就職するOL
~第一章~
目を覚ますと、透子は簡素なベッドに寝かされていた。今までもいい布団で寝ていたわけではないが、それに輪をかけて貧相だ。もはや敷き布団とは言えない。ただの布である。
「ここは……?」
ゆっくりと体を起こす。寝ていた場所が場所だからか、体の節々が悲鳴を上げた。
木の壁に木の床。ベッドもよく見たら木造だ。鉄筋コンクリートなど全く見当たらない。
一昔前の学校みたいね、と透子は思った。例えるなら、今いる部屋は保健室だろうか。
(拉致された……?)
それは当然の疑念だった。怪しい面接に怪しい面接官、そして謎の昏倒、おまけに見知らぬ場所と来た。状況証拠だけならば、満額払っておつりがくる。
「でも、何かを盗られてるわけじゃないのよね……」
財布もあれば、電波はないが携帯もある。来ていたスーツもそのままだ。脱がされた形跡もないので、いかがわしいことをされたわけでもなさそうだ。
「やあ、お目覚めかい?」
「っ!」
突如聞こえた声に、透子は無意識に身構えた。
いつの間にいたのだろうか、一人の男が、ドアにもたれて立っていた。なかなかの二枚目だが、軽薄そうにも見える。ピンピンにとがった金髪も目立っていたが、透子にとっては何よりも、マントに甲冑というどこからどうみても勇者に見える格好が目に付いた。
「……レディの部屋に入るときは、ノックをするのが礼儀ではなくて?」
軽口を叩きつつも、なるべく自然な動作でベッドから降り、すぐに動ける体勢を作る。部屋を見渡すことも忘れない。残念ながら、武器になりそうなものは見当たらなかった。
「ここはどこなの? 私はこれから何をされるわけ」
半ば睨むようにしながら問いかけるが、勇者はニヒルな笑みを崩さない。
「ここはカルテルト大陸。その西の端さ。〝君たちの世界〟で言うと、いわゆる異世界ってやつだよ」
異世界、と透子は反復した。
そんなものあり得ない、と駄々をこねる子どものように現実を否定するのは簡単だ。だが、不可思議の一端はもう目にしてしまった。世の中には、自分の常識で計れないものもある、それだけのことだ。
今までの固定概念を、透子は短い息とともに吐き出した。
異世界の存在は納得した。だからと言って、今の自分の安全と、この目の前の男の信用とは別問題だ。
「そう睨まないでくれよ。警戒しなくてもいいじゃないか。せっかくの美人が台無しだよ」
大仰な動作で、イケメン勇者は手を広げる。
「警戒するなって言う方が、ちょっと無理があるんじゃないの? そんな物騒なものを持っておいて」
透子の険しい目は、イケメン勇者の腰と、そして左手に注がれた。
「ああ、これかい? はははは、勇者が聖剣を持っているのは当然じゃないか! ちなみに、こいつは聖剣ハープギーリヒ。僕の相棒さ!」
声高々に、そしてついでに鼻も高々に、勇者は腰の獲物を抜きはなった。純金なのかメッキなのかは透子には知る由もないが、キンキラキンの刀身は、少なくとも透子には悪趣味に見えた。
「フフフ、そう物欲しそうな目で見ないでおくれよ」
「いやいや」
「代わりと言っては何だが、キミには勇者ギルドからこいつが支給されたよ。ま、僕の剣には劣るけどね!」
ハープ何とかを鞘に納め、勇者は左手の一振りを透子に差し出した。
(わざわざ一言余計なのよ)
心中で悪態をつきつつ、おそるおそる両手でそれを受け取る透子。ずっしりとした感触が、本物の剣であることを物語っていた。
「そいつは聖剣フェアラート。ま、気品も何もない、ただの剣さ」
ハープ略とは違い、その剣の装飾はいたってシンプルだった。鞘も柄も金色を主にした装飾ではあるものの、宝石の類は鍔の部分にサファイアのようなものが埋め込まれているだけ。だが、そのシンプルさに、透子は好感を覚えた。
試しに抜いてみようとしたが、どれだけ力を込めても全く抜ける気配がない。ぐぎぎと粘ってみても、結果は変わらなかった。
「はぁ、ふぅ……ちょっと、全然抜けないんだけど。鍵とかないの?」
そもそも鍵穴などないのだが。
イケメン勇者はそんな透子を眺め、次第にプルプルと痙攣を始め、
「ク、ククク……アーッハッハッハッハハハハ!」
その痙攣は大爆笑へと変わった。
(こ、殺してやろうかしら……)
顔と腹を押さえながら笑う様は、まるでアメリカのホームドラマのようだ。その標的にされた透子に生まれた衝動は、全くもって仕方ないと言える。だが彼女もいい大人。殺意をぐっと抑え込んだ。
「ど、どうして笑われないと、い、いけないのかしら?」
だが、ヒクつく眉と震える声は隠せない。勇者はそんな透子の様子は歯牙にもかけず、役者のように語り出す。
「勇者見習いのキミに、いいことを教えてあげよう! 聖剣は、ただの剣とは違う。聖剣には意思がある。それがどういうことかわかるかい? わからないだろう! 我々が道具を選ぶように、聖剣もその使い手を選んでいるということさ! つまり、鞘から抜くことさえできないキミは……ク、クク、プーッフッフッフッフ!」
見た目はただの豪華な剣だ。その剣に意思がある。使い手を選んでいる。精霊崇拝とはかけ離れた生活を送っていた透子にとって、そんな話は眉唾でしかない。だが、鞘から抜けないのは事実だ。やはり認めるしかない。
そして、笑いすぎて引きつけを起こし始めた勇者を見て、自分がこの上なく馬鹿にされていることは、しっかりと理解できた。
「……よござんしょ。私に勇者の素質がないことはわかったわ。――それで、これからどうしたらいいのかしら?」
「おっと、そうだった。キミは〝こちら〟に来るのは初めてだろう? 面倒だが、少しこの辺りを紹介しよう。何もわからず、足手まといになっても困るからね。僕の後について――」
嫌みたらしく言って、勇者が部屋を出ようとしたとき、不意に部屋の窓が音を立てた。見ると、一羽の鳩が窓ガラスをつついている。
「ああ、手紙だよ。キミたちの世界の……何だっけ? メール? みたいなもんはないからね。ま、そんなもんより、手書きの方が味があっていいと思うけどね!」
またも嫌みたらしく言って、勇者は鳩を部屋に入れた。足に結ばれた筒から手紙を取り出し、何やら満足そうにうなずいている。ニタニタ顔が気持ち悪い。
長く見てると毒になる、とばかりに透子は勇者の顔から目線を外し、ぼんやりと鳩を眺める。もちろん、「鳩や! 超可愛いやんけ!」などと思っているわけではない。彼女なりに、今までの情報を整理していた。
まず一つ。ここはどうやら本当に異世界のようだ。そして自分は勇者になったらしい。非現実的極まりないが、来てしまったものは仕方がない。元の世界には、妹の遺骨くらいしか未練はない。そもそも、戻れるのかどうかもわからないが。
そしてもう一つ。透子は〝この世界〟のことなど知らなかったが、この勇者は〝元の世界〟を知っているらしい。それがどの程度のものなのか。そしてどのくらい周知されているのか、少し調べる必要がありそうだ。
不安がないと言えば嘘になるが、結局はなるようにしかならないのだ。
(何よりも、この上司が心配ね……)
所在なさげな透子を無視し、勇者は部屋の隅にあった机で手紙を書き始めた。ただの部下ならまだしも、初対面である。もう少し気を遣ってもいいんじゃなかろうか。
