ならとどめを刺しなさい! 何も命まで奪えとは言わないわ。勝利を手にするの。あなたたちはそのために頑張ってきたんじゃないの!?」
檄を飛ばしたのは透子だった。勝利を目前にしたラルドの行動に、苛立っているようだ。
普段のラルドならそんな透子の剣幕に恐怖し、命令に従っていただろう。だが今は、静かに首を振るだけだった。
「ダメなんです」
「何がダメなのよ。勝利を得ればさらに強くなれるし、装備や財宝だって手に入る。実家に仕送りもできるんじゃないの?」
「確かに、そうかも知れません。いえ、その通りだと思います。だけど、一人に寄ってたかって攻め立てて、そんな勝利で得た財宝を、母は喜んでくれるでしょうか」
「っ……」
ラルドの言葉に、透子ははっと息をのんだ。
「母は、とても優しくて正義感が強い人でした。僕たちも悪さをする度によく怒られました。そんな母がこの勝利を喜んでくれるとは、どうしても思えないのです……」
優しくて正義感が強いオーク。その言葉に激しい違和感を覚えたが、さすがに空気を呼んで黙っておいた。
「……あなたの話はわかったわ。モルタとロースも同じ意見なのね?」
落ち着いた透子の声。それに少し安堵しつつ、残る二体は顔を見合わせてうなずいた。
「はぁ……仕方ないわね」
「な、納得するんですか?」
「何よ、あなたが言ったことでしょう? ……それに」少し寂しそうに、透子は笑った。「私にも、思い当たる節がなくもないから」
ただ、と透子は改めるように語気を強める。
「今回取られる財宝の一部は、あなたたちのお給金から天引きするわよ。ああ、もちろん私のお給金からもね」
「え、何でですのん」
「当たり前じゃない。普通に負けるだけでも業腹なのに、今回はせっかく拾いかけた勝ちを譲ることになるのよ?」
「いや、そうやなくて……」
ロースがそこまで言ったところで、透子は冒険者たちの異変に気付いた。
カーヤがその場に座り込み、口元を押さえて震えている。笑われているのかとも一瞬思ったが、そうではないようだった。
「……あなた、どうして泣いてるの?」
そう、カーヤからは小さくすすり泣く声が聞こえてくる。
「俺たちの負けだ」
そんな突拍子もない言葉は、リーダーのテオバルトからだった。なぜか彼はサングラスをかけている。先ほどまではかけていなかったし、このやや薄暗いダンジョンの中で必要とも思えない。
ただ、声は微妙に鼻声だし、サングラスからは涙のようなものが頬を伝っていた。
「俺たちのメンバーは、みんな孤児なんだ」
疑問を通り越してもはや呆れ気味の透子の様子を悟り、テオバルトは話し始めた。
「捨てられたりモンスターに殺されたり理由は色々だが、俺たちには親がいない。だからかな、そのオークの話を聞いてると、応援じたくなっぢまってよ……」
少しずつテオバルトの鼻声がひどくなっていく。
よく見ると、他のメンバーも背を向けたり顔を背けたりしているが、その肩が小さく震えていた。カーヤに至っては号泣している。メンバー全員が、涙もろい性格のようだ。
「いやいや、ご都合主義が過ぎるでしょう……」
透子のツッコミには聞く耳持たず、テオバルトはラルドに歩み寄り、自分より高いその肩に手を置いた。
「親孝行したいと思ったときにゃあ……ぐずっ……もうその相手はいだぐなっでるもんだ。……おぶぐろざんを、じあわぜにじでやれよ」
「ばい……」
テオバルトもラルドも、もはや鼻声を通り越して濁音てんこ盛りの声になっていた。涙とか鼻水とかそういう液体で、もう顔もぐちゃぐちゃである。
「いや、確かにラルドの言葉には共感したけどさ、この展開は何なのよ……」
脱力感が半端ない。透子は、自分だけがこの空気に取り残されている気分になった。いや、実際そうなのだろうが。
(結局、無駄な時間を過ごしただけだったわね……)
勝利は得ず、敗北も喫さなかったが、何一つ進展していない。まあ、財宝が取られなかっただけよしとするしかないだろう。
「ズズズズ! ……はぁ。今日のところは、あんたたちのお袋さんに免じて引くことにするよ。次来るときはガチンコだからな」
ようやく調子が戻ったのか、テオバルトは鼻をすすってそう言うと、きびすを返した。他のメンバーもそれに続こうとし、
「ま、待ってくださいテオさん!」
カーヤがそれを引き留めた。
「あの、その……もしテオさんがいいのなら……」
こしょこしょと何かを意見しているカーヤ。何かしらこちらのことを言っているのは間違いないだろう。
「やっぱり、あいつらを攻め滅ぼしましょう」
などと言っているのかと、透子は気を引き締めた。聖剣を持つ手に力がこもる。オークたちもそれぞれ顔を見合わせた。
そうして待つこと少し、
「なるほど、いいじゃないか!」
テオバルトは破顔一笑そう言った。どうやらカーヤの提案は通ったらしい。あとのタンクとスカウトらしきメンバーも賛成のようだ。
「なああんたら」
そう言って透子たち、いや、正確にはオークたちにテオバルトは笑顔を向けた。だが、単なる笑顔ではない。何かしら含みのある顔、例えるなら、悪戯を思いついた子どものような笑顔。そう透子には感じた。
オークたちはそれぞれ少し身構えたが、テオバルトの口から出た言葉は、予想の斜め上のものだった。
「いいことを教えてやる。この城の北東にでかい山があるだろ? 実はあれ、鉱山なんだ」
「鉱山?」
モルタが復唱した。確かに山はあるが、鉱山であることは知らなかった。だが、それを聞いたから何だと言うのか。
そんなモルタの反応は予測済みだったのだろう、テオバルトはさらに口角をつり上げた。
「ただの鉱山じゃない。どうも、稀少鉱石もそこそこ埋まっているらしい。そんでこの情報は、今のところ俺たちくらいしか知らない」
そこまで聞いてテオバルトたちの思惑が何かわからないほど、モルタたちも透子もバカではない。
「それを私たちに伝えるメリットは? そもそも、伝える意味がわからない。あなたたちで独占すれば――」
