罪と夜明けの記憶 4
夏の夜空に明るい星々の河が流れている。
こっそりと身支度をした珠姫は寝床である農具が詰め込まれた納屋を出ると、屋敷の者に見つからないように素早く夜の闇に紛れた。
夜が更けたというのに楓屋敷は煌々と明るい。分家の者たちが総出で当主一行をもてなしているのだ。使用人の数に含まれていないことを羨ましいとか妬ましいなどとは思わない。ただずっと暗く冷たい寂しさが心の中を流れているのを感じるだけだ。
(……早く行こう。旭が待ってる)
光に背を向けた珠姫はさらなる闇に飛び込むように森の奥へと走り出した。
歩き慣れた森は、夜を迎えると別の世界に変わる。進路も方向の感覚も覚束なくなるけれど、旭が持たせてくれた道しるべの符のおかげで迷うことはない。手持ちの符に呼びかけると片割れの符の在り処を示してくれる、こうした便利な道具も巫術の一つだ。
一揃いの符同士が繋ぐ仄赤い光を辿っていく。
それがふつと途切れるところが約束の場所だ。探るように手を伸ばしながらさらに進んでいくと、空気の壁のようなものに行き当たった。分厚く柔らかいものを突き破るつもりで足を進め、息苦しくなってきた頃、ふっと身体が軽くなる。
結界と目眩しで封じられていたそこは、蛍の飛び交う開けた場所だ。
「旭」
露に濡れた草花を踏み、漂う蛍火によく似た星の瞬く空を見上げる朱色の狩衣の人影に呼びかけると、笑顔で振り返った彼はひらひらと珠姫を手招いた。
「遅くなってごめん」
「僕もさっき来たところだよ。早々に宴を抜け出してくるはずが、今夜は父上がなかなか離してくれなくて」
苦く笑って「これはお裾分け」と竹皮に包まれた握り飯と鶏の甘辛煮を渡してくれる。
「私も山桃を持ってきたの。あのときは本当にありがとう。見つかったのが旭でよかった」
「どういたしまして。まさかあんなところに君がいるとは思わなくてびっくりしたよ」
「そんな風には見えなかったけど?」
「ふふ、だって皇都で演技の勉強をしているからね」
おどけた旭は珠姫の持ってきた山桃を摘んで「美味しい」と頬を緩めた。同じものを朱葉から振舞われただろうに、まるで初めて口にするみたいにぱくぱくと食べてくれる優しさが嬉しい。
(初めて会ったときからそうだったな)
旭は楓屋敷に逗留している間、毎夜森の中で巫術の鍛錬をしている。珠姫と初めて会ったときも結界で周囲を閉鎖して稽古中だったのに、迷い込んできた見知らぬ子どもを受け入れ、ついには友人になってくれたのだ。それだけに夏が終わって皇都に帰っていく旭を見送るときの寂しさも、また来年会おうと約束した一年の長さも、翌年に再び会えた喜びも、とてつもなく強かったことを覚えている。
旭は、珠姫の恩人で、友人で、巫術の師匠で、唯一無二の人。
(私も、旭みたいに優しい人になって……お返しができるようになりたいな……)
そう思うようになるのはきっと自然なことだった。
一年ぶりに会った旭は、またずいぶん背が伸びていた。声もさらに低くなっている気がする。けれど目が合うとにこっと親しみを笑いかけてくれるのはずっと変わらない。
「背が伸びたね、珠姫」
考えていたことを見透かされた気がして、それは私の台詞だよ、とも言えず、珠姫は「うん……」と着物の裾をもじもじと引っ張った。なんだか急に裾丈の足りない着物が気になったのだ。
「ごめん。色々働きかけてみてはいるんだけど……」
「旭が謝ることじゃないよ!」
明るい太陽が光を失うように見えて、珠姫は慌てて首を振った。
「本当に、謝らなくていいの。旭がくれた冬の着物は暖かったし、本家のお邸においでって言ってくれて嬉しかったし、私のことを忘れないで夏になったらこうしておしゃべりしてくれるし」
お前には贅沢だと着物は取り上げられて、本邸への誘いは子どものわがまま、下女とはいえ愛玩動物のように扱えないともっともらしい理由をつけられて叶わなかったけれど、珠姫を思って行動してくれた旭の優しさはちゃんと伝わっている。
「それに、約束してくれたでしょう? 当主になって、私みたいな立場の人間が辛い思いをしないようにするんだって」
珠姫を皇都の邸に連れて行けないと知ったとき、それを最も悔しがったのは旭だった。
幼いから侮られた。ただの子どもの発言はそれだけで価値がないと思われる。いまの自分は無力だ。
だから、当主になる。みんなが稀有だと褒めそやす巫術の才能はきっとそのためにある――そう言って珠姫に未来を約束してくれた。
「私も頑張るから。たくさん勉強して修行して巫術師になるよ。そうすれば当主になった旭のことも、私みたいな子を助けることもできるもの」
旭には笑顔でいてほしい。そう願って印を結ぶ。
「[御心のままに、幸い給え]」
開いた手のひらの上で輝く白く淡い光をそっと空へ放つ。
蛍の放つ光に紛れたそれは次の瞬間、ぱっと花が咲くように弾けて、ささやかな輝きの粒を降らせた。
「旭に、四竜の御加護がありますように」
「珠姫……」
旭のそれとは比べ物にならないほど弱い力で、幸いを祈っても効果があるわけではないだろうけれど、彼を笑わせることはできるらしい。
「……いったいいつの間にこんなことができるようになったんだい?」
「旭が演技の勉強をしている間、かな」
目を丸くした旭は「そうきたか」と声を上げて笑い出した。それを見て珠姫も笑った。
草木が露に濡れ、白い夜顔が咲き、蛍の舞う夏の夜の間だけは旭も珠姫もただの子どもでいられた。夜更けまで起きて、蛍を捕まえ、花を摘み、どちらが上手く巫術を使えるか競争をして、くだらないことを言って笑っていた。
「また明日」
「うん、また明日」
そんな他愛のない言葉が宝物だった。そんな二人だったのだ。
次回(4月13日(月))は朝と夜の二回更新です。
以降は夜更新となります。引き続きよろしくお願いいたします。