「……時間がかかりそうね。先に外で待っていてもいいかしら」
仕方なく、透子はそう言った。勇者の返事は、手をひらひらと振っただけ。その動作に対して深いため息を吐き、透子は聖剣片手に建物を出た。
ギルドという名のボロ屋を出ると、そこは石畳の大通りだった。
(一昔前のヨーロッパみたいね。あるいはRPGかしら)
立ち並ぶレンガ造りの家々や何かしらのお店を眺め、透子はそんな感想を抱いた。
建物の奥には山々が見えているが、ここが田舎なのか都会なのかはわからない。ただ、大通りを歩く人々の数は少なくなく、露店からは呼び込みの大きな声が響いてくる。なかなかに活気のある町のようだ。
「田舎でがっかりしただろう?」
手紙とやらが出せたのか、後から出てきたイケメン勇者が、開口一番そんなことをのたまった。甲冑や腰に下げた剣がにぎやかな音を立てる。ちなみに透子は、機能美に溢れるスーツでもさすがに剣を差すところなどなく、仕方なく手に持っている。
田舎だったのか、と思うよりまず、透子は僅かに眉をひそめた。もちろん、ムダにキンキラキンの甲冑に日光が反射したからだけではない。
「ここはギルドの中でも支部も支部でね。僕という逸材を眠らせておくにはもったいない。全く、不本意の限りだよ」
本当に役不足なのだろうか、とはさすがに口には出せなかった。当然、正しい意味での〝役不足〟である。
透子は第一印象から彼の人となりには疑問をもっていたが、どうやらそれは間違いではないようだ。道行く人々が透子たちを見ては、目を逸らしたりひそひそと小声で話したりしている。少なくとも、好意的には見えない。
「ま、ここで立ち話も何だし、町の外に行く前に食事でもしようか。こんな辺鄙な町だが、美味しい店があるんだ」
そう一言余計なことを言ってニヒルな笑みを浮かべると、勇者は透子の返事を待たずに歩き出した。
ガシャガシャとキンキラキンの甲冑をにぎやかに鳴らしつつ、勇者は大通りのど真ん中を歩いていく。自動車などはないようなので、特別危険はなさそうだが、大小様々な荷馬車は通っている(とは言え、荷車を引いているのは、牛と馬の中間のような、見たこともない生き物だったが)。だが、徒歩の人はもとより、荷馬車でさえも、勇者を見るなり道を譲っていく。モーゼの開海のようだ。
「フハハハ、快適だろう?」などと勇者は笑っていたが、その後を歩く透子は落ち着かないことこの上ない。針のむしろとは、こういうことを言うのだろう。
「ここだよ」
勇者が足を止める。数分歩いただけだったが、透子にとってはとてつもなく長い時間に感じた。
俯いていた顔を上げ、透子が目にしたのは、
「あら、ずいふんと人気があるみたいね」
店の前に長々とできた行列だった。なるほど、店の方からは美味しそうな香りがただよってくる。
「だいぶん待たないといけないわね。ま、その分楽しみが後に……」
「はは、キミには何を言ってるんだい?」
列の最後尾に向かおうとした透子を一笑に付す勇者。そして取った行動は、日本という国で生きてきた透子にとって、非常識極まりないものだった。
「そんな所で突っ立ってないで、キミもおいでよ」
さも当然のように、勇者は列の先頭に立ったのだ。
「いや、でも……」
「ははは、何だいその、魔王が魔力弾を食らったようなアホ面は」
鳩が豆鉄砲食らった顔、と同義だろう。
「まさか、馬鹿真面目に列に並ぶつもりじゃないだろうね。僕たちは勇者だよ? こいつらを守ってやってるんだ。このくらいの特例は当たり前だろう。文句ある奴はいるか!?」
最後の言葉は、列に並んでいる人々、引いては道行く人々全てに向けられていた。だが、それに答えるものはおらず、先ほどのように目を逸らしていく。
(勇者は幅を利かせるのがこの世界の常識、というわけじゃなさそうね)
文句がないのではなく、言えない。誰の目から見てもそれは明らかだったが、勇者はドヤ顔を浮かべているだけ。
本来なら、列の割り込みなどという提案は、そのドヤ顔ごと切って捨てたい気分だが、一人で行動するにはまだこの世界のことを知らなすぎるし、この見るからに気分屋の勇者に刃向かうのは早計すぎる。
情報の収集という目的も含め、
「……よござんしょ。なら、ご一緒させてもらおうかしら。私も勇者の端くれですものね」
透子は悪魔の提案に乗ることにした。
だが、それからたった数分で、透子は早くも自分の選択を後悔することになった。
まず入店して一発目、席に案内したウェイトレスの可愛らしい小尻を、このイケメン勇者は思いっきり撫で回した。
「もう、相変わらずなんですからぁ」とウェイトレスは笑っていたが、その目には涙が浮かび、額には青筋が浮かんでいた。言葉から察するに、毎度のことらしい。
そしてその食後の、注文を取る際。ここでも透子の憤怒ゲージを溜めることとなった。
「いつもの」
常連ではあるようなので、勇者のその一言には、特に何も思わない。だが、
「えっと……いつもの、と言うと……」
「いつものって言ったらいつものだろ? そんなこともわからないのか?」
「で、でも、毎回召し上がるものが違うので……」
「だから何だ? いつものってのは、僕が食べたいものだ。それくらいわかるだろう」
無茶苦茶な会話だった。半泣きだったウェイトレスの顔が、透子の脳裏によみがえる。
結局、店側が選んだのだろう、魚介らしき料理が運ばれてきたが、「これじゃない」と一言で切って捨て、作り直させたのもポイントが高い。
そして今――
「我々の仕事は、この町の治安維持、それだけさ! 楽なもんだよ! はっはっは!」
「あーそーですかーへー」
透子と勇者は、食後の雑談としゃれ込んでいた。とは言っても、勇者が投げるボールを、透子が受け流しているだけである。キャッチボールにはなっていない。
また、ただ会話しているだけならいいのだが、
「おい! 水! まあ何だ、超絶辺鄙な所だけど、仕事なんてあってないようなもんさ!」
目の前に水差しがあるのに、わざわざウェイトレスに入れさせたり(もちろん、その際のセクハラも忘れない)、他の客のことを考えずに大声を出したりと、マナー違反の限りを尽くしていた。これまでの態度も数えれば、数え役満におまけがついてくる。
(我慢よ……我慢するのよ、古迫透子……)
微妙な愛想笑いを浮かべながらも、つい目蓋がぴくぴくと動いてしまう。
何かの肉料理を口にしたが、怒りを爆発させないように必死で、味など全く覚えていない。今も、コップを割らんばかりに握りしめることで、何とか自制心を保っているほどだ。
「えーっと、仕事があってないようなものって、この町は……その……モンスター? 的なモノに襲われることが少ないの?」
モンスターという存在をどう表現するべきか僅かに逡巡し、結局そのまま口にした。
透子の問いかけには、これからこなしていくべき仕事内容の確認という意味合いもあったが、話をすることで気を紛らわせる目的の方が強かった。
「そうだねえ……」勇者は僅かに考える素振りを見せる。「この町からほぼ真北に行った所に、魔王城がある」
「魔王城……?」