「悪いが」
透子の言葉を遮り、テオバルトはおどけるように片眉を下げた。
「この話はあんたに言ったんじゃない」
「……その理由は?」
「おっと、そう怖い顔をしないでくれ。言い方が悪かった。あんた個人を邪険にしたんじゃない。この城に対して言ったんじゃない、そう言いたかったんだ」
いいか、とテオバルトはモルタたちに親指を向けた。
「俺たちはこいつらの親孝行に感銘を受けた。だから、それを手伝いたいと思ったんだよ。つまり、こいつらに対するプレゼントってわけだ」
「……なるほどね。ただ、それを聞いてもメリットなしに教えるとは思えない」
「疑い深い姉さんだな」
テオバルトは苦笑する。だが目は笑っていない、そう透子には見えた。
「ま、その鉱山をどうするかはそこの親孝行たちに任せるさ。これからもお世話になるんだ、よろしく頼むぜ」
今度こそきびすを返すテオバルト。背を向けるその動作さえ、透子の追求を逃れるためと思ってしまう。本当に、自分が疑い深いだけだろうか。
帰るぞ、というリーダーの言葉を最後に、冒険者たちはダンジョンを去っていった。
「……鉱山って、ホントかな」
足音が完全に聞こえなくなったあたりで、ロースがぽつりと呟いた。誰かに尋ねたというより、独り言のようなものだったが、兄弟たちもその言葉に続く。
「わからん。だが、本当だとするのなら……」
「仕送りもだいぶ楽になるんちゃう?」
未だ半信半疑といった三体。だが――
「お母さんに楽をさせてあげられるかな」
「ああ、もちろんだとも」
「金額次第やったら、楽をするどころかめっちゃ贅沢できるかも知れんな」
「そうなると、我々の出稼ぎ生活も終わるな」
「お家で家族一緒に過ごせるね!」
「ほんなら俺、地元の草野球チームに入ろかな!」
――語り合うにつれて徐々に現実味を帯び、話が盛り上がってくる。今の出稼ぎ生活も嫌いではなかったが、それでもやはり故郷で母親と過ごしたいに決まっている。
先のことだと思っていた、帰郷の日。もしかすると、その日はもっと早くに訪れるのかも知れない。そう考えると、三体とも心が躍った。
「いや、待て」
だが、モルタはふと気付く。
自分たちは雇われている。そして自分たちの給料が少ないのは、雇用主が財政難だからだ。その雇用主を差し置いて、ひと財産儲けるなど許されるのだろうか。
先ほどから、不気味なほど静かな人がいる。雇用主ではないが、自分たちの直属の上司。恐怖政治とまでは行かずとも、かなり理不尽な形でこのダンジョンを立て直そうとしている人。
磊落な雇用主は笑って許してくれるかも知れない。だが、直属の上司は果たして――
「……ダメだ」
ぽつりとモルタが呟いた。小躍りしていたラルドとロースも、ぴたりと止まる。
「兄さん?」
「どしたん?」
小首を傾げる二人に、モルタは声が漏れないよう顔を寄せた。
「この鉱山は、没収されるだろう。考えてもみろ、財政難のこの城にとって、希少鉱石が取れる鉱山など渡りに船以外の何物でもない」
ラルドとロースも、上司の性格は掴めてきている。故に、この一言だけでモルタが何を言いたいのか理解した。
「チーフを見ろ」
モルタが小さく顎で指し、オークたちがそっと透子を盗み見る。透子は何かを思案するように、腕を組んで石の壁にもたれていた。
「あれはきっと、鉱山をどう切り崩すかを考えているに違いない。いかんせん人手が少ないからな」
「確かに……そうだね」
「うむ、まあそれでこの城の財政が潤えば、我らの昇給も望めるやも知れぬ」
兄二人は不承不承うなずく。だが、難色を示したのは三男だった。
「けど、ちょっとぐらい取り分があってもええんちゃう?」
ロースの目には、何かしら思案中らしきチーフが映っている。
「鉱山の権利そのものが城に移るんはええけど、ちょっとはウチらにおこぼれがあってもええと思うんや。成功報酬的な?」
違いない、とモルタも首をたてに振った。ここで黙って鉱山の権利を接収されてしまうと、次に同じようなことがあっても同様の結果になるだろう。
ならば、ここは立ち上がらなくてはなるまい。
「わかった、私が交渉しよう」
モルタは自身の胸を叩いた。籠手と甲冑が甲高い音を響かせる。
その音に反応し、透子が何事かとモルタたちに目を向けた。
「に、兄さん、大丈夫?」
「問題ない。これも長男の務めだ」
「あんちゃん、何か最近男らしいなったなあ」
「ふふ、なぜだろうな、強大な敵に立ち向かうと、気分が高揚するようになってきた。これも騎士に近づいた証拠だろうか」
ニヒルに笑う(豚頭なのでわかりづらいが)と、モルタは透子へと歩み寄った。訝しげな顔をしている透子の前に立つと、最後にモルタはもう一度振り返り、はらはらしている弟たちにサムズアップをして見せた。
「……何?」
「ンッホン! チーフ殿、折り入ってお話したいことがあります」
「別にいいけれど、あんたたち結局語尾を忘れてたわよね」
「……お話したいことがありますブー」
「もういいわよ、つけなくて。諦めたわ。で、話って何?」
「実は、その、先ほどの鉱山のことです。その利益についてですが――」
ごくりと、見守るラルドとロースは息を飲む。
「――我々にも少しばかりボーナスを戴きたく存じます!」
「ふざけんじゃないわよ」
即答だった。
予想はしていたが、やはりモルタたちは落胆してしまう。やはり故郷のことなど夢想するべきではなかった。持ち上げてから落とされる方がダメージが大きいに決まっている。やはりあとは昇給を望むしかないだろう。
そんな悶々とした思いが、頭の中でぐるぐると回り出す。だからこそ、
「あのね、利益なんて全部あなたたちのものに決まってるでしょ」
その透子の言葉を、すぐに理解することができなかった。
「バカみたいに口を開けて……。何て顔してんのよ。鳩が豆……いえ、魔王が魔力弾食らったようなアホ面、だったわね。話はそれだけ? ならもう戻るわよ。ダンジョンの強化、あんたたちの特訓、財宝の設置量、考えなきゃいけないことは山ほどあるんだから」
