8日目:やさしさの悪魔
時刻は8時30分過ぎ。
「......やべ、寝すぎた!!!!」
心臓が、大きくドクンとなる。
頭よりも、体が先に反応した。
生希はベッドから飛び起きる。
慌てて支度をしようとしたが、遅れて脳が思い出す。
「......あ。そうだ、今日有給とったんだった......」
「......はぁ」
そういうと、ドクドクと脈打っている心臓を落ち着けるかのように再びベッドに倒れこむ。
一気に体に疲れが流れ込む。
「焦った.......」
天井を見ながら、ぼんやり、と考える。
「そうだ、銀行.......」
思い出したかのように、つぶやく。
その単語を思い出した途端、今度は別の意味で心臓が重くなる。
ベッドの中で、寝返りを打つ。
胃はまだ少し重い。
腹の調子も完全ではない。
しかし、寝起きの勘違いでだいぶ吹き飛んだ。
ベッドの中で、しばらく動きたくない。
いや、正確には現実に切り替えたくない。というほうが大きいかもしれない。
なんとなく、生希の上にある空気だけ質量が重い気がしたが、抗うようにゆっくりと体を起こす。
「......とりあえず、シャワーだな」
そういうと、ベッドを後にする。
シャワーの水が、頭から背中へと流れていく。
熱すぎず、ぬるすぎず。
ただ、昨日からたまった油と現実を洗い流すかのようにいつもより長めにシャワーを浴びている。
目を閉じると、少しだけ昨日のことがよみがえる。
「まあ、心配して来てくれるやつがいるだけ幸せか......」
小さくつぶやいたが、シャワーの後に飲み込まれる。
タオルで髪をふきながら鏡の中の自分を見る。
目の下には、うっすらクマができている。
気持ち、顔色も悪いような気がする。
まだ9時だというのに、すでに朝から疲れている。
「......まあ、これで銀行、行く顔にはなったか」
何の基準なのかわからないが、自分をそう納得させ髪を乾かす。
着替えを済ませ、財布を手に取る。
――中身は。
6652円。
当たり前だが、増えてはいなかった。
そんなことわかっているのに、どこからか湧いてくる「もしかしたら増えているかも!」という希望で確認してしまう。
それでも、財布をきちんとポケットにしまい、部屋を出る。
朝9時だというのに、すでに外は熱気を帯びている。
すでに、家の中に引っ込みたい気持ちを抑えて、自転車にまたがる。
「......よし!」
気合を入れて声に出すと、こぎ始めた。
あまり来ることはない、駅とは反対の方向。
通勤と関係ない道はなかなか通ることがない。
時間は9時23分。
久々に変わる風景に少しだけ新鮮な気持ちを感じて普段よりゆっくりと漕ぐ。
さっきまで暑いと思っていた道も新鮮さのおかげで快適な気もしてきた。
普段なら通らない道を悠然と自転車をこいでいく。
まるで、周りの景色も生希を歓迎してくれているかのように思えた。
――その時。
「......ぐる」
おなかから不穏な音がした。
一気に景色が遠ざかっていく。
さわやかな風も、新鮮な景色も。
もはや、そんなものを気にしている余裕はない。
生希の視界はすでにトイレを探し始めている。
――その時。
「......ぐる」
再び動き始めた。
「......あ。やめて。」
誰にともなく、声が出る。
必死にトイレを探し自転車をこぐ。
こういう時に限ってコンビニもない。
いや、駅と反対に向かっているので、なくて当たり前なのだが......。
それでも、きょろきょろとあたりを見渡しながら進む。
目につくのは、どれもレトロな喫茶ばかり。
――トイレを借りに入ったところで、コーヒーなど飲む気分ではない。
「......頼む。.......たのむ。」
誰に頼んでいるのかわからないが、不意に言葉が口をつく。
そう思いながら走っていると、少し先に公園らしきものが見えてきた。
見覚えのある緑に囲まれた、砂地が顔を出す。
「......あった!」
小さな町の公園。
しかし、最近整備がされて、すべり台もブランコも新しくなっている。
――そして。
その先には小さな公衆トイレが見える。
公衆トイレも新しくなっている。
少しだけ気持ちが緩んだ。
公園ではすでに、小さい子供を連れた母親が2人と、おばあさんと、おじいさん4人が集まって談笑をしている。
生希はそばにある駐輪場に雑にスタンドを立てる。
何とか間に合った安堵感に身を寄せ、一直線にトイレを目指す。
(......助かった。)
そう思うと、一気に便意が上がってきた。
小走りでトイレへと向かう。
あと、50メートル。
あと、30メートル。
あと、15メートル。
(......もう少し。)
――その時だった。
「あら、あら。若いのにずいぶん急ぎ足ね」
そういうと、近くて談笑をしていたおばあさんが生希に話しかけてくる。
「こんな暑い日に、どこへ行くの?」
悪意のない、悪意である。
「......あ、えっと......」
一瞬無視しようと思ったが、日本人が出てしまった。
反射的に立ち止まってしまう。
「ぎ、銀行に......」
(い、いや、まずトイレに......)