陳腐な響きではあるものの、勇者となったらしい自分には無視できない単語に、透子は僅かに緊張した。魔王城と言うからには魔王が住んでいるのだろうし、その軍勢もいるだろう。勇者の言葉では、このギルドには自分も含めて二人しかいない。田舎と聞いたが、とんでもないものが存在しているではないか。
だが、そんな透子を馬鹿にしたように、勇者は鼻を鳴らした。
「なに、構えることはない。そこの連中は腰抜けでね、全く悪魔らしい行動は起こさない。城に引きこもっているような連中だ。数年前……ああ、五年前だったか、この町を襲撃した記録が残っているくらいだ。ま、大したことはできなかったようだがね!」
相も変わらず、勇者は大声で話し続ける。
「だから、魔王城のことは全く恐れる必要がない。なんなら、外の森に住んでる、野良魔獣や魔物、動物の方が厄介なくらいさ! ま、それもレベルの低い雑魚ばかりだけどね!」
ガハハハと下品に笑う勇者。きったない唾が飛んでくるのを、透子は反射神経だけで避ける。勇者の一挙手一投足に苛立ちが募っていく。
「さ、さっき、守ってやってるって言ったわよね?」
堪忍袋の口を必死で縛っているため、つい声が震えてしまう。手も小刻みに震え、コップに水の波紋が生まれまくっている。
「でも、今の話を聞く限りだと、あまり大した仕事があるようには思えないのだけれど」
純粋な疑問だった。だが、その回答も透子はある程度予想していた。小さな事だが、守ってやってることには変わりない、などと。
だが、帰ってきた言葉は、そのさらに斜め上を行っていた。
「はっはっは! 愚問だね! 我々勇者の存在そのものが町のためになっている。そうは思わないか!?」
思わない。断言したかったが、すんでのところでその言葉を飲み込んだ。
透子はこの世界のことなど何も知らない。勇者の存在そのものが、魔物を抑える抑止力になっている。その可能性も考えられる。だが、勇者の言葉に一瞬殺気立った店員や他の客の反応が、そうでないことを如実に物語っていた。
「……ご高説、ありがたく頂戴しておきますわ。もう参りましょう」
至極丁寧な口調で言い、透子は席を立った。もう、この目の前のイケメンと話などしていたくなかった。ヨイショしたのがよかったのか、勇者は不満を口にせずに透子に従った。
精算時に透子の分も払ってくれたが、
「いや~、後輩ができると、こういうところで気を遣わないといけないからね~。ま、これもデキる先輩のサダメだよね~。困っちゃうな~!」
とこれ見よがしに言っていたので、尊敬の念はもとより感謝の念すら起きなかった。
「大丈夫、今までだって、大抵の理不尽は耐えてきたもの……今回も耐えられる。きっといつか慣れる……」
上機嫌で歩く勇者の後を、自分で自分にブツブツと言い聞かせながら透子は歩く。
この鈍感で馬鹿な勇者は気付くべくもないが、透子は完全に我慢の限界だった。幽鬼のように軽く俯き、口からはぼそぼそと呪詛のような独り言が漏れ、背中からは悪魔も真っ青のドス黒いオーラが立ち上っている。
今までは〝勇者〟という存在そのものを避けていた町の人々も、今は透子を恐れて道を開けていた。
「我慢よ……もう少しだけ我慢するの……きっと慣れるから……そうしたら、今まで通り頑張れる……」
逆に言えば、背後でこれだけ呪詛を呟かれているにもかかわらず、全く意に介さない勇者はなかなかの剛胆なのかも知れない。いや、気付いていないだけだろうが。
ともあれ、透子はもう限界だった。水で例えるなら、もう表面張力でコップの縁より高い状態。とあるパチンコで例えるなら、もうクルーンが銀玉で溢れかえっている状態。
あと五分でいい、五分でいいから、このまま何もなければここでも透子は適応できる。
そう自分に言い聞かせつつ、耐えに耐えてきた堪忍袋の緒が、
「カァ――――――、ッペ!」
ブツン、
と音を立てて引きちぎれた。
「……………………やってらんないわ」
ぴた、と立ち止まり、俯いたまま透子は呟いた。その呟きは、今まで透子が発してきたどんな言葉よりも、怨嗟とか憎悪とかいう真っ黒いもので染まっていた。
大きくない、むしろ普段よりも小さいくらいの声量だったが、その声は大通りを歩く人という人の耳に届き、そのあまりの負の感情から、半径十メートル以内の音と動きを制止させた。
もちろん、その範囲内にいた、気持ちよくタンを吐いた勇者とて例外ではない。
「え? 今何ドゥッフォ!」
聞き間違いかと振り向こうとした勇者だったが、後頭部にこれでもかというほどの鈍器の衝撃を受け、数メートル吹っ飛んだ。
宙を舞う姿はさながらチリカス。
地面を転がる姿はさながらゴミクズ。
無様に倒れ伏した姿はさながらボロ雑巾。
「ざまぁないわね」
地面に転がった金ピカのボロ雑巾に、透子はまさにボロ雑巾を見るような冷酷な目で見下した(決して「見下ろした」ではない)。あるいは、ボロ雑巾の方がまだ多少の憐憫を込めてもらえたかも知れない。
「もし私がこの剣に認められていたら、今頃ここに転がっていたのはあなたの首だけだったわよ」
吐き捨てるように言い、聖剣フェアラートを一振りする透子。刀身に付いた血を払うような動作だが、あいにく透子は鞘から抜くことはできない。
つまり、ただの撲殺である。
「な……何で……」
残念ながら死んでいなかった。気丈にも勇者は疑問を投げかけるが、プルプルと痙攣するその姿は、さながら生まれたての子馬とでも言えばいいだろうか。
勇者は、本当になぜ自分が殴られたのかわからなかった。皮肉なことに、町の人間でさえ、その答えにすぐにたどり着けない。傍目には、変なカッコをした仲間であるはずの勇者が、突如その上司を殴り飛ばしたようにしか見えなかったのだ。
「なぜ殴られたかわからない? なら、それだけこの町が腐ってるってことよ」
侮蔑とも取れる物言いだが、誰も、何も言わなかった。いや、言えなかったのだろう。なぜなら、透子も勇者だから。
そんな腑抜けた連中に苛立ちつつも、透子は勇者だけに対して声を張り上げた。
「私はね、傍若無人な人間が大嫌いなの! 何でもかんでも自分中心に物事を考えて、他の人の都合なんて考えやしない。誰かが傷ついても何も感じやしない。ふざけんじゃないわよ!」
怒りが有頂天に達したのか、殴っただけでは飽きたらず、透子は勇者に歩み寄って金髪の頭を踏んづけた。「今のあんたも大概……」と衆人の一人が呟いたが、透子に思いっきり睨まれ、泡を吹いて卒倒した。
「甘い蜜を吸ってるのはいつも自分勝手な奴ばかり! その割を食うのはいつも真面目で善良な市民なのよ! 卑怯者が得をする? 正直者がすくわれるのは足だけ? 冗談じゃないわ!」
最早自分の愚痴になってきたが、それでも透子の怒りはとどまるところを知らない。終いにはその場(勇者の上)で地団駄まで踏み始めた。抵抗する気力も体力もないのか、勇者は踏まれるたびに潰れたカエルのような声を出しているだけである。
「世界を救う? 魔物を倒す? 馬鹿じゃないの!? 私たち下っ端が頑張ったところで、結局美味しい思いをするのは上の方だけなのよ! このクソ勇者がいい例だわ! こんな世界救ったって、私には何の得も……」
ピタ、と透子の動きが止まった。
自分の言葉を反芻する。今、自分は何と言った?