「ちょ、ちょっと待って下さい」
踵を返しかけた透子を、モルタは慌てて呼び止めた。
「全部、我々が戴いてよろしいのですかっ?」
「そう言ったでしょ? それとも何? 没収してほしいの?」
「いえ、そういうわけでは……」
歯切れの悪いモルタ(部下)に透子は小さくため息をつく。そして半身に構えていたのを、改めてモルタに向き直った。
今までの暴力上司ではない真摯な瞳に見据えられ、モルタは自然と佇まいを正す。
「確かにこの城は財政難に陥ってるわ。もし、さっきの流れが私の指示したものなら、その利益は余すことなく全てベルンシュタイン城として接収していたでしょうね。でも今回は違う。偶然とは言え、あなたたちの手柄なの。それを大きな顔して取り上げるほど、この城も私も落ちぶれてなんていないわ。それに、そんなことをしてしまうと――」
透子は言葉を区切り、僅かに眉根を寄せた。それは、思い出したくないものを思い出してしまった顔、そうモルタには見えた。
「――いえ、何でもない。ともかく、鉱山はあなたたちの手柄よ。あなたたちが好きになさい。ただ、掘り出すのに私たちの手を借りたいなら、そのときは手間賃を貰うからね」
冗談のように言い、軽くウィンクすると透子はダンジョンから出て行った。
透子の足音も聞こえなくなり、石室に静寂が降りる。透子の言葉を理解はしたが、どう反応していいかわからず、三体とも何も話せないでいた。
「良かっ……たね?」
ようやく、ぽつりとラルドが言った。どうして疑問系にしてしまったのかは、彼自身にもわからない。
ロースもまた、奥歯にものがはさまったような顔をしている。
「あんちゃん、どうする?」
モルタは、透子が去った先をじっと見つめていた。そこにはダンジョンの通路が口を開けており、魔力灯が時折ゆらゆらと揺らめいている。
「チーフの言う通りだな」ややあって、モルタは言った。「我々の利益だ。我々の好きなように使わせて貰おう」
何か吹っ切れたような口調だった。少なくとも、ラルドにはそう聞こえた。
曖昧にうなずき、ラルドはロースと顔を見合わせる。好き勝手に使えるはずなのだが、なぜか釈然としない。
そんな弟二人の空気を読みとったのか、モルタはさらに言葉を続けた。
「そこで、だ。お前たちに相談がある」
そう言ったモルタは、何かいい企みを思いついたような、そんな子供っぽい笑みを浮かべていた。
* * *
(――「それに、そんなことをしてしまうと」――)
透子は、数分前の自分の台詞を思い返していた。
(私は、あんなやつらと一緒にはならない……!)
聖剣を握る手に力が入る。城の廊下にカーペットが敷いてあって良かった。もしそうでなかったら、荒々しい足音を響かせてしまっていただろう。
(もう、吹っ切れたと思ってたのに……)
思い出したくもない情景が、脳裏をよぎった。
この世界に来る、その少しだけ前のこと。
切れかかった蜘蛛の糸を、完全にちょんぎってくれたあのハゲ親父。息災だろうか。二、三発殴るだけでなく、完全にとどめを刺してくれば良かった。
透子の心の中に、暗雲が立ち込めていく。だが、
「これは……」
不意に聞こえてきたピアノの音色によって、魔法のようにその暗雲は霧散していった。明るい音色は廊下の先から小さく響いてくる。エーファのピアノだ。
握っていた拳を解き、透子は吸い寄せられるように音の方向に足を向けた。
その曲は、確か『希望』といったか。穏やかなテンポの長調が、透子に耳に、そして心に染み込んでいく。あれほど荒んでいた胸中が、嘘のように凪いでいくのがわかった。
エーファの部屋の前まで来ると、やはりその透き通るような音色は部屋の中から聞こえてくる。
水を差すのも躊躇われ、透子は演奏が終わるまで待つことにした。扉の横の壁にもたれ、ピアノの音色に耳を傾ける。
意識せずとも、その音色は透子の全身にとけ込んでくるようだ。扉一枚挟んでいるものの、すぐそばで聞いているような心地よさに包まれる。
(こんなにゆったりするのはいつ以来かしら……)
目を閉じる。音色の波に乗るように、脳裏に今までのことが流れてきた。
妹との死別。
元の世界での最後の大暴れ。
突如飛ばされた異世界。
ボロ雑巾のように吹っ飛ぶ金ピカ勇者。
魔王城、そしてエーファとその他の出会い。
日数にして、二週間も経っていない。だが、怒濤、と言っても全く差し支えない日々だった。これほどまでに穏やかな時間は、エーファといるときばかりだったような気がする。
困窮している魔王城を――ひいてはエーファを助けたいと思っていたが、
(助けられているのは、私の方だったのかしらね……)
一人、そう苦笑を漏らしたとき、ピアノの音色が余韻を残して消えていった。どうやら演奏が終わったらしい。
壁から背を離し、賛辞とともにエーファを訪ねるべくドアをノックする。
その直前、ドアの向こうから声が聞こえてきた。
『いつもながらお見事です』
賛辞の声。だがその声には表情がない。この城でそんな器用な真似ができるのはホルガーだけだ。その後に聞こえた、蚊の鳴くような「ありがとうございます」はエーファのものだろう。
(エーファ様だけじゃなかったのか……)
小さく舌打ちをするが、別に遠慮するところでもない。透子は構わずドアをノックしようとし、
『ところで、あの話は考えていただけましたか?』
無意識にその手を止めていた。あの話とは何だろう。物音を立てないよう、そっとドアに耳を当てる。まあ、どんな話だろうと動揺することはない。部下を従えている、そんな立場にいる以上、些細なことで心を乱すわけにはいかない。常に冷静でいな――
『プロポーズ、ですよね……』
「プッ……!」
気を失うかと思った。それほど勢いよく血の気が引いた。
(ぷっ、ぷぷぷプロポーズ!? ホルガーがエーファによね!? あのスケコマシ野郎、涼しい顔して何考えてやがんのよ!)
