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四季巡る竜の国の巫術師  作者: 瀬川月菜
第4章 罪と夜明けの記憶
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罪と夜明けの記憶 3


 鎮守社を抱える蘇芳一族の領地の森は代々のしきたりでほとんど人の手が入っていないという。

 蝉時雨の降り注ぐ森は、まるで緑の世界だ。見上げるほどの大樹が立ち並び、大蛇のようにあちらこちらで波打つ木の根には羊歯や苔が群生している。葉を透かした陽光と大きく小さく散らばる影が絶え間なく形を変え、一時として同じ紋様を描くことはない。さやさやという葉擦れと、遠くの川の滔々と流れる音が響いている。


 しかし屋敷の者たちはやれ歩きづらい、汚れる、面倒だなどと言って、この森に近付こうとしなかった。それからはここが珠姫の逃げ場だ。押し付けられる仕事のために森を探索したおかげで、いまでは空腹をしのぐ食べ物や怪我や病気に効く薬草の在り処を誰よりも知っている自信がある。籠いっぱいに山桃を持ち帰るには森の奥へ行けばいいこともわかっていた。


(屋敷から離れるなら妖除けをしておかなくちゃ)


 楓屋敷を囲む屋敷林の向こうの森は結界の外だ。危険な妖に遭遇しないとも限らない。

 珠姫は周囲を窺い、万が一誰かに見られることのないよう、大木の陰に座り込んでから両手を組んだ。


「[此の天願あまはらに仰ぎ奉る 掛けまくもかしこき 四竜を拝み奉りて かしこかしこみももうさく]」


 巫術は宣詞のりと印相いんそうと宣言でもって行使される。


 しかし、巫術の才がある者は、強い思いを込めることでその一部、あるいはすべてを省略することができるのだという。


 そして図らずも、珠姫には巫術の才があったらしかった。初歩的な巫術なら宣詞も印も必要ない。けれど半人前を自覚して、簡単な妖除けや護身であっても必ず正しい手順を守ることにしていた。


「[守り給え、祓い給え]」


 巫術が発動し、手の中の光がふわりと解けて珠姫を包み込む。

 目眩しと結界を張る基礎的な護身の巫術だ。これで下位の妖は近付いてこられない。


(うん、上手くいった)


 巫術に必要なのは由緒正しい血と祈る心だという。

 だからだろうか、巫術を使うと、こんな自分の祈りも神に届くのだと少しだけ救われる思いがする。


 行きがけに見つけたぐみの実で空腹を紛らわせながら、さらに奥へ進んでいくと、緑の世界の一部が赤く染まる場所にたどり着いた。


 人の近付かない森の奥の山桃の木には、思った通り赤い実が鈴生りになっていた。地面を赤く染めているのは風や雨に打たれて落ちた実だ。緑と甘い香りに熟しすぎた実と泥濘の匂いが混じって、命そのもののような森の香が漂っている。


「よい、しょっと……」


 木に登り、安定した枝を選んで腰掛けると、よく熟した山桃を時々つまみ食いしながら籠に満たしていく。巫術を使わなかったのは、起こした風で実を落としたはいいものの、雨霰と降り注ぐそれを受け止めるどころかめちゃくちゃに打たれてひどい目に遭ったことがあるからだ。まだ巫術の微調整と制御が下手だという証拠だった。


(甘酸っぱくて美味しい)


 宝石のような赤い実を光に透かして、そっと笑う。いつ食事を取り上げられるか、仕事を言いつけられて食いはぐれるかわからないので、いまのうちに腹を満たしておかなくてはならない。満腹は避けて、もし思いきり打たれても吐くことのない程々の量にするのが肝心だ。


「……この辺りにも妖の気配はないようだね」


 遥か足下で声がした。


 珠姫はぎくりと動きを止め、気配を殺しながらそうっと下方に目をやった。何事か話しながらこちらにやってくる人の姿が枝葉越しにちらちらと見え隠れしている。


(でも、もしかして、この声……)