「――そう、そうよ、そうだわ! フ、フフフ、フフフフフフフ……」
突如笑い出した透子に、衆人が二歩ほど引いた。ちなみに、勇者は頭を踏まれたあたりで白目を剥いていた。
「何で私が我慢しなきゃいけないの? 何で私が真面目に働かなきゃいけないの? もうそんなのクソ食らえだわ! ――私が傍若無人になってやる……私がこの世界をメチャクチャにしてやる! やられっぱなしでいるもんですか! 日本のOLナメんじゃないわよ! 私が――」
失うものなんてもう何もない。
今までの自分を捨てるつもりで……否、生まれ変わるつもりで、古迫透子は高らかに宣言した。
「――私が、魔王になってやる!」
高々と、〝聖剣〟を天に向けた。
* * *
「ほ、本当に城なんてあるのかしら……」
びくびくしつつ、透子はまさに鬱蒼という言葉が似合う森の中を歩いていた。
町を出て北に向かうこと一時間。街道からも逸れ、木々の密度は徐々に高くなり、今はもう十メートル先も見渡すことができない。太陽を確認するが、方角はあっているはずだ。
「ぴぃっ!」
突如木の葉を揺らしながら数メートル先に何かが現れ、透子はびくりと飛び上がった。
一メートルにも満たない体に、ややアンバランスに大きな頭。二足歩行で手には棍棒を持っている。ファンタジーで言うところのゴブリンだろう。
驚かされたことに腹が立ち、透子はゴブリンを思い切り睨みつける。すわ戦闘でも始まるのかと思ったが、ゴブリンはこの世の終わりみたいな顔をして藪の中へ逃げていった。これはこれで不愉快である。
(もう、戻ろうかしら……)
ため息をつくが、いやいやと首を振る。もう後戻りはできない。思いっきり殴りつけた上、頭まで踏んでおいて、どの面下げてギルドに戻るというのか。そして、ただの町の住人Aになるつもりもない。
つまり、進むしかないのである。
気合を入れなおし、再び歩を進め始める。
やがて、木々の隙間から何か巨大な影が見え始めた。進むにつれてその影が徐々に全貌を露にし、
「これが、魔王城……」
森が急に開け、その巨大な城が現れた。五メートルくらいはありそうな城壁に囲まれており、中の様子はうかがい知れない。だが少しだけのぞく城の上部を見た感じでは、洋風の城であるようだ。まぁ、和風建築の魔王城など聞いたことがないが。
「……よし!」
深呼吸し、城門をノックした。
当然、うんともすんとも言わない。蹴ってみたが、自分の足が痛いだけ。ならばと聖剣で門を殴ってみたが、鈍い音がしたものの誰も出てくる気配がなかった。ビリビリとしびれた手が痛い。
出直すわけにもいかないし、まさか留守でもあるまい。
「こうなったら……」
居留守に対する最終手段――大声を出そう深く息を吸って、
「……チャイム?」
巨大な門、その脇に、呼び鈴らしきものがあることに気付いた。門と比べて小さく、そしてあまりに当然のようにあったため、視界に入っていなかった。よく見れば、巨大な正門とは別に、小さな従業員出入り口のようなドアもあった。
「…………どうなってんのよ」
拍子抜けしつつも、透子は呼び鈴を押してみることにした。城が全体的に中世チックなのに、ここだけ現代っぽい。スピーカーがあるところを見ると、会話もできるようだ。
ぴんぽ~ん、と気の抜けた音がし、しばらくしてくぐもった男の声が聞こえてきた。
『どちら様ですか?』
インターホン越しではあるが、バリトン歌手のようなダンディボイスだ。
「あ、初めまして。えーと、こちらは魔王城ですか?」
我ながら、間抜けな答え方をしたものである。「こちらは魔王城ですか?」などと初めて口にした。はじめに「あ」とつけてしまったのもマイナスだ。訪問販売の初心者か。
『はいそうですが』
だが、意外にも相手はあっさりそう答えた。そして、当然のようにこう続ける。
『もしかして、挑戦者の方ですか? もしそうなら、申し訳ないのですが、こちらの城はただ今ダンジョンを閉鎖しておりまして……他を当たっていただけるとありがたいのですが……』
返す言葉が全く見つからなかった。イメージと違いすぎて、わからないことが多すぎて、もう何がわからないのかがわからなくなってきた。
「…………いや、挑戦者? ではないです」
結局、言えたのはそれだけ。挑戦者ではない、はずだ。
『それならご用件は何でしょうか。新聞ならお断りですよ? あと、うちの魔王は宗教にも興味ありませんので悪しからず』
新聞の勧誘を受ける魔王城があるらしい。しかも、宗教って。
透子の心中で〝魔王〟というイメージが音を立てて崩れていくが、深呼吸することで何とか恐慌と思考停止は避けた。
「えと、その魔王さんに用がありまして。お目通り願えたらありがたいのですけれど」
『お目通り……ですか。少々お待ち下さい』
そう言い残し、インターホンの向こうから気配が消えた。誰かしらに指示を仰ぎに行ったのだろう。よく考えれば、「ご用件は?」に対しての返答にはなっていないが、それでも相手は納得したらしい。
しばらくして、声の主が帰ってきた。
『魔王の許可が下りました。今開けますので、少々お待ち下さい』
またもそう言われ、今度はインターホンが切れる音がした。そして待つことおよそ一分。鉄製のドアの向こうで気配がした。
鍵が開く音がし、重苦しい音を響かせながら、ゆっくりとドアが開く。
現れたのは、壮年の男性だった。
「お待たせしました」
穏和そうな顔立ちに、無造作ヘアーとあごヒゲ。髪には白いものが混ざっているものの、それが逆に大人の雰囲気を醸し出している。バーか喫茶店の店長でもやっていそうな、それはそれはダンディズム溢れる男性だった。あの声なのも納得である。悪趣味なキンキラキンよりはよほど好印象だ。
男は農夫のような格好をしており、手にはクワを持っていた。これから畑仕事にでも行くのだろうか。目の前の城とのギャップが激しい。
そんな透子の視線に気付いたのか、壮年男性は苦笑した。
「こんな格好ですいませんねえ。ちょうど畑に出ようと思っていたところで。そろそろ作物を植える季節ですから」
「……いえ、第一次産業は大切ですよね」
当たり障りなく答えつつも、透子は今の言葉からいくつかこの世界の手がかりを得た。
(この世界にも、恐らく日本のように季節がある。そして、魔王城では畑が作られている、と。……前者はともかく、後者はレベル三くらいの情報ね)
どうでもいいことに嘆息した透子を、逆に男の方も興味深げに観察していた。
「……何か?」
「ああいや、珍しい格好をしているなあと思いまして」