ぎりぎりと歯を食いしばる。このままドアをぶち破ってホルガーもあの金ピカクソ勇者と同じ運命を辿らせてやる。そんなことまでコンマ二秒で考えるほど、透子は動揺していた。だが、ゴリラが力一杯絞った雑巾に残った水分ほどに微かに残った理性が、どうにかこうにかそれを押しとどめていたことに、透子はいたく感動した。
だが、納得できるかどうかまでは話が別である。
ドアを蹴破ろうとする足を必死で押しとどめ、何とか頭を回転させる。
(許せない……絶対に許せない……! 適当にスキャンダルをでっち上げてこの城から追い出してやろうかしら)
非常に身勝手なことを企てる透子であったが、ふと、部屋の中が静かであることに気がついた。沈黙ではない。エーファは逡巡している。直感ではあったが透子はそう思った。
(そう、そうよ、あのスケコマシがプロポーズしたところで、エーファ様が受けるとは限らない。いや、きっと突っぱねるに決まってるわ。やれやれ、私は何を焦っていたのかしらね)
安堵のため息をつく。それは全く根拠のない確信だったが、そうでもしないと透子は怒りのままに暗黒面に落ちそうだった。
『もし、受けて下さるのなら……』
不意にホルガーの声が聞こえた。答えないエーファにじれたのだろうか。同時に、足音が響いてくる。部屋の中にはカーペットが敷いてあったはずなので、その足音が極めて小さい。だが、確かに透子はその足音を認めた。
足音がやみ、声も聞こえなくなる。話している気配はあるので、恐らく、エーファに歩み寄って耳打ちでもしているのだろう。
(耳打ち……)
ホルガーがエーファの耳元に顔を寄せている。話し声が聞き取れないことよりも、その光景の方が透子にとっては腹立たしかった。
(……でも、何を言われてもエーファがプロポーズなんて受けるはずないわ)
未だそう信じていた透子であったが、その妄信は呆気なく打ち砕かれることとなった。
『……わかりました』
「え……」
エーファの声。耳を疑う、とはこのようなことを言うのだろう。
わかった、とエーファは言った。何がわかったというのか。きっと、プロポーズを受けないということがわかったに違いない。透子のそんな最後の希望も、
『あなたの申し出、お受けします』
このエーファの言葉で塵と消えていった。
(そんな……エーファとホルガーが……)
視界が明滅する。魔力灯が切れかけてるじゃない。透子は施設の不備を嘆いたが、そもそも今はまだ昼間だ。太陽が昇っているし、魔力の節約にうるさいホルガーは魔力灯を点けない。
立ち眩みをするほど自分がショックを受けている。そんなこともわからないほど、透子は自分を失っていた。
そこからの行動はあまり覚えていない。それ以上話を聞いていたくなくて、エーファの部屋から離れた。そこまでしか、覚えていなかった。
「ようやくうなずいていただけましたか」
部屋の外で茫然自失に陥っていた透子とは裏腹に、ホルガーは満足げにうなずいていた。
だが、それに反してエーファの顔は浮かない。
「本当に――」
緊張、焦燥、不安、そして微かな希望、そんなものがない交ぜになり、エーファの声は震えていた。
「――本当に、私の呪いを解いて下さるんですか……?」
エーファは傍らにいたホルガーの腕にすがりついた。その小さな手は小刻みに震え、目には僅かに涙が浮かんでいる。
そんな今にも折れてしまいそうなエーファに、ホルガーはあくまで人当たりのいい微笑を向けた。
「心配ありません。今すぐは無理ですが、目処はたっています。もうその体質に悩まされることもなくなりますよ」
「そう、ですか……」
はっきりと告げられ、エーファはその場にへたり込んだ。
「あはは……ほっとしすぎて、腰が抜けちゃいました。お恥ずかしいです」
頬を染めるエーファ。緊張は解けたはずなのに、心臓は早鐘のように激しく打っている。長い間待ち望んでいた言葉に、柄もなく興奮している。そう自覚して、エーファはますます自分が高揚するのがわかった。
物心ついたときから、自分の体質には悩まされてきた。他人とかけ離れていることを呪い、自分に対して、そしていつだって優しく接してくれていた父に対してさえ、怨嗟の言葉を発したときもあった。
だが、その悩みからもようやく解放される。興奮しないわけがなかった。
「本当に、ありがとうございます……」
涙の混ざった声で、エーファは小さくそう言った。
ホルガーは答えない。ただ、自分の傍で座り込んでいる少女に、研ぎ澄まされたナイフのような眼差しを向けていた。
* * *
目を開くと、白い天井が目に入った。いや、細かく言うならその光景は誤りだ。暗い部屋の中。天井も白くは見えない。薄暗い、くすんだ色をしている。
自分の心みたいだ、と透子は自嘲した。何となくその天井を見たくなくて、右腕で目を覆う。視界は再び完全な暗闇に包まれた。
プロポーズの話を聞いてしまった後、透子は部屋に閉じこもっていた。気分が悪いと、ある意味では嘘ではない嘘をつき、夕食にも顔を出していない。
(……らしくないわ)
逃げ、という手段を取ったことは、今までほとんどなかった。嫌なことやつらいことがあっても、我慢して順応するか反発してはねのけてきた。そんな自分がこうして、何もできずに閉じこもっている。
本心では、自分にショックを受ける資格すらないことは理解している。
肉親でなければ友人でもなく、ましてや――。エーファとはただの主従関係に他ならない。ショックを受けるなら、父親である魔王くらいなのだ。
そんなことを自覚していてもなお、透子は自分の殻を破ることができなかった。
いつぞやの――まだそれほど月日は経っていないのに、昔のことに感じる――無気力感が体を苛み続ける。もうこのままずっと寝ていたい。
両目には腕を乗せたまま、もう一度意識を闇に預けようとした、そのときだった。
「…………ん」
始めは聞き間違いかと思った。それほどに控えめな大きさのノックだった。
もう一度、先ほどより大きな――それでも小さな音のノックが響いた。今度こそははっきりと透子の耳にも届く音で。
(はぁ……出たくないわね)
この城の中で、そんな控えめなノックをするのは、気弱な次男モルタともう一人くらいしかいない。前者なら叩き返すところだが、後者なら――。
三度ノックの音が透子の耳に響き、ようやく彼女は体を起こした。
寝る前にスーツを脱ぐという理性は残っていたため、ベッドから出た透子はワイシャツにショーツというあられもない格好である。髪もぼさぼさで、とても他人に見せられる出で立ちではない。
だが透子はそれを気にも留めず、ドアを開け放った。
「っ……」
