紫なるものは 3
御簾の内の姫君方やそのお付きたちの唖然としたような視線が珠姫に突き刺さる。墨月一族の若き当主が突然持ち場を離れてやってきたかと思えば、車中の高貴な姫君には目もくれず、車と車の間から覗き見ていた娘に親しげに声をかけたのだ。いったいどこの誰だ、何者だと訝しむのも無理からぬことだろう。
「……気が付くとは思いませんでした」
顔を見られないように薄衣を掴みながらなんとかそれだけ言う。
「勘が働いた。一目で君だとわかったよ」
さらりと返されて珠姫は言葉を失った。動揺が全身を走り抜けて、みるみる顔が火照っていく。
極めつけがこの一言だった。
『紫なるものはめでたくこそあれ、だな。その着物、よく似合っている」
『紫色のものは素晴らしい』とまるで貴人が女性を口説くように古い言い回しで褒められると、もうだめだった。
「あ、あ、あの、け、見学ですから!」
初めての衝動に翻弄されて、言い訳じみた叫びが飛び出す。
「仕事をしに来たわけじゃありません。言い付け通りに休日を過ごしていて、東の市で買い物をしていました。その証拠に、ほら! こおりのおやつの煮干しもあります!」
あたふたと包みを解いて、玄夜に押し付けるようにそれをずいっと差し出した。平静を失ってだいぶ的外れな言動になっていることには気付いていない。
そうしてしばらくの間を置いて、高らかな笑い声が響き渡った。
「は、はははは! はは、何もそんな、そこまで必死になって言わなくても」
滑稽な振る舞いを笑われたのだと理解して、珠姫は別の意味で赤くなった。
「休むことが仕事だって言ったのはあなたでしょう!?」
「そうだな、うん、充実した仕事もとい余暇の報告をありがとう」
「玄夜様っ!」
日頃の静心を投げ捨てて声を荒げる珠姫だが、玄夜の笑いの衝動はなかなか収まらない。声を押し殺しながら肩を震わせ、端正な顔に似つかわしくない悪童のような笑みを浮かべる姿は、とてもではないけれど漆黒を纏うことを許された巫術師一族の長には見えない。
「もっ、もう、帰ります!」
かあっとなって身を翻そうとしたとき、「珠」となおも笑う玄夜が呼んだ。
「悪かった。――おいで」
別人のように優しげな声だった。
さっさと川の方へと向かっていく、珠姫が従うものと疑っていない身勝手さには苛立ったが、じりじりと強まっていた『なんだあの女は』という視線から逃れるため、やむなく後を追った。
「ご当主様」
先ほどの笑い声がよく響いて聞こえたのだろう、玄夜を迎えた巫術師たちはどこか戸惑った面持ちで、異様なものでも見るように長と、少し離れたところに立つ珠姫を見比べている。しかし凍れる当主は露ほども気にする様子はない。
「彼女に腰掛けを持ってきてやってくれ」
何をしようとしているのか、珠姫は目で疑義を投げかけたが、余裕そのものの微笑が返ってきた。
「見学に来たのなら、近くでしっかり見た方がいい」
それは、確かにその通りだった。
背もたれのない腰掛けを持ってきた巫術師が「ここから川の方へは入らないでください」と珠姫に注意事項を伝える。その位置に、外部の人間が儀式の邪魔をしないように物理的な壁となる結界を張るのだ。もちろん心得ているので「承知しました」と答えた。
「大事なお勤めのお邪魔をして、誠に申し訳ありません。ここで見聞きしたことはすべて胸の内に秘めるとお約束します」
会釈しながら言うと、相手は思いがけなかったのか不意を突かれたように「ど、どうも……」とぎこちなく頭を下げ、急ぎ足で立ち去ってしまった。
巫術師たちは皆、腰掛けに座る女をちらちらと気にしているが、笠で顔がよく見えないこともあって、覆面の巫術師の珠と同一人物だとは気付いていないようだ。そわつく気配が波のように感じられて珠姫はため息をついた。