スーツのことを言っているのだろう。確かにこの世界では浮きまくっているが、透子にはもっと気を遣うべきものがあった。
ソレに視線を向け、男は目を細める。
「あと、珍しいものもお持ちになっているようですね」
「え? あっ……」
道程の途中からただの杖と化していたので、その存在をすっかり忘れていた。自分にあるまじきミスだ。
魔王城に、聖剣。きのことたけのこくらい、相容れないものである。
「えっと、これは……」
どう説明するべきか。拾った? いやいや、聖剣がそこらに落ちてる世界なんて嫌だ。かと言って、バカ正直に説明するのも違う気がする。「勇者に嫌気が差したので、魔王になりたいんです。聖剣はパクりました」などと言って信じてもらえるわけがない。せいぜい、寝首をかくのだろうと思われるのが関の山である。と言うか、現に今そう思われてそうだ。
冷や汗がダラダラと流れる。クレーム処理でもこんなに焦ったことはないだろう。
「もしかして……手土産か何かですか?」
男がぽんと手を打つ。思わぬところで助け船が入った。
聖剣、手土産、魔王……。ポクポクポクと頭の中で計算する。チーン。計算終了。
「ええ、そうなんです」とびっきりの営業スマイルを向ける。「魔王様に謁見するのに、手土産の一つもなしでは申し訳ないと思いまして。ここから南にある町の勇者を、ちょっとばかりボコってきたんです」
後半は事実である。
そうですか、と男は一瞬だけ透子に、疑惑とも違う、値踏みするような目を向けたが、すぐに元の柔和なダンディスマイルに戻った。
「わかりました。それでは案内いたしますので、離れないようについてきて下さい」
そう言ってドアの向こうに招く男。透子は大人しくそれに従うことにする。
門、と言うか城壁の向こうは、綺麗な庭園になっていた。花壇には色とりどりの花が咲き乱れ、微かにいい香りが風に運ばれてくる。庭園の中央には噴水まであり、透き通った水が絶えず溢れていた。魔王城と言うよりは、貴族の道楽と言った感じだ。
イメージとのギャップは拭えないが、綺麗に整った生け垣などもあり、丁寧に手入れをされているのは理解できた。
「ただの自己満足なんですけれどね。毎日の手入れも大変ですし」
前を歩く男が、苦笑する気配が伝わってきた。男からも、透子の視線がわかるはずもない。彼も気配を感じ取ったのだろう。
「でも、それが楽しいんですよ。次は何を植えよう、とか、ちょっと生け垣の整え方を変えてみようかな、とか。癒しってやつですかね」
魔王城の癒しなど、「金! 暴力! 女!」みたいなものだと思っていた。透子、反省。
この用務員(と呼んでいいのかわからないが)らしき男は、そこそこ幸せそうだ。魔王城と言ってもブラック企業ではないらしい。
「ほ~」
城に近づき、透子の口から感嘆のため息がもれた。煌びやかさはないものの、どっしりと構えた姿から底知れぬ威厳や荘厳さを感じる。その上、無骨さはなく、どこかあか抜けた様は瀟洒とでも言えばいいだろうか。
中世ヨーロッパを思わせる城から感じる威圧感は、まさに魔王の城と呼んで差し支えないものだった。ただ、やはり禍々しさは全く感じない。
「おっと、そっちじゃありませんよ」
用務員に呼び止められ、透子はハッと我に返った。初めて見る城に見とれて、ついフラフラと近づいていたようだ。よく見ると、立派な扉には『無期限営業停止中』という張り紙がしてあった。
(……営業?)
もうすでに透子は、この城に魔王らしさを期待していない。だが、どうしてもその二文字が気になった。何かの商売でもしているのだろうか。
「こっちです。こっちの扉」
用務員が招いた先――城の端に小さなドアがあった。荘厳な城に対して、地味すぎるドアである。透子はぱっと見、物置か何かかと思った。
そのドアノブに、用務員は手のひらを向ける。すると、手のひらが濃い紫色に光り、錠前が開くような音がドアノブから響いた。魔力的な何かで解錠したのだろうか。
(何だか、ようやくそれらしいものを見た気がするわね……)
今まで見たものと言えば、金髪イケメンクソ勇者や抜けない聖剣、遺伝子操作で作れてしまいそうな牛馬や小鬼程度でしかない。人知を越えた超自然的な出来事に、どこか安心している透子がいた。
地味な扉の先は、細長い通路だった。人二人がどうにかすれ違えそうな狭さで、長さは大体二十メートルほどだろうか。照明が少なく、やや薄暗い。だが、その薄暗さよりも何よりも、不気味なもの。
(魔法陣、ってやつかしら……)
用務員の背中から視線を下げた先、廊下の床には、びっしりと謎の幾何学模様が書かれていた。何が書いてあるのかはわからないし、どういう意味があるのかもわからないが、不気味なことこの上ない。
用務員が普通に廊下を歩いていくので、とりあえず踏んでも問題はなさそうだ。
おっかなびっくり足を差し出す。後ろ手に扉を閉めると、鍵がかかる音が響いた。オートロックらしい。そのまま用務員について歩いても、少しめまいがした程度で、何もハプニングはなかった。
「さて」
廊下の先の、これまた地味な扉。その前で、用務員は神妙な顔で振り向いた。自ずと緊張感が走る。
「ここから先は、魔王の部屋になります」
「え!? もう!?」
短くて真っ直ぐな廊下一本しか歩いていない。もっと入り組んだ通路とか、貴族がドレスをひらめかせながら降りてきそうなデカい階段とか、そういうところは通らないのか。
「魔方陣の上を通ったでしょう? 一種のショートカット魔法です。それはともかく、魔王は一応それなりの身分の方なので、お客様とは言え無礼のないようにお願いします」
客への礼儀は欠かさないまま、主への礼儀も忘れない。使用人の鑑である。だが、畑仕事の格好のままなのはいいのだろうか。
透子がしっかりとうなずいたのを確認して、用務員は扉をノックした。
「魔王様、お客人をお連れしました」
やや緊張感が混ざっている、ダンディボイス。今まで「魔王」だった呼称が「魔王様」になっている。透子は、会社の電話ではたとえ自分の上司でも呼び捨てにする、という決まりを思い出していた。
返ってきた言葉は、魔王に相応しい、地獄の底から響いてくるような深淵を感じる声、ではなく、
「入りなさい」
重苦しさなどまるでない、若者の声だった。
「失礼します」と一声かけ、用務員は扉を開ける。それに続いて透子も魔王の部屋(?)に足を踏み入れ、
「っ!? ギャアアアアアアア!! 犯されるうううううう!!」