「鎮守社が荒らされていて驚いたけれど、何事もないようでよかった」

「ええ、ですから獣の仕業でございましょう」

「たとえ妖であっても問題ありません。ここに当代一の巫術師である若君がいらっしゃるのですから!」

「出仕もしていない僕を当代一と呼ぶのは無理があるよ。頼むからあまり持ち上げないでおくれ」


 苦く笑う気配が樹上まで届く。知らず知らず身を乗り出していることに気付いて、珠姫は慌てて幹に張り付いて息を殺した。


 四竜を祀る鎮守社は国を守る結界を成す。各地に点在し、一つ一つの力は小さなものだが、すべてを正しく祀ることで守護の結界をより強固にするという。ゆえに巫術師一族の名家は鎮守社のほど近くに居を構え、それを守ることを役目として、今日こんにちの地位を手に入れたのだ。


 そこにいるのは鎮守社の様子を見に来た本家の若君とお付きの巫術師たちだ。恐らくついでに周辺の見回りをしているのだろう。本来なら当主の役目だが、勤勉な若君が代わりに果たしているのだった。


「念のため、屋敷の者たちに何か変わったことはないか聞いておこうか」

「そう致しましょう。鎮守社の管理不行届についても厳しく問い質さねばなりますまい」

「ほどほどに手加減してやっておくれ。僕たちが領主として尽くさねばならないものを彼らが代行してくれているのだからね」

(あ、あ、こっちに来る……!?)


 こんなところで見つかったらどうなるか。

 本家の人間は、たった一人を除いて、一族に関わるすべてを己の所有物と考えている。だから親類である分家一家すらも使用人のように従わせて、珠姫のことは奴隷や玩具として扱っていた。殴られて腫れた珠姫の顔を面白がった当主が飽きるまで従者や使用人に殴打されたこともある。


 このままだと彼らが何気なく木を見上げた瞬間に珠姫がいることがばれてしまう。しかし高い木の上に逃げ場はなく、身を隠そうとすれば物音や動きで気付かれるかもしれない。巫術を使うなんてもってのほかだ。


(どうか見つかりませんように……!)


 けれどいまも昔も珠姫の祈りが届いた試しはないのだ。


「しかし、立派な木だなあ。あの山桃を土産に持って帰ろうか」


 そうして、樹上を仰ぎ見た彼と、木の幹に張り付いた珠姫の目が、ばちっと音を立てて交わった。


「………………」

「………………」


 彼の背後にいた巫術師が「若君?」と呼びかける。珠姫は咄嗟に口元へ人差し指を当てて(静かに!)と合図した。


「如何なさいましたか?」

(お願い、旭!)


 声なき声で切に祈ると、果たして若君は、にこっと笑って巫術師に向き直った。


「いいや、なんでもない」


 そうして珠姫に背を向けると「山桃採りは明日にするよ。薬草の採取も必要だからね」とお付きの者たちに言いながら離れていく。


 人の声や気配が消え、山鳥の声と風の音だけになってしばらく。


 珠姫は詰めてきた息をどっと吐き出して、額に浮かんでいた冷たい汗を拭った。


(危なかった……旭が上手く誤魔化してくれてよかった)


 旭――蘇芳一族次期当主、若君と呼ばれる蘇芳旭との交流は、珠姫が五歳だったあのときの出会いから細々と続いていた。

 会えるのは夏のこの時期と、一族のなんらかの行事で彼が分家屋敷を訪ねてくるとき。

 出会ってすぐの頃、珠姫が旭と関わりがあることを知った者たちがよりきつく当たるようになったので、お互いを見かけても知らないふりをして声はかけないこと。手紙や物をやり取りしない。けれど約束の場所で会うときは身分や立場関係なく友人として接する。そのように二人で決めた。


(夜になって旭に会えたら、さっきはありがとうってちゃんと言おう)


 そのためにも言いつけられた仕事はしっかり終わらせようと、珠姫は山桃摘みに勤しんだ。屋敷に戻って山桃を受け渡した後も、次から次へと与えられる仕事を終わらせることだけにひたすら専念して、ようやく待ち望んだ夜を迎えた。

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