18日目:深夜の攻防戦
生希は静かに覚悟を決めた。
「........今度は、慎重に........ゆっくりと..........」
さっきの痛みを思い出す。
あの激痛。
学生以来といっても過言ではない。
もう二度と、味わいたくない。
生希はゆっくりと、体を起こす。
目線の先には、トイレットペーパー。
しかし、さっきとは違い、その距離がやけに遠く感じる。
棚が、遠くなったような、そんな感覚。
つま先立ちは.........。
一瞬考えるが、脳が「無理」と決断を下す。
しばらく、考え込む。
さすがに、拭かないというわけにはいかない。
そして、ふと、思い出した。
「........あ」
茶の間に目をやる。
小さな本棚のとなり。
黒いプラスチック製。
先端にはものを挟むための爪がついている。
――文明の利器。マジックハンド。
昔。
「ベッドの上から一歩も動かずに、生活できたら最高じゃないか!」
そんな、人類史上、最も怠惰な夢を見て、通販で買った。
しかし、思いのほかティッシュを摘まむのは難しかった。
本を取ろうにも、背表紙がそろっていると、そもそも、挟むところがないので、事前に本をずらしておかなければいけない。
しかも、表紙がツルツルしていると、滑ってつかめない。
結果。
1時間もせずに飽きた。
物をつかむたびに、途中で落とし。
それを拾いに行く。
ただ、手間が増えただけであった。
そんなことがあり。
今では、本棚の隣に、ほこりをかぶって放置されている。
存在すら忘れていた。
生希は、再び壁に手をかけると、茶の間に向かって歩き出す。
さっき、攣った右足をかばうように、慎重に。
一歩。
――ズキ
二歩。
――ズキ
攣ったことで、筋肉痛が軽減されるなんてことはなかった。
たった数歩の距離が長距離のように感じられる。
なんとか、かんとか、本棚の横までたどり着く。
やはり、そこにあった。
壁にもたれかかるようにして、ひっそりと立てかけられた、マジックハンド。
とりあえず、持ってみる。
指先に、うっすらと埃がついた。
「.......お前、まだ生きてたか........?」
まるで、旧友にでもあったかのように声をかける。
軽く振ると、少し埃が落ちた。
試しに、レバーのところを軽く握ると、カチャカチャと軽い音を立てる。
動作確認は良好。
懐かしそうに、見つめると
「.......頼むぞ!」
そう、声をかけると、しっかりと握りしめて、トイレへと戻る。
一歩。
――ズキ。
二歩。
――ズキ。
もはや、人に見られてはいけない。
30歳の男が、下半身丸出しで、右手にマジックハンド、左手は壁につき、筋肉痛のせいで腰が引けている。
見られたとして、うまく説明できる気がしない。
そう思いながら、再びトイレに戻る。
棚を見上げると「........よし!」自然に声が出た。
手には、文明の象徴『マジックハンド』
「..........いける!」
そういうと、トイレットペーパーに向かいゆっくりと手を伸ばす。
今度はリーチが違う!
さっきのように、無理に体に鞭打って、足を攣るなんてへまはしない。
マジックハンドの爪が、ロールへと伸びていく。
カチ。
軽く挟む。
「........よし!」
ゆっくり持ち上げる。
ロールが静かに、棚から浮く。
「成功だ!」
そう思いながら持ち上げる。
完全に成功だ!!!
