衣替えは暦通りではありません その3
一階に出したヤッケは、美優の予測よりも動かなかった。けれど、何かの広告になったことは確かである。
「あのさ、Vネックじゃなくてチャックついてるヤッケない?」
「上下セットでも置いてる?」
二階までわざわざ来ない客が、一階のカウンターでそんなことを言う。それを受けたレジ係が内線をしてくると、美優は数種類のヤッケを持って下に降りて説明をする。軽い商品であり、簡単な受け答えだ。二階では口の重い客が、冗談の交わせる慣れた店員に自分の希望を言う。色が好みじゃないとかナイロンじゃなくてポリエステルがいいとか、腋がストレッチになっているものを入れろだとか、好き勝手だ。まだまだ拙い美優の接客では、聞きだせない情報を得られる――売上と情報の一石二鳥だ。
誰も助けてはくれないものだと思い込み、ひとりで悩んでいた期間は一体なんだったんだろう。ハンガーラックをたった一台、自分のテリトリー外に置いただけで。
だって、誰も教えてくれなかったんだもん。だから自分だけでやらなくちゃいけないと思ってたんだもん。
売場には自分しかいないのだから、美優が何に困っているかなんて気にかけてくれないのは、ある意味当然だったのだ。目の前で困っていれば手も差し出せるが、美優の姿は他の店員からは見えない。忙しい業務の中で、他人のテリトリーまでわざわざ出張る人なんていないのだ。
こうしたいので手を貸してください、ここが困るので手立てはありませんか。そう相談すれば、面倒がりながらでも力を貸してくれたのかも。
他人からの働きかけを待っていては、いけないのだ。自分から質問して相談して、助けを求めれば良かったのだ。そんなことに気がつくまでに、丸々半年かかってしまった。そして勝手に煮詰まったりして。
うん。企業なんだよね、ここ。自覚と共に現れた安堵で、深く頷く。肩肘を張ったつもりはなくとも、結果的に同じことをしていたのだ。言ってもらわなくちゃわからないなんて、単なる甘えだ。会社は理解できないことを放っておく人間を育てるほど、人が良くはない。理解できないのなら学ぶ姿勢を見せれば、手は差し出される。自発的になるのは客に対してだけでなく、同僚にも必要なことだった。
美優の定刻近く、階段からの声がする。
「みーさん、みーさん!クロガネさんのジャージ!あれって置いてるの?」
「うるせえよ、他の客の迷惑だろ」
すでに聞き慣れた声が、賑やかに階段の上に立つ。美優の頬に笑みが浮かぶ。鉄が購入したジャージのジャケットは、辰喜知の今年のデザインだ。街着にも対応できるカジュアルなデザインで、やんちゃな髪色の鉄にはよく似合う深い紫色だ。鉄自身がカタログから選んだものだが、手渡す前に試着したときに美優も嬉しくなってしまうくらい、鉄のキャラクターに添ったものだった。
「いらっしゃいませ」
迎える言葉は、客に対する礼儀だ。一緒に食事に行ったり連絡を取り合ったりする仲でも、ここでは客と店員。金銭の受け渡しが行われる場所なのだから、自戒していないとトラブルになる。それは高校生のときにアルバイトをした経験から、学んでいる。新人のパートさんは近隣の人ばかりだから、知り合いが来店すると同じ立場のつもりになってお喋りしてしまい、正社員に苦い顔をされていた。
「クロガネさんだけ先に、新しいの買っててずるい!俺も目立ちたい!」
「下回りが目立ってどうすんだ。もうちょっと待ってりゃ、親父が名入りの防寒服作るから」
「それって現場用じゃないっすか。じゃなくって、かっこいいやつー!」
白いシャツに濃紫のジャージをさらりと羽織り、オレンジの髪の下で鉄が笑う。リョウが美優に訴えるのを、仕方のないヤツだと甘やかすみたいな顔だ。
あ、やばい。この前野球の試合見に行ったときも思ったけど、てっちゃんは女の子が中に入った会話より、男同士のやりとりをしている方が断然良い顔になる。
それに気がつくことが、何の危惧になるんだろうか。まずいのは、それを良い顔だと認識してしまう美優自身だ。その表情を自分に向けて欲しいとか思っちゃったら――思っちゃダメ!負ける!
負けるって、一体何に対してだ。