「どうした?」
「皆さん、すっかり動揺してしまっているじゃありませんか。のこのこついてきた私も悪いですが、責任者である当主が部外者を招き入れるなんて。巫術に悪い影響が出るかもしれませんよ」
巫術は祈りに等しいものだ。術の種類や規模によっては精神状態に左右され、発動しなかったり暴走したりなど安定を欠く。だから潔斎を行って心の安定を図るのだ。
「私の心を宥めるのに必要だったんだから、仕方がない。そうなったときは責任を持ってどうにかしよう」
「……はい?」
玉を転がすような春告鳥のさえずりが、笑みを含んだ不思議な物言いに色を付ける。
「君が笑わせてくれたおかげで、気が立っていたのが楽になったよ。ありがとう」
白雲の浮かぶ淡い青空に、こおんかあん、こおんかあん、と刻を知らせる鐘の音が響いた。
墨月一族の巫術師たちがいずれも黙して速やかに整列する中を、漆黒の裾を揺らして玄夜が進み行く。
虫が舞い跳ぶ羽音すらも聞こえてくるような静寂に迫り来る、雪解けに増した水の流れが滔々と流れる音、岸に吹く風声、日差しに温もる大地の存在感。無意識に呼吸を憚ってじっと見守っていると、次の瞬間、鮮やかな黒の袖が鳥の翼のごとくばさりと音を立てて広がった。
「[此の天願に仰ぎ奉る 掛けまくも畏き 四竜を拝み奉りて 恐み恐みも白さく]」
最初の宣詞は、明瞭にして高らかだった。
「[天つ宮事以ちて 天つ太祝詞言を宣れ]」
巫術師たちが声を揃えて呼びかけ、一糸乱れない動きで印を組む。
大河の両岸に、墨月一族の巫術を示す黒銀の光が灯り、輝く糸を伸ばしてより大きな術を編んでいく。
決して一人では成し得ない巫術が形を成していく様に、珠姫は目を輝かせて見入った。
「[此く宣らば]」
「[四つ神は]」
「[高山短山の末に伊褒理に聞こし召してば]」
皇都から望める四方山、あらゆる雲を目指すように、堂々たる巫術が天高く昇る。
それは、魚だった。黒銀の鱗の一枚一枚が光を帯び、薄氷のように透ける長い帯のような鰭と尾を持ち、銀色に輝く目をした、清らかな水の中でしか生きられない魚だ。
「[罪という罪はあらじと 遺る罪はあらじと]」
「[祓え給い清め給うことを 四竜に聞こし召せと白す]」
からん、ころん、からんころん。
からんころん、と地の気を帯びた土鈴が鳴り響く。鈴の奏でる音が周囲に満ちて、満ちて、満たされて、そして。
(溢れる)
音の余韻とともに、黒銀の魚が、飛沫一つ立てずに川に飛び込んだ。
直後、魚が消えたその場所から生まれた光が水の流れを清らかな輝きに染めていく。浄化の光は上流へ、そして下流で待ち構える蒼海一族のもとへと至る。糸を結ぶように、宮廷巫術師たちの手によってこれから順々に清められていくのだ。
(綺麗……)
川風は、春の匂いがする。
巫術師と、何百年と続けられてきた儀式と、それを目にする人々が繰り返してきたように、珠姫は心のままに手を合わせた。
(上巳の祓がつつがなく行われますように。人々の日々の穢れとともに不安が流され、洗い清められ、平穏に過ごせますように)
数多の祈りを一つにして捧げる、浄化の巫術。
弱くなっていてもその力、を扱う者の自覚が失われつつあっても、たとえ珠姫の生涯が贖いで終わるのだとしても、自分は天地を守り、命を尊び、護国に一身を捧ごうと足掻く巫術師であることは信じてもいいのだと教えてくれるような美しい巫術だった。
だからこそ思う。思ってしまう。どうしようもない幻に思いを馳せる。
――ここに旭がいたら、どんなに。
けれどそれは叶わないから、珠姫は祈る。
この世のどこにも旭がいないことを確かめ、受け入れ、覆せない現実を繰り返し思い知らされるのだとしても。




