贖え、命をもって 1
蛍火が舞っていた。
夏の青い夜、社殿の柱のような木立と微睡む草花の間を照らす光はどこか巫術に似ている。
――夢だ、と珠姫はため息をついた。
幾度見たかしれない思い出。現実ではうなされ始めたところか。こうなると自力で目覚めることはできないから、諦め、覚悟を決めて、ときに悪夢に変わる光景を終わりまで眺め続けるしかない。
記憶が再現した夢の森は、天の星を地上に下ろしてきたかのようだ。
幻想的で美しい場所に並んで座るのは、小さな二つの人影。丈の足りない継ぎだらけの襤褸を着た珠姫。そして朱色の狩衣を着た少年。
――旭。
光が混ざった明るい色の髪。知性に澄んだ瞳。整った顔に浮かぶ優しい微笑み。
『珠姫が本当に巫術師になりたいと思うなら、誰かにありがとうと言って、ありがとうと言われることができる人になるんだよ。人のために何かしようとする者に四竜は報いてくださるのだから』
四竜の代行者として天地を尊ぶこと。
巫術は全能ではない。何故不可思議を起こす術を授かったのかを自覚し、決して私利私欲のために使ってはならない。
珠姫の最初の師となった旭は、巫術師の心得をそう説いた。
『私は、旭にありがとうと言いたいし、ありがとうって言われたいな』
物知らずの珠姫の言葉に、旭はただ微笑んだ。
いまならその表情の意味するところがわかる――珠姫にとって優しい人、助けたいと思える人は旭だけだった。それを彼は憂えていたのだ。その境遇に甘んじるほかない珠姫の幼さを案じ、しかし子どもだけで生きていくだけの力を持たないという現実を理解して、祈るように、笑って寄り添うことを選んでくれていた。
『ありがとう、珠姫。善い巫術師になってね』
笑みを形作る唇の端から、たらり、と鮮血が流れ落ちる。
次の瞬間、水袋を裂いたように、旭が笑顔のままでごぼっと血を吐いた。
――ああ、始まった。
生温かい血潮が冷えていく感触も血臭も曖昧なのに、その場に居合わせたときの恐れは夢の中でもなお鮮烈だった。
胸を温める春日のような思い出も、北の一つ星に似た希望を指し示す言葉も、最後にはこの赤と恐怖の記憶に至る。
始まったらもう飲み込まれるしかない。
涙が溢れる。視界が暗くなる。震える身体はまったく動いてくれない。声が出ない。
旭――旭。旭。あさひ。あさひ、あさひあさひあさひ。
喘ぐ珠姫の肩に重みがかかる。それは、何故かここにいるはずのない黒猫で――。
「――珠。起きろ、珠」
肩を揺らす感触に、珠姫ははっと目を開けた。途端にほっとした玄夜の顔が飛び込んでくる。
「よかった、目が覚めたな」
ここは、玄夜に同乗した馬車の中。視界が狭く息苦しいのは覆面をしているから。
移動中にうたた寝をしてしまったのだと気付いて、珠姫は青くなって平伏した。
「申し訳ありません! 目の前で居眠りなんて、とんでもない粗相を……!」
「気にしなくていい。それよりも体調は大丈夫か? ずいぶんうなされていた」
「大丈夫です」
顔色を確認しようとする玄夜に放った声は叩きつけるような強さになった。
「緊張しているだけですから、問題ありません」
譲らない気配を察したのか、玄夜は「わかった」とすぐに引き下がった。
「これから妖祓いをすることになるかもしれない。くれぐれも無理はしないでくれ」
「承知しております」
気遣う目から逃れるように珠姫は目を閉じ、あり得ない醜態を晒したことを猛省した。
(夢のせいで寝不足だなんて言い訳にしかならない)
かなりましになったと思っていたが、近頃また毎晩のように夢を見ていた。もともと眠りが浅いのに季節の変わり目、特に夏を意識すると調子を崩すのだ。
巫術師らしく夢解きをしようにも、結果はわかりきっている。
――贖え。命をもって。生涯をかけて。
(私は、巫術師。脅威を退けられる強さを持ち、無力な者に寄り添い、戦う、人々のための巫術師)
いまは、墨月一族当主に追従する巫術師として勤めを果たさなければならない。
暮れ始めた空に鐘の音もとうに消え去った、申の刻(十六時)下がり。
そろそろあちこちの邸宅で宴が開かれようとする頃、珠姫は玄夜に連れられて、式部少輔の池田氏の邸を訪れた。




