美術室・五
二月末。デッサン室で鈴本と児島は再会を果たしていた。
児島は初夏には日本を発つという。留学先の大学の夏期休暇のあいだに、現地での暮らしに慣れていくつもりなのだろう。留学のための手続き、語学の勉強や生活に関するさまざまな準備を考えれば、これから時間をあけるのも難しくなるはずだ。
鈴本は彼女に留学のことを尋ね、彼女のほうも淡々と答えていた。聞いているとじれったくなるくらいの、あまりに味気のない会話だった。
「ね、もっとドラマチックなシーンを期待してた」村田が小声で言う。
「あほか」友人も静かに話した。
「あ、今から本題に入るみたい」柳がささやきに近い声量でしゃべった。
三人はデッサン室の窓の向こう――つまり校舎の外壁に張りついて、内部の様子を観察していた。ひそひそと話すのは、そのせいだ。あらかじめデッサン室のはじの窓だけはわずかに開けて音声を聞きとりやすいようにしておいた。カーテンで隠しているが、風が吹いたさい鈴本が気づけば、観察は終了である。
三人は窓からのぞきこむような危険はおかさず、おとなしく聞き耳を立てていた。鈴本と児島の様子は室内の石膏像が実況中継してくれるので、場景は想像しやすい。ただ、村田だけは柳たちよりも情報量が少なくなる。
――おお! 鈴本、彼女に接近した! 毛穴の見える距離まで近づいてる!
主観をまじえてくる石膏像だったが、これは頼んだ手前どうしようもない。がまんである。窓のすきまから聞こえる衣擦れや息づかいに、柳たちはじっとしながら事態の進展を見守っていた。
すると、鈴本の声が聞こえた。
「すまない、じつは私が最後の一枚を持っていたんだ。照れくさくて渡せなかった。でも、お願いだ。これを読んだらどんな返事でもいい、きみの気持ちを聞かせてくれないか」
鈴本はようやく、児島が手にしたかったものを彼女に返したようだ。しばらく二人の声がなかったが、外にいる柳たちが耳をすましていると、すすり泣きが室内から届いた。どうやら鈴本のメッセージを読んで児島が泣いているらしい。彼が書いた文面まで知らない三人は、今こそ石膏像の出番とばかりに優秀な実況が行われるのを期待した。
――ちょっとぉ! 見えない、見えない! この角度だめなんですけど。鈴本どいてよ、あんたの頭がじゃまよ! 無理なら誰か美しい私を絶妙に配置しなさいよ!
一番やかましい女性の石膏像がわめくなか、未だかつて標準語を話さない石膏像が大声を出した。
――おいの角度は見えるばい! 音読します! あなたがエミーリエであるなら、私は生涯、幸福で苦しむ男だ。以上! 恥ずかしか!
友人は村田の耳もとで鈴本が書いたらしい内容を教えてやった。とたん村田は顔を赤くしてぽろぽろと泣きだした。情熱的な彼女は、このような文面に弱い。感極まったようである。
通常ならたしかに感動の場面であろう。しかし石膏像のおかげで柳も友人もそのような気持ちは味わえなかった。ひどい実況だった。
「先生。わた、し……ずっと」
声にならなくなったのか、そこで児島の言葉が途絶えた。しかし石膏像が大盛り上がりを見せる。
――やああ! 抱きついた! だ、き、つ、い、た!