そう言おうと思ったが、咄嗟に体裁を保ってしまった。
「あら、あら。そうなの。こんなに朝早くからね。」
どう見ても、立ち話をしようとしている。
「......あ、はい。」
違う。今は立ち話をしている場合じゃない。
どう考えてもそんなことをしている時ではない。
「この辺、駅前と違って何もないから、空気が澄んでいていいでしょ」
「そ......そうですね」
すでに、会話なんて入ってきていない。
「私は、この辺静かだから好きでね。ほら、駅前って人が多いでしょ?」
驚くほどにどうでもいい内容。
生希の意識はすでに下腹部に行っている。
にこやかに受け答えしているつもりだが、顔が引きつっているのがわかる。
「ところで、お兄さんはこの辺の近くに住んでる人なの?」
「は、はい......」
なんとか受け答えはしているが、意識はすでにトイレに向いている。
わずかに体も前傾姿勢になってきた。
「毎朝ここに座っていると、時間がゆっくり流れる気がしてね」
「......あー、そうなんですね」
そういいながら、生希の時間もゆっくりになっていく。
そう。意識が現実から遠のいていく感じ。
もう、やつはすぐそこまで迫っている。
「それでね、私は毎朝ここでね......」
心なしか、意識だけでなくおばあちゃんの声も遠のいていく。
頭の中では「間に合う未来」と「間に合わない未来」が見え始めていた。
目の前には、もはや何を話しているかわからない、にこやかな顔のおばあちゃん。
「悪意のない悪意」とはこういうことであろう。
楽しそうに話をするおばあちゃんを遮るのは申し訳ないと思いながら少しだけ、勇気を振り絞る。
「あ、あの......すみません......」
「ん?どうしたの?」
「ちょっと......今......」
そう言いかけた時だった。
おなかがはっきりと主張してきた。
――ぐる、ぐる。
もう、一刻の猶予もない。
生希は、その場の空気をすべて振り払うように言った。
「すみません、トイレ行きます!!!!!!」
おばあちゃんが「え?」と聞き返す前に、ダッシュでおばあちゃんの横を通り過ぎる。
そのまま勢いよくドアを開け、中へ飛び込む。
トイレのカギをかけて便座に座った瞬間に一気に肩の力が抜ける。
「......ま、間に合った......」
間一髪だった。
そういうと天井を仰ぐ。
外からさっきのおばあちゃんの声がかすかに聞こえてくる。
なにやら、別の人と雑談を始めたようだ。
しばらくしてトイレを出る。
何とか昨日の油も出きったのか、腹の様子もすっかり落ち着いたようだ。
「当分、油はいいな......」
ふいに、昨日の反省が口をつく。
「......よし、行くか」
小さく自分に声がけをして、扉を開ける。
さっきと同じようにおばあちゃんが座っている。
「あら、大丈夫だった?間に合った?」
にこにこと笑顔で話しかけてくる。
微塵も自分が悪いとは思っていない顔をしている。
「は、はい。なんとか......」
「よかったわねぇ」
やはり、全くの悪気はないのであろう。
むしろ、ちゃんと優しい。
「そうだわ。よかったら、これ食べて。朝ごはんまだでしょ?」
そういうと、おばあちゃんは隣に置いてあったレジ袋の中をゴソゴソとあさり、その中から小さな紙袋を一つくれた。
「これ、そこの商店街で買ってきたの。おいしくて、私とっても好きなの。」
「.......ありがとうございます」
生希はそれを受け取ると、小さくお辞儀をして公園を後にする。
自転車にまたがり、ペダルに足をかけながら、手元の紙袋を見る。
「......まあ。こういうのはうれしいよな。」
いろいろ引き止められはしたが、大変な時にしてもらえる小さな優しさは特に身に染みる。
信号で止まったタイミングで、紙袋に手を伸ばす。
「中身何かな♪」
ちょっとしたワクワクを胸に、開けてみる。
「........」
一瞬、思考が止まる。
丸い。茶色い。
お饅頭?
いや、それにしては表面が固い。
こんがりしている?
「......揚げ饅頭????」
生希はしばらくそれを見つめたまま動けなかった。
信号が赤から青に替わる。
歩行者用の音楽が切り替わりハッと現実に戻される。
生希はそっと紙袋の口を閉じて何もなかったかのように前を向いた。
「銀行終わってから、考えよ......」
そういうと、生希は再び銀行に向かって自転車をこぎだした。