廊下の明かりが目を刺し、一瞬だけ立ち眩む。すぐに明順応した透子の目に映ったのは、ある意味で今一番会いたくない人物だった。
「あ……その……体調が優れないと聞いて……すいません」
透子の予想通り、エーファ・ベルンシュタインその人が、顔を真っ赤にして立っていた。
「あの……その格好は……」
はしたない姿の透子を直視できず、しきりに目を泳がせている。もじもじプリンセスと呼んでも差し支えないほどに挙動不審でいる辺り、異性はもとより同性の露出すらほどんど見たことがないようだ。
そんなエーファを心から、全身全霊をかけて、食べてしまいたいほど可愛いと思いつつも、やはり透子の心には一かたまりの暗雲が立ちこめていた。
「先ほどまで横になっていたもので。お見苦しいものをお見せして申し訳ありません」
頭を下げる透子。もしこの様子を魔王が見ていたら、「僕にはドヤ顔で見せつけてきたのに」と愚痴を垂れそうだ。
「い、いえ、見苦しいだなんてそんな……! とっても綺麗で大きいです……!」
「ありがとうございます。……それで、何かご用でしたか」
あくまで事務的に透子が尋ねると、エーファははっとして手に提げていたものを差し出した。
「そうでした! お見舞いに来たんです! その……お邪魔でしたか?」
上目遣いに透子を見上げるエーファ。未だ、頬に朱が差している。
「……いえ、ありがとうございます」
一瞬だけエーファを見つめたあと、透子は鼻を押さえて背を向けた。
「ど、どうかしましたか?」
「心は疲弊していても、体は正直だと感心しておりまして」
「……? とにかく、やっぱり疲れてらっしゃるんですね。横になっていて下さい」
エーファに促されるまま、透子は照明を点けてベッドに向かった。鼻から流れる情欲がこぼれないようにするのに、細心の注意を払わなければならなかったが。
エーファはイスをベッドの傍まで持ってきて、そこにちょこんと腰掛けた。そして袋から果物ナイフと赤い果実を取り出す。透子にはリンゴにしか見えなかったが、異世界のものなので油断はできない。見た目はリンゴでも味はみかん。そんなことも考えられる。
「ちょっと待ってて下さいね」
にっこりとそう言うと、エーファはリンゴらしきものを剥き始めた。が、
「……エーファ様、普段料理はされますか?」
「大体モルタさんが作ってくれるので、全く……」
でしょうね、と言いそうになったのを透子はすんでのところで飲み込んだ。
リンゴを剥くエーファの手つきは、見ているこちらがはらはらするほどにたどたどしい。剥いた皮には大量に身がついており、短くぶつぶつと途切れている。
「で、できました」
ようやく剥き終わったらしいが、直径十センチはあったはずのリンゴは半分ほどの大きさまで縮んでいた。一仕事終えたとばかりに満足顔のエーファだが、その評価はとても透子の口からは言えない。
剥いたリンゴを八つに切り分け(芯は取らなかった)、エーファはフォークで刺して透子に差し出す。
「はい、透子さん、あーん」
透子は泣きたくなった。無論、感涙である。愛しい愛しいエーファがあろうことか「あーん」をしてくれている。心中の暗雲が晴れていくのがわかった。芯の苦さも全く気にならない。
「リンゴ、お好きですか?」
「たった今、一番の好物になりました!」
やはりリンゴだったようだ。ちなみに味もまごうことなくリンゴだった。
リンゴ一個(正確には半個分)をぺろりと平らげた透子に、エーファは眩しい笑顔を向ける。
「よかった、ならもう一個剥きますね」
そうエーファが言うのと同時に、ガリ、と苦い種を思い切り噛み潰してしまい、透子の顔に冷や汗が流れた。
「エーファ様! その……お礼に今度は私が剥いて差し上げます」
「そんな、病床の方のお手を煩わせてしまうわけには……」
「いえいえ! もうすっかりよくなりましたので!」
味自体には何の問題もない。だがさすがに丸々二個分の芯を食べる気にならず、かと言ってエーファに指摘するのも躊躇われ、透子はそっとエーファの手からリンゴとナイフを取り上げた。
エーファはまだ何か言いたそうな顔をしていたが、透子は構わずリンゴを剥き始める。
「わあ……透子さんお上手なんですね!」
透子の手つきに、エーファは目を輝かせた。
礼を述べつつ、透子の脳裏に懐かしい情景が浮かぶ。
(そう言えば、病気がちだった詠香に、こんな風にしてリンゴを剥いてあげてたわね……)
あのときも、最愛の妹はこのお姫様のように目を輝かせていた。
「ふふふ、このくらい、目を瞑っていてもできますよ」
言葉通りに目を閉じる。
さらにエーファを喜ばせたく、調子に乗ったのがいけなかった。
「つっ……」
チクリと指先に痛みが走る。親指の先から、赤い点が膨らんでいた。
(だ、ダサ……)
調子に乗ってケガ。こんな格好悪いことはない。
「いや~、失敗しちゃいました。ざまぁないですね」
照れ隠しにたははと笑って、親指を口に運ぼうとする透子。大した傷ではない。舐めて終わりだ。そう思ったが、
「ん、ちゅぷ……」
それより先に、エーファに手を取られてしまった。そして指先に感じる、暖かい粘膜。指の腹をなぞった舌の感触は、背筋が震えるほどにくすぐったかった。
エーファに指を吸われている。透子の脳がそう理解することを拒んだのは、あまりに刺激が強すぎたかもしれない。
「ちょ! ちょちょちょエーファ様!?」
「ん? なんれすか、とーこふぁん」
「あ、いや……くわえたまま喋らないで……」
ビクンビクンと背筋を震わせる透子。誰が聞いても快楽を感じている台詞だが、実際透子は言いしれない快感を得てしまっていた。変態である。
「ちゅぷ……ん……はぁ……止まりましたね。……あれ? 透子さん?」
ふやけるくらいにたっぷりと唾液を絡ませ、ようやくエーファは親指を口から離した。
「あ……あふ……」
透子は未だに体を小刻みに痙攣させ、快楽の残滓を貪っていた。顔は完全に上気し、とろけきっている。変態である。
「だ、大丈夫ですか透子さん!」
幸いにも、透子の残念な状態はネンネちゃんであるエーファにはわからず、リアルに心配される程度で済んだ。意味を知っていればもちろんドン引きしていたであろうことは、あえて言うまでもないことだろう。
たっぷり時間を使い、透子はようやく落ち着いた。
「一人で盛り上がってしまい、申し訳ありませんでした」
「いえそんな……って、え? 盛り上がる?」
「本当に、ありがとうございました」
「あ、いえ、どういたしまして。血が止まってよかったです」
透子の感謝は別のことに対してだが、エーファはそんなことを知る由もない。そして、世の中には知らなくていいこともある。