生希の口元にわずかな笑みが浮かぶ。
だが。
次の瞬間。
マジックハンドの中でロールが傾いた。
――するっ.......。
「........あ」
力のない声とともに、爪からロールが転げ落ちる。
棚のふちにあたり、ロールが下へ落下する。
時間がスローモーションになった。
トイレットペーパーは一直線に下に落下していく。
その下に待ち構えるのは、便座。
頭の中を一瞬で未来がよぎる。
「間違いなく、便座の中へ落下する」
ヤバイ、未来が見えた。
反射的に体が動く。
ロールよりもはるかに速いスピードで。
まるで、筋肉痛で動けなかったのがウソのように。
そして――
「ゴンッッッッッッ!!!!!!!」
トイレの中に、鈍い音が響き渡った。
ロールは便器の中に落ちることはなく、床に転がり落ちた。
しかし、その音は、ロールが床に落ちた音ではない。
「いっっっっっっっっっっ!!!!!」
ロールを守ったとともに、生希がその場に崩れ落ちた。
脛。
脛だった。
便座のふちが、寸分の狂いなく、急所を打ち抜いた。
全神経が作動し、脳が爆発する。
「アーーーーーーーーー!!!!!」
声にならない悲鳴が、部屋に響き渡る。
生希を慰めるように、トイレットペーパーが幸いにも生希の手元へと転がってくる。
悶絶。
時間にして、数分。
なんとか、痛みを抑え、トイレットペーパーをもって立ち上がる。
目には、涙が浮かんでいる。
生希は数分の静寂を経て、トイレを出た。
ただトイレに来ただけのはず。
なのに、すでに数回、生死の境をさまよった気分である。
茶の間に戻ろうにも、その歩き方は、かなりおかしかった。
右足をかばい。
筋肉痛のせいで、両足は内また。
マジックハンドをもとの場所に戻す気力はなく、トイレに放置。
やっと、茶の間につくと自分の体に突っ込みが入る。
「ゲームのバフでも、こんなにひどくないぞ......」
そういいながら、再びベッドに倒れこむ。
筋肉痛のせいで、床に座りなおす気力はない。
「明日、仕事か........」
ふと、現実が戻ってくる。
トイレの攻防戦のせいですっかり時間を忘れていたが、時刻は21時を回っている。
筋肉痛のせいで、出歩く気力もなく。
脛を強打したせいで、空腹どころではなくなった。
一瞬、ほんとに呪われているのではないかと思い、部屋を見渡すが、特に何も変わったことはない。
無事、横になったことで、気持ちは少し安心したが、体は何も安心していなかった。
脛の痛みが少し治まったことで、再び筋肉痛が顔を出す。
態勢を変えても、続く痛み。
「........なんで、あんな坂で張り合ったんだろう.........」
今更になって悔やまれる記憶がよみがえてくる。
「まあ、お腹もすいてないし、明日仕事だし。寝るか.......」
そういうと、手元のスイッチを電気に向けて押す。
――ピッ!
電子音とともに、部屋の中の光が落ちていく。
暗くなったのとともに、部屋の中に夜の静寂が訪れる。
窓の外からはカエルの鳴き声が聞こえるが、その中に「シーン」という音が混ざっている。
「..........」
数分経過したと思われる。
沈黙を打ち破るかのように、部屋に音が鳴り響いた。
「だぁぁぁぁぁぁぁああああああ!!!!」
その正体は生希であった。
寝れない。
寝ようと思えば思うほどに寝れない。
原因はわかっている。
筋肉痛と、昼寝だ。
動けば痛い。
動かなくても痛い。
そのうえ、脳がまだ寝なくてもいいと指令を出している。
「........はぁ」
ひとつ、溜息を吐くと近くにあったスマホを触りだす。
特に深い意味はない。
時間を見る程度の理由だった。
暗い部屋の中でスマホの画面が光る。
時刻はまだ24時に差し掛かる前。
「まだ、こんな時間か.........」
そういうと、再びスマホを閉じて目をつむる。
数分後。
再び、スマホの画面を開く。
そして。なんとなく。
検索を始める。
『筋肉痛 すぐ治る』
温める。
ストレッチ。
たんぱく質をとる。
できなくはないが、やる気も出ない。
『筋肉痛 ピーク』
筋肉痛のピークは24~72時間以内。
つまり、1日~3日後がピークです。
「..........」
そういわれると、どことなく、さっきよりも痛い気がしてきた。
スマホを胸に落とす。
電源のスイッチを押し、画面を切る。
再び暗闇が訪れる。
――数分後。
『自転車 坂 消費カロリー』
記事を読む。
数字を見て少しだけ満足する。
「.......まあ、あの坂はそのくらいの消費カロリーはあるよな。」
そういいながら、下にスクロールしていく。
――坂道トレーニングによる効果
――有酸素運動ダイエット
――運動後の食事は何がいい?
普段、運動の記事など開かないが、今日はここぞとばかりにネットサーフィンをする。
坂道ダッシュを楽しそうに解説するトレーナー
「いや、楽しくはないだろ.......」
腕の疲れとともに、再び電源のボタンを押してスマホの画面を切る。
――数分後。
「節約 メニュー アイディア」
記事を読む。
平均。
理想。
節約術。
気が付けば『極限節約生活』にたどり着く。
動画を再生してみる。
豆苗を再生栽培して食べる。
水に片栗粉を入れて、パリパリになったことろを食べる。
食料となる昆虫を捕まえに行く。
「.........すげぇな」
思わず声が漏れる。
その動画を見ていると、まだ自分なんてましなんじゃないかとも思えた。
――が。
その優越感は一瞬で砕かれる。
再生回数 320万回
チャンネル登録者数 62万人
きっと、動画としてやっているだけで、絶対に金は持っている。
ふと、視線を時計に向ける。
4時12分。
「...........」
「え..........!?」
生希の中の思考が止まる。
たしかに、外は少し明るくなってきている。
「........おわった」
今日何度行ったか分からない言葉を口にして、朝を迎えることになった。




