罪と夜明けの記憶 5
その日は、どぉん、と地を揺らすような音で目が覚めた。
薄墨のような雲に覆われた生温い風が吹く朝だった。ごろごろ、どろどろと低く唸る音が響き、尾を引くようなどおんという音が響く。梅雨から秋にかけてよく見られる夏雷だ。
壁を伝う朝顔は陽を浴びることはないと悟ってか、今朝は一つも咲かずにいる。そのうち大雨が降ると判断して珠姫は身支度もそこそこに水汲みを始めた。いくら夏とはいえ、朝からずぶ濡れにはなりたくないし、重い水桶を持って大雨のなかを行き来するのは避けたい。
そうやって仕事を始めて、屋敷の表に人の気配があることに気付く。
(ご当主様たち、もう起きてるんだ。珍しい)
当主一行が楓屋敷に逗留している間は連日夜更けまで宴が続く。したがって起床も遅くなるのだが、今朝のように夜明けまもない時刻に起き出しているのは異例と言えた。
一族の会合の予定でもあったのだろうか。旭は何も言っていなかったし、時間が早すぎる気がするし、使用人たちの姿が見えないし、と奇妙な印象を抱いたけれど、蘇芳であって蘇芳でない珠姫がその疑問を明らかにする意味はない。
(今夜は旭に会えるかな……)
天候が崩れた日、それも夜の森は危険なので立ち入りは控えなければならない。つまり雨が降ると旭に会えないのだ。血の繋がりが感じられない一族よりも、旭に会えるかどうかの方が珠姫にはずっと大事なことだった。
(なるべく雨がひどくなりませんように)
しかし陽が上って使用人たちが忙しなく立ち働く時刻になっても、空には鈍い色の雲が立ち込め、遥か遠くの雷鳴が鳴り止むことはなかった。屋敷のあちらこちらで皆、「おかしな天気だねえ」「なんだか嫌な空だよ」と零していた。
「さっさと晴れてくれないかしら。朝からお嬢様が不機嫌で大変なのよ。若様とお出かけするはずが急に中止になってしまって、お天気にまで『鬱陶しい』と悪態をついているんだもの」
「そういえば今朝からご当主様たちが広間に集まっているみたいだけど、何かあったのかい?」
「さあねえ。でも大事な話をしているのは間違いないと思うよ。集まっているのはご当主様と北の方様、若様、ご主人様方で、お嬢様やお付きの方々の大半が締め出されているんだから。巫術まで使って話し声が漏れないようにする徹底ぶりだってさ」
濡れ縁で行き合った女中たちが話している。声を落としているつもりらしいが、おしゃべりに夢中になるあまり、少し離れたところで草むしりをしている珠姫にもよく聞こえる声量になっていた。
するとそこに眩い紅梅色の小袿姿の娘がやってきた。華やかな衣装とは裏腹にどかどかと荒々しく床板を踏み鳴らし、美しく粧った顔を歪ませていて、女中たちがひっと息を飲む。
「お、お嬢様」
「お前!」
濡れ縁にいた女たちも庭にいた珠姫も素早く面を伏せたが、そんなことで朱葉の怒りからは逃げられない。
「お茶を持ってくるのにどれだけ時間をかければ気が済むの!」
「わ、私じゃな……」
「主人の意を汲むのが使用人よ! 見苦しい言い訳はおやめ!」
ばしっと音がして、打たれた女中が倒れ込む。お茶を頼まれたのが別の女中なのは明らかだが、指摘しようものなら手酷くやられてしまう。わかりきっているから他の女たちは彼女を助け起こせず、珠姫も頭を下げたまま動くことができない。
「この!」
朱葉が再び手を振り上げる。赤い袖がひらめいたそのとき、空の閃光が走り、ぴしゃっと鋭い雷鳴が響き渡った。
不意の光と音に驚いたらしい朱葉は一瞬硬直した後、忌々しげに空を仰いだが、そこで初めて珠姫がいることに気付いたようだ。ねっとりと笑う視線が、地面に擦り付けているたまに絡みつくのがわかった。
「『あれ』を連れてきて」
「早くしろ!」朱葉が声を荒げる。顔を腫らした女中は転ぶ勢いで裸足で庭に下り、額突いていた珠姫を強い力で引っ立てると、餌を放るように朱葉の前に投げ捨てた。
朱葉は倒れ伏した珠姫を見下ろしながら、女中たちに「もう行っていいわよ」と優しく告げる。ぱたぱたと廊下を駆けていく音を聞きながら珠姫は、仕方がない、と目を伏せた。こうなったら抵抗は無意味だ。ただ朱葉が飽きるのを待つほかない。
「ああ、本当に、鬱陶しい」
だんっ、と朱葉の足が珠姫の肩を踏みつけた。
「鬱陶しい、鬱陶しい、鬱陶しい、鬱陶しい」
ぎりぎりぎり、と珠姫の薄い肩が押し潰される。優雅な暮らしをしている十代の娘のどこにそんな力があるのか、いまにも骨が砕けるのではないかと思えるほどだ。
「ねえ、なんとか言いなさいよ」
「……っ、鬱陶しくて、申し訳、ありません……」
「あら、ちゃんとわきまえているのね。そうよ、お前は鬱陶しくて卑しくて醜い、生きる価値がない人間なのよ!」
言い終えると同時に強く蹴り飛ばされる。痛みに堪えながらずるずると起き上がる珠姫に「ちょっと、誰がもう行っていいと言ったの?」と朱葉がにたりと口の端を持ち上げた。
「戻りなさい。まだ話は終わってないわ」
「…………」
こんなことはいつまでも続かない。
きっと、そう遠くないうちに、旭は蘇芳一族の当主になる。そのとき珠姫は巫術師になって旭を助ける。子どもだからと侮られる日は終わる。妾の子でも蘇芳一族の巫術師だと名乗るときが来る。
そう信じているから、珠姫は黙って従う。
身を捧げるように跪いたが、そこに忙しない足音をさせて女中頭がやってきた。彼女は目の前の状況をすぐさま理解して苦々しい顔を珠姫に向けたが、とにかく仕事をまっとうすることにしたらしい。「お嬢様」と朱葉に向かって丁重に頭を下げた。
「お邪魔をして申し訳ございません。ちょっとその子をお貸しいただいてよろしいですか」
「嫌よ。見てわからない? いま躾をしているところなの」
「それが、ご当主様のご指示なんです。その子に仕事を頼みたいとかで、もうずいぶんお待ちなんですよ。これ以上ご機嫌を損ねたらどうなるか……」
ぴくっと眉を動かした朱葉は、大人しくしている珠姫を苛立たしげに見下ろしてから、ふん、と子どもじみた仕草で顔を背けた。
「じゃあ好きにすれば?」
「ありがとうございます。失礼します」
負け惜しみのように言って立ち去る朱葉を見送った女中頭は、一転して珠姫を睨み「さっさとおいで」と顎をしゃくった。