「それにしても、透子さんが体調を崩されるなんて珍しいですね。この城に来てから初めてじゃないですか?」
「冒険者にノされて倒れたことはありましたけどね」
自嘲気味に透子は笑ったが、確かに体調を崩したことはなかった。まあ、そんな暇などなかったと言った方が正しいのかも知れないが。
「風邪でしょうか。熱はないのですか?」
エーファがおでこを合わせようとしてきたので、これはやんわりと制止した。これ以上興奮してしまうと、本当にどうにかなってしまいそうだ。
「熱はありませんよ。少々精神的なことで……」
「精神的なこと?」
可愛らしく小首を傾げるエーファ。
「あなたが原因です」などとは口が裂けても言えない。ただ、色々と聞いてみたいことはある。そのチャンスは今しかない、と思った。
「エーファ様」少し、躊躇いを含めながら透子は口を開いた。「少し、お聞きしたいことがあるのですが……」
「聞きたいこと? 私で答えられることなら」
「それは……」
ベルンシュタイン城の異様な金品の減り方。そしてなぜエーファは食事を一緒にとらないのか。そしてプロポーズのこと。聞きたいことはたくさんあったし、エーファに関わることならどんなことでも知っておきたい。
だが、透子の口は疑問を発することなく止まっていた。
「どう、しましたか……?」
エーファの様子がおかしいことに、透子は気付いた。頬は少し紅潮し、呼吸も浅く早い。
「エーファ様? どこか調子が――」
そしてこの言葉も、途切れさせざるを得なくなった。
突如、椅子に座ったままのエーファの体が大きく揺れた。
「エーファ様!」
透子はとっさに手を伸ばす。床に崩れ落ちることなく、エーファの体は透子の右腕に収まった。
その華奢な体を支えた瞬間、透子はあまりの軽さに驚いた。痩せ形だとは思っていたが、それを通り越して文字通り折れてしまいそうな痩躯をしている。普段はゆったりとした服を着ていることが多かったので、ここまで細いとは思ってもいなかった。
(いや、違う)
服のせいでわかりにくかったのではない。体型をごまかすために、そういう服を着ていたのだ。透子を含め、他の者によけいな心配をさせないために。
「バカ……」
思わずそう呟いていた。他人を優先しすぎたエーファと、それを見抜けなかった自分に対して。だが、それを悔いていても始まらない。エーファは完全に気を失っている。病状はわからないが、悠長に構えている暇はない。
「救護室……いや」
ふと、透子はエーファと初めて会ったときのことを思い出した。あのとき、玉座の間に現れたエーファを見て、珍しく魔王が狼狽していたはずだ。
(――「な、何でここに! 部屋にいるように言っただろう!」――)
あの台詞は、まさにこの状況を予見したものではなかったのか。ただの箱入り娘というだけではない。部屋を出る、あるいは離れることはエーファにとってよくないことなのだ。
そのことに気付いた瞬間、透子はエーファを抱えて部屋を飛び出していた。
見た目よりずっと軽い、エーファの体重を両手に感じながら。
* * *
「後は私にお任せ下さい」
エーファの部屋に着くと、当然のようにホルガーが待ち構えていた。
「あんた、こうなることを知ってたの?」
エーファに寝かせながら、透子は尋ねる。半ば睨むようにしていたが、ホルガーはどこ吹く風でそれを受け流した。
「まさか。いつもの業務で部屋を訪れても、姫様のお姿がどこにも見えない。そう言えば、調子を崩している人がいた。お優しい姫様ならお見舞いに行かれるだろう。と、単に状況から推測しただけですよ」
その言葉に矛盾することは何もない。だが、透子はある一点が引っかかってホルガーに詰め寄った。
透子よりホルガーは少し背が高い。上目遣いで睨みつけた透子の目を、ホルガーはいつもと変わらぬ飄々とした目で見下ろした。
「今の話しぶりだと、エーファ様がこうして倒れるところまで予測できていた、そう聞こえるのだけれど」
「そう言ったつもりですが、何か?」
「あんたねえ……!」
無意識に透子はホルガーの胸元を掴み上げていた。だがそうされてさえ、ホルガーは顔色一つ変えない。それがさらに透子の苛立ちを募らせる。
「なら倒れる前にどうにかすることもできたんでしょう? つらそうにしているエーファ様を見ても、あんたはどうにも思わないの?」
半ば叫ぶような詰問だが、やはりホルガーに堪えた様子はない。それどころか、こうして取り乱している自分を面白がっている風にさえ、透子には思えてしまう。
「問題ありませんよ」
にっこりと笑うホルガー。
「命には別状がありませんから」
そうして返ってきた答えは、答えになっていなかった。
カッと自分の頭に急激に血が上ったのを、透子ははっきりと自覚した。
「そういうことじゃないでしょう!」
今度こそ感情に任せ、透子はホルガーに怒鳴り散らす。
「命に別状がないのなら、エーファがこうしてつらそうにしていても何とも思わないの!? プロポーズしたんでしょう!」
ホルガーの眉が僅かに動いたことに、冷静さを失っていた透子は気付かなかった。
「……お静かに。姫様が眠ってらっしゃいます」
ギリ、と透子は唇を噛む。エーファを引き合いに出されては、黙るしかない。
「聞かれていたとは迂闊でしたが、伴侶となるからこそ、貴女に口を出される筋合いはありません。何より、姫様の体のことは私が誰よりも知っています。今回の原因も、その対処法も。それとも貴女に代わりが務まりますか」
「そ、れは……」
ホルガーの言うことは全くもって正論だった。だからこそ、透子は胸が締め付けられるような感覚を覚える。
「お前にエーファの何がわかるのだ」
そう言われたのと同義なのだから。
「少々言葉が過ぎましたね、すいません。ですが、姫様の後のことは私に任せていただきます。お引き取り下さい」
「せめて、せめて一緒にいさせてもらうことはできないのっ?」
「貴女が姫様の体のことを知っているならともかく、そうでないのならこの先のことは姫様自身が見られたくないはずです」
「ぐ……」
くやしい。正直言ってくやしい。だが、透子にはどうすることもできないのが事実だ。愛しのエーファを支えることはもとより、ともにいることすらできない。
いつか感じた無力感が、重く重く透子の背中にのしかかった。
「……一つ、助言を差し上げましょう」
そんな透子を慮ったわけではないだろうが、部屋を出ようとした透子にホルガーが声をかけた。
「助言?」
「ええ、姫様の呪いをお教えすることはできませんが、その外側ならお話しできます」