出迎えた豚の頭をした大男を、聖剣(鞘)でつい反射的に殴り飛ばしていた。二メートルは越えているだろう巨体が軽々と吹っ飛び、壁に激突、そのまま床にノビてしまう。
「きゅう……」
「弟よおおお!?」
「あんちゃあああん!」
似たような姿形をした二体が泡を食って駆け寄った。
「ちょっと! 何なのよあれ!? 何なのよあれ!?」
さすがに冷静さを失い、透子は用務員に詰め寄った。用務員は答えずに額を押さえ、ただただ深いため息をついた。
透子が殴り飛ばした一体、そして駆け寄った二体、彼らは総じて豚の頭に人間の体。ファンタジーで言うところの、オークだった。
「あれってヤバい奴じゃないの! オークって言えば性欲の塊! 性欲の権化! 捕まったが最後、牢屋に繋がれて服を剥かれて体を縛られて、アヘ顔になるまでアンナことやコンナことをされるんでしょう!? エロ同人みたいに!」
「お、落ち着いて下ささささ!」
襟首をガックンガックンと振り回されつつも、用務員は何とか透子をなだめようとする。
「だ、だって、あいつら私を犯……」
わなわなと透子はオークたちを指差すが、彼らは部屋の片隅でまるで寒さに凍えるように、身を寄せ合って震えていた。あまりに情けない姿である。その姿にようやく冷静さを取り戻し、ざっと周囲を確認した。
そこは、絵に描いたような玉座の間だった。少し大きめの体育館ほどの広さ。天井には典麗絢爛なシャンデリアが吊ってあり、石畳の上に幅広の赤絨毯が敷いてある。いずれも高値で売れそうだ。そして絨毯は、階段の上の玉座へとつながっていた。
その玉座には、二人の人物がいた。その片方、立っていた方が口を開く。
「茶番はそのくらいでよろしいですか?」
氷のように冷たい声だった。感情というものを全く感じない。
やや髪の長い、若そうな男だった。やや細面だが整った顔。某クソ勇者と似た種類のイケメンだが、こちらは油断ならない人物だと、透子の直感が告げていた。武器は持っておらず、ローブのような少しだぼついた服を着ている。恐らく、武官ではなく文官だろう。
「いきなり部下を殴り飛ばすとは、なかなかユニークな挨拶ですね、ご客人」
文官が、どこか冷ややかな目線を皮肉とともに投げてきた。その目には、どこかこちらを計っているような光もある。突発的な事故とは言え、第一印象は最悪らしい。
「失礼しました。ろくに教養も受けていないのです。少々家庭環境が歪だったもので」
能ある鷹は、ではないが、ここは下手に出ておくべきところだ。まあ、あながち完全な嘘でもない。
それよりも、と透子は目線を文官の隣に向けた。
「まあいいでしょう。さて、紹介が遅れました。私はホルガー・ディール。人間ですが、魔王様の補佐をしております。そしてこちらが――」
ホルガーと名乗った文官が、隣の玉座に腰掛けている大男を手で示す。
「――このベルンシュタイン城の主、魔王アーダルベルト・ベルンシュタイン様です」
まさに、魔王と呼ぶに相応しい大男だった。威圧感たっぷりの、鋭い眼光。人間の歳で言うと、五十歳くらいだろうか、厳つい顔に、口髭と顎髭を蓄えている。悪魔の王らしく、頭には立派な二本角が生えていた。
体格は普通の人間より遙かに大きく、座っているのでわかりづらいが、恐らく身長は三メートルほどあるだろう。露出している腕や足などはもちろん、煌びやかな衣装の下からも、隠しきれない筋肉オーラが発せられている。ムキムキマッチョマンに違いない。
その魔王が悠然と、泰然と、そして厳然と透子を見下ろしている。透子は改めて、自分が非常識な存在の前にいるのだと認識した。取りあえずその場で片膝を付いてみる。この世界では正しいのかどうか。
「先ほどは無礼を失礼しました。突然の謁見感謝いたします。私は、古迫透子と申します」
「フルサコ……?」
魔王は微動だにしていない。首を傾げたのは隣のホルガーだった。魔王がデカいせいで、彼は少し小さく見える。
「まあいいでしょう。それで、貴女は何の用でここへ?」
基本的な渉外は魔王に代わるのだろうか、ホルガーがそう尋ねてきた。
そして、その質問は透子が待っていたものでもあった。
「はい、単刀直入に言います。……私を、この城で雇って下さい」
それが、透子の考えてきた手段だった。ここで働きつつ経験を稼ぎ、隙あらばあの魔王の寝首をかいてやるわ。真面目に働いて出世? ははは、片腹痛い。
「なるほど、面接志願でしたか」
などとコンビニ店長のようなことを言いつつも、ホルガーは懐疑的な目を向けてくる。いや、どちらかと言うと、値踏みされている感じか。透子が苦手な切れ長の目も相俟って、全くいい気分ではない。
「……何か?」
不快さを顔に出さないよう、現世で鍛えられた営業スマイルを向けてみる。
ホルガーも懐疑心を引っ込め、にこやかに微笑んだ。
「いえいえ、感心していただけですよ。上手く化けたものだとね」
一瞬、その言葉の意味がわからなかった。だが、次の言葉で、透子は背中に氷を入れられた気分になった。
「貴女、勇者ギルドから来ましたね?」
「……そんなことはありません」
表情を変えずに否定したが、相手はにべもない。
「あくまでとぼけますか。貴女は恐らく、スパイのような形でこの城に潜入し、魔王様を暗殺するつもりだったのでしょう。そもそも聖剣が手土産です、などと信じられるはずがありません」
出来の悪い推理小説のように、ホルガーは朗々と言葉を紡ぐ。そして都合の悪いことに、透子はすぐにそれを否定できなかった。
(あながち、的外れって訳でもないのよね……)
つ、と冷や汗が流れる。その一瞬の心の迷いは、ホルガーにはすぐに見抜かれたようだ。
「焦らなくてもいいですよ」
したり、という顔を浮かべる。その顔は、今までの柔和なものではなく、どこか醜悪なものだった。
「私も――同じ目的ですから」
言うが早いか、ホルガーはローブの下から短刀を取り出し、魔王の首へと当てた。魔王は大柄だが、座っているので十分にその凶刃は届き得る。魔王の顔は、驚愕に歪んでいた。
「は? え?」
透子は訳がわからない。これはどういうことだろう。この文官らしき人物は、魔王の仲間ではなかったのか。
「難しいことはありません」透子の心を見透かしたように、ホルガーは言う。「私も、スパイとしてこの城に潜り込んでいたのです。魔王の側近になるまでには、長い時間と苦労を要しましたよ。ということで――」
にっこりと、ホルガーは微笑む。
「――貴女の目的もこれで達成ですよ。何なら、手柄を譲ってもいい。これでも魔王ですからね。それなりに出世は見込めるでしょう。どうですか?」