女性の石膏像を筆頭に、ほかの石膏像も騒ぎだした。押し倒せ、などの声も聞こえてきて、柳と友人は室内を見たい誘惑に駆られた。
だがそのあとに交わされた二人の言葉は不明で、石膏像たちも聞こえないと文句を飛ばしている。きっと二人だけが理解できる特別な距離でもって、たがいの気持ちを確認したのだろう。見えていなくとも、通じ合った瞬間というものは寒空の下でねばっている三人にもしっかりと感じとれた。
――あ、指輪。指輪のお出ましね。ちょっと外のでばがめ三人衆、ついに仕上げよー。
石膏像の声かけに、とうとう柳と友人は窓からこっそりのぞいた。村田もまねをして、デッサン室の隅の窓には三つ頭が並んだ。鈴本と児島は気づいていない。二人が意識を「外側」へ向けないかぎり、案外わからないものなのかもしれない。
三人の視線の先には、指輪の入っているであろう箱があった。鈴本がそれを児島へ差しだし、ふたを開けた。
「これなら、つけてくれるだろう?」鈴本が微笑んだ。
児島の視線は小さな箱の中にそそがれている。驚きを含んだ声で彼女が「どうして……」と返すと、彼は目を細めつつもくやしさをにじませた顔で種明かしをした。
「柳に言われたよ。材質は金属以外で、とね。アレルギーとは気づけなかった」
「体が弱くなって、昔から体調が悪いときは金属アレルギーを出していたの。でも今はもう、完全につけられなくなっちゃった」
悲しそうな表情に笑みをのせた彼女の胸もとには、ビーズのロングネックレスがきらきらと輝いている。彼女には、首だろうが耳だろうが指だろうが関係ない。例外なく、金属を用いたアクセサリーは身につけられないのだ。本人が話したわけではないが、おそらく術後にその体質が悪化したのかもしれない。
柳がそう考えていると、鈴本は静かに尋ねた。
「受けとってくれるだろうか。今回も拒否されると、さすがに浮上しきれない」
「……先生がつくったの?」児島が彼の顔を見た。
「そうだよ。手先は器用だと自負していたが、けっこう苦戦した。かわいらしく仕上げたかったけれど……ごめん」
「謝らないで」
そう言った児島が指輪を手にした。彼女がかざすように指輪を持ちあげたとき、それは柳たちにも見えた。宝飾店でディスプレイされている、細くて華やかなものとは違う。けれどぬくもりのある木彫りの指輪は、鈴本がたった一人の女性のために制作した、世界にひとつしかないものだった。
「右手にしてくれないかい?」
鈴本の言葉に児島は頷き、一度、指輪を彼に返すと、自身の右手を彼に向ける。意を受けとった鈴本は、緊張した面持ちで愛する女性の右手に触れた。そして、指輪を薬指にはめこんだ。
「奈津子」彼の声は震えていた。「もっと上手になってから、左手用をつくる。きみの意見もとりいれて」
「私、待っていてもいいんですか?」
「そのつもりでいてほしい」
鈴本の揺るぎない決意が伝わった彼女は、指輪をした自身の右手をじっと見て涙を流し、「きれいね。本当にきれい」とつぶやいた。
二人は静かに抱きしめ合った。
つぼみだけだった桜の木も、花が咲きはじめていた。
修了式の日。三人はすぐに帰らず、校内のテラスで昼食を広げていた。
「先生、いずれ退職するらしい」
柳が石膏像から仕入れた話を披露すると、「いつ?」と友人が焼きそばパンを食べながらきいた。村田はほうばっていたチョコチップメロンパンをのどに詰まらせ、むせている。
「さあ。児島さんの実家の仕事を手伝うんだって」
「そーか」友人は区切ると、柳に話を向けた。「柳くん、今回はやけに立ち回っとったんちゃう?」
「他人事じゃないなと思って」柳は大きなおにぎりを食べた。
あいかわらず真っ白で具がない。けれど形は柳が手にするごとに、いびつでなくなっていた。今日のそれは、きれいな三角だ。
「やっぱり、あきらめないことが一番うまくまとまるもんだね」
おにぎりをうれしそうに見つめる柳へ、友人は「ふーん」と気のない返事をした。村田は話に加わりたそうな顔で、未だおさまりがきかない気管に苦戦しつつ、のどを潤している。
明日からいよいよ春休みだ。三人はそれぞれの昼食をとりながら、のんきに陽光を浴びていた。