そう言って、ホルガーはベッドで眠るエーファに目を落とした。汗をかき、いまだ苦しそうにあえいているエーファ。額には玉のような汗が浮かんでいる。その彼女を見るホルガーの感情を、透子は読みとることができなかった。
「呪い、って言った?」
現代日本では、ほとんどフィクションの世界でしか使われない言葉。それが透子に引っかかった。
そうです、とホルガーは透子に向き直る。
「誰からかけられた呪いなのかは、残念ながら私にもわかりません。そして、その内容を貴女にお教えすることはできません。ですが、一つだけ言えることがあります」
ホルガーは懐から、何かを取り出した。手の中のものが触れ合い、透き通った、しかしどこか尖った音を響かせる。
「金貨、それに宝石?」
金色の輝きを返す硬貨、そしてその金貨に負けじと輝く宝石だった。どちらも、今までの透子には全く縁のなかったものだ。
「貴女は疑問に思っていましたよね。どうしてこの城の出費はかさんでいるのかと。ある程度予想はされていたかも知れませんが、姫様の呪いが関係しています」
「……エーファ様に浪費癖がある、わけないわよね?」
「それはお答えできません」
「なら、今こうして彼女がつらそうにしているのは、この城が貧乏だからってこと?」
「それもお答えできません。ですが、金銀財宝があるに越したことはない、とだけ言っておきます」
「……性格悪いわね」
「よく言われます」
皮肉を笑顔で返され、こいつに口で喧嘩を売っても無駄だ、と透子は判断した。
「まあいいわ。なら私がやることは変わらない。あんたは早くエーファ様を楽にさせてあげなさい。見てるこっちもつらくなるわ」
非常に癪だが、エーファはホルガーに任せるしかない。全て抜け落ちてしまいそうなほどに後ろ髪を引かれたが、透子は部屋を出て行かざるを得なかった。
後ろ手にドアを閉め、透子は小さくため息をつく。自分の心を入れ替えるために。
(私がエーファにできることはない。でも、エーファのためにできることはある)
思考のために目を閉じたのは数秒だけ。
透子は、ある場所へ向かって歩き出した。
「迂闊でしたね」
ぽつりと、ホルガーは呟いた。
「手を打つ必要はあるでしょうか……」
自分へと向けた問いかけは、誰からも答えられることなく部屋の中に解けていった。無論、横になっているエーファからも答えは返ってこない。
「ダンジョンの強化、オークたちの鍛錬、そして、それに伴う魔力の消費……ふふふ、笑えませんね」
苦笑いを浮かべ、指を鳴らす。その乾いた音を合図に、エーファの部屋にある異質な機械――魔力を貯蓄する魔力水晶がぼんやりと紫色の光を放ち始めた。
光が強くなると同時に、エーファの体にも異変が起こり始める。
「ん……んぅ……」
苦しそうに喘ぐエーファ。その体が魔力水晶のように発光し、紫色の靄――魔力が水晶へと吸い込まれていった。魔力が吸われるのは無反動とはいかないらしく、体がびくんびくんと痙攣している。
「あ……うぁ……」
呼吸を求めるように口はぱくぱくと開き、その端からはよだれがこぼれていく。目も開ききっているが、そこには何も映していない。意識が戻ったというわけではなく、この苦悶に対する反射だろう。
首を思い切り絞められると、ちょうどこのような顔になるかも知れない。
もがいているうちに、エーファに被せていた布団は蹴飛ばされてしまった。着替えさせる暇がなかったので、エーファはドレス姿のままだ。その裾から、真っ白く美しい太ももが露わになっている。
そんな、およそいつもの清楚なエーファからは想像もできない様子を見ても、ホルガーは顔色一つ変えなかった。一瞥しただけで、すぐに魔力水晶に視線を戻してしまう。
魔力を吸い尽くしたのか、しばらく経って魔力水晶はその不気味な輝きを収めた。エーファの様子も落ち着いたものに戻る。
「もうそろそろ十分でしょうか。次の段階へと進みましょう」
そう独りごちると、ホルガーは部屋を後にした。
* * *
鍵穴に、金色の錠前を差し込む。それを軽くひねると、確かな手応えとともに鍵がグルリと回った。
重苦しい音を響かせながら、重厚な扉を押し開ける。
その部屋に入ると、金属特有のにおいが微かに鼻をくすぐった。
「金銀財宝が山のように……って思うのは、私が単なるOLだったからなんでしょうね」
薄暗い部屋に目が慣れると、目の前には大量の金貨や宝石、貴金属が山になっていた。魔力灯を点けると、それらは目映いばかりの輝きを返してくる。
透子がやってきたのは、ベルンシュタイン城の宝物庫だった。
「ただのOLがこんな財宝を管理するようになるなんて……OLのOはopulent(富裕な)のO、なんつって」
笑ってみても空しいだけ。何しろ、山のようにあるように見えて、この財宝たちは一年しかもたないのだ。いや、ダンジョンで釣り針に使うことも考えれば、もっと短くなるかも知れない。
「ま、そんなことはさせないけど」
つかつかと透子は宝物庫の奥に歩みを進める。無造作に転がる財宝には目もくれない。
宝物庫の奥には、財宝ではないものたちも安置されていた。
禍々しい気を放つ剣や杖などの武器から、鎧や大小様々な盾といった防具、そしてよくわからない玉などの呪具。財宝とは異なり、それらは丁寧に棚に置かれていた。きちんと数えたことはないが、百点は超えているだろう。
これらは全てマジックアイテムである。魔力を媒介にして効果を発現するそうだが、
(――「これらは全て古いものです。どんな副作用や反動があるかわかりません。ですので、使わない方がいいでしょう」――)
とのホルガーの言葉で使用を自粛していたのだ。
「でも、もう出し惜しみなんてしてられないものね」
財宝の不足により、エーファが苦しむ可能性が高まる。であれば、ダンジョンで財宝を奪われるなどあってはならない。そのためには、手っ取り早く強くならねばならないのだ。
「そのためには、多少のリスクは覚悟しないと……」
きゅっと唇を引き結ぶ透子。エーファのためなら、自分はどうなってもいい。どんな副作用や反動でも受け入れる。そんな覚悟が透子にはあった。
どれがいいのかしら、と棚を順番に覗いていく。様々な種類の魔道具があれど、透子にはその効果や能力などわかるはずもない。「いい茶器を買ってこい」と上司にパシらされて古道具屋に行ったことを思い出し、無駄にうんざりした気分になった。
(こんな玉とか、どう使えって話よね。これは……竿? 釣りでもするのかしら。杖なんか使ったって、魔法自体をどう使えばいいのかわからないし。やっぱり、剣なんかの方がわかりやすくていいわよね。……そもそも、私に魔力ってあるのかしら?)