その問いに、透子はすぐに答えなかった。今まさに、目の前で正義が執行されようとしている。だが、それでいいのだろうか。
手柄を譲ってもらえる。それが本当なら、町でイケメン勇者をしばき倒してきたが、それすら赦免されるかも知れない。
だが、それでいいのだろうか。
「わ、私は……」
出世できたとしても、勇者ギルドにいては面白くない。型にはまった正義などつまらない。そんなことがしたいのではないのだ。
世界をムチャクチャにしたい。自分勝手な復讐を遂げたい。それはきっと、勇者ギルドなどにいては叶わないだろう。
「私は、その手を取れない」
毅然と、それだけを言い放った。後悔はなかった。
そもそも、透子はホルガーの行動を八割がた演技だと思っていた。ここで勇者として寝返ろうものなら、
「やはり裏切るつもりでしたか、死ぬがよい」
などと短剣の切っ先がこちらを向くに決まっている。忠誠を試されているのだ。そうに違いない。
「ふふ、貴女の本気、よく伝わりました」
と微笑むに決まっている。
「……そうですか」
だが、透子の予想に反し、ホルガーはたちまちつまらなそうな顔になった。瞳に陰惨な輝きが灯る。
「なら、私は私の正義を執行するとしましょう」
ホルガーが短刀を振り払うのに、躊躇いは見られなかった。
え、と透子は思うより早く、魔王の首は体から離れていた。
ボールのように、首が階段を転げ落ちてくる。透子の側で動きを止めたそれは、驚愕に目が見開いたままだった。かなりグロい。モザイクでもかけたいところだが、透子の目にはそんな便利な機能はない。ひ、と小さく悲鳴を上げ、透子は飛び退いた。
「さあ、魔王は死にました。あとは貴女たちです。せっかくなので、悪は全員皆殺しにしましょう」
あっさりと、彼はそう言った。魔王の首をはねたという達成感や興奮。そんなものは一切感じない。書類仕事の最後のエンターキー。それを打ち込む瞬間でさえ僅かな昂揚が透子にはあったのに、目の前の男にそんな人間らしい感情は全くなかった。
短刀を持ったまま、ホルガーが無表情で階段を下りてくる。玉座には、胴体だけになった魔王が力なく座っているまま。
(……ん?)
その光景を見て、透子は違和感を覚えた。何かがおかしい。
「もう一度だけ問います」透子の前に立ったホルガーは、短刀の切っ先を透子に向けた。「考え直しませんか? もう仕える魔王はいません。意地を張っても仕方ないでしょう?」
確かにそうだ。ここで逆らい続けたところで、魔王の二の舞になるだろう。なら、やはり勇者ギルドに戻った方がいいのではないか。何なら、後で改めて勇者ギルドを裏切ったっていい。などと――
「……ふざけんじゃないわよ」
――透子は考えなかった。
「私はね、あんたみたいな話し方をするやつが大嫌いなの。自分が正しい。自分こそが正義だ、みたいなやつはね。私はもう、そんなのに尻尾を振るのはうんざりなの。勇者? ちゃんちゃらおかしいわ」
それは、全く合理的な判断ではなかった。抵抗はするつもりだが、間違いなく殺される。命あっての物種なのに。全く自分らしくない。
妹と死別して、自分はどこかおかしくなってしまったのだと、透子は心の中で自嘲した。
「そうですか、なら死になさい」
冷徹な声で言い、ホルガーが短刀を振りかざす。透子も聖剣を持つ手に力を込めた。
殺らなければ殺られる。その透子の覚悟は、
「く、くく、あーっはっはっは!」
不意に響き渡った笑い声によって霧散した。透子は驚いて振り返る。大声で笑っていたのは、透子を案内してきた用務員だった。いつの間にか、壁際のオークたちの側にいる。介抱していたらしい。
「いや~、っくく、役者だねえ、ふふ、あははは!」
「ええ、少し興が乗ってしまいました」
答える声に、透子は前に向き直る。ホルガーが、短刀をローブの中に戻すところだった。
「な、何なの、どういうこと……?」
混乱する透子の声に答えたのは、哄笑していた用務員だった。
「君を試させてもらった。悪いと思ったが、魔王様に話がある、なんていきなり言われて、こちらも素直に応じるわけには行かなくてね」
ダンディボイスでそう説明し、用務員は透子に向かって歩いてくる。
「ちなみに」傍まで来ると、用務員は魔王の首を拾い上げた。「これは人形だよ。多少複雑な動きはさせられるけど、声が出せないんだ。おまけに血も出ない。まだ改良の余地があるね」
その説明を聞いて得心が行った。そう言えば、あの魔王は一言も喋っていない。また、透子が覚えた違和感は、首を飛ばされたのに出血が一切ないことだった。
そして同時に、この用務員の正体も悟った。
その用務員は玉座に歩み寄る。そっとその体に触れると、未だ玉座にいた首なし魔王は、まるで空気が抜けるようにしぼみ、わら人形になってしまった。それを懐にしまい、用務員は玉座に腰を下ろす。
「紹介が遅れたね。僕がこの城の魔王、アーダルベルト・ベルンシュタインだ。驚いたかい?」
用務員、もとい魔王はいたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「私の提案です。申し訳ありません」
頭を下げるホルガー。そして、満面の笑みを浮かべた。
「ですが、あんな図体が大きいゴリラより、こちらの方がダンディで魅力的でしょう?」
やや頬が上気してる。透子は無視して壇上の用務員、もとい魔王を見上げた。
「……人が悪いのですね」
「あっはは、まあそう言わないでほしいな。今日日、新聞勧誘だけじゃなくて、新手の詐欺も少なくなくてね。それに、僕は魔王だ。人が悪いのは当たり前だろう」
話し方は全く変わらない。そして当然だが、用務員のような格好も。だが先ほどまでとは違い、どこか貫禄があるように透子は感じた。
「その格好も、私を欺くためでしょうか」
「いやいや、畑仕事をしようとしていたのは事実だよ。魔王っぽくなくて幻滅したかい?」
「そんなことは……」
ある、が、口に出しても仕方ない。
「それよりも」透子はお茶を濁した。「私はここで雇っていただけるのですか?」
「ダメ」
「早っ!」
即答だった。
「悪いけど、もう人手は足りてるんだよ。他を当たってくれるかな」
「そんな! 魔王城ということは、何百人も兵士がいるんでしょう? その末席でいいので――」
「いや、いないよ」透子の言葉を遮り、魔王は苦笑した。「この城の住人は、ここにいる五人と、別室にいる一人だけだ」
まさか、と透子は疑った。魔王、文官、そして部屋の隅っこで震えているオーク三体、そしてここにはいない一人。たったそれだけ?
「ははは、びっくりしてるね。でも本当のことだ。この城は戦わない。だから、これだけで十分なんだよ」
「戦わない?」
「そう、詳しい理由は面倒だから説明しないけど、僕はラブ&ピース、平和主義者なの。この城でのんびり暮らしてるだけ。つくづく、魔王のイメージをぶち壊して悪いね」
人を小馬鹿にしたような物言いだが、嘘をついている様子ではない。
透子は、怒るより、呆れるより、まず何よりも失望した。
「なるほど」深いため息をつく。「話はわかったわ」
透子の言葉から敬語が消え、魔王の眉がピクリと動いた。
「ラブ&ピース? ご立派ね。戦わない魔王? 素敵じゃない。素敵すぎて失望したわ。残念だけど今日日その設定は、ラノベ界じゃあ二番煎じどころじゃないのよ」
「らのべってのが何なのかは知らないけど、ずいぶん言ってくれるね。僕が怒って、君をつい殺っちゃう、なんて展開は考えないのかい?」
とんでもない暴言だが、魔王は笑顔を崩さない。対する透子は大げさに鼻を鳴らした。
「そうされた方が、まだ魔王らしくて安心するわ。私にはもうね、失うものなんてないの。だからもう我慢しないって決めたのよ。やりたいようにやるし、言いたいように言わせてもらう。それで殺されちゃうなら、そこまでの人生だったってことだわ」
「いやはや、最近の若い子は怖いね」
全く怖くなさそうに鼻をほじる魔王。その態度にも腹が立ち、透子はもう話は終わりとばかりに魔王に背を向けた。
「こんなところで働くなんて、こっちから願い下げよ。失礼させてもらうわ」
捨て台詞以外の何でもないが、頭に血が上ってそれしか言えない。
大股で扉に向かい――途中、縮みあがっているオークたちにガンを飛ばすことも忘れず――部屋を出ようとした、そのときだった。
「お客様ですか?」
鈴を震わせたような、少女の声がした。
恐らく、魔王が言っていた「別室にいる一人」だろう。
透子は驚愕で目を見開いていた。その声に、聞き覚えがあった。
まさか、と思いつつも恐る恐る振り返る。
「な、何でここに! 部屋にいるように言っただろう!」
先ほどの余裕とは打って変わり、玉座から立ち上がって狼狽している魔王。だが、そんなことはどうでもよかった。
玉座の側、その少女は立っていた。
「聞き慣れない声がしたのでもしやと思いましたが、やはりお客様ですね。来客があるのに、のんびりと寝ている訳には参りません」
か弱くも、どこか威厳を含ませた声で、少女は言う。
「挨拶が遅れ、申し訳ありません。私はこの魔王の娘、エーファ・ベルンシュタインと申します」
心臓が激しく波打つ。その鈴のような声を聞きたいのに、鼓動の音が邪魔をする。
きっと夢だろうと思った。これが夢でなくて、何だと言うのか。
違っているのは、ドレスを着ていることと、長い髪が銀色なことくらい。
優しくも、どこか憂いを帯びた丸い目も、
整っているが幼さを感じさせる可愛らしい顔も、
まだ未発達で、触れれば折れてしまいそうなその華奢な身体も、
エーファと名乗ったその少女は、透子の妹――詠香にうり二つだった。
「詠香……?」
「はい?」
にっこりと微笑み、小首をかしげるエーファ。
一瞬だけよろめき、透子はオークたちの方に足を向けた。心のぐらつきは、そのまま震える足に現れていた。オークたちは後ずさろうとするが、残念ながらもう壁際である。
オークたちの側まで来ると、透子はその一体の頬を思いっきりつねりあげた。見た目より固い。
「いだだだだだだだ!」
「ラルド!?」
「あんちゃん!」
痛がっている。超痛がっている。つまり夢ではないようだ。
(冷静に……冷静になるのよ……)
オークから手を離し、ゆらゆらと頭を振る。
そう、これは夢ではない。あそこにいるのは、詠香ではない。他人の空似だ。名前も似ているだけ。さっきは返事をしたが、聞き間違えただけに違いない。
でも、と、改めて壇上の少女を見る。本当によく似ている。生き写しと言ってもいい。
涙が出そうになり、透子は慌てて顔を拭った。
ふう、と一息吐き、魔王と話していた場所まで戻る。そして数刻前と同じように、片膝をついた。
「こちらこそ、改めてご挨拶させていただきます。私は、古迫透子と申します」
「トーコさん、と仰るのですか。変わった格好をされてますね、ふふ」
ころころと笑うエーファ。そこには、決して侮蔑や皮肉の色はない。ただ純粋に、珍しいものを見て笑っているのだ。
その笑顔を眺め、透子は決心した。
極めて真剣な顔を、心配そうにエーファを見ている魔王に向ける。
「お義父さん!」
「おとうさん!?」
さすがに魔王も度肝を抜かれた。
「お願いします、娘さんを妹にくださ……じゃなくて、やっぱりここで働かせて下さい!」
「いや、君ね……」見るからに呆れかえっている魔王。無理もない。「さっき、さんざん僕のことをバカにしたじゃないか」
「そんなことはありません。あれは全て演技です。ラブ&ピース、素晴らしいと思います。私も愛と平和は大好きです。設定の二番煎じとも言いましたが、心優しい魔王モノは王道になりつつあります。王道は王道故に強いと、私は愚考致します」
「もの凄い手のひら返しだね、いっそ関心するよ。でもダメなものはダメ。ついでに言わせてもらうけど、君におとうさんなどと呼ばれる筋合いはない! ふふ、言ってみたかったんだよね、これ」
「そんな、そこを何とか! お父さん!」
「だからそう呼ばれる筋合いは……って、なんかイントネーション違わなかった? それはともかく、ダメだってば」
「お願いします! 味噌汁は得意ですよ!?」
「何のアピールだよ」
よくわからない押し問答を続ける二人を交互に見やり、不意にエーファがぽんと手を打った。
「そういうことですか!」
今まで、話がよくわかっていなかったらしい。
「いいじゃないですか、雇ってあげれば」
「エーファ!?」
心底驚く魔王。
「女神様!」
目を輝かせる透子。
「困っている方を見捨てるのは、義理に反するじゃないですか。ね、お父様」
「む……ぐぬぬ」
娘に弱いのは、人間も魔王も同じなのだろうか、しばらくうんうんと唸り、魔王はため息をついて透子を見やった。
「仕方がない」
「では!」
「落ち着け。まあ正直、畑仕事だけでやっていくには、最近キツいと思っていたんだ。今までの貯金も減ってきているしね。ちょうど頃合いなのかも知れない。」
その魔王の言葉を聞き、エーファが一瞬だけ悲しそうな顔をしたのを、透子は見逃さなかった。
こほん、と咳払いをする魔王。
「この城には、地下にダンジョンがある。もう何年も使っていないから廃墟どうぜんだがね。君にはチーフとなって、ダンジョンを立て直してもらいたい。それで小金でも稼いでくれれば満足だ。その剣も、君が持っているといい」
「ま、待って下さい!」
これに反論したのは、途中から傍観に徹していたホルガーだった。
「今日訪れた者に責任者など、唐突にも程があります! それに、ダンジョンの開放は、魔王様の主義に反するのでは!?」
ぐうの音も出ない程の正論である。透子自身も、下っ端からだと思っていた。
「最後まで聞きなさい。確かに唐突だが、条件がある」
ぴ、と魔王は指を立てる。
「条件……?」
眉根を寄せる透子に、魔王は意地悪く笑う。
こうして、古迫透子の第一歩がスタートした。