うんうん唸りながら宝物庫の奥へと進んでいく。
やがて、一枚の扉にたどり着いた。その扉には、それほど古くない張り紙がしてある。
はっきりと、『立ち入り禁止』という几帳面な字が書かれていた。
(ホルガーの字だわ。立ち入り禁止ってことは、こっちより強力なものが置いてある可能性が高いわよね。貴重なものか、あるいは危険、か)
透子がここまで来るのは初めてだった。そして、いつもの透子ならここで引き返していた。立ち入り禁止と書いてあるならば、それに従うべきだ。だが、このときの透子はあえてその自戒を無視した。
もっと強くなって、もっとダンジョンで稼ぎたい。そして、エーファを助けてあげたい。その一念のみに囚われていた。
「……行きましょう」
覚悟を決め、ドアノブに手をかける。ひんやりと冷たいそれは、全く埃をかぶっていなかった。
扉は簡単に開いた。入っちゃだめなら鍵くらいかけときなさいよ、と透子は思ったが、そもそも扉には鍵穴がない。
不用心にも程がある、と勝手に入ったことは棚に上げ、透子は扉の先に進んだ。そこはたった二メートル四方ほどの小さな部屋だが、宝物庫に入ったときのような埃っぽさは感じない。
部屋の中に、宝物庫の明かりが差し込む。その光を返してきたのは、たった一振りだけの、白銀を主にした剣だった。
「どうしてこの一振りだけこんなところに……?」
特別なものであることは間違いないだろう。だが、ひとつだけわかることがある。
(……嫌な予感がする)
わざわざこんなところに安置してあるのだ。自分は、この謎の剣を見つけるべきではなかったのではないか。やはり、立ち入り禁止を破るべきではなかったのでは。
できれば杞憂であってほしい。そんな思いは、呆気なく裏切られた。
「そこで、何をしているのです?」
不意に背後からかけられた声に、透子は口から心臓どころか小腸あたりまで飛び出るほど驚いた。
「なっ! なななな何よ! きゅ、急に声かけるんじゃないわよ! もし私が心臓弱かったら今ので死んでるわよ!?」
涙目になりながら抗議の声を上げるが、背後にいた人物――ホルガーは何も答えなかった。
いつものような薄い笑顔。宝物庫からの逆光も相まって、とことん不気味に見える。ホルガーの心が読めないのはいつものことだ。しかし、今この瞬間ばかりは、透子にはホルガーがこの世のものでないほど恐ろしかった。
「立ち入り禁止、と書いてあったはずですが」
ようやくホルガーが発した声は、普通の氷を通り越し、ドライアイスにも似た冷ややかさを纏っていた。今なら、息を吹きかけただけで水が凍りそうだ。
そんな声に、さらに背筋が凍る感覚を覚えたが、透子は会社勤めで培った営業スマイルを顔に貼り付けた。
透子も一応人間なので、負い目を感じることもある。
「何よ、私が入りたかったから入ったの。悪い? 悪くないわよね」
などとは言えず、そそくさとその場を退散することに決めた。
「いや~、暗くて見えなかったの。すぐ出て行くわ、ごめんなさいね」
本心など0パーセントだが、社会で生きていくには建前は必要不可欠である。当然ホルガーも額面通りには受け取らないだろうが、今はこの場をしのぐことが先決。そう透子は判断した。
ホルガーの脇をそろそろとすり抜ける。腕でも掴まれないかと内心ビックビクだったが、それは杞憂だったらしい。すれ違い、そして透子が宝物庫から出て行くまで、ホルガーは一言も発さなかった。
平静を保ったまま宝物庫を出、後ろ手に扉を閉めたところで、透子は大きく息を吐いた。まだ中にホルガーがいるが、今の透子にそんなことを気にする余裕はない。
「………………ビビった」
素直にそうこぼす。ホラー映画も涙目なホルガーの登場に、心臓が止まるかと思った。タイミングが良すぎるにも程がある。
「あの剣、何だったのかしら」
首をひねりつつ、透子はその場を後にした。
歩き去っていく透子を、ホルガーは宝物庫の扉の隙間からじっと見ていた。その顔に、いつもの微笑みは欠片ほども浮かんでいない。ただただ、冷徹な光を瞳に宿している。
やがて廊下の先に透子の姿が見えなくなると、ホルガーは宝物庫の中へ踵を返した。
その向かう先は、例の小部屋へ向いていた。